呼びかけに応じる、しかし、何の?
鈴木雅雄
1962年東京生まれ。早稲田大学文学部教授。専門はシュルレアリスム研究、イメージ文化史、近現代フランス文学。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程満期退学。パリ第7大学文学部博士課程修了(文学博士)。著書に『火星人にさよなら:異星人表象のアルケオロジー』(水声社 2022)、『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社 2007 )、編著に『シュルレアリスムの射程:言語・無意識・複数性』(せりか書房 1998)他。
「コントロールできないかたちで何かが向こうからやってくる」という
オートマティックな体験こそが重要だという発想が、
その根本のところにまずあった。
それを「書く」ことから「日常生活」へ、
「社会」へとどんどん広げていった、と、図式的にはそんなふうに捉えられると思います。
AIは「溶ける魚」を書けるだろうか
川添 愛
1973年長崎県生まれ。作家。専門は、言語学、自然言語処理。九州大学文学部文学科卒業。同大学大学院、南カリフォルニア大学、京都大学大学院にて理論言語学を専攻。博士(文学)。著書に『言語学バーリ・トゥード:Round1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(東京大学出版会 2021)、『ふだん使いの言語学:「 ことばの基礎力」を鍛えるヒント』(新潮社 2021)、『ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学』(角川新書 2020)、共著書に『私たちはAIを信頼できるか』(文藝春秋 2022 )他。
人をAI化したいと思うことにつながるのではないでしょうか。
会社や組織のなかで、人に「あなたはこれをして」「あなたはこれをして」と役割を振る時は、
構成員が組織に一体化して完璧に仕事を遂行することが期待されますよね。
それは、その人の機械的な面に期待していることになると思うんです。
換喩から隠喩への移行、あるいはオートマティスムの多義性
中田健太郎
1979年東京都生まれ。静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科講師。専門はシュルレアリスム研究、フランス文学、視覚文化論。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。著書に『ジョルジュ・エナン:追放者の取り分』(水声社 2013)、編著に『マンガメディア文化論:フレームを越えて生きる方法』(水声社 2022、鈴木雅雄と共編)、論文に「オートマティスムの声は誰のもの?:ブルトン、幽霊、初音ミク」(『声と文学:拡張する身体の誘惑』所収、平凡社 2017)他。
われわれが今生きるこの世界にも見られます。
それは、非現実的な夢の世界ではまるでなくて、
非常にきびきびと動く、新しいリアリティをもった世界だと思います。
かつてわれわれ人間がやっていたことを「過剰に合理化」している、オートマットにあふれた世界です。
宙吊り状態は、今も続いている
未来にだけ窓を開く
「現代生活のなかで、直接的にシュルレアリスムの結果であるのは何だとお考えですか」。
フランスの作家・編集者マドレーヌ・シャプサルの質問に、アンドレ・ブルトンは次のように答えます。
「たとえば、アクション・ペインティングと名乗ろうと、ジェスチュエルとかアンフォルメルとかいう絵画であろうと、何よりもまず自動記述から生まれたものであり、シュルレアリスムによる自動現象の提唱から派生したものです」。
シャプサル「ご自分でも、まだ自動記述を実行していらっしゃいますの?」。
ブルトン「自動記述を自己目的にするわけにはいかないでしょう。要はそれをできるかぎり純粋な形で獲得することなんです。なにしろ、そこから前提となっている一連の知的作業を再構成し再生産することはわけありませんから。ただそれにしても、何とかしてその作業そのものの展開を機械的(傍点は筆者)にするよう努める必要があります」と述べたうえで、「(それを)いまだかつて〈プロ〉として書いたことは一度もありません」と付け加えました⑴ 。
ブルトンは『シュルレアリスム宣言』(1924年)のなかでシュルレアリスムの定義付けをしています。それによれば、「シュルレアリスム、男性名詞。それを通じて人が、口述、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを表現しようとする、心の純粋な自動現象。理性によるどんな制約もうけず、美学上ないし道徳上のどんな先入主からもはなれた、思考の書き取り」⑵と定義されますが、それはそのままオートマティスムの定義にもあてはまりそうです。事実訳者の巖谷國士氏は、『シュルレアリスム宣言』とは、『溶ける魚』(初めてのオートマティスムによる創作)の序論に過ぎなかったのではなかろうか、と述べています。
ブルトンは、また同書で「超現実的言語の諸形態でいちばんよく適合するのは、やはり対話においてである」と言っています。ただ、巖谷氏はその言明に納得しながらも、次のように付記します。「フィリップ・スーポーとブルトンとが向かい合って、あの自動記述の最初の実験であった『磁場』(1919年)の原稿を口述している有様を思い浮かべがちであり、事実またこの本のなかで両者の言葉のやりとりは大きな役割を占めているのだが、しかし、そういう実際的局面をはなれて、もっと本質的な対話、つまり、私のなかのもうひとりの〈私〉との対話という見地を、ここに加味しておく必要があるのではなかろうか」と⑶ 。通常対話とは、自己と他者あるいは他者と他者の間で行われるものです。しかし、ブルトンは『宣言』において、それとは異なる対話の位相を提示しています。「私」が「私自身」と対話するというのです。
フランスの批評家ミシェル・カルージュは、ブルトンとのディスカッションのなかで、オートマティスムの体験とは次のようなものだと述べています。「それは独白であるよりもむしろ、意識的人間と、その反対に秘密裡に全宇宙と交流している彼自身の失われた部分とのあいだの対話に他ならない」。もとより問題は、領域の区分ではない以上、ここまで図式化するのは適当ではないかもしれません。「オートマティスムの実践というものが、〈私〉との対話、一種の存在論的ディアローグの体験であったことは、明らかである。それも何かしら空漠とした、たとえばジョルジョ・デ・キリコの(絵画のなかの)街角のような、あるいはゴシック・ロマンスの城の広間のようなひとけのない場所で 、谺のような尾をひいてひびきあう、多くははかばかしい手ごたえのない、自分自身とのはてしない対峙とも言うべき体験だ」というのです⑶ 。
「オートマティスムとは、少なくともその原則において、予定された何かを書くことへの拒否であったと言えるだろう。しかもなおそれが何かを書いてしまうのだとすれば、それはいわば、書くいう行為自体をこそ書いてしまっているのだ、と言える場合があるのではなかろうか」。たとえば、シュルリアリストの画家イヴ・タンギーの絵が、予兆そのものと化した元素たちの風景をとおして、何か営々として描く行為自体を描いているように見えるのと同様に、ブルトンの詩にもまた、しばしば、こういう言い方を比喩以上のものと思わせるような傾向が見て取れそうだと言い、こう結論付けます。
オートマティスムとは、「要するに、〈私〉を容器として開け放ち、何らかの客観的な〈私〉をそこに呼び込む行為なのだとすれば、ブルトンの作品がともするとひとけのない城、町、森のような空間を擁し、〈期待〉をこそその主たる情緒としていたのも当然であろう。これを一種の普遍的意識、客観的意識の介入にそなえるありかたと考えて、たとえばランボーの、〈誰かが私において考えるOn me pense〉の方法をそこに見ることができるだろうか。いやこの場合、そうした〈誰か〉の正体そのものよりも、私と不可分なその〈誰か〉と私自身との葛藤、あるいはその〈誰か〉の介在による、私と私とのあいだの葛藤の方が重要なのだ」⑶というのです。
「こうして二分されてしまった私と私とのあいだの、ときには悲劇的な、ときには滑稽な、ときにはグロテスクなものですらある対話、私の中の主役と敵役との、シテとワキとの鎬をけずるやりとりとしての対話 それをまさに言語の場としての発生の現場でとらえ、直接的な人生の舞台の上でくりひろげてゆく、いやむしろ、自らが演者でも観客でもあるようなかたちで、それを体験してゆく」⑶というのが、いわばオートマティスムという方法の極限的状態だったのではないか。そして、おそらくその状況下において、「私」はもう一人の「私」と対峙することにより、二重に、三重に重なり合った、すなわち幾重にも重なり合った層としての私自身を発見することになるのです。あたかもミルフィーユのような「私自身」という「私」の実相に。オートマティスムとは、多少の言い過ぎを許してもらうとすれば、「私」のドゥーブル(複製: double)を「私自身」のなかに見出し、機械的に生成するプロセスだったのではないか、と思われるのです。
ドゥーブルの似姿としての私
とはいえ、オートマティスムとはどういうものか説明しようとしたところで、オートマティスムの実相にせまることは簡単ではありません。それが言語的実践行為であれば、やはり実践された当のものを体験するのが近道です。そこで、自動記述とはいかなるものか、一つの事例を紹介しましょう。『シュルレアリスム宣言』に付されて刊行された『溶ける魚』の冒頭部分です。
「幽霊が、忍び足で入ってくる。すばやく塔を見まわって、三角型の階段を降りてゆく。彼の赤い絹の靴下は、藺草の丘の斜面に、旋回する薄明りを投げかける。幽霊はだいたい二百歳くらいで、フランス語をまだ少しは話せる。けれども、その透き通った肉体の奥では、夜露と星の汗とが組み合わさっている。彼は、自分のために、この涙もろくなった国へと迷い込んだのだ。枯れた楡の木と、緑の濃い楸だけが、野生の星たちのミルクの雪崩のなかで、溜息をもらしている。果実のなかで核が弾ける。ついでゴンゴラ魚が、両手で眼かくしをしながら、真珠を、それともローブを求めて通りすぎてゆく。
この一四世紀の城の窓辺で、ひとりの女が歌っている。彼女の夢のなかには黒い胡桃の木がある。私はまだ彼女を知らない、なぜならあの幽霊が、周囲にあんまり上天気を作りすぎるからだ。大きな花模様の薔薇窓を頭上で裏返しにしたように、だしぬけに夜がやってきた。
建物は、私たちの逃走をつげる警鐘だ。ほの白い光が、特急列車の美しい女の乗客たちを、羊歯のベッドのなかに襲うあの午前五時の逃走、人殺しのオリーブの木に通りかかった際の、午後一時の逃走。建物は、ポンパドゥール夫人の影に似た教会のなかへの、私たちの逃走をつげる警鐘だ。それでも私は、この城の鉄格子門で、呼鈴を鳴らした」⑷ 。
『溶ける魚』は、32篇の物語からなります。ブルトン自身は『溶ける魚』の各篇を「詩」とは呼ばず「小話(historiettes)」という表現をあてています。『シュルレアリスム宣言』がたび重なる推敲のあとをとどめるのに比べて、その原稿に何の直しも見あたらないと言われる、文学史上にも珍しい完璧なオートマティスムの実例といわれています。「一つひとつが常に〈全体〉への導きであるようなイメージ、親密で透明で流動的なイメージの集合体であって、そこではあらゆる隔壁が見かけのものにすぎず、たとえば閉ざされた扉の向こうへも、なんなく分け入っていけるような印象すら与えます」⑸ 。自然がここでは完全に透過可能であるだけでなく、「私」ももう一人の「私」と溶け合い、自然そのものになること。いわば、此岸と彼岸とを地続きに感じさせてしまうこの感覚こそシュルレアリスム特有のものだったのではないかと巖谷氏は述懐します。シュルレアリスムそのものであるオートマティスムの精神は、こうして『溶ける魚』という物理的表象を得て、現実界に浮上したのです。
人間機械論の隘路
今号は、シュルレアリスム=オートマティスムを取り上げます。ここで、自動化は超自動化へと生成変化します。
20世紀のさまざまな文化運動のなかでのシュルレアリスムの特異性は、「作品」や「理論」の内容以上に、あらゆる種類の呼びかけに応じようとする執拗な身振りのうちにあったのではないかというのは、早稲田大学文学部教授の鈴木雅雄氏です。アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールによって著された詩篇『処女懐胎』は、精神障碍者の言説の偽装実験だったことはよく知られています。精神障碍者の言葉を到達不可能なものとして聖別するのではなく、しかしそこから何らかの要素や方法を抽出して利用するのでもなく、それを一つの呼びかけとして受け取り、いわばそれにシンクロすることで応じようとする実験だったというのです。偽装されるものと偽装の結果との間に生じるさざ波のような何か。この呼びかけと応答のプロセスそれ自体がシュルレアリスムの運動だったと論じる鈴木雅雄氏にシュルレアリスムとオートマティスムの関係についてお聞きします。
機械学習の基本的な方法は、機械にやらせたい仕事を人間が定義するところから始まります。それに合わせてデータを集め、機械に翻訳の仕方や音声・画像認識の仕方などを学習させる。この方法は、人間が定義できて、かつデータが集まりやすい仕事であれば非常にうまくいきます。今後も発達していくことが見込まれます。しかし、「笑わせよう」とか「泣かせよう」とする意志や欲求、感情をAIにもたせるのは、機械学習の方法では限界がありそうです。そもそも何ができれば「意志」をもつことになり、何ができれば、「欲求」や「感情」をもったことになるのか。肝心の定義が難しい。ましてや自動記述など夢のまた夢のように思えます。シュルレアリスムの詩的実践である『溶ける魚』をAIは書くことができるでしょうか。作家で自然言語処理を研究する川添愛氏にお聞きします。
詩作や芸術制作におけるオートマティスムの働きにかんして、何らかの事前の意味の存在を前提とする考え方と、意味はオートマティスムの作用を通じて事後的に生成するとする考え方の両方がブルトンのなかに認められる、というのは静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科講師の中田健太郎氏です。前者の考えに従う場合、「意味」が由来するさまざまな場所が想定されることに中田氏は着目し、初期のブルトンが、オートマティスムを作者が属する経験的世界の「外部」から届けられる「声」と関連付けて語る一方で、それとは正反対に、超自然的な「外部」を排除して、あくまで主体の内面にその由来を求めることもあったというのです。そして、この両義的姿勢にブルトンの特徴を見出せるのではないかというのです。「意味」をめぐるこの二つの考え方を、言語学者ロマーン・ヤーコブソンの二分法にしたがい、「隠喩的」なそれと、「換喩的」なそれと中田氏は名付けます。そして、精神分析の自由連想法に由来する「隠喩的な解釈可能性」と心理学・精神医学における「換喩的な言語の増殖」のいずれもがオートマティスムのなかに散見でき、換喩から隠喩への移行こそがオートマティスムの特徴だというのです。オートマティスムの誕生とその変遷について、オートマティスムの多義性という観点から捉え直します。(佐藤真)
(1)「アンドレ・ブルトン」『作家の仕事場 マドレーヌ・シャプサル編』(晶文社 1973)P32-34
(2)アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言/溶ける魚』 巖谷國士訳(学藝書林 1974)P50
(3)巖谷國士「二人になった〈私〉 ナジャ、幽霊、オートマティスム」(雑誌『ユリイカ』6月臨時増刊「シュルレアリズム」(青土社 1976)P274-299
(4)アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言/溶ける魚』巖谷國士訳(学藝書林 1974)P92
(5)同上「後記-五十年後に-」P235-238
◎シュルレアリスムの思想
声と文学:拡張する身体の誘惑 塚本昌則、鈴木雅雄編 平凡社 2017
雑誌 ユリイカ 8月臨時増刊号 no.684 vol.48-10 総特集 ダダ・シュルレアリスムの21世紀 巖谷國士編集 青土社 2016
ジョルジュ・エナン:追放者の取り分(シュルレアリスムの25時) 中田健太郎 水声社 2013
雑誌 思想 10月号 No.1062 特集シュルレアリスムの思想 鈴木雅雄、中田健太郎他 岩波書店 2012
シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性 鈴木雅雄 平凡社 2007
シュルレアリスムの射程:言語・無意識・複数性 鈴木雅雄他 せりか書房 1998
シュルレアリスム J・C=ジャンドロン 星埜守之、鈴木雅雄訳 人文書院 1997
シュルレアリスムの歴史 M・ナドー 稲田三吉、大沢寛三訳 思潮社 1995
ベンヤミン・コレクション 1 近代の意味 W・ベンヤミン 浅井健二郎編訳、久保哲司訳 ちくま学芸文庫 1995
シュルレアリストたち:眼と不可思議 巖谷國士 青土社 1986
雑誌 ユリイカ 5月臨時増刊号 第13巻第6号 総特集 ダダ・シュルレアリスム 巖谷國士編集 青土社 1981
雑誌 ユリイカ 6月臨時増刊号 第8巻第7号 総特集 シュルレアリスム 巖谷國士編集 青土社 1976
シュルレアリスムと芸術 巖谷國士 河出書房新社 1976
作家の仕事場:20世紀文学の証言 M・シャプサル編著 A・ブルトン、G・バタイユ他 朝比奈誼訳 晶文選書 1973
シュルレアリスムの20年:1939-1959 J-L・ベドゥアン 三好郁朗訳 法政大学出版局 1971
雑誌 パイデイア 第6号 特集 シュルレアリスムと革命 渋沢孝輔、G・バタイユ他 竹内書店 1969
◎シュルレアリスム=オートマティスム
魔術的芸術 A・ブルトン 巖谷國士監修、谷川渥、鈴木雅雄他訳 河出書房新社(普及版) 2017
太陽王アンドレ・ブルトン H・C=ブレッソン、A・ブルトン 松本完治訳 エディションイレーヌ 2016
狂気の愛 A・ブルトン 海老坂武訳 光文社古典新訳文庫 2008
瀧口修造の詩的実験1927~1937 瀧口修造 思潮社(復刻版) 2003
ナジャ A・ブルトン 巖谷國士訳 岩波書店 2003
シュルレアリスムとは何か:超現実的講義 巖谷國士 ちくま学芸文庫 2002
シュルレアリスムとは何か A・ブルトン 秋山澄夫訳 思潮社(新装版) 1994
デッサンと肖像 A・アルトー、J・デリダ P・デヴナン編 松浦寿輝訳 みすず書房 1992
シュルレアリスム宣言・溶ける魚 A・ブルトン 巖谷國士訳 岩波文庫 1992
秘法十七番 A・ブルトン 宮川淳訳 晶文社セレクション(新装版) 1985
シュルレアリスムと小説 巖谷國士 白水社 1979
通底器 A・ブルトン 足立和浩訳 現代思潮新社 1978
アンドレ・ブルトン集成5:シュルレアリスム宣言集・他 A・ブルトン 生田耕作、田淵晋也訳 人文書院 1970
◎シュルレアリスムの周辺
火星人にさよなら:異星人表象のアルケオロジー 鈴木雅雄 水声社 2022
アヴァンギャルドの時代:1910-30年代 塚原史 ポイエーシス叢書 未來社 1997
謎・死・閾:フランス文学論集成 松浦寿輝 筑摩書房 1997
20世紀美術におけるプリミティヴィズム W・ルービン編 吉田憲司他監修 淡交社 1995
記号の殺戮 F・ルヴァイアン 谷川多佳子、千葉文夫他訳 みすず書房 1995
日本のシュールレアリスム 澤正宏、和田博文編 世界思想ゼミナール 1995
オリジナリティと反復:ロザリンド・クラウス美術評論集 R・クラウス 小西信之訳 リブロポート 1994
「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論:「離合集散」の論理 田淵晋也 勁草書房 1994
シュルセクシュアリティ:シュルレアリスムと女たち1924-47 W・チャドウィック 伊藤俊治、長谷川祐子訳 パルコ・ピクチャー・バックス 1989
ダダ:芸術と反芸術 H・リヒター 針生一郎訳 美術出版社(新装版) 1987
◎AI、言語、位相
私たちはAIを信頼できるか 大澤真幸、川添愛他 文藝春秋 2022
言語学バーリ・トゥード:Round1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか 川添愛 東京大学出版会 2021
ヒトの言葉 機械の言葉:「人工知能と話す」以前の言語学 川添愛 角川新書 2020
自動人形(オートマトン)の城:人工知能の意図理解をめぐる物語 川添愛 東京大学出版会 2017