社会脳…つながりの脳科学

藤井直敬
1965年広島県生まれ。東北大学医学部卒業後、同眼科学教室研修、同大学大学院に進み博士号取得。マサチューセッツ工科大学(MIT)研究員を経て、2004年より理化学研究所脳科学総合研究センター象徴概念発達研究チームに参加、現在同センター適応知性研究チーム・チームリーダー。主要テーマは適応知性、社会的脳機能解明。著書に『拡張する脳』新潮社、2013、『ソーシャルブレインズ入門』講談社現代新書、2010、『つながる脳』NTT出版、2009、他がある。
だからこそ、人がどんな突飛な振る舞いをしたとしても、それはちっとも不思議なことではないのです。
つまるところ僕の言う「社会」とは、そのようにすべては相対的で、
正しいことや良いことというような絶対的なものはなく、良し悪しもその時々に決まっていくような環境、
そしてそこにいる人々も、時々の状況や環境の変化に応じて、
同じ個体でありながらもダイナミックに変容していくような、そういうものとして考えています。
こころはひとりでは生まれない…他者から始まるコミュニケーション

岡ノ谷一夫
1959年栃木県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、米国メリーランド大学大学院修了、博士号取得。千葉大学助教授、理化学研究所チーム・チームリーダーを経て、現在は東京大学大学院総合文化研究科教授。また科学技術振興機構(ERATO)岡ノ谷情動情報プロジェクト研究総括、理化学研究所脳科学総合研究センター生物言語研究チーム・チームリーダーを兼任。専門は生物心理学、動物行動学、言語起源論。著書に『「つながり」の進化生物学』朝日出版社、2013、『言葉はなぜ生まれたのか』文藝春秋、2010、『さえずり言語起源論 小鳥の歌からヒトの言葉へ』岩波書店、2010、他がある。
そこから自分の意識なりこころなりが生まれてくると考える方が正しいのではないか。
つまり、こころがあるかないかは、システムや考えることの複雑さではなく、
いかに他者とかかわるかということを前提としなければ見えてこない、ということです。
複雑な振る舞いを見せても、そこにこころがあるとは言えなくて、
他者の状態を推測し、お互いに自分の状態をすり合わせながらやりとりをすることが必要な社会があるからこそ、
そこに生きる動物にはこころが生まれるのではないでしょうか。
脳のなかの歪んだ鏡 …「社会脳」から身を引き離すことはいかにして可能か

美馬達哉
1966年生まれ。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。現在、京都大学医学研究科准教授(高次脳機能総合研究センター)。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。著書に『リスク化された身体 現代医学と統治のテクノロジー』青土社、2012、『脳のエシックス 脳神経倫理学入門』人文書院、2010、他がある。
その歪んだ鏡像を模倣することから起こるずれやゆらぎ。
しかも、その鏡像もまた反復し/反復されることで、さらに歪みを増していく。
オリジナルとコピーの区別なしのリミックスが行われ、多様なシミュラクル(摸像)が生成していくイメージです。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ風に言えば、私があなたに共感するのは、
それはあなたが別の何かへと共感しつつ、あなた自身ではない何者かへ生成していくという場合だけなのです。
これが、ミラーニューロンのアイデアを誤読しつつ模倣した私の考える社会脳の可能性です。

複数の脳、社会に埋め込まれた脳のリアル
社会的な問題を解く脳の働き
人間は、社会的な生き物です。他者と協力し助け合いながら社会集団を形成し、政治や法、経済や教育といった社会制度を整えてきました。社会は、人間によってつくり出された環境ですが、人間は、その社会のなかで生かされている存在でもあります。
脳は、人間にとって最も重要な臓器の一つです。脳は、人間の自己意識を形成します。自己が社会のなかで生かされているなら、それを担う脳もまた社会的な存在だといえます。では、人間の脳は、社会という問題とどう向き合っているのでしょうか。
社会的な問題を解く脳の働きは、今日「社会脳」と呼ばれています。たとえば、自己と他者を結ぶきずな――広義の社会意識などを含めて――は、どのように脳内で表現(イメージ)されているのでしょうか。京都大学名誉教授で脳科学が専門の苧阪直行氏によれば、それを探る気の遠くなる作業が「社会脳」研究であり、その作業は、今ようやく端緒に着いたばかりだと言います。(1)
20世紀後半から現在に至るまで、脳研究は、その探究の速度を加速させてきましたが、それは主として「生物脳(バイオロジカル・ブレイン)」の軸に沿った研究でした。しかし、2000年代に入ってから、脳研究の潮流は、人間を対象とした「社会脳(ソシアル・ブレインもしくはソーシャルブレインズ)」あるいは社会神経科学を軸とする研究にコペルニクス的転回を遂げてきているというのです。一人の人間の頭の中にある一個の脳を解明しようとする「生物脳」の研究から、複数の人間の複数の脳による「社会脳」の解明へ、脳研究は大きく舵を切ったということでしょう。
大きな脳と大きな社会
人間には、他の生き物にはないいくつかの特徴があります。よく知られているところでは、二足歩行や火の使用、あるいは言葉の使用がありますが、大きな脳をもっていることも大きな特徴です。人間の脳の重さは1200~1500g前後で、その容積は1500㎤。文字どおり、人間にとって最も重い臓器ですが、これは体重の約2%にあたります。ところが、脳は、からだ全体で使うエネルギーの20%を消費します。また、神経細胞がエネルギー源として使えるのは、グルコース(ブドウ糖)に限られていて、大食漢であると同時に、大変な偏食家でもあるのです。(2)
人間の脳に関して、種間比較の方法を使った研究があります。種間比較とは、進化的に近い関係にある種を比較して、からだや行動の特徴の違いが、どのような環境と最もよく関連しているか調べる方法です。イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、人間を含めた霊長類のそれぞれの種にみられる脳の大きさが、環境のどのような要因と関連性があるか調べました。発達社会神経学が専門の千住淳氏は、ダンバーの研究の意義について触れながら、それが「社会脳仮説」の提唱につながったと著書『社会脳とは何か』(新潮社新書)で述べています。
種間比較を調べた結果、「霊長類の脳の大きさの違いは、生活する場所や食べ物の種類ではなく、群れの大きさによって最もよく説明できる」ことが示された。つまり「何を食べているか、どこで暮らしているかにかかわらず、大きな群れで暮らす霊長類の種は大きな脳をもつことが多く、単独で暮らしたり、小さな群れで暮らしている種は、小さな脳をもっていることが多い」ことがわかったというのです。じつは、ダンバーの研究より前に、イギリスの生理学者レスリー・ブラザーズが初めて人間を対象にして、Social Brainという言葉を使い、人間の脳の大脳皮質が極度に発達しているのは、社会集団のなかで生き抜く社会性を身につけるためだったという、人間の脳の進化に関する「社会脳仮説」を提唱していました。(3)
ダンバーによれば、霊長類のそれぞれの種の脳の大きさは、それぞれの種の群れの大きさという環境への適応として進化してきたのではないかといい、ブラザーズの社会脳仮説を支持したのです。ダンバーは、さらになかでも人間の比率が最も大きくて、安定した社会的つながりを維持できる集団成員はおよそ一五○人にも及ぶという、具体的な数字を示して説明しました。
「三人寄れば文殊の知恵」という諺があるように、このくらいの人数に達すると新しいアイデアも生まれやすく、新たな環境への適応も可能になり、社会の複雑化にも対応できるようになるだろうと苧阪直行氏も指摘します。社会人類学では、古代の人々が儀礼を行う場合、その集団の人数は、おおよそ100~200人程度と考えているようですが、ダンバーの挙げた成員数もほぼそれに該当するもので、社会的なつながりの限界を示すものかもしれません。
ブラザーズの「社会脳仮説」は、具体的には「社会脳:霊長類の行動と神経心理学を新しい領域で統合するプロジェクト」と題された論文で初めて開陳されたものですが、脳科学は、社会脳のメカニズムこそ研究すべきという提案でもありました。人間の脳の大きさの理由を探る過程で社会脳というアイデアが生まれたわけですが、社会脳は、今やさまざまな研究テーマとつながるプラットホームになろうとしている、といっても言い過ぎではないでしょう。
社会脳の研究がここにきてにわかに脚光を浴びるようになったのには、もう一つ大きな理由があります。社会脳研究が、理系と文系の学問領域の橋渡しをするような、トランスディシプリナリー(諸学横断的)な役割をもつことがわかってきたからです。苧阪直行氏が注目するのもそこで、苧阪氏曰く、「鋭い理系のクワをもって豊かな文系(人文知)の畑を耕すことが社会脳研究」だというのです。(1)
ところで、社会脳は、個々の人間の発達のなかでかたちづくられるものでもあります。たとえば、近年心理学や発達論の分野で注目される「心の理論(theory of mind)」によると、4歳くらいになると他人にこころがあることを前提に行動し始めるようになるといわれています。つまり、自分の親が泣いているのを見ると、自分が泣いている時のこころの状態を相手にあてはめて、泣いている人が悲しんでいるとわかる。簡単に言えば、同情心がわくわけで、これは「心の理論」をもつことができたからです。
他者のこころを理解したり、他者と共感するためには、他者の意図の推定ができることが必要ですが、このような能力はやはりこの時期(4歳以降)に始まる前頭葉の機能的成熟がかかわっているといいます。社会脳の研究は、たとえば、今言ったような自己と他者をつなぐきずな=共感がどのようにして生まれるのか、それを社会と人間(脳)のかかわりを通して考える試みだといえるでしょう。すなわち、社会へのまなざしが、同時に社会のなかに埋め込まれている自己の究明につながっていくところに、社会脳研究の面白さがあるのです。
「脳のなかに表現された社会の姿をあらためて人文社会科学の俎上にのせて、これを広く〈社会脳〉の立場から再検討」すること。(1) 社会脳研究が、新たな学問領域を切り開くという期待は、まさにこの点にあります。
神経細胞ネットワークとしての脳
ここで簡単に脳の構造について見てみましょう。今号で最初に登場する理化学研究所脳科学総合研究センター適応知性研究チーム・チームリーダーの藤井直敬氏の著書『拡張する脳』(新潮社)の第4章「脳はネットワーク」で、脳のしくみについて概説していますが、これがとてもわかりやすい。そこでこの記述を参照しながら、脳のかたち、メカニズム、働きについて素描してみます。
まず、脳を見るにあたって最も重要なことは、それが神経細胞(ニューロン)のネットワークでできていることです。神経細胞は、主に細胞体、
電気信号が軸索末端に到着すると、シナプス小胞と呼ばれる小さな袋から神経伝達物質が放出されます。これを樹状突起側の受容体が受け取り、別の神経細胞に電気信号を伝えます。つまり、信号は、軸索から出力され、樹状突起で入力される。軸索と樹状突起をつなぐのが細胞体で、人間の場合、100億個前後の神経細胞がつながって情報を伝え合っているのです。
樹状突起で信号が入力されたからといって、必ずしも次の神経細胞がその信号を出力するとは限りません。神経細胞ごとに信号を出力するために必要な最小の値が決まっていて、入力された電気信号の強さがこの値を超えた場合のみ、信号は軸索を通って伝えられるからです。この値を
神経細胞と神経細胞の間を流れる情報は、0(安静状態)か1(活動状態)のデジタル信号。情報の送り手が活動状態になり、受け手の神経細胞が、0から1の活動状態に変化したり、1から0の安静状態に変化したりすれば、情報は伝わったことになります。前者が「興奮性の伝達」、後者が「抑制性の伝達」といいます。送り手の神経細胞が切り替わり、受け手の細胞の活動を変化させようとすると、シナプスの隙間でさまざまな神経伝達物質がやりとりされ、そのやりとりの結果が受け手の神経細胞に伝わります。それが連鎖的に起こることによって神経細胞がつくるネットワークの中を情報が広がっていくわけです。
次に脳のかたちに注目します。脳を真上から輪切りにすると、表層部分に灰色っぽく見える薄い層がありますが、これが大脳皮質です。大脳皮質を含め、脳には灰色っぽく見える部分があり、総称して
大脳皮質は、神経細胞が数本ずつ束ねられた円柱状の塊からできています。円柱という意味で、カラム構造と呼んでいます。大脳皮質には、無数のカラムが林立しているわけです。カラムは、6つの層が横になった構造をしていますが、各部位によって層の厚みが異なります。このような部位ごとの構造の違いによる分類を、「組織学的比較」といいます。
脳の部位を分類して地図にした人がいます。ドイツの神経学者ブロードマンは、20世紀初頭に、脳の部位を52の領野に分類しました。それぞれの部位は構造が異なっていますが、それだけではなく部位ごとに異なる機能をもっていることがわかったのです。たとえば、ブロードマンの脳地図の、4野とその前方にある6野は、脳機能地図では、それぞれとにあたりますが、一次運動野と運動前野では、果たしている役割が異なっていることが知られています。このように大脳皮質は、カラム構造と6層構造という基本的な構造は保ちながら、部位ごとに各層の厚みや機能が異なるのです。
脳のある部位が、特定の働きをしているというのが「脳機能局在説」です。脳は、場所によって違う働きをしているというわけですが、それを実証した人がカナダの脳神経外科医ペンフィールドでした。ペンフィールドは、生きている(しかも起きていて麻酔状態ではない)人の脳を露出させ、大脳皮質の各部位に電極を刺して、脳の活動を調べました。たとえば、
脳の最大の特徴がネットワーク構造だといいましたが、もう一つ重要な特徴は、そのネットワークが階層性をもっていることです。階層性とは何か。この階層構造を簡単にイメージできるものに、「パワー・オブ・テン」という有名な映像があります(http://www.youtube.com/watch?v=0fKBhvDjuy0)。チャールズ&レイ・イームズは、地上1mの世界から10倍ずつスケールを上げていって(カメラが10倍ずつ上空へ向かって後退していく)、最大10の24乗の世界を可視化させます。もはや、そこは宇宙の果てともいえるような何もないような世界へたどり着く。次に、今度は、地上1mの世界から、地面に寝転ぶ男性のからだに10倍ずつ近づいていく(皮膚が大写しになり、次に組織が現れ、次に細胞、分子、原子…という具合に)。最小10のマイナス15乗の世界へ入り込んでいきますが、最後に行き着くのは、陽子や中性子の世界です。
この映像体験が面白いのは、スケールが変化していくと、見えている世界がガラッと変わってしまうことです。藤井直敬氏は、拡大と縮小によって変化するこの見え方の違いを、脳を対象にレイヤーの変化で説明しています。
「脳から神経細胞を1個だけ取り出して顕微鏡で観察すると、そのなかには細胞核やミトコンドリアのような、ほかの細胞にもある細胞内小器官が見えます。(…)これらの器官はさまざまな化学物質を介して情報をやりとり」していて、「神経細胞の活動は、細胞内小器官や化学物質のネットワークによって維持され、(…)これが神経細胞1個を見たときのレイヤーです」。(4) 化学物質を一個取り出すと原子が集まったネットワークのレイヤーが見えます。原子を一個取り出せば、原子核と電子のレイヤーが見え、原子核を一個取り出せば陽子と中性子の、さらに陽子を一個取り出せばクオークのネットワークが見えてきます。自然界では、部分を拡大していくと、どんどん細かなネットワークのレイヤーが姿をあらわすというわけです。
藤井氏は続けます。「神経細胞1個を見たときのレイヤーから脳1個のレイヤーまで扱ってきたのがこれまでの脳科学です。脳科学の中でも、神経細胞1個のレイヤーについては、これまで精力的に研究されてきました。(…)しかし、ぼくが社会脳を研究するうえで注目したかったのは、脳がいくつも集まってできている社会のレイヤー」であり、つまり、「脳1個のレイヤーの一つ上の階層にあるレイヤー」だというのです。
藤井氏がそのように言うには、ちゃんとした理由があります。脳は神経細胞のネットワークであるのが重要だと言いましたが、それは、言い換えれば、神経細胞一個では何もできないということです。脳の働きのなかで、決定的な役割を果たしているのは、たくさんの神経細胞の「関係性」です。ネットワークを通じて情報をやりとりするためには、そこに関係性がなければならない。その関係性を解き明かすことによって、初めて脳の働きを知ることができるのです。
たとえば、仮に脳を一つの学校に見立ててみましょう。神経細胞1個を生徒1人とみなすならば、生徒1人をいくら調べても学校のことはわからないでしょう。同様に、神経細胞1個をどんなに詳細に調べても、脳のことはわかりません。神経細胞同士には、生徒同士と同じように、いろいろな関係性があり、脳は、いわばこの関係性をフルに活かして、さまざまな機能を実現しているのです。つまり、こういうことです。脳の働きを理解するには、神経細胞同士の関係性を理解する必要があり、そのことによって初めて、脳という実態に迫ることができるのです。
脳は、神経細胞1個では何もできないように、脳それ自体も1個(1人)では何もできません。生徒が1人しかいない学校は、学校とはいいにくいように、脳が1つ(一人)しかない社会を、社会とみなすには抵抗があるでしょう。脳が脳として十全に機能するためには、脳は複数必要です。脳同士の関係性のなかで、初めて脳は脳としての機能を発揮するのです。脳研究において、社会脳に関心が向かい始めた理由がここにあります。人間は社会のなかに埋め込まれている。同じように、脳も社会のなかに埋め込まれた存在なのです。脳研究が社会脳へ向かったのは、ある意味必然的なことだったといえるでしょう。
脳科学の人間学的転回は何を意味するのか
社会脳を取り上げるにあたって、最初にお訊ねしたのは藤井直敬氏です。藤井氏は、現在、理化学研究所脳科学総合センター適応知性研究チーム・チームリーダー。適応知性および社会的脳機能解明をテーマに研究をされています。
生体が他者や環境に対して適応的に振る舞うための能力が「適応知性」です。これは、個体-環境間、そして個体間コミュニケーションにより両者の現在の関係を理解し、そこから自己目的を達成するための能力ともいえます。世界中のあらゆる場所で、たった今構築されているたくさんの関係性、そして過去に蓄積された膨大な関係性が相互につながって構成された複雑なネットワークが世界をかたちづくっています。私たちの脳は、このことを自然に理解し、そのなかで最適な行動をとっています。このような関係性を主体とした認知機能という視点から脳機能を明らかにしようというのが藤井氏の研究チームです。そして、脳が社会のなかでどのように振る舞うかを研究するのが社会脳の課題であり、それをSR(Substitutional Reality)システムというこれまでにない実験装置を使って解き明かそうとしています。
すべては相対的で、良し悪しもその時々に決まっていくような環境、そしてそこにいる人々も、時々の状況や環境の変化に応じて、同じ個体でありながらもダイナミックに変容していくもの。脳研究の最もホットな話題である社会脳のありようが明らかになるでしょう。
次にお訊ねしたのは、東京大学大学院総合文化研究科教授で、科学技術振興機構(ERATO)岡ノ谷情動情報プロジェクト研究総括をされている岡ノ谷一夫氏です。
岡ノ谷氏は、鳥のさえずりを研究する過程で、鳥の音声系列の多様性を生み出す仕組みを明らかにしました。これは、歌と音楽の神経機構を究明する研究ですが、他に、ヒトや動物の行動を支配している情動機能研究、言語の起源と進化の関係についても研究しています。この三つの研究分野は、互いにリンクしていて、今、社会脳の研究に結実しようとしています。
そこから見えてきたものは、自分のこころは、他者にこころを仮定する能力の副産物ではないかという仮説です。この仮説は、進化生物学における重要な概念、前適応にもとづくものです。自分のこころは、他者の行動を理解するための情報処理過程で生まれる。こころは一人では生まれることができません。自分のこころでさえも、他者とのコミュニケーション、つながり(ネットワーク)によって生み出されたものだというのです。社会脳におけるつながりの機能の重要さが指摘されることになるでしょう。
社会脳をコミュニケーションと社会性の基盤であると無自覚に受け入れてしまうことは、排外主義的なファシズムにつながる危険性を無視した楽観主義であると批判するのが、京都大学大学院医学研究科准教授(脳機能総合研究センター)で臨床脳生理学が専門の美馬達哉氏です。ファシズム国家では、異民族や「非国民」(日本の場合)などへの残虐性――つまり共感の解除――がしばしば問題にされますが、その根本には、総力戦への動員で国民共同体に人々を共感させることが均質的な社会脳に支配される状態を生み出しているという指摘です。コミュニケーションのなかで共感し合うというこれまでの社会脳のイメージを脱し、むしろ直接共感し合うネットワークとしての社会脳を再構築すること。ニューロエシックスを社会脳と共振させることで、脳科学を政治哲学へと拡張するアイデアが披露されるでしょう。
社会脳という新たな脳研究のアプローチを、昨今の人文科学の用語にならって「脳科学の人間学的転回」と呼ぶことにします。脳科学が、今、捉え始めた人間と社会の関係。今号は、社会脳を考察します。
引用・参考文献
1 苧阪直行「社会脳シリーズ刊行にあたって」(「社会脳シリーズ 社会脳科学の展望 脳から社会をみる』新曜社、2012年)
2 黒谷亨『絵でわかる脳のはたらき』(講談社、2002年)
3 安西祐一郎オフィシャルブログ「共感と経済-その1:社会脳仮説」
4 藤井直敬『拡張する脳』(新潮社、2013年)

◎社会脳とは何か
報酬を期待する脳 ニューロエコノミクスの新展開 社会脳シリーズ 苧阪直行編 新曜社 2014
社会脳とは何か 千住淳 新潮社新書 2013
脳に刻まれたモラルの起源 人はなぜ善を求めるのか 金井良太 岩波科学ライブラリー 2013
脳がつくる倫理 科学と哲学から道徳の起源にせまる P・S・チャーチランド 信原幸宏他訳 化学同人 2013
注意をコントロールする脳 神経注意学から見た情報の選択と統合 社会脳シリーズ 苧阪直行編著他 新曜社 2013
美しさと共感を生む脳 神経美学からみた芸術 社会脳シリーズ 苧阪直行編 川畑秀明他 新曜社 2013
社会脳の発達 千住淳 東京大学出版会 2012
社会脳科学の展望 脳から社会をみる 社会脳シリーズ 苧阪直行編 奥田次郎他 新曜社 2012
道徳の神経哲学 神経倫理からみた社会意識の形成 社会脳シリーズ 苧阪直行編 信原幸宏他 新曜社 2012
社会脳科学の展望 脳から社会をみる 社会脳シリーズ 苧阪直行編 奥田次郎、藤井俊勝他 新曜社 2012
ソーシャルブレインズ入門 〈社会脳〉って何だろう 藤井直敬 講談社現代新書 2010
笑い脳 苧阪直行 岩波書店 2010
人の気持ちがわかる脳 利己的・利他性の脳科学 村井俊哉 ちくま新書 2009
ソーシャルブレインズ 自己と他者を認知する脳 開一夫、長谷川寿一 東京大学出版会 2009
社会脳 人生のカギをにぎるもの 岡田尊司 PHP新書 2007
脳神経倫理学の展開 信原幸宏、原塑 勁草書房 2008
脳のなかの倫理 脳倫理学序説 M・S・ガザニガ 梶山あゆみ訳 紀伊国屋書店 2006
◎こころと脳の新展開
拡張する脳 藤井直敬 新潮社 2013
自己が心にやってくる A・R・ダマシオ 山形浩生訳 早川書房 2013
しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する L・ムロディナウ 水谷淳訳 ダイヤモンド社 2013
「つながり」の進化生物学 岡ノ谷一夫 朝日出版社 2013
心の成長と脳科学 日経サイエンス編集部編 日経サイエンス 2013
単純な脳、複雑な私 池谷裕二 講談社ブルーバックス 2013
野生の知能 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ L・バレット 小松淳子訳 インターシフト 2013
まねが育むヒトの心 明和政子 岩波ジュニア新書 2012
ミラーニューロンの発見 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 M・イヤボコーニ 塩原通緒訳 早川書房 2011
脳のエシックス 脳神経倫理学入門 美馬達哉 人文書院 2010
さえずり言語起源論 小鳥の歌からヒトの言葉へ 岡ノ谷一夫 岩波科学ライブラリー 2010
言葉はなぜ生まれたのか 岡ノ谷一夫 文芸春秋 2010
ミラーニューロン G・リゾラッティ、C・シニガリア 柴田裕之訳 紀伊国屋書店 2009
つながる脳 藤井直敬 NTT出版 2009
脳の中の身体地図 ボディマップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ S・ブレイクスリー、M・ブレイクスリー 小松淳子訳 インターシフト 2009
進化しすぎた脳 中学生と語る「大脳生理学」の最前線 池谷裕二 講談社ブルーバックス 2007
歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化 S・ミズン 熊谷淳子訳 早川書房 2006
わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義 C・マラブー 栗田光平、増田文一朗訳 春秋社 2005
シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ J・ルドゥー 谷垣暁美訳 みすず書房 2004
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元、小幡邦彦他訳 東京大学出版会 2003
生存する脳 心と脳と身体の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2000
ミラーニューロンと〈心の理論〉 子安増生・大平英樹 新曜社 2000
脳から心へ 心の進化の生物学 G・M・エーデルマン 金子隆芳訳 新曜社 1995
心の理論 子安増生 岩波化学ライブラリー 1985
本能の研究 N・ティンバーゲン 永野為武訳 三共出版 1975
◎脳多様性と生の多様性
自閉症スペクトラムとは何か ひとの「関わり」の謎に挑む 千住淳 ちくま新書 2014
自閉症という謎に迫る 金沢大学子どものこころの発達研究センター監修 小学館 2013
〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDMS-5への警告 A・フランセス 大野裕、青木創訳 講談社 2013
脳から見える心 岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2013
造反有理 精神医療現代史へ 立岩真也 青土社 2013
脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向かい合い方 T・アームストロング 中尾ゆかり訳 NHK出版 2013
リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー 美馬達哉 青土社 2012
精神疾患の脳科学講義 功刀浩 金剛出版 2012
個性のわかる脳科学 金井良太 岩波科学ライブラリー 2010
精神疾患は脳の病気か E・S・バレンタイン 功刀浩、中塚公子訳 みすず書房 2008
操作される脳 J・D・モレノ 久保田競監訳 アスキー・メディアワークス 2008
〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学 美馬達哉 人文書院 2007