端末市民の行方 レトリックの共同体から発話の共同体へ
桂英史
1959年長崎県生まれ。図書館情報大学大学院図書館情報学研究科修士課程図書館情報学専攻修了、富士ゼロックス情報システム株式会社、学術情報センター研究開発部学術情報研究系助手、東京造形大学助教授を経て、現在、東京藝術大学大学院映像研究科教授。専門はメディア研究・図書館情報学。著書に、『インタラクティヴ・マインド[新版]』NTT出版、2002、『人間交際術 コミュニティデザインのための情報学入門』平凡社新書、2001、『メディア論的思考 端末市民の連帯意識とその深層』青弓社、1996、他がある。
まさにそうしたディレンマを抱えた端末市民を、インターネットのなかに無数に増殖させました。
端末市民は素朴な受容の主体を否定していますが、演者や著者への転換という立場も留保したままです。
つまり、そうした留保の状態にコミュニケーションの可能性を見出す、
理想的な主体として端末市民を位置づけ得るのだと思います。
不気味な怪物とハグは可能か
奥村隆
1961年徳島県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。東京大学文学部助手、千葉大学文学部講師・助教授を経て、現在立教大学社会学部教授。専攻はコミュニケーションの社会学、文化の社会学、社会学理論。著書に『社会学の歴史Ⅰ 社会という謎の系譜』有斐閣アルマ、2014、『宗教とグローバル市民社会 ロバート・ベラーとの対話』岩波書店、2014(共編著)、『反コミュニケーション』弘文堂、2013、『コミュニケーションの社会学』有斐閣アルマ、2009(共編著)、『エリアス・暴力への問い』勁草書房、2001、『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』日本評論社、1998、『社会学になにができるか』八千代出版、1997(編著)他がある。
「単独者」としての自己にとってどんなコミュニケーションが可能であるか、
と問い続けることも大切なことだと思います。
しかし、「一般性」をもつものとして私たちは存在し、
そのようなものとして認められることで深い幸福を感じもする。
他者とのコミュニケーションに常に存在するいくつもの両義性を認識して、
その両義性を生きる困難さを引き受けること、
あるいはそこに自分の存在を賭けていくこと、そしてそれが生む魅力を味わうこと。
こうしたことがコミュニケーションにとって必要なことではないかと考えています。
地すべりするコミュニケーション
伊藤守
1954年山形県生まれ。法政大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得。新潟大学教授を経て、2000年より早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は社会学、メディア・文化研究。著書に『情動の権力 メディアと共振する身体』せりか書房、2013、『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』平凡社新書、2012、『記憶・暴力・システム—メディア文化の政治学』法政大学出版局、2005、編著に『アフター・テレビジョン・スタディーズ』せりか書房、2014(共編著)、『メディア文化の権力作用』(編著)、せりか書房、2002、他がある。
別のメカニズムで起動する政治プロセスに情動や知覚が深くかかわり始めているのではないでしょうか。
それは決して良い方向ではありません。
多くの人たちの知恵や知がクロスするなかに成立する集合知への展望が語られる一方で、
「本音」と称する強いリズムと口調をもつことばが情動を刺激し、
情動が反応する政治的プロセスが次第に力をもち始めているのではないか。
そうした危惧も一方で強く感じるわけです。
メディアを介するリアルなコミュニケーション
コミュ力のダブルバインド
アーティストが小学校や中学校へ出向き、一緒に作品づくりをしたり、イベントをやるという活動が全国に広がっています。文部科学省が「コミュニケーション教育推進事業」を2010年から始めていて、全国の小中学校に俳優やダンサー、演出家を送り込んで、身体やことばを使ったコミュニケーション教育を進めています。その目的はズバリ、コミュニケーション能力の向上にあるというのです。
国だけではありません。企業もコミュニケーション能力の向上には強い関心を示しています。企業の人事担当者が、新卒採用にあたってもっとも重要視している能力として5項目を挙げていますが、「コミュニケーション能力」が11年連続でトップでした(経団連の経年調査)。2014年は、2位の「主体性」(61.1ポイント)に20ポイント以上の差をつけて82.6ポイント、ダントツです。ここ数年順位とポイント差はほぼ変わりなく推移しています。
では、企業が求めるコミュニケーション能力とは、具体的にはどのようなものでしょうか。 OECD(経済協力開発機構)の調査によれば、企業が新入社員に要求するものとして「グローバル・コミュニケーション・スキル」を挙げています。これは、端的に異文化理解能力のことを指しています。すなわち、異なる文化、異なる価値観をもった人に対して、きちんと自分の主張を伝えることができる、あるいは、文化的な背景の違う人の意見も、その背景を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができることであり、そのような能力をもてば、グローバルな経済環境でも存分に力を発揮できるというわけです。
しかし、ここに一つ大きな問題があります。というのは、日本企業は人事採用にあたって、もう一つの能力を学生たちに求めているというのです(1)。実際にコミュニケーション教育の一環として演劇による国語教育を行っている劇作家の平田オリザ氏によれば、今言ったようなコミュニケーション能力とは別のコミュ力を、企業は若者たちに要求しているというのです。たとえば、「上司の意図を察して機敏に行動する」、また「会議の空気を読んで反対意見は言わない」、あるいは「輪を乱すな」と。これらは、これまで日本の多くの企業が社員に言い続けてきたことです。いわば従来型のコミュニケーション能力で、企業は、就職後の社員教育や現場の職務で若者たちにそれを求めようとするのです。
たとえば、「社員の自主性を重んじる」と一方で言いながら、何かの案件で相談に行くと「そんなことも自分で判断できんのか! いちいち相談に来るんじゃないぞ」と言い、いったんトラブルが発生すると「なんで相談しなかったんだ」と怒る。企業は、就活中の学生にいわゆる「異文化理解能力」を求め、しかし、就職後はそれとは反対の、同質性や順応を強く期待するというのです。つまり、相反する二つの能力を要求し、しかも始末が悪いのは、企業はその矛盾に気が付いていない。平田氏は、この状況をダブルバインド状態と表現しました。ダブルバインドとは、二重拘束といわれるもので、簡単に言えば矛盾するメッセージが同時に投げかけられて、その矛盾を解けず板挟み状態に置かれ続けることをいいます。就活中の学生たちにとって、「コミュ力アップ」は、まさしく強迫観念のごとく彼ら/彼女らをしばり続けるスローガンのようなものです。そして、自らそれをスローガンとすることで、かえってそのしばり(バインド)を強めているようにも思えるのです。
そもそもコミュニケーションとは能力なのでしょうか。百歩譲って能力だとしましょう。能力だとするならばそれをよりよき方向へ向かわせようとすることはきわめて自然なことです。しかし、それが多くの場合ダブルバインドに陥ってしまうとすれば、問題の所在は能力にあるのではなくて、コミュニケーションそれ自体にあるといえます。能力であろうがなかろうが、コミュニケーションは矛盾そのものです。その矛盾を引き受けつつ前へ進むことがコミュニケーションであるとして、その結果ダブルバインドに陥ってしまうとすれば大きな問題です。
「期待」とは何か
コミュニケーションのイメージとして、もっとも知られているものに、C・E・シャノンとW・ウィーバーのコミュニケーションモデルがあります。メッセージの送り手(情報源)Aが信号化された「メッセージ」を送り、そのメッセージを受け手であるBが受信するという単純なモデルです。この発信者Aと受信者Bという二者間でメッセージ(情報)のやり取りが行われる事態を、シャノンとウィーバーはコミュニケーションと呼んだのです。
Bが発信しAが受信することでも事態は同じ。要するに、二つの項の相互作用もしくは相互行為があればそれをコミュニケーションが成立したと考えるわけです。そしてもう一つ重要なのは、二者間でメッセージがやり取りされる時に、必然的にノイズ(雑音)が生じることです。そのノイズをできるだけ低減化させることにより、メッセージは正確に確実に伝わるという。
しかし、冷静に考えてみればすぐにわかることですが、このメッセージの流れは、二つの項に閉じられることはなく、いつでもこれを超えて拡散し波及する可能性をはらんでいます。決して二つの項の相互作用、相互行為に完結するものではないということです。流れ始めたら最後、発信者・受信者の意図や目的あるいは意志とは無関係に増幅し、時には制御できないかたちで独自の自律性を獲得していくこともあり得えます(2)。また、ノイズも重要なファクターの一つです。ノイズの低減化がメッセージの精度を上げる要件ではあるけれども、ノイズが介在することでメッセージが変容を余儀なくされます。しかし、そのことがメッセージに多様なニュアンスを与え、コミュニケーションを活性化させるのです。
残念ながら、ノイズのもつこの特徴は、夾雑物として長い間評価されることはありませんでした。しかし、伊藤守氏によれば、メッセージとは常に自律と生成をはらむ「こと・もの」であり、それはノイズの介在・発生によって増幅・拡散するものです。そして、この増幅・拡散こそがコミュニケーションにメディア的性格を付与する当のものなのです。
ところで、メディアは、一般的にTVやラジオ、新聞、雑誌などマスメディアを指しますが、近年では、ソーシャルメディア(SNS)などのインターネットも重要なメディアとして位置づけられています(3)。広義には、記録や保存可能な媒質(medium)ですが、伝達手段と捉えれば、どのようなものでもその役割を担うことができます。
桂英史氏によれば、これまでのメディア研究は大きく二つの流れがあったといいます。一つは19世紀に始まる報道を主たる対象とするジャーナリズム研究や文化研究などの社会学的な知見。もう一つは、20世紀以降のエレクトロニクスや情報通信技術などの制御や通信、あるいは情報を数学的に処理する情報学的知見です。両者に共通するのは、大量かつ即時的にメッセージを伝達することの利便性や効用を「期待(expectation)」することです。そして、ここで注目すべきは、伝える/伝えられるという行為や関係は「期待」があってこそ成り立つものだということです。コミュニケーションとは、言うなればこの期待に賭ける行為そのものであり、期待があるからこそ、コミュニケーションはメディア的性格をもち、逆に言えば、メディアは限りなくコミュニケーションへとメタモルフォーゼするというのです。
今、再びコミュニケーションに関心が集まっています。冒頭紹介したコミュニケーション能力もそうですが、近年話題になっている無縁社会も、ある意味でコミュニケーションが途絶えた社会と捉えることもできるでしょう。今や、コミュニケーションは、人間にとって人間存在そのものを規定するような重要なものになっています。そのうえで、私たちが注目したのは、この「期待」という概念です。
なぜ、人々は「期待」をもってコミュニケーションしようとするのでしょうか。メディア環境が激変しつつある現代社会にあって、コミュニケーションは何を意味するか。今号では、人間・社会・メディアの関係から、あらためてコミュニケーションについて考察します。
端末市民のコミュニケーション
東京藝術大学大学院映像研究科教授・桂英史氏は、一九九六年に発表した『メディア論的思考』で展開した「端末市民」という概念の復権を考えているといいます。端末市民(citoyen teminat〈仏〉/terminal citizen〈英〉)とは、フランスの思想家ポール・ヴィリリオが用いた造語で、テクノロジーによって代替された身体を批判的に述べたものですが、桂氏は、端末デバイスで身を固め、インターネットに常時接続された現代の都市生活者を、ヴィリリオの意図とは別に、若干の希望をこめてこう呼んだのです。
ヴィリリオの言う市民とは、政治的な個人(私)を指し、わたしたちが隷属状態に置かれていることを問題にしました。しかし、桂氏は、むしろ「個人」という概念に注目します。「個人」は未来永劫に普遍的なものであるはずがなく、とくに、インターネットに接続された個人は、その輪郭をあいまいにし、各個人がゆるやかにつながった集団を形成している。その人間の集まりを端末市民と呼ぼうというわけです。近代主義に裏打ちされた個人を柱とする市民ではなく、ネットユーザーという連帯意識をベースにした集団を市民と捉え直し、端末市民を一種のノード(結び目)とするネット空間、そこに民主制の可能性を見出せないかというのが桂氏のねらいでした。
一九九五年にWindows95が発売されると、パソコンが家庭にも広く普及し、それと足並みをそろえるようにインターネットも家庭に浸透していきます。桂氏の著書はそうしたネット環境が急速に整備されていくまさにその渦中で書かれたわけですが、インターネットへの期待も大きかったと思われます。やがて、インターネットは「もう一つの現実」として認識されるようになります。テクノロジーによってもたらされたサイバースペースという現実。そこはあくまでも現実ではない現実であり、その外(圏外)には、依然として本当の現実がある、少なくとも当時はそう信じられていたのです。
ところが、インターネットが社会基盤(インフラストラクチャ)と位置付けられるまでに発展すると、そうした現実の他にもう一つの現実があるという図式それ自体に揺らぎが生じます。インターネットに常時接続された瞬間から、インターネットはわたしたちにとっての現実そのものになってしまった。ちょうど2000年代に入った頃です。インターネットは情報の伝達手段としての普遍性を獲得しただけでなく、経済・資本・市場を呑み込んで、現実それ自体として私たちの目の前に表れたのです。決して大げさな表現ではなく、私たちは、インターネットに接続した端末市民としてしか生きられなくなってしまった。電子デバイスの端末を使うユーザーであることにおいてのみ、平等であり自由である存在、もはや、一人の人間が人間であることも端末デバイスがなしには保証されない世界に私たちは生きているのです。
伝えるあるいは伝えられることがコミュニケーションの本義と捉えてきた社会学にとって、端末市民のコミュニケーションはどのような意味をもつのでしょうか。インターネット社会のなかのコミュニケーションのあり方を、端末市民という概念から掘り起こします。
「……としての」コミュニケーション
朝起きて家族に「おはよう」と挨拶します。朝食をとりながらTVを見て、新聞を読む。電車で年配の人に席を譲ると礼をいわれました。友人からのケータイメールにすぐ返信をします。大学の講義を聴いて、ノートをとります。昼休みに友人とおしゃべりをします。ゼミで報告をし、質問に答えます。サークル仲間と合宿の計画を話し合います。バイト先で客の注文に笑顔で応えます。仕事の後他の店員と店長のぐちを言います。家に帰って恋人に電話で甘えます。寝る前にブログを更新し、気になるサイトをチェックします。……私が他者と何かをやり取りすること、つまり「コミュニケーション」は生活にあふれています。私たちが生きることそれ自体が「コミュニケーションの束」ではないか。そう述べたうえで、立教大学社会学部社会学科教授・奥村隆氏はこう続けます。「それは、あなたにとって心地よいものですか。それとも困難さを感じるものですか」(4)。
それこそ自分にとっての最大の喜びだとすぐに答えられる人もいるでしょう。何より、友人や恋人とのおしゃべりが一番の楽しみであると。逆に、それこそ最大の苦痛だという人もいるでしょう。ゼミやバイト先で会う人たちと何をどう話せばいいのでしょうか、いつも悩んでしまう、と。ケータイメールで元気になる人もいれば、メールを見るのが憂鬱だという人もいます。SNSが浸透した私たちの社会で、今、コミュニケーションはどんな状況にあるのでしょうか。
他者(不気味な)といる恐怖と、だからこそ感じる喜びとの前で、どちらにも動けずにとまどっている私を想定することから、コミュニケーションのリアルを考えます。
コミュニケーション空間の変容
早稲田大学教育・総合科学学術院教授・伊藤守氏は、現代のコミュニケーション状況を SNSのLINEとTwitterを例に次のように説明します。LINEは、仲間やグループの情報交換メディアとしてメールやケータイ電話の代替物として使われている、もっとも身近で使いやすいメディアです。それだけに、リアルな対面状況とネット上の関係が地続きでシームレスにつながっているように見えますし、その意味では、内向きのクローズドメディアともいえます。他方、Twitterは、不特定多数に向けた情報発信を可能にし、一対一、一対多、そのいずれのかたちも選択可能なメディアでもあるのです。同質性がきわめて高いLINEとは対極的に、Twitterは拡散性とある種のゆるさをあわせもっています。
一見、対照的な特性をもつように見えるLINEとTwitterは、それぞれが逆の方向にベクトルを走らせているように見えながら、半円を描いて一点に収斂しているかのようにも見えます。つまり一方で、きわめて親しい同質的な集団のコミュニケーション・ネットワークで連絡やたわいもない話や感情を交換する空間、他方では匿名の見知らぬ人に向けて情報発信できる空間。この二つの空間が、じつはどちらも「他者との距離」を変えるということ以上に、「他者」の存在を感覚しない(感覚できない)空間であるという点で共通しているようにも思われるのです。そして、この空間では、「私が確かに感じたこと」を「本音」とみなして発信できる、発信してもかまわない、という性質すら付与されています。言い換えれば、感情・情動が現働化し実在化する開口部が予想もできないかたちで広がっていると伊藤氏は言います。
理路整然とした情報の流れとは対照的な、情報がどの回路を媒介して移動するか、その情報を発信した人間やそれを中継した人物にとってさえも制御できずに情報が流れる状況を、ガブリエル・タルドのコミュニケーション論を参照しながら「分子的な微粒子状の流れ」と概念化したのはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズでした。いったん流れ始めた情報は、人間の意志や目的などとは無関係に、増幅され、制御できない独自の自律性とリアリティを獲得していく。
今、必要なのは、デジタルメディアが媒介するコミュニケーション空間の変容を「分子的な微粒子状の流れ」として把握し、人間の感覚や知覚、情動と共振する「社会身体」を構想することではないでしょうか。最後に、現代社会のコミュニケーション空間についてメディア化という観点から伊藤氏に考察していただきます。
1 平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012)
2 伊藤守「社会の地すべり的な転位 コミュニケーション地平の変容と政治的情動」(『現代思想』12月号「特集:社会学の行方」青土社、2014)
3 「「期待の地平」と「再帰性」をめぐるメディア論的省察」(『映像メディア学 東京藝術大学大学院映像研究科紀要 vol.3』、2013)
4 奥村隆「第2章 Aくんへのレッスン」(『コミュニケーションの社会学』有斐閣アルマ、2009)
◎コミュニケーション/反コミュニーション
友だちは永遠ではない 社会学でつながりを考える 森真一 ちくまプライマリー新書 2014
反コミュニケーション 奥村隆 弘文堂 2013
わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か 平田オリザ 講談社現代新書 2012
現代思想のコミュニケーション的転回 高田明典 筑摩書房 2011
コミュニケーション・入門[改訂版] 心の中からインターネットまで 船津衛 有斐閣アルマ 2010
コミュニケーションの社会学 長谷正人、奥村隆編 有斐閣アルマ 2009
友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル 土井隆義 ちくま新書 2008
ブッシュマンとして生きる 原野で考えることばと身体 菅原和孝 中公新書 2004
社会は笑う ボケとツッコミの人間学 太田省一 青弓社 2002
みんなぼっちの世界 若者たちの東京・神戸90’s・展開編 富田英典、藤村正之編 恒星社厚生閣 1999
他者といる技法 コミュニケーションの社会学 奥村隆 日本評論社 1998
コミュニケーションという謎 シリーズ発達と障害を探る 秦野悦子、やまだようこ編 ミネルヴァ書房 1998
社会学になにができるか 奥村隆編 八千代出版 1997
◎メディアの臨界
メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために E・フータモ 太田純貴訳 NTT出版 2015
LOOP 映像メディア学 vol.5 東京藝術大学大学院映像研究科紀要 東京藝術大学大学院映像研究科編集・発行 左右社 2015
メディアはマッサージである M・マクルーハン、Q・フィオーレ 門林岳史訳 河出文庫 2015
映像メディア学 vol.1~4 東京藝術大学大学院映像研究科紀要 東京藝術大学大学院映像研究科編集・発行 左右社 ~2014
メディアの臨界 紙と電子のはざまで 粉川哲夫 せりか書房 2014
表象08 ポストメディウム表象の行方・ドゥルーズの時代 表象文化論学会編 表象文化論学会 2014
無縁のメディア 粉川哲夫、三田格 Pヴァイン発行/スペースシャワーネットワーク発売 2013
イメージ 視覚とメディア J・バージャー 伊藤俊治訳 筑摩書房 2013
メディア文化論 メディアを学ぶ人のための15話 吉見俊哉編 有斐閣アルマ 2012
メディアと日本人 変わりゆく日常 橋元良明 岩波新書 2011
瞬間の君臨 リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 P・ヴィリリオ 土屋進訳 新評論 2003
[新版]インタラクティヴ・マインド 近代図書館からコンピュータ・ネットワークへ 桂英史 NTT出版 2002
速度と政治 地政学から時政学へ P・ヴィリリオ 市田良彦訳 平凡社 2001
メディア論的思考 端末市民の連帯意識とその深層 桂英史 青弓社 1996
電子メディア論 身体のメディア的変容 大澤真幸 新曜社 1995
メディア論 人間拡張の諸相 M・マクルーハン 栗原裕、河本仲聖訳 みすず書房 1987
グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成 M・マクルーハン 森常治訳 みすず書房 1986
メディア論のための積木箱 H・M・エンツェンスべルガ― 中野孝次、大久保健治訳 河出書房新社 1975
◎つながる/つながらない
ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか 香山リカ 朝日新書 2014
つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの D・ボイド 野中モモ訳 草思社 2014
ソーシャルメディア中毒 つながりに溺れる人たち 髙橋暁子 幻冬舎 2014
別のしかたで:ツイッター哲学 千葉雅也 河出書房新社 2014
弱いつながり 検索ワードを探す旅 東浩紀 幻冬舎 2014
〈つながる/つながらない〉の社会学 個人化する時代のコミュニティのかたち 柄本三代子、小林由香他 弘文堂 2014
本当は怖いソーシャルメディア 2015年「メディア融合時代」を考える 山田順 小学館101新書 2012
つながり進化論 ネット世代はなぜリア充を求めるのか 小川克彦 中公新書 2011
日本的ソーシャルメディアの未来 濱野智史、佐々木博 技術評論社 2011
◎情動・模倣・新しい唯物論
雑誌『現代思想』6月号「特集 新しい唯物論」青土社 2015
雑誌『現代思想』1月号「特集 現代思想の新展開 思弁的実在論と新しい唯物論」青土社 2015
アフター・テレビジョン・スタディーズ 伊藤守、毛利嘉孝編 せりか書房 2014
情動の権力 伊藤守 メディアと共振する身体 せりか書房 2013
ガブリエル・タルド 贈与とアソシアシオンの体制へ 中倉智徳 洛北出版 2011
千のプラトー 上中下 G・ドゥルーズ 宇野邦一他訳 河出文庫 2010
記憶・暴力・システム メディア文化の政治学 伊藤守 法政大学出版局 2005
[新装版] 世論と群衆 G・タルド 稲葉三千男訳 未来社 1989
出来事のポリティクス M・ラッツァラート 村澤真保呂、中倉智徳訳 洛北出版 2008
差異と反復 上下 G・ドゥルーズ 財津理訳 河出文庫 2007
スピノザ 共同性のポリティクス 浅野俊哉 洛北出版 2006
マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために P・ヴィルノ 廣瀬純訳 月曜社 2004