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[最新号]談 no.90 WEB版
 
特集:辻井喬と戦後日本の文化創造  セゾン文化は何を残したのか
 
表紙:吉澤美香 本文ポートレイト撮影:すべて新井卓
   
    
 

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セッション1 セゾン文化の胚胎、虚構の時代の始まり
ナビゲーター・毛利嘉孝

辻井喬
つじい・たかし=つつみ・せいじ
1927年東京生まれ。詩人・作家。
東京大学経済学部卒業。経済学博士(堤清二名義で1996年中央大学で学位取得)。西武流通グループ代表、セゾングループ代表などを歴任。現在、セゾン文化財団およびセゾン現代美術館理事長。また、日本芸術院会員、日本中国文化交流協会会長などを兼任。自身の創作活動の他に、セゾン文化財団およびセゾン現代美術館の理事長・堤清二として、舞台芸術と美術などを支援し続けている。著書に、詩集『異邦人』書肆ユリイカ、1961、『群青、わが黙示』思潮社、1992、小説『いつもと同じ春』河出書房新社、1983、『虹の岬』中央公論社、1994、『沈める城』文藝春秋、1998、『茜色の空』文藝春秋、2010、『叙情と闘争』中央公論新社、2009、他多数

私は市場経済というのは、
いくつかの前提を満たせば大変優れたシステムだと思います。
しかし市場経済が即、資本主義経済ではないと思っているんです。
それは一時的に重なっているだけの話で、そろそろ資本主義ではない
市場経済が顔を出すタイミングが来ているんじゃないかというふうにも思います。

毛利嘉孝
もうり・よしたか
1963年長野県生まれ。
京都大学経済学部卒業。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにてPh.D(sociology)を取得。九州大学助教授を経て、現在、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科准教授。社会学、文化研究専攻。著書に、『ストリートの思想 転換期としての1990年代』NHKブックス、2010、『文化=政治 グローバリゼーション時代の空間叛乱』月曜社、2003、他。

セゾンが西武と呼ばれていた時代は、
ただただ余裕もなく実験が繰り返されていたような状況だった。
資本主義を超える何か他のロジックがあるんじゃないかとまじめに信じてやってきて、
その夢が八〇年代半ばにパッと覚める。
これが虚構だったんじゃないかという認識は、
事後的にその時生まれたという感じを僕はずっともっているんです。

大澤真幸
おおさわ・まさち
1958年長野県生まれ。社会学者。
東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。思想月刊誌『THINKING「O」』(左右社)を主宰。著書に、『量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う』講談社、2010、『生きるための自由論』河出ブックス、2010、他多数。

文学者としての辻井喬さんは虚構の時代的なものではなくて理想の時代的な文学をやるんです。
ところが一方でビジネスマンとしての堤清二さんは、ビジネスマンでありながら、ビジネスとは遊離した虚構の時代的なものをつくる。
そのように複雑に捩れながら、一つになって結びついている。
それがすごく面白いし、僕らが学ぶものがあるんじゃないかと思うんです。
 
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セッション2 サブカルチャーとメディアの進展
ナビゲーター・毛利嘉孝

香山リカ
かやま・りか
1960年北海道生まれ。精神科医。
東京医科大学卒業。現在、立教大学現代心理学部映像身体学科教授。臨床経験を生かして、新聞、雑誌などの各メディアで、社会批評、文化批評、書評など幅広く活躍する一方、現代人の「心の病」について洞察を続けている。著書に、『母親はなぜ生きづらいか』講談社現代新書、2010、『くらべない幸せ 「誰か」に振り回されない生き方』大和書房、2010、『うつで困ったときに開く本』朝日新書、2009、『ポケットは80年代がいっぱい』バジリコ、2008、他多数。

カワイイという名のもとに、モノも動物も政治家までも、全部垣根を取っ払って等価値にしてしまう。
カワイイというのはポジティブな価値なので、カワイければいいじゃん?という一言で済んでしまう。
これってとても西武文化的だったと思うんです。つまり西武・セゾン文化は「女性的な文化」だということですよね。




辻井喬
サブカルチャーというものが社会的に認められ、
市民権をもつのは、一九七〇年の大阪万博がきっかけだったと思います。
万博には、コピーライターもグラフィックデザイナーもアートディレクターも、
また武満徹のような作曲家も、岡本太郎のような絵描きも、
サブ/メインを問わず参加した。
それまであったサブとメインという身分差別みたいな仕切りがとれたわけです。




毛利嘉孝
八〇年代のサブカルチャーにおいて西武が果たした役割の一つは、
海外の新しい文化を紹介したことです。
いろんなアーチストがやってきてワクワクさせられたし、
すごく外を向いていたという感じがする。
サブカルチャーとはいいながら、
それなりの文化のインフラをつくったと思うんですね。
 


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セッション3 戦後日本文化とセゾンの80年代
ナビゲーター・毛利嘉孝

北川フラム
きたがわ・ふらむ
1946年新潟生まれ。アートディレクター、メディエーター。(株)アートフロントギャラリー代表。
東京藝術大学卒業。現在、女子美術大学教授。ジャンルを越えて、さまざまな展覧会、イベント、まちづくりにかかわる。近年の展覧会、プロジェクトに、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」「にいがた水と土の芸術祭」「瀬戸内国際芸術祭」など。著作に、『大地の芸術祭』角川学芸出版、2010、『希望の美術・協働の夢 北川フラムの40年』角川書店、2005、他。




西武はとにかくいろんな多様なものを受け入れようとした。これは戦後でも珍しいことなんです。
ファインアートをやりながら、それと同様に生活や食といった分野にも目配りを怠らない。
逆に今は美術が食べ物などの方にどんどん広がっているでしょう。
いまだに西武ファンが多いというのは、生活や多様さに対する感度をもっていたからだと思います。




辻井喬
それまで西洋の美術館というのは、他国を植民地にするために攻め込んでいって、
そこの古いものを戦利品として持ち帰って飾るという、王様が勝利を誇示する場所としてあった。
そんなみっともない美術館は死んでもつくりたくない。
創造するということは、常に破壊を伴うということだと肝に銘じていると、もう共産党も右翼もない。
それはまったく異次元の世界です。




毛利嘉孝
ポップアートを西武はずいぶん早い時期から紹介していく。
また、北川さんはもっとダイレクトに、
「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」(88年)など、政治と積極的にかかわられてきた。
お二人ともある政治体験を経て美術にかかわってきたというのは、なんなのだろうと思うんですね。
70〜80年代に共産党に代表される左派的な政治が影響力を失っていく中で
そこにこそ芸術の役割があったというということに、
お二人は気づいておられたと思うんです。

 

editor's note

セゾン文化は何を残したのか

辻井喬氏の目指したものは

 一般に「西武/セゾン文化」(以下セゾン文化に統一)は、 1980年代を象徴する文化、とりわけバブル景気に踊った高度消費社会を代表する文化として語られることが多いようですが、本当にそうだったのでしょうか。辻井喬(=堤清二)氏は、上野千鶴子氏との対談(『ポスト消費社会のゆくえ』)で、次のように語っています。
 感性が充分に発揮された西武百貨店のピークは、いつだったと感じておられますか、という上野氏の質問に答えて、「75年から82、3年ぐらいまでですね。日本の大衆消費社会の真っただ中でした。(…)渋谷のパルコであれば、〈裸を見るな。裸になれ。〉(75年)、百貨店であれば〈不思議、大好き。〉(81年)だとか、そういう広告を打てば打っただけの反応がそれまではありました。ところが、〈うれしいね、サッちゃん。〉(84年)あたりからキャンペーンの手応えがなくなった」と言うのです。
 この発言にしたがえば、辻井喬氏にとってのセゾン文化のピークは、バブル景気によって象徴される80年代後半の文化ではなく、70年代末から80年代初頭だったことになります。それは、バブル景気が始まる前であり、西武がまだ「セゾン」という名称を用いずに「西武流通グループ」と名乗っていた時代です。一般にセゾングループが、積極的に文化戦略を展開したとされる80年代後半は、すでにその勢いを失っていたのです。あえて言えば、80年代後半のバブル期のセゾングループの文化戦略は、それ以前に目指していたものとどこかズレてしまっていたのかもしれません。
 一般に議論されているとおり、1970年代前半に政治・経済・社会・文化を横断する大きな構造的な転換が起こりました。一般に近代主義からポスト近代主義(ポストモダニズム)、情報化社会、脱産業社会、ポストフォーディズムの時代などと呼ばれる、新しい動きが出てきたのがこの時期です。この時代に、経済と文化、より細かく言えば、資本主義とアートの関係が劇的に変化しました。文化や情報などが新しい資本主義の主要な「商品」として取り込まれるのがこの時代なのです。文化やアートは自律した存在であると同時に、積極的に資本主義経済の中に(肯定的であれ、批判的であれ)かかわりをもつようになります。こうした資本主義と文化の新たな動向にいち早く対応できたことが、西武百貨店、パルコを中心とする西武流通グループを発展させることになるのです。渋谷パルコのオープンが73年。この年は、西武が渋谷に本格的に進出し始めた年ですが、マクロな視点で言えば、オイルショックを受けて、それまでの近代的な資本主義がポストモダン的(後期)資本主義に向かって再編を開始する時代です。
 しかし、こうした時代の推移は、ある日突然起きるわけではありません。とくに、70年代後半から80年代初頭までは、60年代の記憶――たとえばラディカルな左派政治やカウンターカルチャー、あるいは前衛芸術の記憶など――が、まだ生々しい中でこうした変化が進行したのです。この時代に60年代とは違った形でアンダーグラウンドな自律文化が雑誌や音楽を初め、文化・アートのあらゆる領域で発展しました。西武百貨店やパルコの広告、西武美術館、西武劇場、スタジオ200などの文化催事が力をもったのは、こうした緊張関係の中で、西武流通グループがこの時代に登場したあらゆるラディカルな文化を情報発信ツールとして利用することに成功したからではないかと思われます。80年代後半は、60年代の記憶が失われ、70年代中盤から80年代初頭に登場した、新しい文化のエッジが失われる代わりに、新しい企業文化の中に完全に吸収されていく時代でした。今日一般に80年代文化として総称される文化は、この時期に完成します。一般に流布している「セゾン文化」のイメージもまたこの時期に形成されたのです。
 70年代から80年代の変遷を探りながら、とくにまだ西武流通グループと名乗っていた70年初頭から85年までの間に辻井喬氏と西武流通グループが目指していたものは何か、そして、それがその時代およびその後の時代にどのような影響を与えたのか。今号は、セゾン文化を牽引した辻井喬氏と三人のゲストとのディスカッションを通して、以上のテーマを検討したいと思います。ディスカッションには、東京藝術大学准教授・毛利嘉孝氏に参加いただき、全体のナビゲーションをお願いしました(ディスカッションは、2010年12月6日、7日、JTアートホール アフィニスにて公開トークセッションという形で行われました)。


理想と虚構のはざまで

 まず、セゾン文化が、その輪郭を明らかにする80年代について考えます。より正確に言えば、70年代後半から80年代末まで。75年前後から、セゾン文化なるものを定着させた銀座セゾン劇場がオープンする87年前後までの十数年間です。簡単にその足取りをたどってみましょう。  この十数年間に文化醸成の拠点となる場、スペースがほぼすべて出そろいます。73年に渋谷にパルコができますが、その開業にあわせてオープンしたのが西武劇場(85年からパルコ劇場)。座席数478席の小劇場ながら、ミュージカルや大衆演劇などポピュラリティのある出し物を上演する場として定着。また、同年セゾン文化の活動のいわば心臓部ともいえる西武百貨店文化事業部が設立されます。美術館の運営を中心に、劇場の企画運営も、西武百貨店文化事業部の役割となります。  75年には、セゾン文化の主軸となる西武美術館がオープンします。ちなみに初代館長は辻井喬氏でした。今でいうミュージアムショップの先駆であるアール・ヴィヴァン、自前の書店、西武ブックセンター(百貨店では初)も同年に営業を開始します。79年には、多目的スペースのスタジオ200が西武百貨店(池袋店)の8階にオープンします。映画、演劇、ダンス、音楽、大衆演劇、トークショー、ワークショップなど、ジャンルにこだわらないスタジオ200の活動こそ最も“セゾン的”と言えるものでした。出版活動(パルコ出版、リブロポート)が始動するのもこの時期です。意外に見過ごされているのがテレビ番組の制作です。「セゾン・スペシャル(西武スペシャル)」の第1回作品「あめゆきさん」が放映されたのがこの年で、以後1年に、2、3本のペースで88年まで続きます。また、西武/セゾン・グループがスポンサーになり、毎回著名人を取りあげるドキュメンタリー作品、通称“3分CM”が話題になりました。  81年には、現代美術を展示する軽井沢高輪美術館がオープンします。我が国初の回顧展である「マルセル・デュシャン展」は、軽井沢高輪美術館のオープニング記念として開催されたものでした(同年、西武美術館で巡回展)。83年には、地下に映画館のシネ・ヴィヴァン(オープニングはジャン=リュック・ゴダール監督「パッション」)、最上階にセゾンの映像制作会社セディックが入った音・映像の専門館・六本木WAVEが誕生します。CDやビデオの販売だけでなく、音・映像を中心とするメディアの発信基地としてセゾン文化のクリエイティヴを担う場でもありました。85年には、西友制作映画として「火まつり」がつくられます。以後89年まで6本の劇場用映画が制作されました。
 87年には、銀座セゾン劇場がオープンします。座席数774席のやや大きな劇場。内外の現代劇を中心に上演する辻井氏が待ち望んだ本格的な劇場です。同年セゾン文化財団が設立されます。芸術文化活動の助成、制作などを行う基盤が整いました。  こうして見ると、80年代(中頃までという限定つきですが)こそセゾン文化なるものが全面的に開花し、また、セゾン(西武流通グループ)にとっても成熟期にあたる、セゾンの黄金期だったといえます。一般にセゾン文化というと80年代の後半、いわゆるバブル景気に象徴される文化を想像されがちです。しかし、辻井氏の脳裏にあったセゾン文化なるものは、むしろそれより前の、あえて言えば誕生期、形成期にあり、したがってそのピークも後半ではなく、80年代の中頃までということになります。セゾン文化を検証するにあたり積極的に文化戦略を展開したと考えられている後半ではなく、展開以前のいわば胚胎期に的を絞りたいと思うゆえんです。
 ところで、社会学者の大澤真幸氏は、日本の戦後を大きく三つに区切り、それぞれの時代相を分析し、戦後精神の理論化に取り組んでいます。大澤氏は、社会学者・見田宗介氏が提起する「理想の時代/夢の時代/虚構の時代」という戦後史の区分(45年間を15年ごとに分ける)とその遷移に触発されて、新たに「不可能性の時代」を加えた、独自の時代区分を行っています。
 人間は、現実に意味を与え、秩序立てることで生きています。ただ、現実が秩序を有するためには、その秩序の参照点としてかならず「反現実」が措定されます。現実は、反現実との関係があって初めて、現実のすべてが意味をもつものとして立ち現れるというのです。そして、反現実のとして、「理想」、「夢」、「虚構」があると見田宗介氏は結論付けた、と大澤氏は分析します。
 大澤氏は、「夢」という語が理想と虚構の両者に分かれうるとして、この三段階を「理想の時代(45~70年)から虚構の時代(75~95年)」という二段階に整理し直し、新たに95年以降を「不可能性の時代」の始まりとする考えを披歴しました。二つに分けられた理想と虚構はどのように違うのでしょうか。どちらも、反現実であり、可能世界に属しています。けれども、反現実の度合い、現実との距離の程度が違っていると大澤氏は言います。理想は、反現実ではあっても、未来においてそれがやがて現実化することが期待されている。その意味で、理想は現実と地続きです。「それに対して、虚構としての反現実は、それが現実となりうるかどうかということには」(「〈虚構の時代〉における/を越える村上春樹」『THINKING「O」』4号所収)です。可能は、「現実ではない」ということに力点が置かれています。言い換えれば、理想は、なお広義の現実に含まれるけれども、虚構は、もはや現実の範疇外にある、というわけです。  大澤氏のこの区分けに準拠すれば、80年代とは虚構時代の真っただ中、その渦中の時代だということになります。理想の時代の残滓を確認しつつ、虚構という反現実さえももはや不可能となる時代が到来しつつあることを予見しながら、その渦中において虚構にすがり続けることでかろうじて現実に接合しえた時代、それが80年代ではないかというのが大澤氏の仮説です。
 セゾン文化は、辻井氏の文化戦略によるものだったという意見があります。辻井氏本人の思わくはどうであれ、結果として文化的装いが西武/セゾンという企業体の好感度を高めたことは間違いないでしょう。セゾンがイメージというものを巧みに利用して、拡大・成長路線を突き進んだことも紛れもない事実です。実際、訴求すべき「もの・こと」を欠いたシニフィアン(記号作用)だけで成立するような広告をセゾンは打ち続けました。当時のパルコの広告は、イメージそれ自体で完結するような、“後にも先にも存在しない”(上野千鶴子)まったく新しい企業広告の実験でした。イメージ操作によって実体と遊離した虚構としてのセゾン。セゾンが虚構の時代の申し子といわれてもあながち間違いではないし、セゾン文化がその志とは裏腹に、そうしたイメージ生成に加担したのではないかという言い方も否定はできません。
 そこで、まず大澤真幸氏との対話から始めます。テーマは「セゾン文化の胚胎、虚構の時代の始まり」。大澤氏の立論である戦後精神の三つの区切りを切り口に、セゾン文化と80年代の特徴として析出される「虚構性」の関係について検討します。

文化が街をつくる、80年代の渋谷を例に

 二番目のテーマは「サブカルチャーとメディアの進展」。精神科医・香山リカ氏との対話です。今や雑誌、新聞、テレビにその名前を見ない日はないくらい八面六臂の活躍を見せる香山氏ですが、その活動の出発点となったのが80年代初頭の渋谷でした。しかも、そこにセゾン文化が深くかかわっているのです。
 香山氏は著書『ポケットは80年代がいっぱい』で、自分がものを書き始めたきっかけは工作舎発行の『遊』で、最初に活字になったのは自動販売機で売られていた『HEAVEN』だったと記しています。工作舎は東大の駒場キャンパスの裏側、渋谷区松濤に事務所を構えていましたし、『HEAVEN』の編集部は渋谷にあったとあります。その二つの雑誌との出会いがあって、香山氏は以後渋谷に足しげく通うようになりました。当時、香山氏はまだ医大の学生。しかし、人一倍旺盛な好奇心と持ち前の行動力で、あっという間に両手、両足におさまらないほどの人脈を手に入れてしまいます。とはいえ、そこでつながりを得た人々の多くは大手出版社や放送局とは縁のない、いわば超マイナーな人たちで、今でいうサブカルのオピニオンたちでした。じつはセゾンの人脈の末端には、そうしたサブカルチャーの担い手たちがいっぱいいて、日々面白いことやあやしいことをたくらんでいたらしいことが書かれています。新人類、ニューアカ、テクノやそれらを象徴するYMOの存在が自分の原点であると言ってはばからない香山氏。そのいずれもがセゾン文化となんらかのかかわりをもつものであるとしたら、香山氏とセゾン文化のつながりは、相当に強いことが想像されます。
 ところで、辻井喬氏は、73年の渋谷パルコ出店に際して、はっきりと、これは公園通りを主軸にした新たな「まちづくり」である、と述べています。商業ビルの中にあえて物販だけではなく文化装置を入れ込む。劇場のある商業施設というコンセプトは、辻井氏にとってきわめて意図的なものでした。その意味では、セゾン文化は渋谷においては、文化戦略の一つと位置付けられても否定はできないでしょう。ただ、そのこと以上に筆者が興味をもつのは、それが意図とは別に(意図を越えて)、あえて言えばより過激な発展を遂げてしまったことです。アヴァンギャルドなポップマガジン『ビックリハウス』の発行や「パルコ・モダーンコレクション」というパンク、ニューウェーヴのライブ、シードホール(西武百貨店渋谷店シード館)ではなんとウィリアム・S・バロウズの展覧会を開催するという快挙(怪挙!?)を成し遂げます。まさにサブカルチャーは渋谷に起源をもつ、そのかなりの部分をセゾン文化が負っていたらしいことがうかがえるのです。ちなみに、香山氏は『ビックリハウス』に何度か投稿し、「モダーンコレクション」(西武劇場)にはミュージシャンとして出演しています。
 ここでは、香山リカ氏の原風景である80年代の渋谷を紹介していただきながら、サブカルチャーとのかかわりの中で、セゾン文化がつくり出した新しい価値観について議論していただきます。


セゾンはアートに何を見たのか

 三番目のテーマは、「戦後日本文化とセゾンの八〇年代」。セゾン文化が、では、我が国の文化にどのような影響を与えたか、今回の三つのディスカッションのいわば中心となるテーマについて議論していただきます。対話者は、アートディレクターの北川フラム氏です。
 セゾン文化とは何か、試みにそう尋ねてみると、それは文化戦略であるという答えが返ってきそうです。私たちの多くは、セゾン文化をそのような、つまり西武/セゾンという企業イメージを高めるための方策の一つとして見ていました。辻井氏自身は、戦略という言葉を実際に使ってはいましたが、それは「戦略的」な意味合いが強かったようです。要するに、社内を説得するための方便として、「文化戦略」という言葉を、いわば意図的に、戦略的に使っていたというのです(『セゾン文化は何を夢みた』の永江朗氏の質問に答えて)。それはともかくとしても、ことアートに関しては、たぶんに戦略的なところが強くあり、だが、それゆえに、セゾン文化の特異性が際立っていたのではないかと、今更ながら思えてくるのです。
 西武美術館の展覧会を特徴付けるものとして、現代美術の紹介を挙げることに異論はないでしょう。事実、展覧会の三つの方針のいの一番に掲げられていたのが現代美術だったといいます(西武百貨店文化事業部担当者の弁)。75年西武百貨店の12階にお目見えした西武美術館のオープニング企画は「日本現代美術の展望」。「七〇年代の日本の現代美術の多様な状況を概観し、具体的作品を通じて成熟期と転換期を迎えた現代美術の動向を探る」というものでした。以後、ジャスパー・ジョーンズ、マルセル・デュシャン、ヨーゼフ・ボイス、荒川修作、中西夏之といった内外の現代美術作家の展覧会を精力的に展開。公共の美術館はおろか民間の美術館(企業や百貨店が運営する)が現代美術を取り上げるなど皆無な時代でしたから、西武美術館の活動は強烈な印象を人々に与えました。それまで展覧会といえば評価がすでに定まったいわゆる泰西名画を鑑賞するものと思われていました。しかし、本来、アートというものは「現在・ただ今」つくられつつあるものであり、同時代的な人間の営為そのものといってもいいものです。そうであれば、展覧会とはその本義において現代的であるべきなのです。西武美術館はそれを愚直に表現したにすぎないという言い方もできるかもしれませんが、少なくとも我が国にはアートをそのように解釈し実践しようという美術館などなかったわけで、そのことだけをとっても西武美術館は異色の存在でした。
 西武美術館の活動は、だから単に新しいアートを紹介したというだけではなかったのです。アートというものが私たちにとってどのようなものなのか、より突っ込んで言うならば、アートは人間にとってどのような存在か、さらには、クリエイティヴ(創造的)であるということは、私たちにとってどのような意味をもつのか。文化創造といういわば永遠のテーマに挑み続けたのが西武美術館であり、その意味でセゾン文化(およびその活動)とはそうした文化と創造性についての終わりなき問いかけそれ自体ではなかったかと筆者は考えています。
 辻井喬氏は、75年の西武美術館オープンに際して、次のような言葉を残しています。
 「一九七五年という年に東京に作られるのは、作品収納の施設としての美術館ではなく、植民地によって蓄積された富を、作品におきかえて展示する場所でもないはずです。それは、第一に、時代の精神の拠点として機能するものであることが望ましいとすれば、美術館は、どのような内容を持って、どんな方向に作用する根拠地であったらいいのか」と。すなわち文化はすでにそこに以前からあり続けた過去のものではなくて、時代と共にあり、時代を切り開いていくという意味で現在形であるべきだと辻井氏は捉えていたのです。その具体的な実践活動が西武美術館でした。ですから、西武美術館は辻井氏にとってはセゾン文化の核にあたるものであり、セゾンの文化活動の根底にある思想そのものでもありました。
 ところで、西武美術館オープンに遅れること3年、78年に東京の草月会館で「ガウディ展」が開催されました。アントニオ・ガウディは、バルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂の建築家として今でこそ知らない人はいないほどですが、当時その名や建築物を知る者は建築家やデザイナーを除けばごくわずかでした。この知られざる建築家ガウディを、建築写真や建築図面、模型、オリジナルドローイングなどによって総合的に紹介する「ガウディ展」を企画したのがアートディレクターである北川フラム氏でした。建築界だけではなく広く一般に衝撃を与えた「ガウディ展」は、その年と翌年に全国13か所を巡回、ガウディ・ブームの下地をつくることになりました。
 北川氏は、八二年にアートフロントギャラリーを設立、本格的なアートのプロデュース活動を開始します。北川氏の名前が世に知られるきっかけとなった展覧会が『アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展』です。88年から2年間、トラックに80人のアーティスト、154点の作品を積み込み、沖縄を皮切りに全国194か所を巡回するという前代未聞のプロジェクトは、その思想性も相まって世の耳目を引くこととなります。地域に自ら足を運び、作品を通じて美術と政治、表現と社会の関係を問うという、これまで誰も考えたことのない展覧会。辻井氏の思いとはまた別の意味で、このプロジェクトは、アートと社会の同時代性を喚起する試みだったといえるでしょう。
 北川氏は、その後パブリックアートによるまちづくり「ファーレ立川」(1992年)、アートと街をつなげる「代官山インスタレーション」(1999年)など、主に生活の場と表現活動との一体化を進めるプロジェクトを数多く行っていきますが、中でも、その集大成的プロジェクトが新潟・越後妻有の「大地の芸術祭」(2000年~)であり、瀬戸内海に点在する7つの島と四国高松による「瀬戸内国際芸術祭」(2010年)でした。アートによって地域を活性化させる。言い換えれば、文化創造の創造に軸足を置いて文化を捉え直すこと。それは、まさしく現代美術の今日的バージョンだといっていいでしょう。
 セゾン文化を牽引した辻井喬氏は、80年代その拠って立つ場として都市を選択しました。とくに世界的視野から、その視線はまっすぐに東京に照準を合わせていました。セゾン文化とは、その意味で都市による都市の文化だったととりあえず言うことができそうです。それに対して、北川氏は、むしろ都市に背を向けるように、都市の周辺部へ、さらには地方へ、辺境へと向かっていきました。
 辻井氏と北川氏は、既存の仕組み(社会、制度、システム)に対して、常にラディカルであろうとする姿勢は同じで、また、表現のジャンルを美術に限らず、舞台、音楽、文学へと領域横断的に捉えているところにも共通性があります。そのような共通点の多いお二人が、その活動の拠点において、真逆といっていいような別の道をなぜ選んだのか。大変興味のあるところです。その根底には、個人的な資質の違いとは別に、文化に対する考え方の「戦略的」な位置づけの違いがあるようにも思うのです。
 もとより、ここではそのような差異性よりも、共通性にこそ注目します。共通性を解き明かすことから見えてくる80年代文化のありよう、さらには、セゾン文化の特徴について明らかにします。

 80年代後半のバブル景気の狂騒の中でかき消されてしまった西武/セゾン文化。辻井喬氏を中心に三つのディスカッションを通して、その可能性を探ります。
(佐藤真)
トークセッション開催にあたり、企画段階からご協力いただいた毛利嘉孝氏の趣旨説明を、一部引用させていただきました。

 
   editor's note[before]
 


◎セゾン文化とその周辺
セゾン文化は何を夢みた 永江朗 朝日新聞出版 2010
セゾンの挫折と再生 由井常彦他 発行・山愛書院 発売・星雲社 2010
「今泉棚」とリブロの時代 今泉正光 論創社 2010
無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉 堤清二、三浦展 中公新書 2009
ポスト消費社会のゆくえ 辻井喬、上野千鶴子 文春新書 2008
東京モンスターランド 実験アングラ・サブカルの日々 榎本了壱 晶文社 2008
書店風雲録 田口久美子 ちくま文庫 2007
武満徹を語る15の証言 紀国憲一他 小学館 2007
セゾンからそごうへ 和田繁明の闘い 佐藤敬 東洋経済新報社 2001
西武美術館・セゾン美術館の活動 1975-1999 セゾン美術館 1999
銀座セゾン劇場公演記録集 1987-1999 セゾン劇場 1999
西武のクリエイティブワーク 感度いかが? ピッ。ピッ。→不思議、大好き。 リブロポート 1982
セゾングループの成功・失敗・弱点 一見華やかなセゾン商法に見えだした綻びと危険な匂い 佐藤洋平 エール出版社 1992
所蔵品図録 セゾン現代美術館編 セゾン現代美術館 1991
セリ・セゾン 全6巻 セゾングループ史編纂委員会 リブロポート 1991~1992
スタジオ200活動誌 1979-1991 スタジオ200編 西武百貨店 1991
棚の思想 メディア革命時代の出版文化 小川道明 影書房 1990
新しいミュジオロジーを探る 西武美術館からセゾン美術館へ セゾン美術館編 セゾン美術館 リブロボート1989
ENTRANCE TO ART 西武美術館の10年 西武美術館編 リブロポート 1985

◎辻井喬と堤清二
生光 辻井喬 藤原書店 2011
茜色の空 辻井喬 文藝春秋 2010
私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家 辻井喬 新日本出版社 2010
叙情と闘争 辻井喬+堤清二回顧録 辻井喬 中央公論新社 2009
辻井喬全詩集 辻井喬 思潮社 2009
彷徨の季節の中で 辻井喬 中公文庫 2009
いつもと同じ春 辻井喬 中公文庫 2009
遠い花火 辻井喬 岩波書店 2009
古寺巡礼 辻井喬 角川春樹事務所 2009
心をつなぐ左翼の言葉 辻井喬(聞き手 浅尾大輔) かもがわ出版 2009
詩集 自伝詩のためのエスキース 辻井喬 思潮社 2008
憲法に生かす思想の言葉 辻井喬 新日本出版社 2008
終わりからの旅 辻井喬 朝日文庫 2008
新祖国論 なぜ今、反グローバリズムなのか 辻井喬 集英社 2007
暗夜遍歴 辻井喬 講談社文芸文庫 2007
書庫の母 辻井喬 講談社 2007
幻花 辻井喬 三月書房 2007
父の肖像 上下 辻井喬 新潮文庫 2006
命あまさず 小説石田波郷 辻井喬 ハルキ文庫 2005
風の生涯 上下 辻井喬 新潮文庫 2003
辻井喬コレクション 全8巻 辻井喬 河出書房新社 2002~2004
伝統の想像力 辻井喬 岩波新書 2001
ユートピアの消滅 辻井喬 集英社新書 2000
終わりなき祝祭 辻井喬 新潮文庫 1999
虹の岬 辻井喬 中公文庫 1998
深夜の唄声 辻井喬 新潮社 1997
消費社会批判 堤清二 岩波書店 1996
詩集 群青、わが黙示 辻井喬 思潮社 1992
国境の終り 世の終わりのための四章 辻井喬 福武書店 1990
不安の周辺 辻井喬 新潮文庫 1990
詩集 ようなき人の 辻井喬 思潮社 1989
けもの道は暗い 辻井喬 角川文庫 1989
詩集 鳥・虫・魚の目に泪 辻井喬 書肆山田 1987
昭和の終焉 20世紀諸概念の崩壊と未来 辻井喬、日野啓三 トレヴィル 1986
堤清二・辻井喬フィールドノート 堤清二 文藝春秋 1986
変革の透視図 脱流通産業論 改訂新版 堤清二 トレヴィル 1985
詩集 たとえて雪月花 辻井喬 青土社 1985
静かな午後 辻井喬 河出書房新社 1984
詩集 沈める城 辻井喬 思潮社 1982
詩集 箱または信号への固執 辻井喬 思潮社 1978
詩・毒・遍歴 辻井喬随想集 辻井喬 昭和出版 1975
詩集 誘導体 辻井喬 思潮社 1972
詩集 宛名のない手紙 辻井喬 紀伊國屋書店 1964
詩集 異邦人 辻井喬 書肆ユリイカ 1961
詩集 不確かな朝 辻井喬 書肆ユリイカ 1955