無用性から位置付けられた有用性
無意味を無意味としてやり過ごすこと
まるで意味に取り憑かれた人たち。統合失調症の患者さんとは、意味のないものにも意味を見出す、意味を過剰に求める人です。だから、意味のないことを意味のないまま受け入れられることの重要性に気づかせ、無意味を無意味とやり過ごせるようにすることが自分の治療法だと春日武彦氏は言います。一見意味のなさそうなことにも意味を見出してしまう。意味を過剰に求めることの恐ろしさ。インタビューの冒頭から、今号の結論になるような言葉が飛び出しました。意味の過剰とは、私たちの言葉で言い換えれば、「意味の病い」のことです。「意味の病い」からいかにして逃れるか、それは精神病にとっても重要な課題の一つだというのです。
こんなものは意味がない、取るに足らないことなのだから、もっと意味のあることを見つけ、取るに足ることをしなさい、とふつうは言うでしょう。しかし、逆です。意味がないなら意味がないままに、取るに足らないことならば足らないままに受け入れる方がよほどいい。どんなものでも必ず意味があると考えるからおかしくなってくる。意味がないこと、意味のないものは、意味があること、意味のあるものと同様に、私たちにとっては必要なこと、必要なものだというわけです。
では、統合失調症の患者さんは、なぜそのように必要以上に意味を求めようとするのでしょうか。春日氏の考えでは、彼ら彼女らには、「別解」というのがないからだと言います。別解、つまり、それとは別の考え。自分がこうだと思っている、信じていることとは別の考えもあること、あり得ること、ということが彼ら彼女らには思いつかないし考えつかない。常に解は一つしかないものであり、一つでなければならないものなのです。たった一つの解、唯一の解。そうであるからこそ、統合失調症の患者さんにとっては、それが「意味」になるのです。
どんなことでも、どんなものでも意味を見出してしまうのに、その意味は常に一個しかない。物事と意味が一対一対応になっていること。じつは、ここに「意味の病い」の一つの特徴を見出すことができます。
こころの豊かさへつながる多様さ
あるもの、あることに、ある一つの意味がある。この一見当たり前のように思われることが、じつはきわめて奇異なことであることを明らかにしたのは構造主義言語学でした。これまで『談』でも何度となく取り上げてきましたが、ソシュールの言語学では、言葉と意味は一対一の関係にはなっていません。一つの言葉(単語)には、いくつもの意味が対応しています。いわゆる言語の恣意性といわれるもので、一つの物事に対してある意味は一義ではなく、多義的であると考えます。たとえば、ものとしての本が、[hon]と発音される必然性は全くありません。英語圏では[buk]、フランス語圏では[livr]というように文化によってさまざまな呼び方(発音の仕方)をします。このことは意味についても同様で、ものとしての本が、「書籍」とか「書物として読まれるもの」という意味をもつ必然性はないのです。ソシュールはこのことをシニフィエ(意味されるもの、記号内容)とシニフィアン(意味するもの、記号表現)の恣意性と表現しました。すなわち、ものとしての本というシニフィエと「書籍」、「書物として読まれるもの」という意味でのシニフィアンには、なんの必然性もないと言ったのです。さらに、この恣意的関係は、言葉と意味だけにかかわらず、言葉と言葉、意味と意味でも言えて、言語というものの本質(人間の使用するすべての言語において)だと言ったのです。ここでは、これ以上立ち入りませんが、要するに、構造的にみると言語は、物事と意味が多義的に結び付く性質をもっているということなのです。
春日氏は、そこで、多様性ということに注目します。無意味を無意味とやり過ごせるようにするためには、まず、物事には意味は一つだけじゃなく、いくつもの意味があることを知ってもらう必要があります。物事は、一対一対応ではなくて、さまざまな意味をもっていて、その多様さが物事の厚みや膨らみをつくり出している。そして、そのことが世界を豊かにし、ひいてはみずからのこころの豊かさにもつながっていくのだというのです。そもそも、人間社会それ自体が多様なものの集まりです。平均値そのものといえるような人間などいないように、ある意味ではみんなそれぞれ偏りをもっている。そういう偏りをもった人間たちの集合体が社会といわれるものなのです。
物事にはいろいろな意味がある。一つの決まり切った意味が離れずに堅く結合しているのではなくて、いくつもの意味、さまざまなシニフィアンが結び付いていくそのプロセス、そうやってたくさんの意味を発見していく過程が、すなわち生きていることではないか。さらに言えば、そのこと自体が「生きる意味」なのではないか、と春日氏は言います。「生きる意味」とは何か。この問いは、少なくとも意味の意味を問い質す方へは向かいません。なぜなら、意味の過剰へ、意味の病いへみずからを陥れることになるからです。そうではなく、むしろ意味の多様さへ、意味の豊かさへと開いていく、そのプロセスが重要であり、そして、そのことがすなわち「生きる意味」の意味なのです。無意味なもの、無意味なことを意味あるもの、意味あることに無理やり還元することなど全く必要なく、無意味なものは無意味なものとして、無意味なことは無意味なこととして受け入れること。別の言い方をすれば、それはただ待つことであり、堪えることでもあります。なぜならば、待つこと、堪えることは、受け身であることの証しであり、意味と無意味を分け隔てなく受け入れることの態度表明でもあるからです。「生きる意味」は、「生きられる無意味」と共にある時、真の意味での「生きる意味」となるのです。
「過剰なるもの」を探して
バタイユは、「有用性の世界から無用性の世界が現れる」と言い、「非生産的消費」、「消尽」「贈与」の問題にそのまま直結していく議論を大胆に展開した思想家です。バタイユは、文学の世界に留まることなく、哲学、社会学、経済学を横断しながら「意味/無意味」に接近しつつ、これらの問題を追究していきました。その思想的遍歴そのものが、こう言ってよければバタイユの言う「呪われた部分」だったといえるでしょう。
吉田裕氏は、ご自身の専門である文学からバタイユの思想と出会いましたが、バタイユ同様にその研究は、やがて哲学、社会学、経済学へと広がっていきました。そして再び文学という領域に回帰した時、バタイユ思想の核心ともいえる「呪われた部分」の謎に迫ることができたのです。バタイユの思想を、吉田氏の言葉を頼りに整理してみましょう。
バタイユは、まず制御できないエネルギーが自分自身の中にあるという強い思いがあり、それは人間にとっては普遍的なものだという確信をもちました。バタイユは、それを「過剰なるもの」と定義します。その過剰なるものは、人間を常に不安定な状態に置き、決して予定調和的な循環の中に留めることをしません。その時々の過剰なるものの現れ方の違いが人間の歴史を刻んでいくことになります。その過剰さはどこから来るのか。バタイユは、それは太陽のエネルギーから来ると考えました。
「太陽というのは、熱を外に与える。では、その熱はどこから生まれるのか。どこかよそから来るのではなく、まさに自分自身の中から出て来る」のです。太陽は、ひたすらみずからを破壊することによってエネルギーを与える存在です。
「その熱が生命に命を吹き込み、生命体を発生させる。その生命体の階梯の頂点にいるのが人間だとすれば、太陽のエネルギーが最も集約されて負荷されているのが人間だということになります。見返りを求めず、ただエネルギーを与え続けるだけの太陽」。このいわば太陽の贈与を、過剰なものとして集約し、蓄積するのが人間であるとすれば、それはどのような形で人間社会に現れるのか。アステカ文明の供犠やポトラッチは、その過剰なるものの蓄積が一挙に爆発したものと見ることができます。そして、この爆発によって得られる心的な高揚感こそ宗教的な経験そのものではないかというのです。つまり、宗教こそ過剰なるものの最も原初的な形態ではないかというわけです。
この一連の過程をエネルギーの流通という観点から捉え直してみると、太陽から受け取ったエネルギーを生産に結び付ける消費と生産に結び付かない消費の、人間は二種類の消費を行っていることがわかります。前者は生産と相補的な関係にあり循環するのですが、後者はこの循環の枠を破るものとして現れます。つまり、太陽エネルギーの贈与は、過剰なるものとして循環を超えてあふれ出すのです。この過剰なるものは、生産に結び付かない消費という意味で「非生産的消費」と名付けられ、精神的な高揚感、宗教的経験、供犠やポトラッチ、さらには共同体的な結束は、みなこれに当たると言いました。
こぼれ出す「非生産的消費」
近代になって人間は、この過剰なるものを「非生産的消費」として爆発させずに、もう一度生産のシステムに投入することを始めます。使い途のなくなった過剰なるものは富として消費されるのではなく、投資という形で生産システムに再投入されるのです。その結果、近代社会は生産力というものを飛躍的に拡大させることになります。近代社会は、そういう形で社会のシステムを根本から変えてしまったのです。この富と消費の関係、人間と宗教の関係の根本的な変化が、近代がもたらした最も大きな変化であるとバタイユは考えました。
では、このシステムの変化は社会に何をもたらしたのか。過剰なるものの中には、再生産されずにかろうじて残っているものがあります。それが芸術でありエロティシズムだとバタイユは言います。「非生産的消費」が困難になった時代に、かろうじてその痕跡、かつての状態を残しているのが芸術でありエロティシズムだというわけです。
吉田氏は、それとは違う視点からこの「非生産的消費」の消息を捉え直そうとしています。それが、インタビューの最後で述べられた「空間の変調」という現象です。現代の文学の一部に、奇妙な空間表現を扱った作品が現れてきたというのです。多重構造化した空間、麻痺し、ひび割れ、重複する空間、あるいは空間そのものが別の空間と重なり合ってしまうような表現。かつては見られなかったこうした特異な空間表現が、現代の文学作品にちょこちょこと現れていることに吉田氏は注目するのです。そして、それこそバタイユが言った「呪われた部分」の今日的なありようではないかというのです。「酒を飲んでさわいだりスポーツジムにかよって汗を流したりたばこを吸うことも収まりきれないエネルギーの吐き出し方だと思います」が、「呪われた部分」は、「それだけでは収まりきれずに、微妙な形でちょっとずつこぼれ出してきている」。「たとえば、それが空間の変調というかたちで現れていることを、一部の芸術家、作家は察知している」のではないかというのです。
「プレートの上に別のプレートが入り込んでくる巨大な地殻変動。あれと同じようなイメージで、空間の中に空間がズレながら重なり相互貫入していく」。この空間を「意味」と読み替えることは可能でしょうか。現代社会の中でゆっくりと始まっている空間認識の変容は、「意味/無意味」の地層にも亀裂を入れます。意味と無意味は、全く異なる位相空間の中で、ある場面では接近し、また別の場面では隔絶する、そういう事態がゆっくりと進行しているのです。「意味/無意味」の問題系は、その意味で現代の「呪われた部分」の一つだといえるでしょう。
ところで、今回のインタビューには登場しませんでしたが、バタイユは非常に興味深い「喫煙」に関する小さな文章を残しています。参考にその要旨を紹介しておきましょう。
「現代社会にあって浪費というものが少なくなっている中で、煙草は無駄な浪費の一つである。しかし、〈有用な〉浪費の一面ももっている。煙草は、朝から晩まで、いつでもふかすことができるため意味が生まれない。そのためか、これほど把握しにくい営みもない。煙草という祝祭には魔術が存在する。喫煙者は空、雲、光と一体化するからだ。そして、喫煙者は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わう。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえる」。(「第一部第三章 私的な浪費の世界 第二節 浪費の価値の低下」『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳、ちくま学芸文庫、二○○三より、筆者による要約、また傍点は筆者)
ここでいう「生きる」が、具体的に何を表しているのかがわからないのですが、少なくとも、煙草が浪費と有用性、自由と怠惰といったような両面性をもつものとして把握されていたことは確かです。しかし、その両面性、両義的な存在であることが、かえって煙草から「意味」を遠ざけているという指摘に、筆者は注目しました。そもそも「意味が生まれない」とはどういうことなのか。「意味がない」というわけでないとすれば、無意味の意味ということなのか。興味の尽きないところです。
承認のパラドクス
澤野雅樹氏と萱野稔人氏の対談の論点は大きく三つありました。一つはフリーター論争と承認(不安)の問題について。二つ目は、ドゥルーズ、ガタリのいわゆる器官なき身体を今日の社会の中でどう評価し、何を見出すかについて。三つ目は、資本主義と社会システムの関わりについて。順を追って整理してみましょう。
赤木智弘氏の論文に端を発したフリーター論争は、承認をめぐる問題ではないかと萱野氏は提起します。「フリーターというのはいわば使い捨ての労働力であり」、ひとを「いつでも取り替えがきくような状態」に置くことをいいます。端的にひとを無用の存在として扱っているわけで、赤木氏の論文はその扱われ方に対する異議申し立てだった。「意味/無意味」の文脈でいえば、存在の否認、すなわち意味のない存在として切り捨てられることを意味し、これは、承認の問題として捉えることができると萱野氏は言います。つまり、承認とは、他者に意味のある存在と認めさせることであり、今日にわかに高まりつつあるナショナリズムも、こうした承認不安から出てきているのではないかと提起します。
それを受けて、澤野氏はマートンの相対的剥奪という概念枠に照らすと、一種のルサンチマンの構図があぶり出されてくる。澤野氏は、それをルジャンドルの国家、法、主体という枠組みから読み直し、アイデンティティの問題として展開できる可能性を示唆します。つまり、承認問題には、責任能力とそれを担保する理性が深く関わっていて、それは言語と同一性原理が交差する極点、すなわち身体の問題ではないかと言うのです。
ここから、お二人の議論は、一気に器官なき身体へと向かっていきます。器官なき身体とは、ドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』で展開された概念で、有機体という器官の組織化に対して、抗い続ける生成変化の身体をいいますが、まず澤野氏がそれは「発生が何一つ起きていない卵のような状態で、始まりと終わり、創造と破壊が区別しがたい状態でひしめき、うごめき続けている状態」ではないかと言います。そして、対談のテーマでもある「消尽」に引きつけて、それは消尽しつくした果てにおとずれるものであり、無と有(無意味と意味)が分化する以前の強度そのものといえる「平面」のことだと言うのです。
一方、萱野氏はドゥルーズのスピノザ解釈に準拠して、器官なき身体を触発の力能から捉え直し、世界とは「さまざまな触発の力能が未分化な形で潜在的に充溢したものとしてある」と言います。たとえば、それが身体としてアクチュアリゼーションしたり、モノとしてアクチュアリゼーションしたりしながら、さまざまな個物が触発しあう平面を組み立てていく。「それが差異化というものであり、世界の根源はその差異化の運動」です。世界におけるあらゆる因果関係の「はじまり」と「おわり」は神の意志によるものというデカルトに対して、スピノザは、目的も意志ももたない神を対置させたけれども、まさにこの目的も意志もない状態を、ドゥルーズは器官なき身体として提示したのではないかと萱野氏は言うのです。さらに、ドゥルーズ・ガタリのアレンジメントという概念を援用して、人間社会というのは、個々の人間からみれば有用性のもとで動いているように見えるけれども、社会全体のアレンジメントから見れば、「意味/無意味」の区別を超えて単に活動しているだけということになるという。
澤野氏は、この「意味/無意味」を超えた活動に留意して、資本主義とはまさにそうした活動であり、それを最も露骨な形で表象しているのが、名目流動資産ではないかと問題提起します。名目流動資産はその意味で現代の器官なき身体の典型とみなすことができ、人間社会同様実体経済においても有用性などとは全く無関係に、ただ動き回っているだけだというのです。これが第三の論点で、お二人は、資本主義には本質的に「意味もなく労働し生産している」という側面があるといい、結局のところ、有用性は無用性においてこそ位置付けられるという点で意見の一致をみました。
「生きる意味」と「生きられる無意味」。beforeで記したように、言葉遊びのような二つの軸を立てて考察してきました。意味と無意味、あるいは有用性と無用性。どうやら、「意味」というものは無意味によって、有用性というものは無用性によって、支えられているようです。私たちが日頃有用性や合理性にこだわりながら生きていることそのことが、じつはそうした有用性や合理性に確たる根拠を見出せないでいる証左なのかもしれません。澤野雅樹氏は言いました。「有用性自体が幻想だからこそ、みずからの活動を何かに資するものとして位置付けたい。生存の証拠を見出したいがために必死になる」のだと。
私たちは無意味によって根拠付けられています。つまり、私たちの底は抜けているのです。だからこそ、私自身が私の根拠となるーー。私は、その時、真の自由を得るのです。(佐藤真)
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