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[最新号]談 no.78 WEB版
 
特集:「遊び/愉しみ」のコミュニケーション
 
表紙:木原千春 本文ポートレイト撮影:鈴木理策、秋山由樹
   
   
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遊び概念を拡張する……面白さの根拠はどこにあるか

小川純生
Sumio Ogawa
どんどんシンプルにしていく。そして、シンプル化した中で、ある特定の部分においては情報負荷を高度化します。遊びは一種のものごとを削る方法でもあるわけです。ものごとをどうやって削るか、どこを削ればいいのか、 その削り方、削る方法の一つとして、人間は「遊び」というものを考え出したのではないかと思うんです。 「遊びは人間行動のプラモデル」であるという意味は、まさにこのことを言いたかったからです。

おがわ・すみお 1951年神奈川県生まれ。慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程修了。現在、東洋大学経営学部教授。著書に、『マーケティング・ノート増補改訂版』創成社、2003、『消費者と所得―消費階層の出現―』税務経理協会、1997、『エッセンスがわかるマーケティング』中央経済社、1994、『大学助教授が実践する超馬券論』KKベストセラーズ、1994、他がある。
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「遊び」の発見……ヴィゴツキーの「情動」、「発達」、「コミュニケーション」の理論的射程

神谷栄司 Eiji Kamiya
ヴィゴツキーは、子どもの発達を見る時に、とかく「現在の発達水準」にばかり関心が向かってしまうことを危惧し、 むしろ重要なのは「明日の発達水準」であり、それは「発達に先回りする」ものであると主張しました。 遊びがなぜ重要なのか。 まさにこの「成熟し始めたばかりの、発達し始めたばかりの過程」、発達の最近接領域がそこに見出せるからです。

かみや・えいじ
1952年愛知県生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。現在、佛教大学社会福祉学部教授。著書に、『幼児のイメージ力を育てる−お話とごっこ遊び』三学出版、1999、『幼児のものの見方・感じ方――自然と遊ぶ』法政出版、1998、『ごっこ遊び・劇遊び・子どもの創造――保育における経験と表現の世界』法政出版、1993、共訳書に、『ヴィゴツキー著《最後の手稿》情動の理論――心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話』ヴィゴツキー、三学出版、2006、他がある。
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「愉しみ」としての身体……次世代コミュニケーション、遊び/遊ばれる、エコロジカル・マインド

岡田美智男 Michio Okada
ロボットの本源的な自律性とか社会性について考えていこうとしています。 それから「遊び」と「身体」ということを考える時、 この何気なさを伴う投機的な行為とそれを支える環境や他者との関わりが基本になる。 つまり、それらの関わりによってオリジナルな意味や価値を生み出す、そのことを志向する、 そしてその生み出された意味を愉しむという要素があると思うのです。

おかだ・みちお
1960年福島県生まれ。東北大学大学院工学研究科博士後期課程修了。現在、豊橋技術科学大学知識情報工学系教授。工学博士。著書に、『口ごもるコンピュータ』共立出版、1995、共編著書に『身体性とコンピュータ』共立出版、2001、他がある。
 

editor's note[before]


遊びは文化に先行する


 私たちは、いつ、どこで、どんな状態の時に「愉しい」と感じるのでしょうか。今号では、「愉しみ」について、主に「遊び」という観点から考えてみたいと思います。
 遊び論の古典としてよく知られているものに、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』があります。このタイトルにある「ルーデンス」とは、遊びという意味の形容詞ルーディック(ludic)からきていて、ホモが人という語ですから、これはまさしく「遊ぶ人」という意味です。オランダの文化史家で『中世の秋』の著作で知られるホイジンガは、人間は遊ぶ動物であるという意味を強調するために、自らをホモ・ルーデンスと呼びました。一般的に人間を表す言葉としては、ホモ・サピエンスあるいはホモ・ファーベルがよく知られています。サピエンス(sapient)が知恵のあるという意味であり、ファーベル(fabula)がつくるという意味のラテン語ですから、人間とは、知恵のある人であり、工作する人と定義されてきたわけです。しかし、ホイジンガは、この人間に関する従来の解釈を退けて、まず何よりもわれわれは遊ぶ人であり、遊びこそ人間にとって最も重要なものであると言ったのです。ホモ・ファーベルである前に、ホモ・ルーデンスである。別言すれば、文化よりも遊びの方が先行しているとホイジンガは大胆にも言ってのけたのです。

「自己完結性」としての遊び……ホイジンガの遊び論

 これまでも、遊びについては哲学者や思想家、芸術家がたびたび言及してきました。そのほとんどは、遊びよりも文化が先行するというものでした。それに対してホイジンガは全く逆のことを主張したわけです。遊びこそ最初に存在し、その後にその他のもの、すなわち文化が追従して生じた。すべての文化に先んじる形で、遊びが存在していたというのです。
 遊びの研究者であるM・J・エリス(後述)は、遊びの古典的、近代的理論をいくつか挙げています。たとえば、古典的理論としては、生存に必要とする以上の剰余エネルギーの存在によって引き起こされるとする「剰余エネルギー説」、生得的能力の遺伝によって遊びは引き起こされるとする「本能説」、元気を回復するために、労働でなされる反応とは別の反応を個人が必要とすることによって引き起こされる「気晴らし説」などがあります。また、遊びの近代理論としては、労働において報酬を受けてきた経験を遊びに用いるとする「般化説」、労働によっては満たされない、あるいは生み出せない心的欲求を満たすために遊びを利用するとする「代償説」、乱れた情動を、社会的に認められた活動に形を変えて、無害なやり方で表出しようとする「浄化説」等々。ホイジンガ自身も、著書の冒頭で従来の遊びの定義を列挙しています。遊びとは、「あり余る生命力の過剰を放出すること」であるとか、「先天的な模倣本能に従っている」とか、あるいは、「あることをしでかしてみたい」、「現実の中では満たされない願望をフィクションによって満足させたい」といったもので、エリスの挙げているものとかなり重複しています。
ホイジンガは、こうしてこれまでの遊びの定義を並べてみるとある共通点が見出せると言いました。いずれの理論や解釈も、「遊びは遊び以外の何ものかのために行われる、遊びとはある種の生物学的目的に役立っている」という前提から出発しているというのです。従来の、すなわちホイジンガ以前の遊びの理解では、遊びは、遊び以外の何かに貢献するために、さらには、遊んでいる本人が意識している/していないにかかわらず、常に同じような(生理的)反応として遊びは行われるものとみなされていた。そして、興味深いことに、エリスが列挙している遊びの理論にもそれは共通しているのです。
 ホイジンガは、そもそもその前提条件がおかしいのだと言います。「遊びは、自発的な行為もしくは義務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられて規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも〈ありきたりの生活〉とは〈違うものである〉という意識を伴っている」。
 遊びは、遊び以外の何ものでもない。たとえば、遊びは緊張の弛みによる歓びだという考えがあります。しかし、ホイジンガは、逆に緊張がもたらす歓びもあるというのです。また、それは生理的な刺激反応の機械的な対応のようなものではなく、現に遊んでいる本人の意識が、遊びの面白さの程度に深く関わってくるようなものだというのです。遊びという概念は、「それ以外のあらゆる思考形式とは、常に無関係である。われわれは、幾つかの思考形式によって、精神生活や社会生活の構造を表現することができるが、遊びはそれらすべてにとって別のものなのである」。つまり、遊びとは、遊びそのものの中において完結する、そういう自己目的的(自己完結的)なものだというのがホイジンガの考えなのです。
 遊びとは遊び以外の何ものでもなく、遊びそのものの中において完結するもの。そして、その遊びそのものの中に、緊張、歓び、面白さがある――。とりわけ重要なのは、この「面白さ」です。「面白さ」こそ、遊びの本質に他ならないとホイジンガは断言しました。
 遊びの本質が「面白さ」であるとすれば、では、それはどのようなものでしょうか。ホイジンガの答えはこうです。それを問い始めると答えに窮してしまう。その答えられないということが、まさしく遊びというものの性質を如実に示していると。ホイジンガは続けます。「面白さ」とは何かと問う問い方そのものが遊びには向かないというのです。「遊びの面白さは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け入れない」ものであり、まさしくそのことにおいて遊びの本質が逆説的に示されているという。
 遊びの本質が「面白さ」であることを示したという意味では、ホイジンガの功績は大きいとしても、その「面白さ」そのものの解明に至っていないというところに限界があるという指摘もあります。ともあれ、遊びを人の営みの中心に据えることで、新たな人間観を見出した意味は決して小さくなく、いずれにせよ遊びに関する考え、その枠組みを大胆に更新した功績は大きいと言わざるを得ません。

遊びを分類する……カイヨワの遊び論

 遊び論において、『ホモ・ルーデンス』と並び称されるものに『遊びと人間』があります。著者であるロジェ・カイヨワは、ホイジンガの研究をベースにしながらも、ホイジンガが解明しえなかった「面白さ」の意味へ研究の触手を伸ばしていきました。
 カイヨワの遊び論の功績は、大きく四つあります。小川純生氏(東洋大学経営学部教授)が、手際よくまとめているので、小川氏の議論に沿いながら紹介しましょう。その四つとは、一、遊びと文化の同時並行、二、「賭けと偶然」、「物まねと演技」の遊びへの付加、三、遊びの分類の試み、四、遊び概念による社会・文化の説明です。
 一については、従来の考えを一八○度ひっくり返して、ホイジンガは、文化こそ遊びから生まれたと主張しましたが、カイヨワは、「遊びが文化から生まれる場合もあるし、文化が遊びから生まれる場合もあ」り、両者は相互補完的だと言いました。遊び、文化を明らかにするためには、ホイジンガ以前の文化先行型でみる見方もホイジンガの遊び先行型から見る見方も不十分で、両面からの考察が必要だというのです。遊びが先か文化が先か。簡単に言えば、「玉子が先か鶏が先か」と同じで、要するに両者は循環の関係になっていて、むしろ、両者を並列化させて捉える方がずっと生産的だというのがカイヨワの立場です。二は、ホイジンガが見過ごしていたもので、賭博やカジノ、競馬、富くじといった賭けごとを遊びの重要な要素として位置付けたことです。同様に、「物まねと演技」も、一種の虚構の活動であり、遊びのカテゴリーからは外せないものとして重要視しました。三の「遊びの分類」は、カイヨワの最も大きな貢献で、世の中に存在する遊びを全て(当時)一つの体系の中に組み込んで分類しました。四は、三の遊びの分類を基礎にして、西洋文明社会と未開社会の区別・違いを、計算の社会と渾沌の社会という切り口から説明したものです。カイヨワの遊び論でとくに重要なのは、三、四の遊びの分類とその分類を使って社会を見た文明論です。
 カイヨワは、ホイジンガを参考にしながら、遊びを以下の六つから定義しました。1.自由な活動:遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。2.隔離された活動:あらかじめ決められた明確な空間の時間の範囲内に制限されていること。3.未確定の活動:ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者の側に残されていなくてはならない。4.非生産的活動:財産も富も、いかなる種類の新要素もつくり出さないこと。5.規則(ルール)をもった活動:約束ごとに従う活動。この約束ごとは、通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そして、この法だけが通用する。6.虚構の活動:日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実的であるという特殊な意義をもっていること(『遊びと人間』四○ページ)。
 これらの定義にしたがって、世の中の遊びを列挙し、独自の切り口から分類する方法を提起しました。いわば遊びの分類学とも言うべきものをカイヨワは試みたのです。それは次のようなものです。横軸に、計算/ルール/脱所属←→渾沌/脱ルール/脱自我、をとり、縦軸にパイディア(Paidia〈ギリシア語〉、遊戯/意志)←→ルドゥス(Ludus〈ラテン語〉、闘技、試合/脱意志)をとり、横軸と縦軸を交差させると四つの象限ができます。そして、そのそれぞれの象限に、アゴン(Agon ギリシア語 試合、競技)、アレア(Alea ラテン語 さいころ、賭け)、ミミクリ(Mimicry 英語 真似、擬態、模倣)、イリンクス(Ilinx ギリシア語 渦巻き)を配置したのです(図1)。そうすると全てとはいわないまでも、世の中のかなりの遊びが、この四つの象限に振り分けられることがわかったのです。たとえば、スポーツのほぼ全てがアゴンに、富くじ、カジノ、競馬はアレアに、カーニヴァル、演劇、映画はミミクリに、そして、眩暈をともなうもの、絶叫マシンやメリー・ゴー・ラウンドなどはイリンクスに分類されるというように。
 さらにカイヨワは、この遊びの四つの象限を使用して、私たちの社会を計算の社会と渾沌の社会に分けることを行いました。計算の社会においては、アゴン(競争)とアレア(運)が、人間の技能と能力そして偶然、運を通じて、絶対的に公平な、数学的に平等な機会を求める重要な機能を果たすことになります。他方、渾沌の社会は、ミミクリ(模擬)とイリンクス(眩暈)、すなわち仮面と憑依が支配している社会です。ミミクリとイリンクスは、仮面と憑依を通じて、芸術、計算、巧妙、そして脱規則、陶酔と解放、混乱とパニック状態として、その社会を特徴付ける重要な役割を果たすというのです。
 カイヨワは、「いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組み合わせの優位をすこしずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことである」と言い、未開から文明へと進歩する過程においては、社会におけるミミクリとイリンクスの要素を後退させ、アゴンとアレアの要素を優先させる必要があると結論付けました。

遊び論の拡張

 ホイジンガが初めて明確な形で遊びを概念化させました。また、カイヨワは、その研究を受け継ぐ形で遊びに迫り、遊びを独創的な解読格子によって分類しました。遊び論におけるこの二人の功績は大変に大きいのですが、では、遊びの本質とは何かという問題になると、その核心にまでは迫りきれていないというのが一般的な評価のようです。ただ、この二人の遊び論を凌ぐような研究が出てきていないというのもまた事実であり、遊びの領域での新たな研究者の登場が待望されているというのが現状だろうと思われます。そうした状況の中で、遊びは遊びでしかないという認識に立ちながら、それを主体的な行為として、あるいは経験として捉えることによって、遊び論を更新しようという研究が出てきました。
M・J・エリスの「覚醒-追求としての遊び論」、M・チクセントミハイの「フロー体験としての遊び」、J・アンリオの「遊ぶ主体の現象学」、E・フィンクの「遊びの存在論」、竹田美喜夫氏の「疲労と倦怠の遊び論」などがそうです。彼らの研究は、いずれもホイジンガとカイヨワが放棄し、回避しようとした「遊び」の本質である「面白さ」に、あえて肉薄しようというところに、その特徴が見出せます。むろん、その試みが、すべて成功しているとは言い難いにしても、その姿勢は十分な評価に値するものだと思われます。彼らの研究の概要を紹介しておきましょう。
 エリスは、活動水準を維持する働きを覚醒(arousal)という言葉で表し、この最適な覚醒水準をもたらしうる、もたらしそうな刺激は、個人にとっての「面白さ」を感じることができると言う。そして、遊びとは、「覚醒水準を最適状態に向けて高めようとする欲求によって動機付けられている行動」であると定義しました。最適覚醒の水準を維持させるためには、刺激を追求する場合もあれば、その逆に回避しようという場合もある。その統御の方法自体に遊びの面白さを見出そうとしたところに、エリスの遊び論の独自性があります。
 チクセントミハイは、個人の楽しさ、喜びの経験を説明する概念としてフロー(flow)を提唱しました。フローとは、あるものごとに集中している時に、楽しさゆえにそれに完全にとらわれ、他のものごと、雑事、雑音、時間の経過を忘れさせるほどの状態をいいます。フローは、あるものごとに没入するという経験を通じて、「意味付け」と「楽しさ」を私たちに与えると主張しました。私たちは、遊んでいるそのまさに最中で何を感じているのか。その心的状態に内在的に迫ろうという挑戦的な研究です。
 「すべては遊びであり、かつ何一つ遊びではない」。遊びとはプラクシスそのものであると喝破したアンリオも、遊びとは人間存在そのものであると主張するフィンクも、また、「遊びとは一切の有用性を超えた何かであり、その欲望、愉しみ、幸福は、絶対的に主体の側にのみ存する」と言う竹田美喜夫氏も、単なる文化史的、歴史的生産物としてではなく、内在的に「生きる」ものとして「遊び」と向き合おうとしている点では、同じ土俵に立っているといえます。とくに、これまでほとんど言及されることのなかった竹田氏の「遊びの身体現象」は、生-権力の健康支配から、徹底して逃走し続ける身体行為であり、疲労と倦怠それ自体を「遊び」と捉え直そうという他に類例を見ないアイデアです。「遊び」を受肉する身体と見るなどということが果たして可能なのか、竹田氏の研究は、「遊び」=「愉しさ」を身体の内側から捉える必要性を示唆しているようです。

 今号では、「遊び/愉しみ」そして「遊び」について、三つの視点から掘り下げます。まず、ホイジンガ、カイヨワの遊び論・文化論、およびエリス、チクセントミハイの遊び=愉しみの現象論的分析に、消費行動論という視点から研究されている東洋大学経済学部教授・小川純生氏に、「面白い」とは何か、そもそもその根拠はどこにあるのか、お尋ねします。小川氏は、とくに、エリス、チクセントミハイの愉しみの議論について、情報との関わりから全く新しい読みを行っています。「遊び」はなぜ愉しいのか。いや、逆に愉しいという経験こそが「遊び」であるという、まさに「遊び」の本質に直結する議論を展開していただくことになります。
 次に、近年再注目されている旧ソ連の心理学者ヴィゴツキーの遊び論を探ります。ヴィゴツキーの思想は、心理学の分野だけでなく、言語学、教育学、発達論、哲学といった隣接諸科学からも関心が高まっています。とりわけ、「発達の再近接領域」という概念は、独創的な発達論の地平を予期し、すでにそこにはシステム論的アプローチの萌芽さえ見ることができるというのです。そのヴィゴツキーには、これまでほとんど明らかにされてこなかった、もう一つの思想の流路が存在したのです。情動論です。情動論は、ヴィゴツキーにおける新たな鉱脈となりうるのでしょうか。保育という現場につきあいながら、遊びとの関連から、ヴィゴツキーの全体像に迫る研究をされている佛教大学社会福祉学部教授・神谷栄司氏に、ヴィゴツキーの遊び論、情動論についてお聞きします。
 ロボティクスの分野でも、「遊び」が注目されています。それが、人間との共生を考えていくうえで、重要なコミュニケーションのインターフェイスになりうることが、近年の研究でわかってきたからです。ロボットと人間のコミュニケーションにとって、一見役に立たないように見えながら、じつはそのベースとなっているのが、ある種の「たわいのなさ」であることに気づいて、それを「役たたずロボティクス」と命名し研究しているのが、豊橋技術大学知識情報工学系教授・岡田美智男氏です。岡田氏に、「遊び/愉しさ」について、もう一つの鍵となる「コミュニケーション」について、おうかがいします。 (佐藤真)


 

editor's note[after]

遊びと最適情報負荷の関係

 遊びは人間行動のプラモデルである。小川純生氏は、インタビューの最後で「遊び」についてこう述べられました。プラモデルとは、いうまでもなく、玩具店やホビーショップで売られているプラスティック・モデルのことです。子供だけでなく大人も楽しめるプラモデルに、「遊び」の本質、その典型を見出せるというのです。
 プラモデルは、現実のクルマや飛行機を抽象化したものであり、本物のもっている機能のうち、いくつかを抽出しモデル化したものです。たとえば、プラモデルのクルマ。タイヤやボディはあるけれども、エンジンもなければ、ワイパーも動かないし、ライトもつかない。その意味では、本来持っている機能の何十分の一、何百分の一の機能しかもっていません。にもかかわらず、プラモデルは、世代を越えて楽しめます。それはなぜでしょうか。プラモデルは、ある意味で本来持っている機能を削っていった結果だからではないかと言います。機能を削ぎ落とし、シンプルにしたことによって、逆にわれわれに「遊び」をもたらしたのです。「遊び」の要素の一つがこのものごとの「削り方」にあるとすれば、まさしくプラモデルこそその格好の典型例(モデル)だというわけです。
 遊びとは何か、なぜ人は遊ぶのか。遊びの本質に「面白さ」があるとすれば、その「面白さ」とはいったいどういうものか。そもそも「面白さ」の根拠とは何か……、小川純生氏は、こうした問題意識をもとに、すでに遊び論としては古典の域に達しているホイジンガ、カイヨワの遊びの研究を手始めにして、現代のさまざまな遊び論を読み解いていきました。近年は、エリスとチクセントミハイの遊び論に拘泥しながら、「面白さ」を情報負荷の関係から「遊び」に引きつけて解き明かそうとしておられます。遊びはプラモデルであるという仮説は、まさにそうした考察の中から生み出されたものでした。
 小川氏の発言を整理してみましょう。まず、「適度の情報負荷が最適覚醒へ個人を向ける、そしてそこに〈面白さ〉、〈楽しさ〉があ」り、「最適な挑戦の機会が、それに立ち向かう個人のフローをもたらし、そしてそこに〈面白さ〉、〈楽しさ〉がある」とするエリスとチクセントミハイの議論を紹介します。そのうえで「面白さ」の程度は情報負荷の程度に依存するものだと説明しました。「〈面白さ〉の程度が最も高い可能性があるのは、情報負荷の程度が個人にとって中程度と思われる適度の場合」です。また、「個人の情報負荷状態が、最適な情報負荷よりも手に余る〈高〉の状態にある時、個人は、処理しなければならない情報の量と質(内容)を限定」します。つまり、シンプル化させることによって情報負荷そのものを減らすのです。一方、「個人の情報負荷状態が、最適な情報負荷よりももの足りない〈低〉の状態にある時」は、逆に、「処理しなければならない情報の量と質(内容)を豊富化」させます。つまり、複雑化させることによって情報負荷そのものを増やすのです。このように、情報負荷をシンプル化させたり、複雑化させたりすることによって、個人は、個人の最適情報負荷を求めているというのです。
 遊びにおけるルールの登場は、まさにここでいう情報負荷のシンプル化に関わります。遊びは現実の抽象化であると言います。それは、ルールを設定し、時間と空間を限定させることによって、やるべきこと、やらなければならないことの範囲を限定させるからです。そうすることで、「個人はいくつかのことに意識を集中できることになり、個人にとっての最適な情報負荷を得る可能性」を高くすることができるのです。それはまた、人間の感じる(Catch(Sense) )面白さ、創造する(Create)面白さ、コントロール(Control)する面白さ、コミュニケーション(Communicate)する面白さを、なるべく直接的に獲得し、理解(Comprehend)しようとする方法でもあります。そして、それらの頭文字をとった五つのCが、遊びに他ならないと小川氏は主張します(「遊びは人間行動のプラモデル?」引用より)。
小川氏は、もう一つ、「面白さ」の質を高める方法としてフィードバックの重要性を指摘しています。フィードバックがあるか/ないかによって、「面白さ」は雲泥の差になると言うのです。フィードバックとは、遊びにおける結果の評価に当たります。それが主観的なものであれ、他者によるものであれ、また自らのスキルによるものあるいは運によるものであれ、評価があるなしで、「面白さ」の度合いが大きく異なるというのです。こうした見方自体、情報理論的(システム論的)にアプローチしなければ出てこない発想だと思われます。「面白さ」を解明するにあたって、情報負荷という観点を持ち込む意義が、こういう形で出ていることは、興味深いことです。

遊び、「発達の最近接領域」

 ヴィゴツキーについて、『談』では過去に高木光太郎氏のインタビュー「想起の身体、他者の記憶」で一度その思想の可能性をうかがったことがありました。高木氏は、そこで、ヴィゴツキーの発達論を「内的論理」という概念からつかまえて、その特異性をこんな比喩で表現しています。「朝顔の蔓の成長について考えてみたい。棒を立てておくと、それに蔓が巻き付いていきます。蔓はどうしてこんな形で成長したのだろうか。(…)ヴィゴツキーなら間違いなく蔓の先端部に注目します。実際に成長が起こるのは先端部であって、そこでは細胞がそれ自体の論理で増殖している。蔓には感覚器官はありませんから、環境とは基本的に独立なメカニズムでモゴモゴ動いていきます。その勝手な動きが環境に触れると、そこである偶発的なゆらぎや偏りが起こって、結果的に蔓は棒に巻き付く」。ヴィゴツキーは、精神という蔓の先端部の内的論理を理解し、それが世界と接触する時起こる出来事を記述できる心理学の言葉を探していたのではないかというのです。変化するシステムを理解するためには、変化を支えている環境や変化の結果ではなく、「内的論理がうごめく先端部を捉える必要がある」。ヴィゴツキーの方法の革新性が、この言葉によく表れているように思われます。今回、神谷栄司氏をお訪ねしたのも、まさにこの「うごめく先端部」についてお聞きしたかったからでした。そして、想像したとおり、ヴィゴツキーは、子供の遊びの中に、その「うごめく先端部」を見ていたのです。神谷氏の捉えたヴィゴツキーの言葉を拾ってみましょう。
 ヴィゴツキーは「遊びの基準になるのは虚構だとはっきり述べています。では、基準として考えるとはどういうことか。遊びとそうでないのを分かつものだといっている。要するに、それが虚構/虚構でないもの、遊び/遊びではないものを分ける基準だというわけです。子どもの遊びが虚構を伴うものであるということはすでに知られていたが、ヴィゴツキーはそれを遊びの基準と考えたのです」。
 「〈遊びは、凝縮した形で、虫めがねの焦点のように、発達のすべての傾向を含んでいる〉と述べ、幼児期の遊びの基礎に存在する〈視覚的世界と意味的世界の分離〉(たとえば棒を馬にする)――つまり虚構場面の創造――が〈現実に対する子どもの関係を規定するひとつの基本的な心理構造〉を根本的に再編する、と指摘して」います。
 「子どもは遊びにおいて「最小の抵抗路線」に沿って行為する――つまり、喜びや満足を求めて行為する――のに、同時に、「最大の抵抗路線」に沿って行為する――直接的衝動を抑えてルールに従う――という遊びの矛盾的性格から明らかにされています。子どもは、現実世界の中では直接的衝動の抑制は困難であるのに、遊びの中ではそれができるという具合に、意志的発達において遊びは生活の一歩先を進んでいるというわけです」。
 ヴィゴツキーによれば、「一つは〈現在の発達水準〉と呼ばれるもので、すでに、〈成熟した精神機能〉を表し、具体的には自主的な課題解決の水準のことを言います。もう一つは、〈明日の発達水準〉と呼ばれるもので、〈現在生成しつつある過程、成熟し始めたばかりの、発達始めたばかりの過程〉を意味し、具体的には大人の助けや友だちとの協力によって可能となる課題解決の水準です。ヴィゴツキーは、こうした二つの水準の食い違いを子どもの中に見出し、それを〈発達の最近接領域〉と規定したのです」。
 「〈遊びは子どもに、感情に盲目的に従うのではなく、感情を遊びの規則、その最終目的と調和させることを教える〉と。つまり、遊びは感情を即時的、衝動的なものから解放する役割を果たすというわけです」。
 ヴィゴツキーが遊びに見ていたもの、それは「発達の最近接領域」と名付けられた「うごめく先端部」でした。なぜそれが重要なのでしょうか。そこでは、現下の発達と明日の発達水準の間の領域、すなわち発達の二つの水準が同時に進行しているからです。看過されてはならないのは、この二つの水準が同時に起こっているということの意味です。
 『談』no.76の対談で、十川幸司氏は河本英夫氏の二重作動の典型を情動に見出し、それが「気づき」と深いレベルで関連し合っていると言いました。情動領域とイメージ領域の二重性を十川氏は指摘したのですが、その二重性とは、ヴィゴツキーの言う発達に関わる二つの水準と重ね合わせて捉えることが可能です。発達という現場では、それが日常当たり前に起こっているのです。神谷氏がヴィゴツキーの遊び論に引きつけて論じた幼児期に経験するモノと意味の転倒という事態も、情動領域とイメージ領域の二重作動によって引き起こされていると考えると、その論理的射程はずっと深く広いものだということがわかるでしょう。遊びの虚構性も、その意味で人間一般の遊びの解釈へと拡張することが可能なのです。
 ところで、ヴィゴツキーが情動に深い関心を寄せていたという事実が、最近の研究で明らかになりました。しかも、その情動論には、スピノザの影響が見られるというのです。神谷栄司氏は、情動論を踏まえたうえで、改めてヴィゴツキーの思想を捉え直そうとしています。発達の最近接領域という概念も、情動というフィルターを通して見てみると、これまでとはまた異なった解釈が可能になるのです。たとえば、感情が感情を抑えることによって、遊びは大きな変化を遂げます。ここで見られるのは、端的に感情の二重性であり、それを情動領域の二重作動と見なすとすれば、まさにシステム論的志向がすでに芽を吹いていると言っていいでしょう。そして、そのエッセンスをスピノザから受け継いでいるというのです。さらに、注目されることは、そこにバフチンの記号=言語思想も流れ込んでいることです。神谷氏は言います。ヴィゴツキー理論の全体像を把握する基盤が、今ようやく整いつつあります。ただ、その解明には、スピノザ的な道とバフチン的な道がヴィゴツキーの中でどのようにつながっているかが明らかにされることが必須であると。ヴィゴツキー研究の更なる読解が期待されます。

遊びとコミュニケーション

 「役にたたないけれど、ないと寂しい」というような、人工物と私たちが共生できるモノ作りのあり方を探りたい。岡田美智夫氏のロボット研究は、こうして「役たたずロボティクス」、「関係論的なロボティクス」に向かっていきました。
 そもそも岡田氏がロボットの研究を始められたきっかけの一つは、コンピュータと人間との、あるいはコンピュータ同士のコミュニケーションをどう考えていくかという問題意識にありました。インタビューの冒頭で紹介された自動販売機の合成音の例が象徴的ですが、コンピュータや機械類の操作などにおいて日頃からある種の不自然さを感じておられたというのです。これをコミュニケーションという視点から捉え直すというアイデアが浮かぶ。そんなことを考えておられた時に偶然出会った女子高生の対話。その「ボケとツッコミ」の妙に衝撃を受けて、岡田氏はコンピュータあるいは機械(ロボット)というものの社会性という問題に考察を進めていったのです。
 コンピュータあるいはロボットが社会的な存在として認知されるために必要とされる条件とは何か。これまでのアプローチは、簡単に言えばそのコミュニケーションの質を高めることに置かれていました。内容が迅速かつ正確に伝達されることをコミュニケーションの目的に設定する。社会的な存在として認知されるためには、コミュニケーションが円滑に行われることが必須条件になります。逆に言えば、内容のやり取りが円滑に行われてさえいれば、そのコンピュータあるいはロボットは社会的存在として認知されるはずであるという暗黙の了承があったのです。ところが、ここに大きな落とし穴がありました。コミュニケーションを意味内容のやり取りであると考えれば、確かにそうした議論は成り立つでしょう。しかし、コミュニケーションが成立するためには、意味内容の伝達の他に、場であるとかお互いの関係性であるとか、あるいは「間」のようなものが必要になってきます。というより、むしろそうしたものの方が、コミュニケーションにはずっと重要だということがわかってきたのです。岡田氏が、注目する「何気なさ」とは、まさにそうした場を成り立たせるものであり、「間」の存在です。岡田氏は、この「何気なさ」のもつ意味を実際にロボットをつくって実証しようとしています。インタビューでは、その幾つかの試作機の中でとくに「む〜(muu)」を使った実験が紹介されました。
 「何気なさ」や「たわいもなさ」こそ、じつはコミュニケーションを支える基盤になるものなのです。岡田氏は、何気ない発話、たわいもない会話というのは、一種の「投機的な行為(エントラスティング)」だと言います。そしてこの投機的な行為を支えるのが「グラウンディング」です。この投機的な行為には、「たぶん大地が支えてくれるだろう」という期待と、「どうなってしまうかわからない」という不安の両方があります。両方の可能性を孕みつつ、人はその期待の方に賭けるのではないかというのです。「不定性を内包」しつつも環境、他者に身をゆだねていく存在。人間の遊びという行為は、エントラスティングとグラウンディングの関係の中で発生しているのであり、その関係が維持されている時、人間はそこに『愉しみ』を見出しているのです。

 「役にはたたないが、ないと寂しい」もの。じつは、人間の「遊び」が、まさにそういうものなのです。ホイジンガやカイヨワによって、遊びはそれ自体で意味をもつものであり、それ以外ではないと宣言されてから、遊びの還元不可能性は一般に流布するものとなりました。しかし、ではその遊びとは何かという問いに対しては、以前として明確な言葉をもちあわせてはいません。とはいえ、少なくとも遊びが遊ぶ主体にとって「愉しみ」をもたらすものであることは、明らかになりました。「遊び/愉しみ」の探求をさらに続きます。(佐藤真)

 
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◎遊びの文化論、遊びの身体現象
フロー理論の展開 M・チクセントミハイ 今村浩明・浅川希洋志編 世界思想社 2003
人間はなぜ遊ぶか 遊びの総合理論 M・J・エリス 森楙他訳 黎明書房 2000
遊びと発達の心理学 J・ピアジェ他 赤塚徳郎他監訳 黎明書房 2000
改題新装版 楽しみの社会学 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 新思索社 2000
「遊び心」の経済学 M・J・ウルフ 楡井浩一訳 徳間書店 1999
フロー体験 喜びの現象学 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 世界思想社 1996
遊びと人間 R・カイヨワ 多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫 1990
「遊び」の経済学 粟田房穂 朝日文庫 1990
遊びの現象学 西村清和 勁草書房 1989
遊びの心理学 エリコニン 天野幸子他訳 新読書社 1989
遊び 世界の象徴として O・フィンク 千田義光訳 せりか書房 1983
遊びの社会学 井上俊 世界思想社 1981
遊戯の存在論 O・フィンク 石原達二訳 せりか書房 1976
ホモ・ルーデンス J・ホイジンガ 高橋英夫訳 中公文庫 1973
遊び 遊ぶ主体の現象学へ J・アンリオ 佐藤信夫訳 白水社 1973
遊びの身体現象 竹田美喜夫 エレック社 1973 

◎ヴィゴツキー理論の展開
新訳版 芸術心理学 ヴィゴツキー 新田義松訳 学文社 2006
ヴィゴツキー障害児・教育論集 ヴィゴツキー 新田義松他訳 新読書社 2006
ヴィゴツキー入門 新田義松 子どもの未来社 2006
文化的-歴史的精神発達の理論 ヴィゴツキー 新田義松他訳 学文社 2005
ヴィゴツキー教育心理学講義 ヴィゴツキー 新田義松他訳 新読書社 2005
ヴィゴーツキー心理学完全読本 「最近接発達の領域」と「内言」の概念を読み解く 中村一夫 新読書社 2004
ヴィゴツキーの生涯 A・A・レオンチェフ 広瀬信雄訳 新読書社 2003
はじめて学ぶヴィゴツキー心理学―その生き方と子どもの研究 明神もと子編著 新読書社 2003
新児童心理学講義 ヴィゴツキー 新田義松他訳 新読書社 2002
新訳版 思考と言語 ヴィゴツキー 新田義松他訳 新読書社 2001
子どもの心はつくられる ヴィゴツキー 菅田洋一郎他訳 新読書社 2000
幼児のイメージ力を育てる−お話とごっこ遊び 神谷栄司 三学出版 1999
ヴィゴツキーの発達論 文化-歴史的理論の形成と展開 中村一夫 東京大学出版会 1998
幼児のものの見方・感じ方−自然と遊ぶ 神谷栄司 法政出版 1998
ごっこ遊び・劇遊び・子どもの創造−保育における経験と表現の世界 神谷栄司 法政出版 1993

◎発達、身体、役たたずロボティクス
哲学、脳を揺さぶる 河本英夫 日経BP 2007
「発達の最近接領域」の理論-教授・学習過程における子どもの発達 ヴィゴツキー 土井捷三他訳 三学出版 2003
ヴィゴツキーの方法―崩れと振動の心理学 高木光太郎 金子書房 2001
身体性とコンピュータ 岡田美智男他編 共立出版 2001
文化と進化の心理学―ピアジェとヴィゴツキーの視点 高取憲一郎 三学出版 2000
具体性のヴィゴツキー 茂呂雄二 金子書房 1998
口ごもるコンピュータ 岡田美智男 共立出版 1995

◎情動の理論
ヴィゴツキー著《最後の手稿》情動の理論 心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話 神谷栄司他訳 三学出版 2006
スピノザ 共同性のポリティクス 浅野俊哉 洛北出版 2006
感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ A・R・ダマシオ 田中三彦訳 ダイヤモンド社 2005
基盤としての情動 フラクタル感情論理の構想 L・チオンピ 山岸洋他訳 学樹書院 2005
無意識の脳 自己意識の脳 身体の情動と感情の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2003 
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元他訳 東京大学出版会 2003
快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか 廣中直行 NHKブックス 2003
小説の言葉 M・バフチン 伊東一郎訳 平凡社ライブラリー 1996
ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題 M・バフチン 望月哲男他訳 ちくま学芸文庫 1995
ミハイール・バフチーンの世界 C・クラーク、M・ホルクイスト 川端香男里他訳 せりか書房 1990
エチカ スピノザ 工藤喜作他訳 中公クラシックス 2007