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[最新号]談 no.80 WEB版
 
特集:無意味の意味/非-知の知
 
表紙:勝本みつる 本文ポートレイト撮影:秋山由樹、新井卓
   
   
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無意味なことに魅せられて……ささやかだけど役立つこと

春日武彦 Takehiko Kasuga

「中腰で堪える」ってぼくは言い続けているんですが、まさに、それは「待つ」ということと同じ意味ですよ。
即対応しないで、とりあえず待ってみること。あえて中腰で堪えてみれば、その決意をもたらした心の強さが事態をいい方へ展開させる可能性を掴み取ってくるかもしれない。
もちろん、実際のところは、わからない。でも、「中腰で堪える」方が、少なくとも精神にとっては健全だと思うんです。

かすが・たけひこ 1951年京都生まれ。日本医科大学卒業。産婦人科を経て精神科勤務。東京都精神保健福祉センター、都立松沢病院、都立墨東病院精神科部長などを歴任。現在、東京未来大学教授。主な著書に、『無意味なものと不気味なもの』文藝春秋、2007、『僕たちは池を食べた』河出書房新社、2006、『奇妙な情熱にかられて──ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』集英社新書、2006、『幸福論』講談社新書、2004、他多数。
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「呪われた部分」はどこへ行ったか……バタイユ的経済学のゆくえ

吉田裕 Hiroshi Yoshidai
バタイユが明らかにした無意味なものの意味、あるいは無用性とか非生産的消費といったものを、今日の社会の中でどう捉え考えていくか。
ぼくの研究領域でいえば、「空間の変調」という形で、それを捉えることが可能じゃないかというのがいまの推測です。

よしだ・ひろし 1949年三重県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。現在、早稲田大学法学学術院教授。フランス文学専攻。著書に、『バタイユの迷宮』書肆山田、2007、『異質学の試み──バタイユ・マテリアリストI』2001、『物質の政治学──バタイユ・マテリアリストII』2001、共に書肆山田、他。
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〈対談〉澤野雅樹×萱野稔人

いかにして消尽したものになるか……「主人と奴隷の資本主義」から遠く離れて

澤野雅樹 Masaki Sawano
名目流動資産は、勝手に世界中を動き回っているという意味ではきわめてノマド的であり抽象的なものでありながら、つまりものとしての体裁がないにもかかわらず、ものの秩序がそのとらえどころのない流動に支えられているという意味では、器官なき身体の典型であると思う。

さわの・まさき
1960年埼玉県生まれ。明治学院大学大学院博士後期課程満期退学。現在、明治学院大学教授。社会思想。著書に、『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001、『数の怪物、記号の魔』現代思想社、2000、『死と自由』青土社、2000、他。

萱野稔人 Toshihito Kayano
つまり資本主義を内部からみても外部からみても有用性なんて確固たるものではないんだ、ということです。
資本主義は、決して有用性というものに準拠して動いているのではない。
おそらく資本主義には本質的に〈意味もなく労働し生産している〉という側面があって、その側面が人びとに根源的な不安を与えるのでしょう。

かやの・としひと
1970年愛知県生まれ。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。現在、津田塾大学国際関係学科准教授。哲学・社会思想。著書に、『権力の読みかた』2007、青土社、『カネと暴力の系譜学』河出書房新社、2006、『国家とはなにか』以文社、2005、他。
 

editor's note[before]


意味の病いを問う

信仰としての有用性、合理性

 人々は、なぜこうまで有用性や合理性にこだわるのでしょうか。理性を最大限発揮し、知力も体力も、そして感性までもすり減らしながら、有用性や合理性のレールを突き進む私たち。役に立つこと、価値のあることを金科玉条に、意味のあることのみを追求し続ける。まるでその様は「意味生産」に明け暮れる機械のようにすら見えます。
 半面、意味のないことには冷淡です。いったん役に立たない、価値がないとわかると、容赦なく切り捨てられます。意味のないものには、冷たい視線が浴びせられます。無意味であることは、それだけで悪であるような空気すら漂っています。
 しかし、そうでしょうか。有用でないもの、役に立たないものは、本当に無意味なのでしょうか。有用性から逸脱し、非合理なものと接近する「無意味」なるもの。無意味なこと無意味なものは、無意味であるがゆえに意味をもつこともあるのではないでしょうか。無意味であることは、字義どおりに解釈すれば、意味がないというのではなく、意味を無しにすることです。言い換えれば、意味の不在、意味の「無」を意味します。無意味とは、決して非意味ではないのです。意味と無意味は、その端緒から非対称の関係にあります。意味と無意味の非対称性。無意味を意味と切り離して捉えることーー。
 この信仰とすら見える現代人の有用性、合理性へのこだわり。たとえばそれをランガージュ(言語活動)に関連させて、「意味の病い」と喝破したのはロラン・バルトでした。意味に取り憑かれ、意味生産に明け暮れる、信じられないような合理的人間。「意味は人間にとって一つの宿命」(1)であるとすれば、「意味をつくりだす」のではなく、意味を「留保し」「はぐらかす」(2)ことにこそ心血を注ぐべきであるとバルトは言いました。
 意味の病い、それは知、理性への隷属であり、本源的な意味での生きる自由からの退却です。今こそ、無意味を志向することの自由、無意味なるものの意味を考え直す時ではないか。取るに足らないもの、かそけきもの、寄る辺無きものに思いを寄せること。私たちは、まずここから出発します。

「生きる意味の不況」

 一昨年一冊の新書が話題を呼びました。文化人類学者・上田紀行の『生きる意味』(岩波新書)がそれです。「私たちがいま直面しているのは〈生きる意味の不況〉である」という一文から始まる本書は、経済的不況よりもはるかに深刻な事態が進行している、それが「生きる意味の不況」であり、私たちは今こそこの不況を乗り越えて、「生きる意味」を見出すべきであると読者に訴えかけました。
 著者によれば、私たちの社会を襲っている問題の本質とは、「生きる意味」が見えないことだと言います。それは、あたかも「生きる意味」の雪崩れのような崩壊であり、なぜ自分が生きているのか、生きることの豊かさ、何が幸せなのかがわからなくなっているというのです。なぜそのような事態に至ったのか。その背景にあるのが、合理性への盲信、効率化への猛進ではないかと著者は警告します。
 一部屋に一台テレビがあるような暮らし。一家に一台も二台もクルマがあるような暮らし。それは地球レベルで見れば一握りの人たちのみに許された豊かさですが、それを実現させたのがまさしく合理性、効率化であることは疑う余地もありません。ところが、そうした豊かさの中で、あろうことか、私たちは生きることの空しさを感じています。自分が今ここに生きている意味がわからなくなっている。自分など別にいなくてもいいのではないか、自分が自分でなくてもいいのではないか、とすら思うようになってしまった。豊かさの礎となっていたはずの合理性、効率化が、逆に「生きる意味の不況」へ私たちを追い込んでいるというのです。
 「世間は効率性を求めている。世間はあなたに〈意図〉を抱いており、その〈意図〉が効率的に遂行されることを期待している。(…)〈世間から後ろ指をさされないように、効率的にいきなさい〉これがこれまでの日本社会を覆ってきた意識に他ならない」(3)というわけです。
 「人の目」「意図」「効率性」それが現代の日本を覆っているシステムに他ならない。近代の病いに冒されながら、しかし「個」である自由も確保されないようながんじがらめの状態。私たちは、そうした奇妙に歪められた「日本型」近代に生きてきたと上田は言います。
 「日本型」近代のシステムは、自殺や不況、失業という社会問題を生み出す引き金になっているのですが、個人の内面にも歪みをつくり出している。そうした歪んだ個人、自我のシステムを象徴する言葉として、上田は「透明な存在」という言葉に着目します。「透明な存在」とは、一九九七年に神戸で起こった小学生殺傷事件の犯人、少年の残した言葉です。「透明な存在」の「透明」とは、他者から受け入れられるために、自己を透明化すること。つまり、自分のカラーを消し去り匂いすらも消滅させる。「透明な存在」は、また透明であることによって、他の「透明な存在」とも交換可能になります。「透明な存在」とは、その意味で、かけがえのなさ、唯一性を喪失してしまった存在のことです。
 「日本社会の生み出した〈透明な存在〉とは、その場の〈意図〉に自分を添わせようとし、自分の自然なあり方、〈色付き〉の自分を抑圧することで、自己を透明化していく構造によるものである。何よりも先に、その場の目的や意図が尊重される。それに添わないノイズは出してはいけない。そのシステムが〈透明な存在〉を生み出し、(…)そのシステム内の人間は犠牲者であるとともに加害者、共犯でもあるのである」。
 「自分が何を欲しているのか」よりも「他の人が何を欲しがっているのか」がまず頭をよぎります。そのように自動化された「欲求」のシステムの中に私たちは生きてきてしまった。しかし、それは一人ひとりにとっては、楽な社会でもあったという。「なぜならそのような社会では〈自分の頭〉や〈自分の感性〉をほとんど使わなくてもいいからです。今、社会で求められていそうな線を狙って生きていけばいいわけですから。その結果、〈生きる意味〉など突き詰める必要もなく、透明な存在のままで生き続けることができた」のです。

「意味の創造者」という物語

 合理的、効率的という近代のシステムに支えられて、私たちは「透明な存在」となり、豊かさを実感としてではなく「数字」や量として把握するようになってしまった。豊かさを人生の「中身」の方から感じることができず、「成長率」といった数字の方にむしろ確かさを感じてしまう。このように、「経済成長」への信仰が断ち切れないのは、豊かさを私たちの生活の「内側から」実感する能力が失われているからではないか、すなわち、「生きる意味」を私たち自身が見失ってしまったからだというのです。
 そうした現状認識を踏まえて、現代を「生きる意味」の病いの時代と捉え直し、そこからの脱却を展望します。「人の目」と「効率性」によってがんじがらめになり、みずからの「生きる意味」が見失われているところに私たちの時代の病いがあるとしたら、今、私たちに求められているのは、「生きる意味」の自立です。「誰かから、あるいは社会から〈生きる意味〉を押し付けられるのではなく、私たちひとりひとりが〈生きる意味〉の創造者となる社会への転換が必要」であると上田は結論付けます。
 合理性、効率化の追求が、社会から「生きる意味」を奪い、個人の「生きる意味」そのものを不問に付す。そうした現代にあって、そこからいかにして脱却するか、上田はそれを「生きる意味」の創造=再構築に求めます。
 筆者は、この結論を読んで、いささか拍子抜けしてしまいました。「生きる意味」を喪失した時代に、「生きる意味」を創造し自立させること。いったいそのようなことが、なぜ可能だというのでしょうか。個人の創造性、その原基ともなる自我の「生きる意味」が根こそぎ奪われてしまっている時に、「生きる意味」をもう一度自立させるなどということはほとんど不可能だと思われます。そもそも「生きる意味」が見えなくなってしまったのは、社会によって押し付けられたのではなく、私たちみずからがそれを見失ったことにあります。著者が適確に指摘するように、それは私たちが「透明な存在」であるからに他なりません。透明な存在となって、自分と他者(の部品)を時には交換し合いながら、「生きる意味」など問う必要もなくただ生きていくこと、生きていけてしまうこと、すなわち、「意味」が欠落し、「意味」が不在のまま生き続けられる、そこにこそ問題の所在があるのではないでしょうか。「生きる意味」の崩壊を見届けた後に私たちができることは、「生きる意味」の再構築ではなく、「生きる意味」の「意味」を疑うことではないでしょうか。「意味の創造者」という言葉で語られようとしているもの、それはまさしく「意味」の病いそのものであり、「意味」への回帰、言い換えれば、合理性、効率化の支配する近代のシステムに再回収されることをまさに“意味”することになるのです。「生きる意味」が問われるのであれば、同じように「生きられる無意味」についても問われるべきなのです。

意味と無意味、ウィトゲンシュタインの場合

 「生きる意味」か「生きられる無意味」か、「意味/無意味」というターミノロジーから、生きる主体に関連付けて、この問題を徹底的に掘り下げたのがウィトゲンシュタインでした。『談』では、no. 42号で黒崎宏氏にウィトゲンシュタインの考えに定位して、「私」とは何かについて論じてもらいましたが、その時のキーワードが「意味/無意味」でした。ウィトゲンシュタインの議論を参照しながら、少し別の角度から「生きる意味」と「生きられる無意味」について考えてみましょう。
 ウィトゲンシュタインは、前期と後期で考え方に大きな違いがあります。そのことに触れることはここでの趣旨ではないので、後期の哲学での意味/無意味についてのみ触れます。ウィトゲンシュタインは、「私」とは何かについて、後に独我論と呼ばれる立場から独自の考えを展開しました。後期哲学の始まりを告げる『青色本』でおおよそ次のようなことを言っています。
 「〈私I〉(あるいは「私の(my)」)という語の使用には二通りの使用方法がある。(客体としての使用(the use as object))と(主体としての使用(the use as subject))である。第一種の使用例、客体としての使用は次の通りになる。
 〈私の腕は折れている〉〈私は六インチ成長した〉〈風が私の髪をなびかせている〉(…)
第二種の使用例は次の通り。〈私は歯が痛い〉〈私は雨が降るだろうと思う〉〈私はしかじかのものを見ている〉(…)」(4)
 ウィトゲンシュタインは、ここで何を言おうとしているのでしょうか。要するに、「私」という場合、通常この二種類の使用方法があると言っているのです。第一種は、文字通り客観的な「私」であって、それを言うためには客観的な調査が必要になります。実際に腕をメジャーで計ったり髪がなびいている状態を記述する必要があります。ところが、第二種においては、そのような調査は全く必要ありません。そして、言うまでもなく、通常「私」という場合は、第二種の使用例に出てくる「私」を言うのです。
 「私が〈私は痛みを感じている〉と言う時、私は痛みを感じているある人を指示しない。なぜならある意味で私は、痛みを感じている人が誰であるかを、全く知らないのであるから──第一、私は〈しかじかの人が痛みを感じている〉とは言わず、〈私は痛みを感じている〉と言うのである」(5)
 たとえば、私自身が激しい歯痛を感じている時、たとえ「私は歯が痛い」と言うとしても、その時私は歯痛そのものです。歯痛の他に「それを感じている私」などというものはどこにも存在しません。もし、歯痛の他に「それを感じている私」などというものが別にあるとすれば、それは偶然的な事実にすぎません。論理的には、「それを感じていない私」もあり得ることになります。なぜなら、歯痛があってそれを感じていない、ということは普通(常識的に)はあり得ないのですから。
 同様に、「私はしかじかのものを見ている」という時も同じです。その時私は、その視覚風景そのものです。その視覚風景の他に「それを見ている私」などというものは存在しません。もし、その視覚風景の他に「それを見ている私」などというものが別にあるとすれば、それもまた偶然的な事実になってしまい、論理的には、「それを見ていない私」もあり得ることになってしまいます。しかしこれも、やはり矛盾と言わねばなりません。なぜなら、視覚風景があってそれを見ていない、ということは普通(常識的に)あり得ないのですから。そもそも、見るものと見られるものがあって、前者が後者を見る、というわけではありません。「見る」は、行為でもなければ関係でもない。「見ている」という状況のみなのです。したがって、「見ている私」のみならず、「見る私」も存在しないのです。
 主体としての使用例に出てくる「私」は、何ものをも指示しません。一言で言えば、「主体としての私」は存在しないのです。存在するといえるのは、「客体としての私」、すなわち、固有名によって外から指示される客観的な「私という人」のみです。
 行為というのは、根拠も正当化もなしに、まさに行われるものです。言うなれば、行為というものは無から生ずるものなのです。このことから、「主体としての私」というものは存在しない、つまり、私は無なのです。
私たちは、なんの根拠もなんの基盤もなしに生きています。しかし、そもそも真の基盤にはさらに基盤があってはならないものなのです。なぜなら、もし、真の基盤にさらに基盤があるとすれば、それは実は真の基盤ではないことになるからです。それゆえ、真の基盤は、いわば、空中に浮いているのでなくてはなりません。そうであるとすれば、われわれは無の深淵において生きている、ということは、われわれ自身が真の基盤であるということです。
 「生きる意味の不況」の時代にあって、「生きる意味」を再構築することは困難です。なぜならば、「生きる意味」の困難は、まさに、「生きる意味」を問うことから必然的に導出された帰結であるからです。別言すれば、「生きる意味」とは、「生きられる無意味」によって根拠付けられた「意味」されるものにすぎないのです。「生きる意味の不況」からもしも逃れようとするならば、私たちのもつべき戦略はただ一つ、「生きる意味」の創造ではなく、「生きる意味」そのものを「生きる〈意味の病い〉」として葬り去ることです。すなわち、無意味によって根拠付けられた「意味」を生き直すこと。無意味の側に立ち、無意味において意味を立ち上げること以外にありません。

「意味の病い」からの逃走

 いささかくどくなりすぎました。しかし、ここで「生きられる無意味」に執拗に拘泥したかったのにはわけがあります。冒頭述べたように、有用性、合理性を信じて止まない私たちにとって、「無意味」なるものは、意味の反意語でしかありません。意味の反意語である限り、無意味の意味など認められようがないからです。意味に対抗するはずの無意味が、意味の反意語としての無意味に置換される時、ランガージュにおいては、意味生産を補完し強化する非意味として機能することになるのです。バルトは、「無意味の意味という最悪の意味に向かう」として、この事態からの撤退を促しました。「意味の病い」に罹らない状態とは、意味がない、すなわち意味の「無」、意味の不在をいうのです。それは、病いの反意語は健康ではなく、「病い/健康」そのものが「無」の状態、言い換えれば、病いの反対は、「病い/健康」という言説それ自体の「不在」を言うのと同じです。
 今号では、「無意味の意味」について、およそ三つの視点から掘り下げてみることにします。一つは、無意味なものへの憧憬について。二つ目は、オリジンとしての無意味なものについて。三つ目は、不毛、消尽、暴力の極限としての無意味なものについて。
 まず、一つ目。東京未来大学教授で精神科医の春日武彦氏にお尋ねします。春日氏は著書『奇妙な情熱にかられて──ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』の中で次のように言っています。
 「この世の中は、無意味なことや苦笑を浮かべざるを得ないような事象であふれている。下らないとか、取るに足らないとか、馬鹿げているとか、そういった言い方で切り捨てられてしまっても、反論をすればその反論自体がますます無意味さを強調してしまうような事柄が、山ほどある。(…)
 戦争だとか政治の堕落だとか、そうした規模の大きな話は、人の心の醜さや愚かさといった文脈においてむしろ理解がしやすい。情けなくはあっても、不可解ではない。散文的なだけである。そんなことよりもわたしはもっと〈ささやか〉で、きわめて個人的で、本当は普遍的なのだけれども世間的には〈論ずるに足る〉とは思われていないような心の働きについて、本書で考えてみたかった」とし、そうした「ささやか」で「論ずるに足る」と思われないものの中に、真実のカケラが埋め込まれているというのです。
 ズバリ、無意味なものに魅せられてしまう人間心理の「リアル」について春日氏にお聞きします。
 「何の役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかし私たちに役立つものとは」単なる「手段にすぎないものだ」。そしてそれは「有用性は獲得にかかわる」ものであり、「非生産的な浪費に対立する」。しかし、私たちにとって重要なものは、有用性ではなく、有用性を限界付ける非生産的消費であり浪費であり消尽である。これは、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユの言葉です。バタイユは、これまでの経済学を「限定された・制限された経済」と定義したうえで、それに対峙させる「普遍経済」を提起しました。つまり、有用性の経済とは別に、有用性とは対立する無用なるものの経済があるというのです。無用なものを無意味なものと読み替え、そこに経済のオリジンを見出すこと。早稲田大学法学学術院教授でフランス文学を研究される吉田裕氏に、バタイユの「意味/無意味」、無意味としての経済についてお尋ねします。
 「〈…は何の役に立つのか〉という問いは、自由を約束するどころか逆に自由の領域を狭め、意欲を低減させる脅迫だからである」と言い、「何よりも先ず、我々は無益な営みを役に立つことの惨めさから解放しなければならないだろう」と著書『不毛論』の中で断言するのは明治学院大学社会学部教授・澤野雅樹氏です。じつは、今号の企画は、澤野氏のこの言葉から生まれました。澤野氏は、続けます。「我々には無益な営みの内に隠れた有用性を発見しようとする嘆かわしい習慣があった。言うまでもなく、真に断たれるべき悪習はこちらの方なのだ。我々は強迫神経症を患う用途の番人から無益の営みのすべてを守り抜かなければならないし、有用性の秩序から切り離された地平を発見し、そこで情欲の育成を心掛けなければならない」。
 一方、国家と資本主義の関係を暴力に照準して執拗に追究する津田塾大学国際関係学科准教授・萱野稔人氏は、著書『カネと暴力の系譜学』で次のように言います。
 「国家と資本は、他人が働いた成果を自分のものにする二つの運動に対応している。国家と資本にそれが可能なのは、両者がそれぞれ特定の〈権利〉のうえになりたっているからだ。つまり国家は〈暴力への権利〉のうえに、資本は、生産関係へと変換される〈富への権利〉のうえに」。すなわち、「すべては働かせる側がもつ〈富への権利〉のもとで展開しているのである」。
 萱野氏によれば、カネと暴力が社会を動かすモーターであり、その逆ではないという。だとすれば、私たちのこれまでの常識は全く覆されてしまいます。なぜならば、カネと暴力という最も無益で無用な、まさしく無意味の代表といえるものによって、社会の歯車は動いているということになるからです。
 最後に、澤野氏と萱野氏に、「意味/無意味」の問題系を拡張して、不毛、消尽、暴力の極限について語り合っていただきます。なお、この対談は、sound cafe dzumi(吉祥寺)において、公開という形式で行われました。(佐藤真)



引用・参考文献
(1) Le grain de la voix:entretiens 1962-1980、Seuil、1981
(2) ロラン・バルト『エッセ・クリティック』篠田浩一郎他訳、晶文社、1972
(3) 上田紀行『生きる意味』岩波新書、2005
(4) ウィトゲンシュタイン『青色本・茶色本』大森荘蔵他訳、大修館書店、1975
(5) ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、1976

 

 

editor's note[after]

無用性から位置付けられた有用性

無意味を無意味としてやり過ごすこと

 まるで意味に取り憑かれた人たち。統合失調症の患者さんとは、意味のないものにも意味を見出す、意味を過剰に求める人です。だから、意味のないことを意味のないまま受け入れられることの重要性に気づかせ、無意味を無意味とやり過ごせるようにすることが自分の治療法だと春日武彦氏は言います。一見意味のなさそうなことにも意味を見出してしまう。意味を過剰に求めることの恐ろしさ。インタビューの冒頭から、今号の結論になるような言葉が飛び出しました。意味の過剰とは、私たちの言葉で言い換えれば、「意味の病い」のことです。「意味の病い」からいかにして逃れるか、それは精神病にとっても重要な課題の一つだというのです。
 こんなものは意味がない、取るに足らないことなのだから、もっと意味のあることを見つけ、取るに足ることをしなさい、とふつうは言うでしょう。しかし、逆です。意味がないなら意味がないままに、取るに足らないことならば足らないままに受け入れる方がよほどいい。どんなものでも必ず意味があると考えるからおかしくなってくる。意味がないこと、意味のないものは、意味があること、意味のあるものと同様に、私たちにとっては必要なこと、必要なものだというわけです。
 では、統合失調症の患者さんは、なぜそのように必要以上に意味を求めようとするのでしょうか。春日氏の考えでは、彼ら彼女らには、「別解」というのがないからだと言います。別解、つまり、それとは別の考え。自分がこうだと思っている、信じていることとは別の考えもあること、あり得ること、ということが彼ら彼女らには思いつかないし考えつかない。常に解は一つしかないものであり、一つでなければならないものなのです。たった一つの解、唯一の解。そうであるからこそ、統合失調症の患者さんにとっては、それが「意味」になるのです。
 どんなことでも、どんなものでも意味を見出してしまうのに、その意味は常に一個しかない。物事と意味が一対一対応になっていること。じつは、ここに「意味の病い」の一つの特徴を見出すことができます。

こころの豊かさへつながる多様さ

 あるもの、あることに、ある一つの意味がある。この一見当たり前のように思われることが、じつはきわめて奇異なことであることを明らかにしたのは構造主義言語学でした。これまで『談』でも何度となく取り上げてきましたが、ソシュールの言語学では、言葉と意味は一対一の関係にはなっていません。一つの言葉(単語)には、いくつもの意味が対応しています。いわゆる言語の恣意性といわれるもので、一つの物事に対してある意味は一義ではなく、多義的であると考えます。たとえば、ものとしての本が、[hon]と発音される必然性は全くありません。英語圏では[buk]、フランス語圏では[livr]というように文化によってさまざまな呼び方(発音の仕方)をします。このことは意味についても同様で、ものとしての本が、「書籍」とか「書物として読まれるもの」という意味をもつ必然性はないのです。ソシュールはこのことをシニフィエ(意味されるもの、記号内容)とシニフィアン(意味するもの、記号表現)の恣意性と表現しました。すなわち、ものとしての本というシニフィエと「書籍」、「書物として読まれるもの」という意味でのシニフィアンには、なんの必然性もないと言ったのです。さらに、この恣意的関係は、言葉と意味だけにかかわらず、言葉と言葉、意味と意味でも言えて、言語というものの本質(人間の使用するすべての言語において)だと言ったのです。ここでは、これ以上立ち入りませんが、要するに、構造的にみると言語は、物事と意味が多義的に結び付く性質をもっているということなのです。
 春日氏は、そこで、多様性ということに注目します。無意味を無意味とやり過ごせるようにするためには、まず、物事には意味は一つだけじゃなく、いくつもの意味があることを知ってもらう必要があります。物事は、一対一対応ではなくて、さまざまな意味をもっていて、その多様さが物事の厚みや膨らみをつくり出している。そして、そのことが世界を豊かにし、ひいてはみずからのこころの豊かさにもつながっていくのだというのです。そもそも、人間社会それ自体が多様なものの集まりです。平均値そのものといえるような人間などいないように、ある意味ではみんなそれぞれ偏りをもっている。そういう偏りをもった人間たちの集合体が社会といわれるものなのです。
 物事にはいろいろな意味がある。一つの決まり切った意味が離れずに堅く結合しているのではなくて、いくつもの意味、さまざまなシニフィアンが結び付いていくそのプロセス、そうやってたくさんの意味を発見していく過程が、すなわち生きていることではないか。さらに言えば、そのこと自体が「生きる意味」なのではないか、と春日氏は言います。「生きる意味」とは何か。この問いは、少なくとも意味の意味を問い質す方へは向かいません。なぜなら、意味の過剰へ、意味の病いへみずからを陥れることになるからです。そうではなく、むしろ意味の多様さへ、意味の豊かさへと開いていく、そのプロセスが重要であり、そして、そのことがすなわち「生きる意味」の意味なのです。無意味なもの、無意味なことを意味あるもの、意味あることに無理やり還元することなど全く必要なく、無意味なものは無意味なものとして、無意味なことは無意味なこととして受け入れること。別の言い方をすれば、それはただ待つことであり、堪えることでもあります。なぜならば、待つこと、堪えることは、受け身であることの証しであり、意味と無意味を分け隔てなく受け入れることの態度表明でもあるからです。「生きる意味」は、「生きられる無意味」と共にある時、真の意味での「生きる意味」となるのです。

「過剰なるもの」を探して

 バタイユは、「有用性の世界から無用性の世界が現れる」と言い、「非生産的消費」、「消尽」「贈与」の問題にそのまま直結していく議論を大胆に展開した思想家です。バタイユは、文学の世界に留まることなく、哲学、社会学、経済学を横断しながら「意味/無意味」に接近しつつ、これらの問題を追究していきました。その思想的遍歴そのものが、こう言ってよければバタイユの言う「呪われた部分」だったといえるでしょう。
 吉田裕氏は、ご自身の専門である文学からバタイユの思想と出会いましたが、バタイユ同様にその研究は、やがて哲学、社会学、経済学へと広がっていきました。そして再び文学という領域に回帰した時、バタイユ思想の核心ともいえる「呪われた部分」の謎に迫ることができたのです。バタイユの思想を、吉田氏の言葉を頼りに整理してみましょう。
 バタイユは、まず制御できないエネルギーが自分自身の中にあるという強い思いがあり、それは人間にとっては普遍的なものだという確信をもちました。バタイユは、それを「過剰なるもの」と定義します。その過剰なるものは、人間を常に不安定な状態に置き、決して予定調和的な循環の中に留めることをしません。その時々の過剰なるものの現れ方の違いが人間の歴史を刻んでいくことになります。その過剰さはどこから来るのか。バタイユは、それは太陽のエネルギーから来ると考えました。
 「太陽というのは、熱を外に与える。では、その熱はどこから生まれるのか。どこかよそから来るのではなく、まさに自分自身の中から出て来る」のです。太陽は、ひたすらみずからを破壊することによってエネルギーを与える存在です。
 「その熱が生命に命を吹き込み、生命体を発生させる。その生命体の階梯の頂点にいるのが人間だとすれば、太陽のエネルギーが最も集約されて負荷されているのが人間だということになります。見返りを求めず、ただエネルギーを与え続けるだけの太陽」。このいわば太陽の贈与を、過剰なものとして集約し、蓄積するのが人間であるとすれば、それはどのような形で人間社会に現れるのか。アステカ文明の供犠やポトラッチは、その過剰なるものの蓄積が一挙に爆発したものと見ることができます。そして、この爆発によって得られる心的な高揚感こそ宗教的な経験そのものではないかというのです。つまり、宗教こそ過剰なるものの最も原初的な形態ではないかというわけです。
 この一連の過程をエネルギーの流通という観点から捉え直してみると、太陽から受け取ったエネルギーを生産に結び付ける消費と生産に結び付かない消費の、人間は二種類の消費を行っていることがわかります。前者は生産と相補的な関係にあり循環するのですが、後者はこの循環の枠を破るものとして現れます。つまり、太陽エネルギーの贈与は、過剰なるものとして循環を超えてあふれ出すのです。この過剰なるものは、生産に結び付かない消費という意味で「非生産的消費」と名付けられ、精神的な高揚感、宗教的経験、供犠やポトラッチ、さらには共同体的な結束は、みなこれに当たると言いました。

こぼれ出す「非生産的消費」

 近代になって人間は、この過剰なるものを「非生産的消費」として爆発させずに、もう一度生産のシステムに投入することを始めます。使い途のなくなった過剰なるものは富として消費されるのではなく、投資という形で生産システムに再投入されるのです。その結果、近代社会は生産力というものを飛躍的に拡大させることになります。近代社会は、そういう形で社会のシステムを根本から変えてしまったのです。この富と消費の関係、人間と宗教の関係の根本的な変化が、近代がもたらした最も大きな変化であるとバタイユは考えました。
 では、このシステムの変化は社会に何をもたらしたのか。過剰なるものの中には、再生産されずにかろうじて残っているものがあります。それが芸術でありエロティシズムだとバタイユは言います。「非生産的消費」が困難になった時代に、かろうじてその痕跡、かつての状態を残しているのが芸術でありエロティシズムだというわけです。
 吉田氏は、それとは違う視点からこの「非生産的消費」の消息を捉え直そうとしています。それが、インタビューの最後で述べられた「空間の変調」という現象です。現代の文学の一部に、奇妙な空間表現を扱った作品が現れてきたというのです。多重構造化した空間、麻痺し、ひび割れ、重複する空間、あるいは空間そのものが別の空間と重なり合ってしまうような表現。かつては見られなかったこうした特異な空間表現が、現代の文学作品にちょこちょこと現れていることに吉田氏は注目するのです。そして、それこそバタイユが言った「呪われた部分」の今日的なありようではないかというのです。「酒を飲んでさわいだりスポーツジムにかよって汗を流したりたばこを吸うことも収まりきれないエネルギーの吐き出し方だと思います」が、「呪われた部分」は、「それだけでは収まりきれずに、微妙な形でちょっとずつこぼれ出してきている」。「たとえば、それが空間の変調というかたちで現れていることを、一部の芸術家、作家は察知している」のではないかというのです。
 「プレートの上に別のプレートが入り込んでくる巨大な地殻変動。あれと同じようなイメージで、空間の中に空間がズレながら重なり相互貫入していく」。この空間を「意味」と読み替えることは可能でしょうか。現代社会の中でゆっくりと始まっている空間認識の変容は、「意味/無意味」の地層にも亀裂を入れます。意味と無意味は、全く異なる位相空間の中で、ある場面では接近し、また別の場面では隔絶する、そういう事態がゆっくりと進行しているのです。「意味/無意味」の問題系は、その意味で現代の「呪われた部分」の一つだといえるでしょう。
 ところで、今回のインタビューには登場しませんでしたが、バタイユは非常に興味深い「喫煙」に関する小さな文章を残しています。参考にその要旨を紹介しておきましょう。
 「現代社会にあって浪費というものが少なくなっている中で、煙草は無駄な浪費の一つである。しかし、〈有用な〉浪費の一面ももっている。煙草は、朝から晩まで、いつでもふかすことができるため意味が生まれない。そのためか、これほど把握しにくい営みもない。煙草という祝祭には魔術が存在する。喫煙者は空、雲、光と一体化するからだ。そして、喫煙者は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わう。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえる」。(「第一部第三章 私的な浪費の世界 第二節 浪費の価値の低下」『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳、ちくま学芸文庫、二○○三より、筆者による要約、また傍点は筆者)
 ここでいう「生きる」が、具体的に何を表しているのかがわからないのですが、少なくとも、煙草が浪費と有用性、自由と怠惰といったような両面性をもつものとして把握されていたことは確かです。しかし、その両面性、両義的な存在であることが、かえって煙草から「意味」を遠ざけているという指摘に、筆者は注目しました。そもそも「意味が生まれない」とはどういうことなのか。「意味がない」というわけでないとすれば、無意味の意味ということなのか。興味の尽きないところです。

承認のパラドクス

 澤野雅樹氏と萱野稔人氏の対談の論点は大きく三つありました。一つはフリーター論争と承認(不安)の問題について。二つ目は、ドゥルーズ、ガタリのいわゆる器官なき身体を今日の社会の中でどう評価し、何を見出すかについて。三つ目は、資本主義と社会システムの関わりについて。順を追って整理してみましょう。
 赤木智弘氏の論文に端を発したフリーター論争は、承認をめぐる問題ではないかと萱野氏は提起します。「フリーターというのはいわば使い捨ての労働力であり」、ひとを「いつでも取り替えがきくような状態」に置くことをいいます。端的にひとを無用の存在として扱っているわけで、赤木氏の論文はその扱われ方に対する異議申し立てだった。「意味/無意味」の文脈でいえば、存在の否認、すなわち意味のない存在として切り捨てられることを意味し、これは、承認の問題として捉えることができると萱野氏は言います。つまり、承認とは、他者に意味のある存在と認めさせることであり、今日にわかに高まりつつあるナショナリズムも、こうした承認不安から出てきているのではないかと提起します。
 それを受けて、澤野氏はマートンの相対的剥奪という概念枠に照らすと、一種のルサンチマンの構図があぶり出されてくる。澤野氏は、それをルジャンドルの国家、法、主体という枠組みから読み直し、アイデンティティの問題として展開できる可能性を示唆します。つまり、承認問題には、責任能力とそれを担保する理性が深く関わっていて、それは言語と同一性原理が交差する極点、すなわち身体の問題ではないかと言うのです。
 ここから、お二人の議論は、一気に器官なき身体へと向かっていきます。器官なき身体とは、ドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』で展開された概念で、有機体という器官の組織化に対して、抗い続ける生成変化の身体をいいますが、まず澤野氏がそれは「発生が何一つ起きていない卵のような状態で、始まりと終わり、創造と破壊が区別しがたい状態でひしめき、うごめき続けている状態」ではないかと言います。そして、対談のテーマでもある「消尽」に引きつけて、それは消尽しつくした果てにおとずれるものであり、無と有(無意味と意味)が分化する以前の強度そのものといえる「平面」のことだと言うのです。
 一方、萱野氏はドゥルーズのスピノザ解釈に準拠して、器官なき身体を触発の力能から捉え直し、世界とは「さまざまな触発の力能が未分化な形で潜在的に充溢したものとしてある」と言います。たとえば、それが身体としてアクチュアリゼーションしたり、モノとしてアクチュアリゼーションしたりしながら、さまざまな個物が触発しあう平面を組み立てていく。「それが差異化というものであり、世界の根源はその差異化の運動」です。世界におけるあらゆる因果関係の「はじまり」と「おわり」は神の意志によるものというデカルトに対して、スピノザは、目的も意志ももたない神を対置させたけれども、まさにこの目的も意志もない状態を、ドゥルーズは器官なき身体として提示したのではないかと萱野氏は言うのです。さらに、ドゥルーズ・ガタリのアレンジメントという概念を援用して、人間社会というのは、個々の人間からみれば有用性のもとで動いているように見えるけれども、社会全体のアレンジメントから見れば、「意味/無意味」の区別を超えて単に活動しているだけということになるという。
 澤野氏は、この「意味/無意味」を超えた活動に留意して、資本主義とはまさにそうした活動であり、それを最も露骨な形で表象しているのが、名目流動資産ではないかと問題提起します。名目流動資産はその意味で現代の器官なき身体の典型とみなすことができ、人間社会同様実体経済においても有用性などとは全く無関係に、ただ動き回っているだけだというのです。これが第三の論点で、お二人は、資本主義には本質的に「意味もなく労働し生産している」という側面があるといい、結局のところ、有用性は無用性においてこそ位置付けられるという点で意見の一致をみました。

 「生きる意味」と「生きられる無意味」。beforeで記したように、言葉遊びのような二つの軸を立てて考察してきました。意味と無意味、あるいは有用性と無用性。どうやら、「意味」というものは無意味によって、有用性というものは無用性によって、支えられているようです。私たちが日頃有用性や合理性にこだわりながら生きていることそのことが、じつはそうした有用性や合理性に確たる根拠を見出せないでいる証左なのかもしれません。澤野雅樹氏は言いました。「有用性自体が幻想だからこそ、みずからの活動を何かに資するものとして位置付けたい。生存の証拠を見出したいがために必死になる」のだと。
 私たちは無意味によって根拠付けられています。つまり、私たちの底は抜けているのです。だからこそ、私自身が私の根拠となるーー。私は、その時、真の自由を得るのです。(佐藤真)

 
   editor's note[before]
 


消尽、器官なき身体、無意味なもの
意味の論理学 上下 G・ドゥルーズ 小泉義之訳 河出文庫 2007
アルトー後期集成 1、3 A・アルトー 宇野邦一他訳 河出書房新社 2007
神の裁きと訣別するため A・アルトー 宇野邦一訳 河出文庫 2006
僕たちは池を食べた 春日武彦 河出書房新社 2006
奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集 春日武彦 集英社新書 2005
身体なき器官 S・ジジェク 長原豊訳 河出書房新社 2004
澤野雅樹 不毛論 役に立つことのみじめさ 青土社 2001
澤野雅樹 数の怪物、記号の魔 現代思想社 2000
澤野雅樹 死と自由 青土社 2000
千のプラトー 資本主義と分裂症 G・ドゥルーズ、F・ガタリ 宇野邦一他訳 河出書房新社 1994
消尽したもの G・ドゥルーズ、S・ベケット 宇野邦一他訳 白水社 1994
ゴドーを待ちながら S・ベケット 安堂信也他訳 白水社 1990
ドゥルーズの思想 G・ドゥルーズ、C・パルネ 田村毅訳 大修館書店 1980
リゾーム[エピステーメー臨時増刊号] G・ドゥルーズ、F・ガタリ 豊崎光一訳 朝日出版社 1977

◎ 潜在性、アレンジメント、スピノザ
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出文庫 2007
権力の読みかた 状況と理論 萱野稔人 青土社 2007
アンチ・オイディプス 上下 G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出文庫 2006
スピノザ 共同性のポリティクス 浅野俊哉 洛北出版 2006
シネマ2*時間イメージ G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 法政大学出版局 2006
カネと暴力の系譜学 萱野稔人 河出書房新社 2006
スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか 上野修 日本放送出版協会 2006
ドゥルーズ KAWADE道の手帖 河出書房新社 2005
国家とはなにか 萱野稔人 以文社 2005
スピノザ 実践の哲学 G・ドゥルーズ 鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー 2002
襞 ライプニッツとバロック G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出書房新社 1998
哲学とは何か G・ドゥルーズ、F・ガタリ 財津理訳 河出書房新社 1997
スピノザと表現の問題 G・ドゥルーズ 工藤喜作他訳 1991
国家論 B・d・スピノザ 畑中尚志訳 岩波文庫 1976
エチカ 倫理学 上下 B・d・スピノザ 畑中尚志訳 岩波文庫 1975

◎ 非-知、無神論、ドグマ
真理の帝国 産業的ドグマ空間入門 P・ルジャンドル 西谷修他訳 人文書院 2006
聖なる陰謀 アセファル資料集 G・バタイユ M・ガレッティ編 吉田裕他訳 ちくま学芸文庫 2006 
ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題 P・ルジャンドル 嘉戸一将他訳 平凡社 2003
宗教の理論 G・バタイユ 湯浅博雄訳 ちくま学芸文庫 2002 
物質の政治学 バタイユ・マテリアリスト II  G・バタイユ、吉田裕 書肆山田 2001
新訂増補 非-知 閉じざる思考 G・バタイユ 西谷修訳 平凡社ライブラリー 1999
内的体験 無神学大全 G・バタイユ 出口裕弘訳 平凡社ライブラリー 1998 
有罪者 無神学大全 G・バタイユ 出口裕弘訳 現代思潮社 1989 

◎ 呪われた部分
バタイユの迷宮 吉田裕 書肆山田 2007
バタイユ 湯浅博雄 講談社学術文庫 2006
マダム・エドワルダ/目玉の話 G・バタイユ 中条省平訳 光文社文庫 2006
バタイユ 魅惑する思想 酒井健 白水社 2005
バタイユ入門 坂井健 ちくま新書 2004
エロチシズム G・バタイユ 酒井健訳 ちくま学芸文庫 2004
呪われた部分 有用性の限界 G・バタイユ 中山元訳 ちくま学芸文庫 2003
眼球譚 [初稿] G・バタイユ(オーシュ卿) 生田耕作訳 河出文庫 2003
エロスの涙 G・バタイユ 森本一夫訳 ちくま学芸文庫 2002
異質学の試み バタイユ・マテリアリスト I  G・バタイユ、吉田裕 書肆山田 2001
沈黙の絵画 マネ論 G・バタイユ 宮川淳訳 二見書房 1997
呪われた部分 G・バタイユ 生田耕作訳 二見書房 1973