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リアルの中の時間、時間の中のリアル
「リアル」に込められた意味
「リア充」という言葉をご存じでしょう。現実=リアルな世界が充実しているから「リア充」、ゲームやネット(ウェブ)の世界と対比させ、実際に私たちが生活している現実世界の方に、より充実感を感じる人のことを指してそう呼ぶようです。恋人がいて、また友人もたくさんいて、日々充実した交友関係、人間関係ができている人もしくはできること。現実が日常と思っている人たちにとっては、全くとるにたらないことですが、ゲームやネットの世界にどっぷりつかっている人々にとって、現実世界との接触はとても敷居の高いことなのだそうです。だから、現実と言わずにあえて「リアル」と言い、現実の生々しさを強調させているのでしょう。ゲームやネットに自閉して、現実世界との接触が乏しい一部の人々の意識や生き方が浮き彫りになって、「リア充」は、大きな話題となりました。
昨今「リアル」という言葉をよく目にします。たとえば、NHKの番組に『青春リアル』があります。ネットで募集した一般視聴者からの悩みを、ネット上の「リアルタウン」で語り合う討論形式のドキュメンタリー番組。社会学者の鈴木謙介氏が町長に扮して、討論を通じて一0代、二0代の意識や生活を読み解くというコーナーがあり、若者たちの「リアル」を炙り出します。ホラー作家・山田悠介氏のベストセラー小説『リアル鬼ごっこ』は、作中で行われる同名のゲームで、実際に鬼に捕まった場合は殺されるというもの。遊びが遊びでなくなるという意味で「リアル」な鬼ごっこというわけです。この作品は映画化され、二00八年に劇場公開されました。また、そのものズバリ『リアル』というマンガもあります。井上雄彦作で、車イスバスケットを題材に、主人公たちが直面する「現実」を描いた作品です。他にも、『real design』『REAL Nikkei Stayle』と名付けられた雑誌やベンジャミン・フルフォードの『リアル経済学』、現実味のある服という意味の「リアルクローズ」、さらには、「100パーセント リアルカワイイ」というプリントシール機も今年登場しました。
現実と言わずにあえて「リアル」と呼ぶ。ゲームやネットという、いわゆるバーチャルな世界に慣れ親しんでいる人々にとっては、現実の方がむしろ新鮮で驚きのある世界に映る。それを「現実」と言ってしまうと身もふたもなくなる。そこで、それをカタカナ表記することにより、新たに出会う新鮮な世界という意味を込めて「リアル」と表現するのでしょう。そして、この「リアル」は、今や、逆にゲームやネット、映像の世界にも影響を与えています。人々は、ゲームやネットの世界にも、「リアル」感を求め始めているのです。今年大いに注目された3D映画。二次元のスクリーンを飛び出し立体映像化することで、本物らしい、現実っぽさを演出します。いかに本物に近いか、それが近ければ近いほど「リアル」になる。つまり、現実の世界との距離が短いないしはゼロである時、私たちは「リアル」と感じるのです。バーチャルな世界においても、「リアル」さが意識されるようになってきたのです。
ツイッター、ウェブのリアル化
一四0字以内のつぶやきが、今年大ブレークしました。いうまでもなくツイッター(twitter)のことで、こうしている今もユーザーは急増中。ツイッターのサービスが日本で開始されたのは二00八年。わずか二年で、ユーザー数が一千万人に達しようとしています。
いつでもどこでも自分の状況を知人に知らせたり、逆に知人の状況を把握できるサ-ビス(1)、ツイッターの最も大きな特徴は、この“いつでもどこでも”情報を知らせる/知ることができる、そのリアルタイム性にあります。一四0字以内という制限がかえってスピード感をもたせ、リアルタイムな対話を可能にしたのです。
ツイッターの投稿は、そもそもツイッター側からの「いまなにしてる?」という問い掛けが基点となっています。「00なう」というツイッター上の独特な表現は、この問いへの応答なのです。もとよりどのようなつぶやきも可能なのですが、「いま00にいる」「いま00をしている」という意味の「00なう」は、なんらかのかたちで自分の状況を「実況」することになります。それが結果的にユーザーにリアルタイム性を強く印象付けることになる。ユーザーは、ツイッターによって、不特定多数の人々とリアルタイムに“つながっている感”を強く意識するようになるわけです。
そのつぶやきの一覧をツイッターでは「タイムライン」と呼んでいて、これもツイッターの重要な機能の一つです。投稿された「つぶやき」は、即座に自分の「タイムライン」に反映され、そのつぶやきへのフォローとともに、最新のものから順に表示されていく。自分のつぶやきとそれに対する不特定多数の人々からのつぶやきからなる一種のつぶやきのアーカイブ。「タイムライン」は、その意味で現在ただ今の自分、リアルな「わたし」のバイオグラフィになっているのです。
ツイッターは、「不特定多数への情報発信プラットフォームとしての〈ブログ〉、特定少数の友人や知人とコミュニケーションや情報交換を行うプラットフォームとしての〈SNS〉、そして緊密な関係の相手とリアルタイムで会話を行う〈チャット〉、それらすべての要素を併せもつ中間的なサービス」(1)ということになります。言い換えれば、ネット、ウェブそのものをリアルタイム化したものが、ツイッターだといえるでしょう(2)。
ツイッターと現実がリアルタイムに融合する
ツイッターは「場所を超えた時間の共有」を目的としたSNSから、パブリックでリアルタイムな対話のツールとなりつつあり、このネット、ウェブのリアルタイム化こそ、ツイッターがもたらした最大の変化であり(2)、それが誰にでも感覚的に理解できることが、ツイッターの爆発的普及を促したといえます。
世界中がツイッターでつながれば、世界の鼓動を感じることができる、ツイッターの創業者は当初からそういうビジョンを抱いていたそうです。「実際にツイッターを使ってみると、その言葉の意味がリアルに実感できる」(2)はずだと言います。インターネットのサービスは、もともとそれまでのメディアと比較して即時性に優れているといわれてきたわけですが、ツイッターの登場によってはじめて「リアルタイム化」というものが実感でき(2)、「リアルタイム化」がもたらす意識や感覚の変化、あるいは社会の変化を感じ取ることができるというのです。とくにiPhoneなどのスマートフォンが登場してからは、文字通り、二四時間いつでもどこでもツイッターができるようになりました。そのことによって、ツイッターはセンサーの役割も果たしているといいます(2)。たとえば、雨が降ってきたとして、その刻々と変化する空模様がツイッターに書き込まれていく。書き込んだ人が知り合いならば、だいたいどこにいるかがわかるので、雨雲がどう移動するか、感覚的に掴むことができます。ツイッターが、外部の世界の「今」を知るための窓になっているというわけです(2)。
最近、イベント会場や講演会などでツイッターをしている人がけっこういるそうです。参加者は、自分のためにあるいは参加できなかった人のために、講演内容やイベントの様子をライブツイートする。本来クローズな空間で行われているものをオープンにするわけです。リアルタイムで発信、すなわち中継するわけですから、イベントや講演に参加しなかった人々も、それに参加したような疑似体験ができる。余談ですが、ユーストリーム(Ustream)を使えば、そうしたイベントや講演会を、リアルタイムで動画配信することも可能です。いずれにしても、ツイッターによって、ツイッターと現実がまさにリアルタイムに融合する状況が生まれつつあるということです。他者の生きる現実世界とツイッター(自分の内面)の世界がシームレスにつながる。外と内は、時間によって隔てられていました。逆に言えば、時間があることで私たちは外と内を切り分けることができたのです。タイムラグがあるから、外部世界と自分の生きる世界の違いを意識することができたと言い換えてもいいでしょう。それがリアルタイムにつながってしまう。外部の現実世界と内部の現実世界がリアルにつながる、すなわち同期すること。リアルタイムにつながるというのは、同期(Synchronization)することで、その境界がなくなるということを意味するのです。
バーチャルの中のリアリティ
冒頭、現実世界もバーチャルな世界も、共に「リアル」を強く意識するようになってきたと言いましたが、コンピューターがまだ今ほど発展していなかった時代、バーチャルな世界は現実世界と明確に分けて捉えられていました。バーチャルは日本ではバーチャルリアリティという言葉と共に登場しました。バーチャルリアリティは、仮想現実とか人工現実と翻訳され、バーチャルは、現実と対比的に、「かりそめの」とか「虚像の」というニュアンスで理解された。しかし、バーチャルには本来「仮想の、虚偽の」という意味のほかに、「実質上の、本質の」という意味もあるのです(3)。
『バーチャルとは何か?』の著者で哲学者のピエール・レヴィは、西洋の哲学では、存在様態には、リアル(réel=実在的なもの)、アクチュアル(actuel=現実的なもの)、バーチャル(virtuel=潜在的なもの)、ポテンシャル、ポシブル(potentiel、possible=可能的なもの)の四つがあると概念化してうえで、ポテンシャルとバーチャルは、隠れているものの実体と出来事、リアルとアクチュアルは、表に出ているものの実体と出来事であると述べています(4)。レヴィによれば、ポテンシャルな実体がリアルな実体になる変化とは別に、アクチュアルな出来事はバーチャルな出来事(の要素)によって構成されるというのです。言い換えれば、バーチャルなもの(隠されている)は、その時々の目的に応じて構成されるポテンシャルなもの(隠されている)のことであり、バーチャルなものはアクチュアル化することによってアクチュアルなもの(表に出ているもの)になるのです。バーチャルなものとリアルなものは出来事か実体かの違いであり、また、隠れているものか表に出ているものかの違いであって、本来は、対立する関係にはないというわけです。
バーチャルの意味をそのように見たうえで、バーチャルリアリティとして登場したバーチャルの概念が、日本では三つの段階で変容していく様を、バーチャル1・0からバーチャル3・0への進化と捉えられると言ったのが鈴木謙介氏です。鈴木氏によれば、ゴーグルとグローブを着用して、コンピューターがつくり出した仮想現実の世界を動き回るいわゆるバーチャルリアリティとして捉えられていたのがバーチャル1・0。次に、インターネットが情報インフラとして確立したうえで、オンラインゲーム、セカンドライフのアバターのように、ネット環境に組み込まれることによって、自らをキャラ化するのがバーチャル2・0。さらに進んで、現代は「いつでも、どこでも、なんでも、誰でも」というユビキタスネット社会(=モバイル社会)とバーチャルリアリティが融合し、自分のキャラ、アバターがユビキタスな現実世界に溶け出したバーチャル3・0の時代だというのです。
そうしたバーチャル3・0の時代のバーチャルリアリティとは、「現実のあり方とは異なる、ある目的に従って構成される本質的な現実感ということになる」と鈴木氏は言います。バーチャルな世界は、ユビキタスな現実世界の中で、もう一つの現実の世界を構成するのです。そして、その中でわたしもまたバーチャルな「わたし」を構成していく。「バーチャルなわたし、すなわちわたし自身が存在を賭けている〈わたしを表現するデータ〉が、ユビキタスな環境の中であらゆる場所に立ち現れ、わたしより先にわたしを代弁してしまうという事態」すら(3)起っているというのです。現実世界に先んじて、データとしての「わたし」、キャラとしての「わたし」がバーチャル化しているような状況に、私たちは生きているということになります。鈴木氏は、そうしたわたしを「遍在するわたし」と表現しました(3)。私たちは、この「遍在するわたし」をどう生きようとしているのか。「遍在するわたし」がまさに「いま・ここ」で出会っているもの、それが「リアル」ではないか。だから、「リアル」とは、現実世界の言い換えではなく、現実世界とバーチャルな世界が混ざり合った、その只中に現れた現実そのものとしての現実なのです。現実そのものとしての現実である「リアル」。今号では、リアルタイムとしての時間を手掛かりにこの「リアル」について考えてみようと思います。
リアルそのものへ
「リアル」について、1若者の意識と行動、2時間意識との関わり、3時間の哲学、この三つの切り口から考察します。 まず、1について。「本当のわたし」、「本当の愛情」、「本当にやりたこと」……、これらを望めば望むほど、それが手に入らず、結果としてたちすくんでしまう。だから、その時々のキャラに応じた「これが本当にやりたいことなんだ!」という一瞬の盛り上がりと、本当はそんなものはないという冷めた状態とが個人の中に共存することになる。ケータイがつなぐものとは、まさにそうした「脱-社会化」の関係であり、その中にこそ「リアル」は存在する、と関西学院大学社会学部准教授・鈴木謙介氏は指摘します。リアルタイムでつながることを特徴とするツイッター。しかし、そのリアルタイムの中に、たとえば、ここで言うケータイのリアルは存在するのでしょうか。先ほどリアルとバーチャルの関係で紹介した鈴木謙介氏に、ケータイとツイッターの比較を通して、若者たちの感じている「リアル」について考察していただきます。
次に2について。技術革新に基づく情報通信の高度化によって、自宅にいながら見たい映画やスポーツの試合を楽しむことができるようになりました。また、移動手段の高速化によって、日本国内の都市間はおおむね二四時間以内での移動も可能です。こうした社会のさまざまな局面における高速化は、ここ数十年のうちにとくに大きく進展し、われわれの生活様式を大きく変化させてきました。しかし、情報通信や移動の高度化が確立されたとしても、それに対応して私たちの「生きられる時間」の基本特性までは変わらないと千葉大学文学部行動科学科准教授・一川誠氏は著書『大人の時間はなぜ短いのか』で述べています。そこで、高速化によってやりたいこと、できることが広がり増える中で、私たちにとっての本当の時間はどこにあるのか。一川氏に、「生きられる時間」とのかかわりからお話いただきます。
最後に3について。青山学院大学教育人間科学部心理学科教授・入不二基義氏は、イギリスの哲学者J・M・E・マクタガートの「時間は実在しない」という論文を詳細に検討し、マクタガートとは全く反対の結論に到達しました。「実在」とは、まず何よりも単なる見かけ〈仮象〉ではなくて、本当に存在しているものという意味であるという。「ほんとうに(really)」という副詞は名詞にすると「実在(reality)」になります。見かけ〈仮象〉を剥ぎ取った後の「ほんとうの(real=リアルな)」姿の中に、「時間」がはたして含まれているのかどうか。それこそが、「時間は実在するか」という問いの一つの意味ではないかというのです。入不二氏に、時間において「リアル」とは何か、ズバリお聞きします。(佐藤真)
引用・参考文献:
(1)津田大介『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』洋泉社新書y、2009
(2)神田敏晶『Twitter革命』ソフトバンク新書、2009
(3)鈴木謙介『ウェブ社会の思想 〈偏在する私〉をどう生きるか』NHKブックス、2007
(4)ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か? デジタル時代におけるリアリティ』米山憂監訳、昭和堂、2006
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