世界の破れと可能性としての「霊性」

末木文美士
1949年生まれ。専門は宗教学、仏教学。東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書に『霊性の日本思想:境界を越えて結びあう』(岩波書店 2025)、『死者と霊性の哲学:ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧』(朝日新書 2022)、編著に『死者と霊性:近代を問い直す』(岩波新書 2021)他。
じつは「ほころび」や「破れ」あるいは「穴」があって、別の世界に通じている。
だから、この世界はそれほど安定しているわけではないんですね。
生者の世界と死者の世界が交差する場

立川武蔵
1942年生まれ。国立民族学博物館名誉教授。ハーバード大学大学院にてPh.D.取得。文学博士。専門は仏教学、インド学。著書に『死と生の仏教哲学:親鸞と空海を読む』(角川選書 2023)、『三人のブッダ』(春秋社 2019)、『死後の世界:東アジア宗教の回廊をゆく』(ぷねうま舎 2017)他多数。
大日あるいは密教の神々は「世界」に内在して世界を浄化しようとします。
「世界から超越しようとする力」と「世界に内在しようとする力」、
宗教にあってはこの二つは相反するものではなく、共存すべき存在なのです。
起源へ……〈精神的〉東洋と井筒俊彦の思想

安藤礼二
1967年生まれ。文芸評論。多摩美術大学美術学部芸術学科教授、同大学図書館情報センター長。著書に『井筒俊彦:起源の哲学』(慶應義塾大学出版会 2023)、『大拙』(講談社 2018)、『折口信夫』(講談社 2014)、『神々の闘争:折口信夫論』(講談社 2004)他。
イランやアフガニスタンを経ると、今度はそれが大乗仏教の道になる。
井筒の東洋哲学をもう一度かたちにするならば、それはおそらくシルクロードの哲学になると思います。
しかもそこで言う「東洋」は、地理的な東洋と精神的な東洋が重なり合う地点であるわけです。
[特別企画]

思想の現在地……『談』の40年を振り返りながら
矛盾のただなかに自らあえて踏み込んでいく愚鈍さ(ドゥルーズ)だったと思います。

死者とどうかかわるか
他者のなかの他者としての死者
私たちの日常は、相互の了解を前提として成り立っています。相互の役割や立場ははっきりしていて、そこから逸脱することはありません。そのことによって、相互の行動を予測することはできるのです。哲学者の末木文美士氏は、そのような相互了解の成り立つさまざまな「場所」の複合からなる世界を、ひとまず「公共性の領域」と定義します。
「公共性の領域」の特徴は、常に動いているということです。家庭内の私生活であっても、また親子の関係、夫婦の関係であっても、相互の位置付けは明確ですが、その領域は、公共性をもっているため動き続けています。静止することがないのがこの領域の特徴です。
ところが、そのような相互了解の成り立つ世界の裏には、相互了解をはみ出した世界が広がっています。相手を理解していると思っても、それはその人の表面に現われた一部分に過ぎません。たとえば、Aという人がBとかかわる「場所」に現れる了解可能な姿と、Cとかかわる「場所」に現れる了解可能な姿が一致することはありません。BとCが見るAは、それぞれAの異なったごく一部であり、その大部分は見えないし、見える必要もないのです⑴ 。
ここで一つの問題が発覚します。その見えない領域をはたして無視して済むのだろうかという疑問です。場合によっては、その見えない了解不可能な部分が噴出することもあり得ます。奇妙なふるまいとして許容されるうちは、それで済むかもしれませんが、たとえばそれが家庭内暴力になったら、そのまま黙認することはできなくなります。「空気が読めない」と言われている程度ならばいいかもしれませんが、それがイジメに発展したら、死に追いやることがないともいえません。了解可能な関係が、ある一線を越えた途端、了解不可能な暴力になり襲いかかります。了解可能性が裏に蔵している了解不可能な領域を他者的な領域と呼ぶこともできるでしょう。同じ人が、公共性を剥ぎ取られた途端に了解不可能な他者に変じ、それはしばしば自分にとって危険な存在となります。
もちろん、「他者」との関係は、拒絶と暴力という否定的な関係だけではありません。逆に、公共性の壁を打ち破り、自己を崩壊させて、一体化へ向かうこともあります。それは、既存の世界の硬直を揺るがして、新しい秩序の構築へ向かう力を生み出す源泉となることもあるかもしれません。「他者」の出現は、自分を自分のままではいられなくするのです。
まったく感知されない他者もあります。その代表こそ死者に他なりません。確かに葬儀や法要、あるいは慰霊などの儀礼においては、死者が現れ、そこで私たちは積極的に死者とかかわることになります。あるいは夢のなかに突如死者が立ち現れることもあるかもしれません。時に死者は不意に顔を現し、私たちを震撼させます。死者たちによって、不意打ちを食らわされるのです⑴。
私たちと死者との間には、公共の言葉は存在しません。通じ合う言葉そのものがないのです。そうであるにもかかわらず、私たちは死者とかかわりなく生きることもできないのです。否が応でも、死者とかかわらざるを得ない。生きている人たちの他者性は、いわば公共性の裏側に他者性を蔵しているので、それが思いがけず出現するのです。それに対して、死者ははじめから公共的ではあり得ない。その意味で、死者はまったき他者であり、他者のなかの他者であり、他者の典型といってもよい存在です。
二つの大震災が死者を呼び覚ます
末木氏が死者の問題を取り上げるようになったのは、2001年頃からだと言います。じつはそれ以前から、死という問題を自らの問題として考え続けていたと末木氏は述懐します。ただ、自らの死を問題にする限り、生きている間に死を体験することはできないし、それを体験した時はもはや通常の言葉で語ることは困難です。いずれにしても、直接死の問題にコミットすることは永遠に不可能だと思っていたと末木氏は言いました。
その矛盾の典型を末木氏は、ハイデガーに見出します。ハイデガーは、「死への先駆的決意」によって、人間は本来性を取り戻すことができると説きました。ところが、どんなに先駆的に到達しようとしても、死そのものに達することは不可能です。いうまでもなく、生の立場から死を見るという限界を突破することはできません。死なない限り死を経験することはできません。しかし、死んでしまうと、今度は、死そのものを語ることができなくなるのです。
しかし、自らの死ではなく、他者の死ということであれば、多くの人が経験していることです。これまで身近な人の死を体験しなかった人はおそらくいないはずです。死者は不在によって生者に対して大きな力を働かせます。生者を恨む死者、生者を守る死者、死者もまたさまざまな相貌をもちます。それならば、自らの死から、他者の死、あるいは死者としての他者へと問題をずらしてみるのです。死者の問題を哲学するには、じつはこうした操作が必要だと末木氏は言います。
確かに従来の哲学の常識では死者は問題になりません。「存在者」の「存在」が問題とされるような存在論的な観点からは、そもそも存在するとも、しないともいえない死者は、問題として取り上げようもないからです。
しばしば哲学者は問題のありかを間違えて、死者は存在するか否か、すなわち、死後の存在はあるのか、と問います。しかし、本当の問題はじつはそこではない。存在しようがしまいが、死者が生者に対して与える衝撃は間違いなく大きい。私たちは死者とどのような関係を結ぶかを考えなければいけない。それ故、哲学的にいえば、少なくとも現象学的には十分に議論の対象となり得るのです。現象学とは、私たちに対して、何ものかがどのように現われるかという現われ方を問題にする方法だからです。
死者を突き詰めていくと、神々や仏たちと同じように他者と見ることができます。多神教的な神々は、西洋の哲学ではその位置付けがなかなか理論的に解明できません。一神教的な観点からは、ともすれば多神教は一神教以前の原始的な宗教と見られ、本格的な検討に値しないものと考えられていました。それに対して、仏教はキリスト教に対抗し得る宗教と考えられ、理論的にも考究されましたが、その際、多数の仏や菩薩たちの存在には十分に目が向けられてきませんでした。仏・菩薩たちは、「空」とか「無」に吸収されるものと見られ、それぞれ個別性をもった仏・菩薩たちは単なる方便と考えられ、仏教の本質とはみなされなかったのです。
しかし、神々や仏や菩薩を単なる未開の多神教や方便として済ませることができるのでしょうか。彼らは見えないものであるし、またご利益を願ったからといって、それ相応の見返りを与えてくれるとも限りません。それでも、神仏に手を合わせることは、神仏と何かの関係をもつことになります。伝統的な表現を使えば、「縁を結ぶ」ということです。
2011年の3・11の東日本大震災の後で、死者の問題は一気に大きく注目されるようになりました。1995年の阪神・淡路大震災の際も多数の死者を出しましたが、その時は死者の問題はそれほど大きな話題にはなりませんでした。そこには、地域差や時代の大きな変化があったと思われます。マスコミでも死者の問題が大きく取り上げられるようになり、あまりに安易に死者が語られるようになってしまった。そのなかで、死者の哲学がいかにして可能か、改めてしっかりと考えなければならないでしょう。
死者が、かつては公共性をもち得る生者として存在し、今は公共性の領域を離れて不在である他者とすれば、神仏は最初から公共性のなかに入ってこない他者です。それゆえ、他者としての性格は必ずしも死者と同じとはいえませんが、やはり死者と同様に私たちが関係をもつ何者かなのです⑵。
最初にお尋ねしたのは、東京大学名誉教授で宗教学がご専門の末木文美士氏です。はたして仏教でいう法身・真如への深化と超越神への世界の超越とは相互に対立的で、相容れないものなのでしょうか。この問題は、十分慎重に考える必要がある、と末木文美士氏は言います。レヴィナスの用語を使えば、「全体性」と「無限」とは本当に対立的なのか、ということです。あるいはこう言い換えることもできます。神秘主義と超越神とは両立し得るものなのか、と。安易な折衷はしてはならないが、末木氏は相互に排他的ではないという予測はできると付け加えます。というのも、法身・真如への沈潜から、そのままずっと奥まで進んだ時、はたして世界の「破れ」がないといえるだろうか、という疑問があるからです。
他者=霊性的世界もまた、完結し、閉鎖されたものではないはずです。その「破れ」が、さらに他者=霊性的世界の「外」に通ずる「穴」となるならば、他者=霊性的世界を超越した「存在なき神」に行き当たることも、十分にあり得るのではないでしょうか。そうだとすれば、超越神的世界と神秘主義的世界とは必ずしも相反的とはいえないのではないか、と思われるからです。今日他者=霊性的世界を考える意味は、まさにここにあると思われます。
われわれは、この世とあの世、すなわち生者の世界と死者の世界の間で生きています。あの世とこの世の間にある生と死の交わりは、仏教が常に扱ってきた問題です。仏教にとって世界とは、生命あるものと死の世界が交差する場です。そこは、生者の世界と死者の世界が唯一交わり続ける場所である限り、生きている者たちが死者にどのように向き合うのか、生者自身が考える場でもあるのです。お尋ねしたのは、国立民族学博物館名誉教授で仏教学、インド学がご専門の立川武蔵氏です。
井筒俊彦氏はイスラム思想史の研究者で、コーランをはじめてアラビア語から日本語に翻訳して紹介した人として知られています。井筒氏がなぜコーランに関心をもったのかといえば、それはコーランが神の言葉だからだというのです。神が一人の人間を選び、預言者(神の言葉を預かる者)としてその人の口を借りて言葉を発する。まさに究極の聖なる言葉です。それは実際に歴史のなかで起こったことであり、いまだに世界を揺り動かしています。井筒氏は、イスラムに興味をもったから預言者を研究したのではなく、預言者に興味をもったから、預言者がどういう場所に、どのような現れ方をしたのか、イスラムを通して探究し続けたのです。お尋ねしたのは、多摩美術大学美術学部芸術学科教授で文芸評論家の安藤礼二氏です。
(佐藤真)
(1)末木文美士『死者と霊性の哲学:ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧』(朝日新書 2022) p74-77
(2)末木文美士『死者と霊性の哲学:ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧』(朝日新書 2022) p7p-83

◎死者とは誰か
霊性の日本思想:境界を越えて結びあう 末木文美士 岩波書店 2025
RITA MAGAZINE2 死者とテクノロジー 中島岳志編 ミシマ社 2025
死者の結婚:慰霊のフォークロア 櫻井義秀 法蔵館文庫 2024
死と生の仏教哲学:親鸞と空海を読む 立川武蔵 角川選書 2023
死者たちへの捧げもの 安藤礼二 青土社 2023
死生観を問う:万葉集から金子みすゞへ 島薗進 朝日選書 2023
死者と霊性の哲学:ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧 末木文美士 朝日新書 2022
魂にふれる:大震災と、生きている死者 増補新版 若松英輔 亜紀書房 2021
モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと 奥野克巳 亜紀書房 2020
死後の世界:東アジア宗教の回廊をゆく 立川武蔵 ぷねうま舎 2017
死者の書 折口信夫 角川ソフィア文庫文庫 2017
死者との対話 若松英輔 トランスビュー 2012
恐山:死者のいる場所 南直哉 新潮新書 2012
◎霊性の変容
霊的最前線に立て!:オカルト・アンダーグラウンド全史 武田崇元、横山茂雄 国書刊行会 2024
神智学と仏教 吉永進一 法藏館 2021
熊楠:生命と霊性 安藤礼二 河出書房新社 2020
レンマ学 中沢新一 講談社 2019
〈精神的〉東洋哲学:顕現しないものの現象学 永井晋 知泉書館 2018
湯殿山の哲学:修験と花と存在と 山内志朗 ぷねうま舎 2017
霊性の哲学 若松英輔 角川選書 2015
現代霊性論 内田樹、釈徹宗 講談社文庫 2013
霊性の文学 言霊の力 鎌田東二 角川ソフィア文庫 2010
日本的霊性 完全版 鈴木大拙 角川ソフィア文庫 2010
霊性の宗教:パウル・ティリッヒ晩年の思想 石浜弘道 北樹出版 2010
宗教と霊性 鎌田東二、中沢新一 角川選書 1995
神と仏の対話:神仏習合の精神史 新装版 西田正好 工作舎 1992
◎神秘の扉
シュタイナー哲学入門:もう一つの近代思想史 高橋巖 岩波現代文庫 2015
天使論 笠井叡 現代思潮新社 2013
シュタイナー:死について R・シュタイナー 高橋巖訳 春秋社 2011
アカシャ年代記より 新装版 R・シュタイナー 高橋巖訳 国書刊行会 2003
神秘学概論 R・シュタイナー 高橋巖訳 ちくま学芸書房 1998
エニアグラム進化論:グルジエフを超えて 前田樹子 春秋社 1994
ベルゼバブの孫への話:人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判 G・I・グルジェフ 浅井雅志訳 平河出版社 1990
神智学:超感覚的世界の認識と人間の本質への導き R・シュタイナー 高橋巖訳 シュタイナー選集第一巻 イザラ書房 1988
神秘学カタログ 荒俣宏、鎌田東二編 河出書房新社 1987
グルジェフ・ワーク:生涯と思想 K・R・スピース 武邑光裕訳 平河出版社 1982
雑誌 DECODE 1 武邑光裕編 オフィス・デコード/東邦出版 1982
世界神秘学事典 荒俣宏編 平河出版社 1981
◎聖なるもののパースペクティブ
絶望でなく希望を:明日を生きるための哲学 末木文美士 未来哲学双書 未来哲学研究所/ぷねうま舎 2023
井筒俊彦:起源の哲学 安藤礼二 慶應義塾大学出版会 2023
三人のブッダ 立川武蔵 春秋社 2019
井筒俊彦:言語の根源と哲学の発生 増補新版 安藤礼二、若松英輔責任編集 河出書房新社 2017
井筒俊彦全集 全12巻+別巻 井筒俊彦 木下雄介解題・索引 慶應義塾大学出版会 2013 ~16
井筒俊彦:叡智の哲学 若松英輔 慶應義塾大学出版会 2011
聖なるもの俗なるもの〈ブッディスト・セオロジーI 〉 立川武蔵 講談社選書メチエ 2006
意識と本質:精神的東洋を索めて 井筒俊彦 岩波文庫 1991