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[最新号]談 no.88 WEB版
 
特集:リアルはどこで生まれるか
 
表紙:吉澤美香 本文ポートレイト撮影:すべて秋山由樹
   
    
 

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ツイッターのリアル、ケータイのリアル……つながりを求めて、つながりから離脱する「私」

鈴木謙介
すずき・けんすけ
1976年福岡県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。国際大学GLOCOM研究員を経て、現在、関西学院大学社会学部准教授。理論社会学専攻。著書に、『サブカル・ニッポンの新自由主義 既得権批判が若者を追い込む』ちくま新書、2008、『ウェブ社会の思想 〈偏在する私〉をどう生きるか』NHKブックス、2007、『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005、他がある。

自分のタイムラインを複数もつのには限界があります。
二四時間で見られる情報量は限られていますから。
でも空間は、たくさんの人が関与できるので、
現実を拡張していく可能性としてより開かれていると思う。
僕自身がケータイでメールも見るし、Twitterも見る、
どっぷりタイムライン的な人間だからかもしれないですが、
僕は、タイムラインを見ることによって僕らが生きているリアリティが
変わるとは思っていないのです。
むしろ、現実空間を使ったリアリティの変容、
意味の変容が注目されていると感じています。
最も確実な手法だと思うんです。


 
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「生きられる時間」はどこにあるのか……高速化の中、時計からはみ出す私

一川誠
いちかわ・まこと
1965年宮崎県生まれ。大阪市立大学文学研究科後期課程修了。博士(文学)。現在、千葉大学文学部行動科学科准教授。実験心理学専攻。著書に、『大人の時間はなぜ短いのか』集英社新書、2008、共著書に『時間学概論』恒星社厚生閣、2008、『美と感性の心理学 ゲシュタルト知覚の新しい地平』冨山房インターナショナル、2007、他がある。

たとえば3D映像は、「今」をすごく強調している表現だと思う。
ここで、この瞬間しか得られないという「今」感。
それは日常生活の中では得にくいものであり、
にもかかわらずそういうものを求めている人がいるから
エンターテインメントとして成立するんでしょう。
いわば、その現場にしかない知覚・認知体験の共有。
リアル感、「今」感が強く意識させられている時代ゆえのことだと思います。

 


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無内包の「現実」あるいは狂った「リアル」

入不二基義
いりふじ・もとよし
1958年11月11日生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得。山口大学助教授を経て、現在、青山学院大学教授。哲学専攻。著書に、『足の裏に影はあるか? ないか?』朝日出版社、2009、『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』ちくま新書、2007、『時間は実在するか』講談社現代新書、2002、他。

マクタガートは時間のA系列の中に、ある大きな矛盾を見出したと思った。
そして、矛盾するから実在しないと結論づけた。
しかし、私の考えは逆で、(マクタガートとは違った仕方で)
ある種の矛盾を含むからこそ、
あるいは矛盾を含むような仕方で実在すると考えました。
マクタガートの取り出そうとした(しかしうまく取り出せていない)矛盾こそが、
じつは時間にとって重要で、 そのような矛盾的なあり方こそが、
時間にとって決定的なものだと思うからです。
 

editor's note[before]

リアルの中の時間、時間の中のリアル


「リアル」に込められた意味

 「リア充」という言葉をご存じでしょう。現実=リアルな世界が充実しているから「リア充」、ゲームやネット(ウェブ)の世界と対比させ、実際に私たちが生活している現実世界の方に、より充実感を感じる人のことを指してそう呼ぶようです。恋人がいて、また友人もたくさんいて、日々充実した交友関係、人間関係ができている人もしくはできること。現実が日常と思っている人たちにとっては、全くとるにたらないことですが、ゲームやネットの世界にどっぷりつかっている人々にとって、現実世界との接触はとても敷居の高いことなのだそうです。だから、現実と言わずにあえて「リアル」と言い、現実の生々しさを強調させているのでしょう。ゲームやネットに自閉して、現実世界との接触が乏しい一部の人々の意識や生き方が浮き彫りになって、「リア充」は、大きな話題となりました。
 昨今「リアル」という言葉をよく目にします。たとえば、NHKの番組に『青春リアル』があります。ネットで募集した一般視聴者からの悩みを、ネット上の「リアルタウン」で語り合う討論形式のドキュメンタリー番組。社会学者の鈴木謙介氏が町長に扮して、討論を通じて一0代、二0代の意識や生活を読み解くというコーナーがあり、若者たちの「リアル」を炙り出します。ホラー作家・山田悠介氏のベストセラー小説『リアル鬼ごっこ』は、作中で行われる同名のゲームで、実際に鬼に捕まった場合は殺されるというもの。遊びが遊びでなくなるという意味で「リアル」な鬼ごっこというわけです。この作品は映画化され、二00八年に劇場公開されました。また、そのものズバリ『リアル』というマンガもあります。井上雄彦作で、車イスバスケットを題材に、主人公たちが直面する「現実」を描いた作品です。他にも、『real design』『REAL Nikkei Stayle』と名付けられた雑誌やベンジャミン・フルフォードの『リアル経済学』、現実味のある服という意味の「リアルクローズ」、さらには、「100パーセント リアルカワイイ」というプリントシール機も今年登場しました。
 現実と言わずにあえて「リアル」と呼ぶ。ゲームやネットという、いわゆるバーチャルな世界に慣れ親しんでいる人々にとっては、現実の方がむしろ新鮮で驚きのある世界に映る。それを「現実」と言ってしまうと身もふたもなくなる。そこで、それをカタカナ表記することにより、新たに出会う新鮮な世界という意味を込めて「リアル」と表現するのでしょう。そして、この「リアル」は、今や、逆にゲームやネット、映像の世界にも影響を与えています。人々は、ゲームやネットの世界にも、「リアル」感を求め始めているのです。今年大いに注目された3D映画。二次元のスクリーンを飛び出し立体映像化することで、本物らしい、現実っぽさを演出します。いかに本物に近いか、それが近ければ近いほど「リアル」になる。つまり、現実の世界との距離が短いないしはゼロである時、私たちは「リアル」と感じるのです。バーチャルな世界においても、「リアル」さが意識されるようになってきたのです。

ツイッター、ウェブのリアル化

 一四0字以内のつぶやきが、今年大ブレークしました。いうまでもなくツイッター(twitter)のことで、こうしている今もユーザーは急増中。ツイッターのサービスが日本で開始されたのは二00八年。わずか二年で、ユーザー数が一千万人に達しようとしています。
 いつでもどこでも自分の状況を知人に知らせたり、逆に知人の状況を把握できるサ-ビス(1)、ツイッターの最も大きな特徴は、この“いつでもどこでも”情報を知らせる/知ることができる、そのリアルタイム性にあります。一四0字以内という制限がかえってスピード感をもたせ、リアルタイムな対話を可能にしたのです。
 ツイッターの投稿は、そもそもツイッター側からの「いまなにしてる?」という問い掛けが基点となっています。「00なう」というツイッター上の独特な表現は、この問いへの応答なのです。もとよりどのようなつぶやきも可能なのですが、「いま00にいる」「いま00をしている」という意味の「00なう」は、なんらかのかたちで自分の状況を「実況」することになります。それが結果的にユーザーにリアルタイム性を強く印象付けることになる。ユーザーは、ツイッターによって、不特定多数の人々とリアルタイムに“つながっている感”を強く意識するようになるわけです。
 そのつぶやきの一覧をツイッターでは「タイムライン」と呼んでいて、これもツイッターの重要な機能の一つです。投稿された「つぶやき」は、即座に自分の「タイムライン」に反映され、そのつぶやきへのフォローとともに、最新のものから順に表示されていく。自分のつぶやきとそれに対する不特定多数の人々からのつぶやきからなる一種のつぶやきのアーカイブ。「タイムライン」は、その意味で現在ただ今の自分、リアルな「わたし」のバイオグラフィになっているのです。
 ツイッターは、「不特定多数への情報発信プラットフォームとしての〈ブログ〉、特定少数の友人や知人とコミュニケーションや情報交換を行うプラットフォームとしての〈SNS〉、そして緊密な関係の相手とリアルタイムで会話を行う〈チャット〉、それらすべての要素を併せもつ中間的なサービス」(1)ということになります。言い換えれば、ネット、ウェブそのものをリアルタイム化したものが、ツイッターだといえるでしょう(2)。

ツイッターと現実がリアルタイムに融合する

 ツイッターは「場所を超えた時間の共有」を目的としたSNSから、パブリックでリアルタイムな対話のツールとなりつつあり、このネット、ウェブのリアルタイム化こそ、ツイッターがもたらした最大の変化であり(2)、それが誰にでも感覚的に理解できることが、ツイッターの爆発的普及を促したといえます。
 世界中がツイッターでつながれば、世界の鼓動を感じることができる、ツイッターの創業者は当初からそういうビジョンを抱いていたそうです。「実際にツイッターを使ってみると、その言葉の意味がリアルに実感できる」(2)はずだと言います。インターネットのサービスは、もともとそれまでのメディアと比較して即時性に優れているといわれてきたわけですが、ツイッターの登場によってはじめて「リアルタイム化」というものが実感でき(2)、「リアルタイム化」がもたらす意識や感覚の変化、あるいは社会の変化を感じ取ることができるというのです。とくにiPhoneなどのスマートフォンが登場してからは、文字通り、二四時間いつでもどこでもツイッターができるようになりました。そのことによって、ツイッターはセンサーの役割も果たしているといいます(2)。たとえば、雨が降ってきたとして、その刻々と変化する空模様がツイッターに書き込まれていく。書き込んだ人が知り合いならば、だいたいどこにいるかがわかるので、雨雲がどう移動するか、感覚的に掴むことができます。ツイッターが、外部の世界の「今」を知るための窓になっているというわけです(2)。  最近、イベント会場や講演会などでツイッターをしている人がけっこういるそうです。参加者は、自分のためにあるいは参加できなかった人のために、講演内容やイベントの様子をライブツイートする。本来クローズな空間で行われているものをオープンにするわけです。リアルタイムで発信、すなわち中継するわけですから、イベントや講演に参加しなかった人々も、それに参加したような疑似体験ができる。余談ですが、ユーストリーム(Ustream)を使えば、そうしたイベントや講演会を、リアルタイムで動画配信することも可能です。いずれにしても、ツイッターによって、ツイッターと現実がまさにリアルタイムに融合する状況が生まれつつあるということです。他者の生きる現実世界とツイッター(自分の内面)の世界がシームレスにつながる。外と内は、時間によって隔てられていました。逆に言えば、時間があることで私たちは外と内を切り分けることができたのです。タイムラグがあるから、外部世界と自分の生きる世界の違いを意識することができたと言い換えてもいいでしょう。それがリアルタイムにつながってしまう。外部の現実世界と内部の現実世界がリアルにつながる、すなわち同期すること。リアルタイムにつながるというのは、同期(Synchronization)することで、その境界がなくなるということを意味するのです。

バーチャルの中のリアリティ

 冒頭、現実世界もバーチャルな世界も、共に「リアル」を強く意識するようになってきたと言いましたが、コンピューターがまだ今ほど発展していなかった時代、バーチャルな世界は現実世界と明確に分けて捉えられていました。バーチャルは日本ではバーチャルリアリティという言葉と共に登場しました。バーチャルリアリティは、仮想現実とか人工現実と翻訳され、バーチャルは、現実と対比的に、「かりそめの」とか「虚像の」というニュアンスで理解された。しかし、バーチャルには本来「仮想の、虚偽の」という意味のほかに、「実質上の、本質の」という意味もあるのです(3)。
 『バーチャルとは何か?』の著者で哲学者のピエール・レヴィは、西洋の哲学では、存在様態には、リアル(réel=実在的なもの)、アクチュアル(actuel=現実的なもの)、バーチャル(virtuel=潜在的なもの)、ポテンシャル、ポシブル(potentiel、possible=可能的なもの)の四つがあると概念化してうえで、ポテンシャルとバーチャルは、隠れているものの実体と出来事、リアルとアクチュアルは、表に出ているものの実体と出来事であると述べています(4)。レヴィによれば、ポテンシャルな実体がリアルな実体になる変化とは別に、アクチュアルな出来事はバーチャルな出来事(の要素)によって構成されるというのです。言い換えれば、バーチャルなもの(隠されている)は、その時々の目的に応じて構成されるポテンシャルなもの(隠されている)のことであり、バーチャルなものはアクチュアル化することによってアクチュアルなもの(表に出ているもの)になるのです。バーチャルなものとリアルなものは出来事か実体かの違いであり、また、隠れているものか表に出ているものかの違いであって、本来は、対立する関係にはないというわけです。
 バーチャルの意味をそのように見たうえで、バーチャルリアリティとして登場したバーチャルの概念が、日本では三つの段階で変容していく様を、バーチャル1・0からバーチャル3・0への進化と捉えられると言ったのが鈴木謙介氏です。鈴木氏によれば、ゴーグルとグローブを着用して、コンピューターがつくり出した仮想現実の世界を動き回るいわゆるバーチャルリアリティとして捉えられていたのがバーチャル1・0。次に、インターネットが情報インフラとして確立したうえで、オンラインゲーム、セカンドライフのアバターのように、ネット環境に組み込まれることによって、自らをキャラ化するのがバーチャル2・0。さらに進んで、現代は「いつでも、どこでも、なんでも、誰でも」というユビキタスネット社会(=モバイル社会)とバーチャルリアリティが融合し、自分のキャラ、アバターがユビキタスな現実世界に溶け出したバーチャル3・0の時代だというのです。
 そうしたバーチャル3・0の時代のバーチャルリアリティとは、「現実のあり方とは異なる、ある目的に従って構成される本質的な現実感ということになる」と鈴木氏は言います。バーチャルな世界は、ユビキタスな現実世界の中で、もう一つの現実の世界を構成するのです。そして、その中でわたしもまたバーチャルな「わたし」を構成していく。「バーチャルなわたし、すなわちわたし自身が存在を賭けている〈わたしを表現するデータ〉が、ユビキタスな環境の中であらゆる場所に立ち現れ、わたしより先にわたしを代弁してしまうという事態」すら(3)起っているというのです。現実世界に先んじて、データとしての「わたし」、キャラとしての「わたし」がバーチャル化しているような状況に、私たちは生きているということになります。鈴木氏は、そうしたわたしを「遍在するわたし」と表現しました(3)。私たちは、この「遍在するわたし」をどう生きようとしているのか。「遍在するわたし」がまさに「いま・ここ」で出会っているもの、それが「リアル」ではないか。だから、「リアル」とは、現実世界の言い換えではなく、現実世界とバーチャルな世界が混ざり合った、その只中に現れた現実そのものとしての現実なのです。現実そのものとしての現実である「リアル」。今号では、リアルタイムとしての時間を手掛かりにこの「リアル」について考えてみようと思います。

リアルそのものへ

 「リアル」について、1若者の意識と行動、2時間意識との関わり、3時間の哲学、この三つの切り口から考察します。  まず、1について。「本当のわたし」、「本当の愛情」、「本当にやりたこと」……、これらを望めば望むほど、それが手に入らず、結果としてたちすくんでしまう。だから、その時々のキャラに応じた「これが本当にやりたいことなんだ!」という一瞬の盛り上がりと、本当はそんなものはないという冷めた状態とが個人の中に共存することになる。ケータイがつなぐものとは、まさにそうした「脱-社会化」の関係であり、その中にこそ「リアル」は存在する、と関西学院大学社会学部准教授・鈴木謙介氏は指摘します。リアルタイムでつながることを特徴とするツイッター。しかし、そのリアルタイムの中に、たとえば、ここで言うケータイのリアルは存在するのでしょうか。先ほどリアルとバーチャルの関係で紹介した鈴木謙介氏に、ケータイとツイッターの比較を通して、若者たちの感じている「リアル」について考察していただきます。
 次に2について。技術革新に基づく情報通信の高度化によって、自宅にいながら見たい映画やスポーツの試合を楽しむことができるようになりました。また、移動手段の高速化によって、日本国内の都市間はおおむね二四時間以内での移動も可能です。こうした社会のさまざまな局面における高速化は、ここ数十年のうちにとくに大きく進展し、われわれの生活様式を大きく変化させてきました。しかし、情報通信や移動の高度化が確立されたとしても、それに対応して私たちの「生きられる時間」の基本特性までは変わらないと千葉大学文学部行動科学科准教授・一川誠氏は著書『大人の時間はなぜ短いのか』で述べています。そこで、高速化によってやりたいこと、できることが広がり増える中で、私たちにとっての本当の時間はどこにあるのか。一川氏に、「生きられる時間」とのかかわりからお話いただきます。
 最後に3について。青山学院大学教育人間科学部心理学科教授・入不二基義氏は、イギリスの哲学者J・M・E・マクタガートの「時間は実在しない」という論文を詳細に検討し、マクタガートとは全く反対の結論に到達しました。「実在」とは、まず何よりも単なる見かけ〈仮象〉ではなくて、本当に存在しているものという意味であるという。「ほんとうに(really)」という副詞は名詞にすると「実在(reality)」になります。見かけ〈仮象〉を剥ぎ取った後の「ほんとうの(real=リアルな)」姿の中に、「時間」がはたして含まれているのかどうか。それこそが、「時間は実在するか」という問いの一つの意味ではないかというのです。入不二氏に、時間において「リアル」とは何か、ズバリお聞きします。(佐藤真)

引用・参考文献:
(1)津田大介『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』洋泉社新書y、2009
(2)神田敏晶『Twitter革命』ソフトバンク新書、2009
(3)鈴木謙介『ウェブ社会の思想 〈偏在する私〉をどう生きるか』NHKブックス、2007
(4)ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か? デジタル時代におけるリアリティ』米山憂監訳、昭和堂、2006

 

 

editor's note[after]

「リアル」、濃密な真空状態を生きること

つぶやきコミュニケーションとしてのケータイメール

 鈴木謙介氏が冒頭指摘しているように、たとえば、SNSのアクセスを禁止するように、企業はリアルタイムコミュニケーションをネット上で行うことに冷ややかでした。ところが、ツイッターが登場してから、むしろそれは有意義なこととみなされるようになったというのです。なぜ空気が変わったのか。おそらく、情報よりも情報をめぐるコミュニケーションの方に、企業は関心をもったからでしょう。情報そのものよりも、その情報がきっかけとなって生まれ、伝播し、拡大していくコミュニケーションの輪を企業は重要視するようになったというわけです。言い換えれば、情報とのリアルタイムコミュニケーションこそが関心事の中心になりつつあるということでしょう。そしてそれは企業にとっても、大きなメリットをもたらします。コミュニケーションそのものが、また、コミュニケーションを知ることが、今では重要なマーケティング活動の課題になっているからです。
 さてそのツイッターですが、我が国ではケータイの普及によって、すでにつぶやき方のコミュニケーションはある程度認知され、実際に行われていたといいます。たとえば、女子高生たちのケータイメールの使い方は、そのリアルタイム性においてツイッター的だというのです。ツイッターのタイムラインこそないけれども、ケータイの「いつでもどこでもつぶやける」という性格が、十分にリアルタイム的であって、ケータイに残されていくログは、その人自身のタイムラインと考えてもいいだろうというわけです。
 ツイッターのタイムラインは、自分だけではなく自分がフォローしている人たちの集合的なつぶやきの一覧です。もとより、ケータイに残されたログには、フォローしている人のつぶやきはありません。自分と自分の周囲にいる限定された人々のつぶやきがあるだけですが、鈴木氏が言うように、そのつぶやきが「ぼやき」に近いつぶやきであるならば、ある意味ツイッター以上にツイッター的だとも言えなくもない。誰に気兼ねすることもなく、つぶやきたい時につぶやく。それこそツイッターを生んだ最も大きな動機です。ケータイのサービス「リアル」や「Ameba なう」は、その意味でつぶやきのみに特化した日本的ツイッターといえるでしょう。女子高生、女子大生にとっては、今のところツイッターよりケータイの方が、つぶやき(ぼやき)コミュニケーションのツールとしては利用しやすいということなのでしょう。

バーチャルよりバーチャルなタイムライン的リアリティ

 ツイッターとケータイ、つぶやきミュニケーションにおいては我が国の場合、ケータイに軍配が上がりそうです。しかし、ツイッターのもう一つの重要な特徴であるタイムラインは、やはりツイッター独自のもので、ケータイにはこのサービスはありません。「人のTwitterを見ることで自分がそのタイムラインに疑似同期しているような感覚になれるところ」が新しく、「ウェブの中で完結していたリアルタイムコミュニケーション、〈2ちゃんねる〉やmixi、ニコニコ動画などを題材に濱野智史さんが言っている疑似同期とは少し違うタイプの同期性、タイムライン的な同期性を、Twitter的なコミュニケーションがもち始めているのかもしれ」ないと鈴木氏は指摘しました。
 弊誌no. 84の濱野智史氏インタビューで、「〈ニコニコ動画〉は、〈客観的〉な時間の流れから見れば、利用者のあいだのコミュニケーションは〈非同期〉に行われているけれど、各ユーザーの〈主観的〉な時間の流れにおいては、あたかも〈同期的〉なコミュニケーションがなされているかのような錯覚を与える」。「本来は、同期(時間的な一致)していないはずのコミュニケーションが、あたかも同期しているように演出されている」と言い、濱野氏は、その特徴を「疑似同期性」と名付けました。しかし、鈴木氏は、ツイッターには、ここで言われている「疑似同期性」とは異なる、別の同期性、あえて言えばタイムライン的な同期性があるというのです。
 タイムライン的な同期性、擬似的ではなく本当に同期しているコミュニケーション、まさにリアルタイムでなされるコミュニケーションがツイッターでは日々行われている。擬似的同期ではなく、本当の、すなわち「リアル」なコミュニケーションが刻々と更新されていく。フォローしたりフォローされたり、「わたし」だったり「わたし」以外の人だったり、自己と他者が、一人のタイムラインに次々に蓄積されていく、しかも原則的にそれは終わりがない。「わたし」以外の人々もどんどん増え続けていく(かもしれない)。おかしな言い方かもしれませんが、「わたし」自身が「わたし」というタイムラインに同期していくような感覚。擬似的同期であるようで擬似的同期でない、完全な同期であるようでそうでもない。その擬似的同期でありかつ同期的であるところが、じつはツイッターの、最も面白いところなのではないかと思われるのです。
 経済評論家の勝間和代氏は、『Twitter社会論』の著者津田大介氏との対談で、「ツイッターは、時間の感覚が実際の生活に近い」と述べています。私たちは、今、ストア型メッセージ(メールに代表されるような、時間の経過とともに消滅するのではなく、滞留し、のちに参照可能なメッセージ)の世界で生きている。ストア型メッセージは、情報過多の時代に合ったコミュニケーションスタイルであり、ツイッターはインタラクティビティのつくられ方がストア型だというのです。「タイムラインに流れる雑多な情報をリアルタイムに追いかけて、自分で優先順位をつけてパパッと処理することで話が進むしくみになっている」ところがストア型だと勝間氏は言います。情報の流れに沿ってリアルタイムに接しているという点では同期しているけれども、優先順位をつけて、言い換えれば情報処理も同時に行っているという意味では、非同期的ともいえる。この微妙さは、擬似的同期に見えながら同期しているようにも見えるという表現と重なります。このどちらでもあり/どちらでもないということが、ではなぜ起るのか。
 そこでカギになるのが、リアルとバーチャルの関係です。Beforeで述べたように、鈴木氏の言い方でいえば、現代はバーチャル3・0の時代です。バーチャル3・0とは、現実環境と擬似環境の境がなくなった時代のことを言います。バーチャルなものでも解像度を上げていけばリアルなものとして感じることができる。実際そうやってバージョンアップした結果、バーチャルリアリティは、もう一つのリアルとして私たちの前に現前するのです。リアル/バーチャルという二分法は解体し、むしろ両者は相互補完的な関係になっている。鈴木氏は、拡張現実(AR:Augmented Reality)の登場によって、その傾向は時間認識よりも空間認識において、より進んでいると言いました。現実の情報とバーチャルな情報が相互に上書きされることで、現実空間がよりリアルになっていく。時間的、空間的という分類もまた意味をなさなくなる、そういう新たな位相を私たちは生き始めているのです。現実をより「現実」として感じたい、そういう欲求が現実とバーチャルの融合によって「リアル」を自らがつくり出していく。それこそが、タイムライン的リアリティだといえます。
 私たちは、一日二四時間ケータイやスマートフォンをオンのままにして日常を生きています。「わたし」は常に外部空間と陸続きになっている。現実は上書きされるものとして目の前に存在し、そうやって「わたし」は外部環境の一切と共に日々刻々と更新されていく。日常に新たなる「リアル」を発見し、その堆積の中にわたしはわたしの痕跡を残していくけれども、そのわたしは「わたし」というタイムラインであって、「わたし」そのものではない。すでに「わたし」は「リアル」であることの意味を忘却し、「わたし」が「リアル」であると本気で思い始めているのです。鈴木氏が最後に述べた再帰的リアルとは、まさにそうした「リアル」として感じたい「リアル」のことで、わたしにとってはそれこそが、こう言ってよければ唯一の「リアル」なのです。

リアルタイムはリアルではない!?

 自分の生きる時間と外部の時間が同期している場合、あるいは自己と他者の時間が同期している場合、それをリアルタイムといいます。ここまで、なんの注釈もなくリアルタイムと言ってきましたが、「同時に」、「即時に」とか「実時間」がリアルタイムの意味です。要するに、TVの生中継や「ライブ」放送のような「生」の時間、自分が現在ただ今生きている時間と同じ時間が流れていることがリアルタイムです。しかし、今まさにそう書いておきながら言うのもへんですが、「現在ただ今生きている」とはどういう状態を言うのでしょうか。しかも、その生きている時間と外部時間が同期しているという。その同期とは何か、同期しているとはどういう時間のことをいうのでしょうか。じつは、時間というのは、このようにちょっと真剣に考えてみると、とたんに迷宮に迷い込んだような状態に陥ってしまうのです。ゼノンやアリストテレスの時代から、人々は時間と格闘し続けてきて、いまだにその決着を見ていません。時間は謎に包まれたままです。そのことについては、最後のインタビューで改めて問題にしますが、その前に、リアルタイムと言いながら、じつはリアルタイムはリアルではないという心理学的時間について検討します。一川誠氏の発言を整理してみましょう。
 日常生活では、リアルタイムで見えている、聞こえていると感じられていると思われていますが、実験してみると遅れやズレがあるというのです。順序の錯覚があったり、体験される時間の特性について新たな知見も生まれている。たとえば、視覚的な時間と聴覚的な時間。両者はどう違うのか、また、その違いをどうすり合わせているのか、これは、知覚心理学にとって最先端の研究テーマになっているそうで、最近では、視覚の時間、聴覚の時間が個別にあるという考えも出てきているそうです。
 そもそもリアルタイムと言っているけれども、完全に同期しているというわけではないという実験結果が紹介されました。「リアルタイムで見ていると思っても、だいたい0・一秒くらいは遅れている。網膜に刺激を与えられてから処理に時間がかかりますから。世界をリアルタイムで知覚しているということ自体、錯覚です。0・一秒というのは速い処理がなされた時のことで、ぼーっとしている時はもっと処理時間がかかります」。
 一川氏の研究する時間の心理学では、時間は決して安定したものではなく、さまざまな条件によって時間の感じ方は変わってくることがわかってきました。たとえば、その一つが代謝です。「からだの代謝は、朝起きた時は落ちていて、昼にかけてだんだん上がっていき、夕方にピークになり、まただんだん落ちていく。体温もそれに応じて変わっていく。同じ一分や一0分でも、代謝が落ちている朝方などは短く感じ、また、夕方になると、かなり長く感じる」というのです。
 また、時間の経過に対して向ける注意というのも、心理的時間に影響を与える要因だといいます。「楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、退屈な時間はゆっくり感じる。これは、退屈していると時間経過に注意を向けやすいから。時間経過に注意が向く頻度が高いほど、時間は長く感じるという傾向がある。逆に、実験で意識的に集中しないといけないような作業をさせると、時間経過にあまり注意が向かないので、時間は短く感じる」。


「リアル」性を強く意識する時代

 体験される出来事の数も時間の長さに大きく影響するそうです。「イベントが多いほど、時間は長く感じられる。たとえば、映像でも言葉でもいいですが、文脈のある一まとまりの話をした場合は、時間は短く感じる。一方、ストーリーのないバラバラの話をすると、それぞれの話がイベントになるので、長く感じられる。また、スローモーションの映像を見ている時は、時間は短く感じ、早回しの映像だと長く感じるということもあります。これは画像の速度の効果だという説もありますが、スローモーションだと映像の中で起こる出来事の数が少なく、早回しは多いという、出来事の数によるという説も」あるようです。
 興味深いのは、リズムとの関係です。精神テンポというのがあって、歩いたり、しゃべったりなどの動作や間合いに対応する特性で、個人差も大きいけれども、いかに人間が時間の中でリズム付けられているかよくわかるという。
 適当な間でトントンと叩いてもらう「タッピング」をやらせると、一拍0・四~0・九秒くらいの範囲にほとんどの人が入る。その場合、0・四秒に近い人はテンポが速く、0・九秒に近い人は遅い。そして、自分のテンポから外れて行動することはけっこう苦痛で、血圧が上がったり緊張したりということが起こりやすいといいます。精神テンポは、環境によって作用される面も少なくなく、人口が多い町ほどテンポも速くなるという。
 時間とからだ、こころとのかかわりでもう一つ忘れてならないのは体内時計との関係です。二四時間いつでも好きに活動できるというふうには、わたしたちのからだはできていない。からだもこころもある程度、時間の中でリズム付けられている。人間の身体、精神的な活動には一定のリズムがあって、それもずっと一定ではなく、時間帯によって変わってきたり、からだやこころの状態によって一定の変動の幅がある。そのことを十分に理解することが必要だと一川氏は言いました。
 以上をまとめてみると、心理的な時間は人が考える以上に幅があり、多様性をもっているということです。では、そうした時間の幅は、今号の主題である「リアル」の感じ方とどうかかわるのでしょうか。
 「リアル感というのは〈今〉という瞬間を強調するという特徴があります」。たとえば、昨今話題の「3D映像は、〈今〉をすごく強調している表現だと思う。ここで、この瞬間しか得られないという〈今〉感。それは日常生活の中では得にくいものであり、にもかかわらずそういうものを求めている人がいるからエンターテインメントとして成立する。いわば、その現場にしかない知覚・認知体験の共有。リアル感、〈今〉感が強く意識させられている時代ゆえのことだ」と一川氏は言いました。
 一方、昨今のライブエンターテインメントへの関心も根元は同じだといいます。「同じ時間を生きているという感覚、共通時を通して〈今〉感が共有されているという特徴がある。そういう共通性感覚というのは、ワールドカップやオリンピックなどを通して強く日常生活の中にも位置づけられている」というのです。  個人の中での共時性〈シンクロニシティ〉や複数の人間同士の共時性。共時性とはタイミングの問題ではないか。私たちは、どうやってタイミングを合わせているのか、これはリアルタイムを考えるうえでも重要な問題を提起しているように思われます。

時計は何を計っているのか。

 「時間のコアというのは、客観的でも主観的でもないところに位置するものであって、逆に言えば、そのどちらでもないところに位置する部分が、時間のいちばん時間らしいところなのです」。そして、そのどちらでもない「謎」の部分を入不二基義氏は形而上学的な時間と呼び、その核心部に向かって思考のシャベルでぐいぐいと掘り込んでいく、インタビューはそんな感じで行われました。
 インタビューは、マクタガートを引きつつ主観的時間の誤解から始められたわけですが、鈴木謙介氏と一川誠氏のインタビューを引き継いで「リアル」へつなぐとすれば、むしろ客観的な時間から入る方がわかりやすい。そこで、ここでは時計の話を皮切りに、インタビューの要点を拾い上げてみましょう。
 まず、時計と時間の関係を解き明かすために、ものさしとの違いが明示されました。測る道具であるものさしは静止した物質であり、測られるものも同じ静止した物質です。たとえば、三0cmものさしで机を計測したら一mだったとします。その一mという計測結果は事実です。三0cmものさしが三0cmものさしとしてある根拠は、メートル原器によって決まっていますが、それは基準であって事実ではありません。事実を可能にする約束事です。三0cmものさしが三0cmものさしであるということの中には、その事実と約束事の両方が含まれているのです。ものさしは二重のあり方をしているというのです。「基準としてはそもそも計測世界を開くものでありながら、物質性をもって、自らが開く当の計測世界の中に、測られる側の一つのものとしても登場するのです。〈神さま〉が、肉体をもった〈人間〉に転落したかのように」。ここにものさしの特異性があります。
 止まったもので止まったものを測るのがものさしだとすると、動いているものを動いているものによって計ろうとするのが時計です。たとえば、陸上競技の一00m走に出場するランナーを計測するとします。スタートの合図でストップウォッチを押して、ゴールに着いたところで止める。ここで起っていることとは何か。走るランナーの動きを、回る時計の針で計っている。つまり、動いているものを別の動いているもので比べただけなのです。時間を計っているといいながら、「時」の動きを計っているわけではないのです。
 時計で時間を計る。この事態を簡単に素描すると、「わかりやすい物の動きと、わかりやすい別のものの動きとを対応させることによって、なんだかよくわからない時間の推移(時の動き)を、計ったことにしている」。「そういうことにされているだけで、本当のところ何をやっているのか、よくわからない」。それが時間の推移(時の動き)と時計の関係だというのです。つまり、時間の推移・時間の経過という目に見えないもの=動きを、目に見えるもの=時計で見ているに過ぎない。時間の推移と時計はその意味で別物です。別物であるには違いないのだけれど、では両者が全く分離されたものかというと、そうともいえない。別の言い方をすれば、時計の回転運動の裏側に、時間の経過が貼り付いているように見えるというのです。
 時間の謎の一つがここにあります。なぜ時間の経過が貼り付いて時計と一体化しているのか。貼り付いて一体化している前の、混同が生じる手前のところで、何が起っているのか、入不二氏の関心はそこにあります。

リアル、語り得ないものの方へ

 時計に代表されるような客観的な時間などないと入不二氏は主張しますが、同様に、主観的な時間もないというのです。簡単に説明してみましょう。
 私たちは、今こう感じるから、こう体験しているから現実だと思っているかもしれない。しかし、事態は全く逆です。現に現実だからこそ、うまい具合にそう感じられ、そう体験できているだけであって、「現に」という現実性には、経験や体験などの主観的なものの側からは迫り得ないのです。「現に」という現実性、「まさに今」という現在性と、私たちがそう感じているという体験・経験とつながってはいるでしょう。しかし、その主観的なもので捉えられる領域を逸脱し、それから溢れ出してしまうようなもの、感覚することや体験することによっては、決して届くことのないものが、「まさに今」という現在の現実的なあり方なのだ、というのです。
 「現在という現実的なあり方も、また過去の過去性も両方とも、私や私たちの主観的な体験や制作行為を超えて出てしまうのであって、最終的にはそれらとは無関係にただ存在しているということにならざるを得ない。これが、〈主観的と思われているものがじつはそうではない〉という時間の一局面にあたります」。「感じられ体験される時間にされがちな〈現在〉の核にあるのは、主観的な体験・経験に回収できない〈現に〉〈まさに今〉という現実性です。そしてもう一つが、時計が表すとされている客観的な時間の背後に貼り付いた時間推移。結局、どちらにおいても、時間の問題の核心は、主観的な領域にも客観的な領域にもないということで、そのどちらでもない領域においてこそ、時間は謎を提示し続け、もっとも時間らしい姿を見せる」というわけです。
 しかし、ここにおいて謎はさらなる謎を呼びます。感じられるものではない「現に」という「現実性」と、感じることも計ることもできない「時間の推移」は、本来相容れないものだからです。にもかかわらず、一緒に働いている。「現に」という「現実性」は、推移の中で消え去るようなものではあり得ない。「現実」とは、それがすべてでそれしかなく、その外部はない。しかし、「時間の推移」においては、すべてが過ぎ去ってしまい、あたかも「まさに今」という現実性自体も、消え去るかのように見えます。いわば、時間においては、「現に」という現実性自体が過ぎ去るという「不可能なこと」が起こっている。これは誰が考えても「矛盾」でしょう。しかも、「現に」という「現実性」も「時間の推移」も、どちらも本当のところは「語り得ないもの」であって、その「語り得ないもの」どうしが、時間においては、相容れないままにいっしょに働いている。そういう意味で、時間は矛盾を含みつつ実在する当のものなのです。
 時間は矛盾を抱えたまま、私たちの認識が及ばない仕方で、ふつうにはあり得ない仕方で存在していて、しかも私たちはそこから逃れることができない。時間は、そういう〈狂った〉存在だというのです。そして、そこにある「リアル」は、「現実」の「現実性」であり、中身(内包)は全く無関係という意味で、「無内包の現実」それ自体なのです。

 ツイッターのリアルタイムから、心理的時間を経て、時間そのものの実在性へと考察を進めてきました。私たちは、はたして時間の正体に迫ることはできたのでしょうか。残念ながら答えは否と言わざるを得ません。しかも、もう一つの問題「リアル」は、濃密な真空状態として、ただその入り口のありかを指し示すばかりです。しかし、私たちは、まさにその入り口のほんの手前に、「現に今」たどりついたのです。その先にあるものが、さらなる時間という迷宮だとしても、「わたし」は、わたしをその場所へ、その「リアル」へと連れ出さざるを得ないのです。たとえ、その「リアル」がからっぽの世界であったとしても。 (佐藤真)

 
   editor's note[before]
 


◎時間とは何か
月刊『Newton』特集 時空 ニュートンプレス 2010年7月
時間様相の形而上学 現在・過去・未来とは何か 伊佐敷隆弘 勁草書房 2010
月刊『思想』no.1019 瞬間と偶然をめぐって 岩波書店 2009年3月
時間の正体 デジャブ・因果論・量子論 郡司ペギオ-幸夫 講談社選書メチエ 2008
時間学概論 辻正二監修 山口大学時間学研究所編 恒星社厚生閣 2008
時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか 入不二基義 勁草書房 2007
偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選 九鬼周造 書肆心水 2007
時間はどこで生まれるのか 橋元淳一郎 集英社新書 2006
時間は実在するか 入不二基義 講談社現代新書 2002
時間の本姓 植村恒一郎 勁草書房 2002
時間論 中島義道 ちくま学芸文庫 2002
同一性・変化・時間 野矢茂樹 哲学書房 2002
タイムトラベルの哲学  「なぜ今だけが存在するのか」「過去の自分を殺せるか」 青山拓央 講談社 2002
偶然性の精神病理 木村敏 岩波現代文庫 2000
カオスから見た時間の矢 時間を逆にたどる自然現象をなぜ見られないか 田崎秀一 講談社ブルーバックス 2000
時は流れず 大森荘蔵 青土社 1996
時間 生物の視点とヒトの生き方 本川達雄 NHK出版 1996
「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか 中島義道 講談社現代新書 1996
時間の本質をさぐる 宇宙論的展開 松田卓也他 講談社現代新書 1990
時と暦 青木信仰 東京大学出版会 1982
時間のパラドックス 哲学と科学の間 中村秀吉 中公新書 1980
時間 その哲学的考察 滝浦静雄 岩波新書 1976


◎リアル、実在、現実
科学と神秘のあいだ 菊池誠 筑摩書房 2010
知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性 高橋昌一郎 講談社現代新書 2010
転校生とブラックジャック 独在性をめぐるセミナー 永井均 岩波現代文庫 2010
  相対主義の極北 入不二基義 ちくま学芸文庫 2009
足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想 入不二基義 朝日出版社 2009
リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか 東浩紀、大塚英志 講談社現代新書 2008
哲学の誤読 入試現代文で哲学する!  入不二基義 ちくま新書 2007
実在論と理性 H・パトナム 飯田隆他訳 勁草書房 1992

◎意識の中の時間、時間の中の社会
イマココ 渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学 C・エラード 渡会圭子訳 早川書房 2010
時計の時間、心の時間 退屈な時間はナゼ長くなるのか? 一川誠 教育評論社 2009
一年は、なぜ年々速くなるのか 竹内薫 青春出版社 2008
時間意識の近代 「時は金なり」の社会史 西本郁子 法政大学出版局 2006
マインド・タイム 脳と意識の時間 B・リベット 下條信輔訳 岩波書店 2005
時間を作る、時間を生きる 心理的時間入門 松田文子 北大路書房 2004
時間の比較社会学 真木悠介 岩波現代文庫 2003
共同の時間と自分の時間 生活史に見る時間意識の日独比較  伊藤美登里 文化書房博文社 2003
あなたはどれだけ待てますか せっかち文化とのんびり文化の徹底比較 R・レヴィーン 忠平美幸訳 草思社 2002
遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成 橋本毅彦、栗山茂久 三元社 2001
時間革命 角山栄 新書館 1998
心理的時間 その広くて深いなぞ 松田文子他 北大路書房 1996
時間について N・エリアス 青木誠之他訳 法政大学出版局 1996
文化としての時間 E・T・ホール 宇波彰訳 TBSブリタニカ 1983
内的時間意識の現象学 E・フッサール 立松弘孝訳 みすず書房 1967
 

◎カーニヴァル化、アーキテクチャ、ツイーター
Twitterの衝撃 枝洋樹他 日経BP 2009
思想地図vol.3 特集・アーキテクチャ 東浩紀、北田暁大編 NHK出版 2009
Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流 津田大介 洋泉社新書y 2009
アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか 濱野智史 NTT出版 2008
ウェブ社会の思想 〈偏在する私〉をどう生きるか 鈴木謙介 NHKブックス 2007
わたしたち消費 カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス 鈴木謙介+電通消費者研究センター 幻冬舎新書 2007
カーニヴァル化する社会 鈴木謙介 講談社現代新書 2005 
瞬間の君臨 リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 P・ビリリオ 土屋進訳 新評論 2003