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[最新号]談 no.87 WEB版
 
特集:偶有性……アルスの起原
 
表紙:山崎史生 本文ポートレイト撮影:すべて秋山由樹
   
    
 

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偶有性を呼び出す手法、反転可能性としての……

今福龍太
いまふく・りゅうた
1955年東京都生まれ。メキシコ、カリブ海などでの調査を経て文化のクレオール化に注目。現在、東京外国語大学教授。文化人類学者、批評家。2002年より巡礼型の野外学舎「奄美自由大学」主宰。著書に、『群島−世界論』岩波書店、2008、『ミニマ・グラシア』岩波書店、2008、『ブラジルのホモ・ルーデンス』月曜社、2008、他多数。

輪郭を閉じること、あるいは閉じさせようとすることが
近代のシステムかもしれません。
だから輪郭ギリギリのところで輪を閉じずに、
反転可能な開放体として留まること、留まり続けること。
思想的にも日常的な実践行為においても、
完結させるために閉じることをしないということが重要ではないか。
それが偶有性を呼び出すための、究極の作法であり、
最も確実な手法だと思うんです。


 
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必然と偶然の、その間で生き物は……

長沼毅
ながぬま・たけし
1961年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群生物学類卒業、同大学大学院博士課程修了。現在、広島大学大学院生物圏科学研究科准教授。理学博士。生物海洋学、微生物生態学専攻。著書に、『宇宙が喜ぶ生命論』ちくまプライマリー新書、2009、『深海生物学への招待』月曜社、2008、『深層水「湧昇」、海を耕す!』、集英社新書、2006、他がある。

もう決定的なのは、n=1というやつ。
地球の歴史も生命の歴史も、歴史というのは一回性です。
ビッグバンをもう一回やったからといって、
地球に生命が誕生するという保証はない。
宇宙で生命のある星はとりあえず地球しか見つかっていない。
その意味でもn=1なんです。
もう一個発見されてn=2になれば、まだましな科学ができる。
でも現状では科学として体をなしていない。
地球というたった一例を見て、
これが生命を代表しているかどうかもじつはわからないです。

 




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(対談)津田一郎×木本圭子

自然の内側にあるもの
…なぜ、人々は、時間に魅了されるのか

津田一郎
つだ・いちろう
1953年岡山県生まれ。京都大学大学院理学研究科物理学第一専攻博士課程。現在、北海道大学電子科学研究所教授、北海道大学数学連携研究センターセンター長。応用数学、非線形動力学・複雑系数理科学専攻。著書に、『ダイナミックな脳 カオス的解釈』岩波書店、2002、『複雑系脳理論 「動的脳観」による脳の理解』サイエンス社、2002、『水滴系のカオス』(佐藤譲との共著)岩波書店、2004、他がある。

カオスの中に潜んでいる時間を
どう抜き出せるのかということでしょう。
分岐構造としての時間構造みたいな。
だから単純な構造ではない。
のぺっとしたクロノス的時間じゃなくて、
ものすごく複雑な構造をもっている、いわばカイロス的時間です。
言い換えれば、内在した時間なんじゃないかと思う。

木本圭子
きもと・けいこ
1958年広島県生まれ。多摩美術大学デザイン学科テキスタイルデザイン科卒業。現在、作家、武蔵野美術大学非常勤講師。展覧会、個展に、NTT Inter Communication Center(ICC)(Tokyo)、2008、 The Australian Centre for the Moving Image (ACMI) (Melbourne)、2005、MIRANSALONE(miran)、 2006、MIKAGALLERY(NewYork)、2004、他。
第10回文化庁メディア芸術祭アート部門大賞(2006)。著書に、『Imaginary・Numbers』工作舎、2003。

動き、運動は、時間という意味でいえば
キネティクスではなくてダイナミクスだという。
いわゆる時間といっても、
キネティクスの時間だと思っているから話が通じないんです。
別枠として与えられる均等な時間軸上の配置ではない。
津田さんには、だからカオス、ダイナミクスを
もっと一般の人にもアピールしてほしいです。


 

editor's note[before]

人間の創造的営為に深く関わる偶有性

 誤解を恐れずにいえば、生命とは制御できないもののことです。そして、生きものとは、その制御できないものを制御しつつ、また、その制御から自ら逃れようとするもの、その全体をいいます。いわば、その矛盾のたまものとして、生命は、いのちを生きるのです。この「あいまいの海」に漂い続けるもの、それを、ここではとりあえず人間と定義しましょう。
 「あいまいの海」、言い換えれば、半ば偶然に、半ば必然に起こること。「ある程度は予想がつくが、最終的には何が起きるかわからない」現象。この現象を、茂木健一郎氏は哲学の用語を借りて「偶有性(contingency)」と呼び、生命を、さらには自然を、偶有性という観点から捉え直すことを提唱しています。完全に予想することはできないけれども、ある程度の脈絡がある。偶然とも必然ともいえるような領域。このあいまいな「あわい」の領域こそ、われわれが生きて生活するリアルな世界であり、何よりもわれわれ自身がこの偶有性そのものであるというのです。
 この偶有性が最も発揮されるところ、それは人間の表現の場ではないでしょうか。表現の場、芸術の生まれる場所、それは「あわい」の領域です。
 今日、芸術に求められているもの、また、芸術の果たす役割とは、まさしくこの偶有性、「あわい」の中にあります。偶有性によって発見され、偶有性によって具体的なモノやコトがつくり出され、あるいはつくり替えられていく。偶有性とは、人間存在にとって、じつは最も重要なものなのかもしれません。
 人間が生きていくために、今こそ必要なのは芸術の力であり、それを可能にするのが「偶有性」といえないでしょうか。今号では、「偶有性」を手掛かりにして、人間の創造性について考えてみたいと思います。

脳科学の進展と偶有性

 近年の脳科学に対する関心はいささか常軌を逸しているように見えます。新聞、雑誌は言うに及ばず、テレビをつければ、脳科学によると云々と自称脳科学者なる人物のコメントが披露され、web上には、それこそ無数の脳に関するサイトがアップされています。まさに現代は「脳の世紀」といっていいでしょう。
 脳への過剰ともいえる関心の背景には、われわれをとりまく情報環境の著しい変化があります。デジタル・テクノロジーの飛躍的発展、インターネットの驚異的な普及によって、情報を媒介とする環境世界は、その根本から大きく変わりました。あらゆる事象、出来事は、情報と一体になっています。ものごとの裏側には、常に情報がぴったりと貼り付いている。そのことは何を意味するのか。物理的な事物や具体的な現象について、情報という側面から理解・把握されるようになったということです。いうまでもなく、この情報を扱う臓器が脳です。情報の収集、情報の集積、そして情報の処理、この一連の作業をたった一つの脳が受け持つ。脳に関心が集まる理由の一つは、こうした激変する情報環境への対応が挙げられます。まさに情報の洪水といってもいい状況にあって、いかにして情報と付き合うか、そのモデルを、日々情報と格闘している脳に見出そうというわけです。
 もう一つは、今言ったこととも関連しますが、コンピューターの性能の飛躍的向上があります。コンピューターの演算処理能力に限ってみれば、すでに人間の計算能力をはるかに凌駕するものになっています。最新のスーパーコンピューターが一秒間に処理する計算を、仮に一人の人間が行うとすると、一万年かかってもできないという報告があります。もはや、情報処理に関しては、コンピューターは脳から学ぶものはないという声が聞こえてきそうですが、事態は全く逆なのです。演算能力の圧倒的力量をもってしても、脳に太刀打ちできない。何十台とつないだスーパーコンピューターがたった一人の人間の脳に及ばないという事実。コンピューティングの根幹であるところの情報処理において、コンピューターは脳に勝てないのです。コンピューティングの急速な発展が、逆に脳機能への関心をより強くさせたといっていいかもしれません。
 デジタル・テクノロジーの進歩、コンピューターネットワークの進展が、逆説的に脳機能の優位性を明らかにさせてしまった。では、いったい何が優位だというのでしょうか。
 コンピューターの演算能力は、簡単にいえば、情報の集積、すなわち記憶の働きを言います。情報を超高速でかき集め蓄えていくこと。スーパーコンピューターは、まさにそのことにおいて、世界最高の能力を発揮する人工物です。ストレージ技術において、コンピューターは森羅万象、事物や事象のほとんどを情報として記憶=保存することが可能になりました。
 脳の働きの重要な機能にやはり記憶があります。ただ、コンピューターと少し違うのは、脳の場合、事物や事象を情報として保存するだけではないというところです。たとえば、日々体験したことを、われわれは時系列的、機械的に順番に記憶していくわけではありません。日々の体験を整理しながら重み付けをし、編集の手を加えて記憶していきます。脳の記憶は、単なる情報の保存ではありません。整理し編集することによって、新たな意味として立ちあげる、その意味それ自体を、また意味と意味の関係を記憶するのです。世界に関するさまざまなものごとを、体験を通して整理し編集し、そうした作業の中で記憶していく。その過程で、具体的なものごとだけではなく抽象的なものごとも一緒に記憶となって脳に刻まれていきます。
 この具体と抽象を分けずに記憶するところに、脳機能の大きな特徴があります。情報を意味として立ちあげる。言い換えれば、事物、事象と一体化した具体的な情報を、整理し編集することによって、意味という抽象に括り直す。意識や思惟、観念といった抽象的世界と情報と一体化した事物、事象の具体的世界。その両者を分け隔てなく理解し把握する。コンピューターにはない脳にのみ特権的に与えられた能力だといえます。
 自分の周囲の世界に関する事実を、ただ集積して保存するのではなく、経験を土台に意味へと昇華させ記憶していく。こうした具体と抽象という二つの世界を、なぜ脳だけが行き来できるのでしょうか。じつは、それを可能にしているものが、偶有性なのです。脳が偶有性に開かれた臓器であるからこそ、そうしたことがいともやすやすできてしまう。脳機能の中心的役割を担うものこそ、この偶有性に他ならない。「森羅万象とのかかわりの中で脳が直面するものごとの多くは偶有性で」あり、この「〈偶有性〉に満ちた世界に対面して、実践的な知の整理をこころみることこそが、人間の脳にとって大きな課題」(1)であるというのです。「あわい」の領域に漂う偶有性の意味をかみしめ、偶有性を呼び覚ます智恵を探すこと。偶有性に寄り添い、偶有性の只中に自らを放擲すること、それは脳に課せられた使命であるだけでなく、生存の条件でもあるのです。

偶然のひらめき、偶有性の純粋形態

 冒頭、偶有性は、哲学用語だといいました。哲学事典を紐解くと、contingency、accidentの訳語として紹介されています。どちらも、偶有性の他に偶然性とも訳されますが、accidentは、本質性に対する偶有(然)性、contingencyは、必然性に対する偶有(然)性と、若干ニュアンスの違いがあるようです。
 本質性に対する偶有(然)性=accidentは、「それがなくてもかまわない」、つまり本質的なものではないという意味です。この言葉を最初に哲学の場に登場させたのがアリストテレスです。アリストテレスによれば、偶有性(accident)とは存在者の一つのあり方を示す語として、常にそれ自身においてあるあり方と対立的に用いられるといいます。たとえば、正しい人が肌の色が白いとかクラシック音楽が好きだとかいう場合のあり方がそれに当たります。肌の色とか音楽の趣味は、正しい人にとっても、人自体にとっても決して本質的なものではなく、たまたまその時、その人に起こっている性質にすぎません。このように、ある主語に、たまたま起こり、たまたま付随している性質のあり方が、偶有性だというのです(2)。
 一方、偶有(然)性(contingency)は、必然性の対立概念でもあります。必然性とは、何かがそれ以外であり得ないこと。つまり、その反対が不可能だということです。それに対して、偶有(然)性は、その反対も可能であり、そうである決定的な根拠も理由もないことを意味します(3)。一般的な言い方をすれば、原因や理由がわからないまま予期せぬ出来事が起こることになります。つまり、「そうでないこともありうる」のが偶有性だというわけです。ちなみに、スピノザは神=自然なので、すべての偶有性は、それぞれ自然の、すなわち神の必然的法則により起こるべき必然性をもって起こるのであり、それを偶然とみるのは、ひとえに見る側の知力の力不足にすぎないと喝破し、偶有性そのものを否定しました。
 「そうでないこともありうる」のが偶有性だとして、その解釈をさらに進めて、「これはまさにこれである」という必然性と「これはこのようではないかもしれない」という一種の差異性の両方を同時に含むものとして、偶有性を捉えようとするのが社会学者の大澤真幸氏です。大澤氏は、偶有性には、必然性と不可能性の双方の否定が含意されており、その意味でより正確に、根源的偶有性という言葉を当てています。必然性に偶然性があたかもブレンドされたような状態、そのあわいを偶有性と考え、より本質的なものとしてみようというのです。
 大澤氏は、偶有性をポジティヴに捉えようとする立場ですが、哲学者の一ノ瀬正樹氏も、同様の見方で偶有性を評価します。偶然という言葉は、日常的には、必然性の否定や本質性の否定のように単なる欠如態というモードを超えて、はるかに積極的な仕方で生き生きと機能しているのではないかといいます。そして、その証拠が、まさに、偶然という言葉の使用方法にあるというのです。「たとえば、偶然という言葉は、原則的に〈偶然~した〉というように、過去形でのみ用いられる。実際、現在形〈偶然~している〉や未来形〈偶然~するだろう〉という表現」はいささか奇妙に聞こえるだろうと一ノ瀬氏は言います。なぜか。その理由を、意図外部性という概念を使って一ノ瀬氏は説明します(4)。
 「偶然性が過去形でのみ語られるということは、偶然性が帰せられる当の事象が生じた時点では偶然性はいまだ完結していなかった。つまりは、その時点では偶然性は生じていなかった、無かった、ということを含意する」からです。「当の当事者が生じる瞬間までは全く無く(よって未来形では語れない)、当の事象が生じている瞬間でもいまだなく(よって現在形でも語りにくく)、そういう仕方で、何も無かったところに不意に生じてしまう」、これが「意図外部性」であり、ここに偶然性の概念の核心的意義があるというのです。つまり、意図した事柄の外部にあること。別言すれば、何もなかったところに不意に生じてしまうこと。ゆえに、「偶然」とは、原則的に「偶然~した」と、過去形でのみ使用されるというわけです。
 この瞬間までなかった新しいものが生まれること、新しい何かが、たった今、ここに創造されること。それを「偶然のひらめき」というのであれば、まさにそのひらめきこそ、偶有(然)性の純粋形態ではなかろうか、と一ノ瀬氏は結論付けます。真に創造性に開かれたモードが偶有性であり、それは私たちの言葉に置き換えれば、芸術=アルス(ars)の生成する場のことです。

偶有性をいかにして取り込むか

 ところで、茂木健一郎氏は、脳機能と偶有性の関わりを考えるうえで、見逃せないことの一つに「知」の理解があると言います。茂木氏によれば、人間の「知」には、大きく分けて二とおりの「知」の形態があるというのです。脳内で情報処理(収集、記憶、整理、組み換え=広義の編集)されていく「知」は、はじめ私たちの生にぴったりと寄り添った「生活知」として立ち現れます。「〈生活知〉とは、私たちがこの世界の中に個として投げ出され、生き延びていく際に獲得する一人称の知」です。たとえば、新生児がお腹を空かせて泣くのも、大人になって初対面の人と打ち溶け合って話ができるようになるのも、「生活知」です。それに対して、そうした生活とはとりあえず切り離された「知」があります。たとえば、天体の運動とかニュートン力学とか、あるいはコンピューターの中の半導体の役割などというものは、私たちの生とは、とりあえず切り離して考えられる事柄です。こうした私たちの生と直結する「生活知」とは別の「知」を、「世界知」と名付けました。「世界知」とは、世界の仕組み、世界の成り立ちといった、いわゆる自然科学と親和性をもつ「知」と言い換えてもいいでしょう。もとより、「世界知」が、私たちの生と直結していないとはいえ、生き方と全く関わりがないというわけではありません。いや、むしろある意味では、「生活知」以上に、いのちや生命現象と深いつながりをもっているともいえるのです。「世界知」と「生活知」は、人間にとってはどちらがより重要かというものではなく、いわば「知」に対する二とおりのスタンスと考えるべきだと思います。
 近代においては、世界の仕組み、世界の成り立ちという「世界知」の骨組みに貢献したものが自然科学です。一方、人生や生き方、生きる意味を掘り下げることに貢献したのは、哲学や思想、あるいは文学や芸術です。それらは、人間が生き生きと充実した人生を送るために必要な知、「生活知」です。どちらも人間にとっては必要な知ですが、しばしば、両者は対立することがあります。茂木氏が指摘するように、いかに生きるべきかという「生活知」に対する正解が「世界知」から導かれるとは限らないからです。「生活知」において自然科学的知見の裏付けが必要な場面は、ますます増えていますし、その意味では「世界知」の重要度は高まっています。しかし、世界が「いかにあるか」という自然科学的知見=「世界知」によって、直ちに「いかにあるべきか」という命題を導けるとは限りません。いや、むしろ「自然科学を中心とする〈世界知〉と、個々の生に寄り添った〈生活知〉の間には潜在的な齟齬、緊張関係」すら存在するのです。
 その典型が不確実な事象に直面した時の対応です。自然科学的方法に準拠する「世界知」は、確実性とランダムネスなものに対しては、効力を発揮します。完璧に確実なものか全くのランダムネスなものは、自然科学にとっては得意分野です。ところが、確実性もなく、逆にランダムネスでもないものに対して、自然科学的方法はほとんど手が出せません。いわゆる知の「あわい」の領域に対して、「世界知」は無力なのです。しかし、「生活知」が拠り所としている私たちの生のほとんどは、こう言ってよければそうした「あわい」の領域です。冒頭述べたように、まさに「あいまいの海」に終始漂い続けている存在こそ、私たち自身だといえます。
 確実性もなく、またランダムネスでもない、言い換えれば、それが偶有的な状況だといえるでしょう。そして、その偶有的な状況の中に漂う存在、私たち自身もまた、偶有的な存在なのです。
 文化人類学者で批評家、今福龍太氏は、『図書』(岩波書店)誌上に連載「薄墨色の文法」を発表してきました。「沈黙」「闇」「螺旋」「唸り」といったサブタイトルの下、自然、生命、文明といったいわゆる括弧付きの表象文化を、前言語的かつパフォーマティヴな手法を駆使して、コンテキストごと組み替え、脱-再魔術化するその試みは、まさに、今福氏の面目躍如たるところです。その連載の何回目かで、今福氏は、この自分の試みが、おそらく哲学でかつて言われた偶有性と接触するものかもしれない、と記しました。今福龍太氏には、『談』では過去三回インタビューをしてきました。あえて、またお話をお聞きしたいと思った理由は、偶有性という言葉もありますが、それよりも、「薄墨色」という魅力的なタイトルをもったエクリチュール/声の筆触の端末に、偶有性のなんたるかが仄見えたからに他なりません。偶有性の特集を始めるにあたって、まず、私たちは、今福龍太氏の声を聴くことから始めようと思います。
 たとえば、人間を含む動物は、からだの部品の数もカタチも決まっています。これに対して植物は、先へ先へと基本構造をくり返しながら、あるいは付け足しながら、伸び広がっていく。このカタチの本随をゲーテは「不動の動」といって、生命現象に潜むメタモルフォーゼの不思議を明らかにしました。これは、ヴィゴツキーに言わせれば、「発達の最近接領域」のことであり、また、生命と非生命のあいだに横たわる偶有性の最も典型的な事例でもあります。広島大学大学院生物圏科学研究科准教授・長沼毅氏は生物学者として、生物を含む自然界がつくり出す偶有性その具体的な事象として「螺旋」に注目しています。私たちは、偶有性の領域で力を発揮する「カタチになろうとする努力」についてお聞きします。
 ニュートン力学の結果は観測にはよらないとされてきましたが、「カオス」ではこのことは無条件には成立しません。ここに、モデルをつくる側の論理が現象記述において考慮されなければならない必然があるというのです。このような観測者の立場を意識的に設定せざるを得ないような理解の方法をあみ出すことが、複雑系科学の意義であるというのは、北海道大学電子科学研究所教授、北海道大学数学連携研究センターセンター長の津田一郎氏です。そして、津田氏は脳の働きをその内部から見出し、カオス的遍歴という概念で捉えようとします。
 一方、網膜的な視覚経験を捨てて、ものから性質に移行した視点に立つこと。そうすることで捉えられる抽象形式の中から新たな像を生成する。言い換えれば、もの自体の動的環境をそのまま表現することであり、ものに内在する運動を内部から見ることです。アーティストの木本圭子氏の造形思考は、こうしてものに内在する力の審美性に迫ろうとしています。
 このものの内部に充溢する力を、なぜ私たちは、「美しい」と感じてしまうのでしょうか。その秘密が偶有性にあると考えます。脳のカオス的遍歴、また、木本圭子氏の作品を手がかりに、偶有性とアルスの関係を考察していただきます。
(佐藤真)


参考文献:
(1)『「脳」整理学』茂木健一郎、ちくま新書、2005
(2)『哲学事典』平凡社、1971
(3)『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、1988
(4)『事典 哲学の木』講談社、2002

 

 

editor's note[after]

アートが立ち上がる瞬間、偶有性の時

偶有性を取り込む方法

 editor's note before、また、今福龍太氏のインタビューの冒頭でも触れたように、今回の特集は、今福氏が断続的に発表してきたテキスト「薄墨色の文法」にインスパイヤされたものでした。茂木健一郎氏が脳の重要な機能の一つとして偶有性に注目していますが、今福氏は、本来もつ哲学上の含意を十分尊重しながらも、人間の思考、世界への関わりという、より本質的な問題系へ接続させようとしていることに、私たちは強い関心をもちました。
 偶有性は、偶然と必然というそれ自体哲学の最重要課題であり、人間の言語活動や意識、行動、倫理といったものと深く関わるものです。今福氏は、より具体的に言語と非言語のはざま、すなわち、言語のもつ法則性とそうした法則性から逸脱する非-法則性、反-法則性が混在しているような様態において、偶有性を捉えようとしています。そもそも自然言語がそういうものである以上、そのアプローチは、畢竟、偶有性を手掛かりにして、人間存在、世界認識の探究へと向かうことになります。人間にとって、なぜ偶有性が問題になるのか。さらには、それをどのように理解し、よりよく生きる(エチカ)ための作法にするにはどうすべきなのか、今福氏は、自らの実践からそれを解き明かしていきました。
 今福氏は、文法というものが、それがシステムであるがゆえに、必ず例外を含んでいるということに、注意を促します。そして、きわめて戦略的に、この例外が存立し得る領域の方をこそ拡大してみたい、というところからインタビューは始まりました。ふつうに考えるならば、システムを前提とすれば、その構造およびその原則に、つまり、リジッドな仕組みの方に着目するはずです。ところが、そうではなく、逆にその例外の方にフォーカシングする。じつは、言語にとって、例外はごくありふれた現象であり、原則、メカニズムと同等の、いやそれ以上に大事な意味をもっているからです。容易に変化しないリジッドな構造をベースにしながらも、常に変化することを本性とする性質を併せもつ。すなわち、不変性をもちながらも可変性に対しては開かれた、強固な原則を維持しつつも常に例外事項を自ら産出するような、二重性が言語にはつきものなのです。それはむしろ、言語活動を決定付ける特徴ですらあるのです。
 言語活動は、声を出して話すオーラルなものと、書くことによって伝達する二つの水準に分けられますが、今福氏は、音響的で物質性を喚起するオーラルなパロールの相に照準します。パロールにおいては、言葉は外に放された瞬間、消えゆくものです。生まれると同時に消滅するもの。声となって出される言語は、誕生イコール消滅であるような一回性の現象です。それゆえ、パロールは自然言語、言い換えれば、体系や構造の縁に露出する野生の言語の原初的な姿を垣間見せるものなのです。
 薄墨色とは、その言葉の意味を精確に捉えるならば、偶然性/偶有性の、偶有性により親和性をもつものです。アクシデントとしての偶然性より、インシデントとしての偶有性。今福氏は、なぜアクシデントではなくインシデントに関心を寄せるのでしょうか。歴史は、その出自から権力をめぐる悲喜劇の物語という姿をまとってきました。大河ドラマという言葉が如実に示しているとおり、歴史は大仰な絵巻物の世界として描かれることをいわば宿命づけられているのです。なぜならば、歴史を記述する主体は、常に/すでに現在の権力の側にいるものかそれとは対称的な反権力の側にいるものと決まっています。そして、権力を中軸に置くかぎり、歴史記述にとって必要なのはアクシデントの方なのです。
 いささか逆接めいた言い方になりますが、アクシデントがなければ、歴史という記述方法自体存在しなかったかもしれない。ポール・ヴィリリオが『アクシデント 事故と文明』(青土社)で正しく指摘しているように、予想をはるかに超えた大事故ですら、未知なる災禍の種子があらかじめ埋め込まれていた、その結果にすぎないと。ヴィリリオによれば、事故はそのつどそのつど人間によって発明されていくものです。そして、その予測リストにしたがいながら重大だと思われるものについてのみピックアップする。歴史とは、ときの権力者によって常に/すでに事後的に取り出されるアクシデントの、こう言ってよければカタログ・リストにすぎないのです。
 今福氏がインシデントに言寄せるのは、そういう大文字の歴史に対するささやかな挑発です。私たちの生きている世界において、大事故や大事件は稀にしか起きないものと思われています。稀に起こるからこそ、それは歴史のリストにノミネートされる。しかし、本当にそうでしょうか。そもそも出来事とは、常に稀に起こることではなかったか。未来とは、たとえ一寸先であっても予想不可能であるには違いないのです。だからこそ、今福氏にとっては、インシデントの集積こそが歴史に他ならないというわけです。それがたとえ取るに足らないものであっても。
 こうしたインシデントへの視点の移動は、歴史だけではなく、それを基礎付けている時間観念にもラディカルな批判を加えます。今福氏にとって時間とは、単線的で唯一のもの、ではないのです。
 「歴史というものを、もう少し違う速度で、言い換えれば異なる時間性の中で捉えることができるのではないか」時間を「歴史の時間、あるいは規則正しく時を刻むクロノスの時間とは考えずに、それとは別の流れをもったものと捉え直す。カイロスの啓示的瞬間」であり「振幅をもった、奥行きのある、強度ある時間です」「そんな時間意識の中で、さまざまな事象と出会い、感受しようというもう一つの態度だと思います」。
 歴史こそ、じつは多種多様な水脈が結合し分岐する、さまざまな入り口と出口をもった「流れ」そのものなのではないか。時間には複数の流れがあり、さまざまなリズムを伴いながら、自らの記憶の集積と同じだけの集積物をアーカイヴしていく。インシデントに照準することによって、その時の流れは、自分の歴史になるのです。歴史を徹底的にインシデントとしての個の在りよう、自らの生の営みにまで微粒子化させること。ミシェル・セールがライプニッツのモナドに見出した「一」が「多」となり、「多」が「一」となる、「一」と「多」の相互包括関係。インシデントへフォーカシングしていく「一」としての運動が、多種多様な流れとしての「多」へと自らを開闢する。隅有性が歴史へ、社会へ接続するのは、まさにその過程においてです。時間はこの時、カイロスとして私たちの前に現れるのです。クロノスの時間からカイロスの時間へ。この発言は、期せずして、今回の津田一郎氏と木本圭子氏の対談の主題と重なります(あとでもう一度触れます)。
 もう一つ今福氏の話で重要なのが、偶有性とコンタンジャンスの関係です。隅有性=コンタンジャンス(contingence)は、お互いに(con)接触(tingence)すると解釈することもできるというのです。ここから共-接触、皮膚を媒介とした相互浸透というイメージがわいてきます。隅有性は、偶然性と必然性が混じり合った状態で「あわい」をイメージさせると言いましたが、そのあわいは、なんと物理的な存在同士の相互浸透、すなわち、接触が生み出す混合体へと発展させることが可能だというのです。

N=1の世界を測る科学は存在するか

 隅有性の領域で力を発揮する「カタチになろうとする努力」について、超ミクロな生物を研究する長沼毅氏に聞いてみようと出かけていったところ、あっさり「カタチには興味がない」という答えが返ってきました。長沼氏の言い分は明快かつ簡潔なものでした。かたちをつくるルールはL-systemとチューリングパターンの二つがあればよくて、あとは初期条件さえ決まれば、あらゆる形態は可能だというのです。L-systemは構造を決定するもの、チューリングパターンはパターンを決めるルール、要するに、構造が決まってデザインが決まればほぼ無限のかたちをつくり出すことができるというわけです。
 長沼氏は、生命を決定付ける要素とは何かを検討したうえで生命を定義します。その論脈の延長で、生きものにとって決定的に重要な細胞の問題に言及します。ポイントを挙げてみましょう。
 生命を決定付ける要素は、代謝、分裂・複製、細胞膜で囲まれている、この三つです。そして、中でも重要なのは代謝で、自らエネルギーを生み出す仕組みが組み込まれていることだという。言い換えれば、自分を生かすためのルールを自らの中にもっている。遺伝子情報としてそういうルールが最初から組み込まれているわけです。そこだけ見ると、生命はきわめて自己言及的なシステムだということになります。生物進化において遺伝子の意味の重要さは言うまでもありませんが、その発現パターンにはある程度ゆらぎが認められます。なぜゆらぎが必要なのか。端的に細胞が小さいからです。小さな細胞世界では、平均値が利かない、外れ値が意味をもつところに大きな特徴があります。たまたまうまくいけば生き残る。必然性が全くなく、熱力学的な化学反応では解くことができない世界。その意味でいえば、隅有性という考えが最もふさわしい世界だといえます。
 生命の核心は何かといえば、繰り返すまでもなくエネルギー生成をどうやって行うかに尽きるといいます。エネルギーを生み出すことができれば、窒素でもメタンでも利用する。およそ生命が存在できないと思われる環境においても、生命はその条件さえ満たせば生きることができるのです。ここで、根本的なパラダイムシフトが要請される。生命を考えるにあたって重要なのは、地球環境をベースにしないことであり、むしろ宇宙を主語にすること。そしてその立場に立つとさらに驚くべき結論が待っているのです。生命とは、エントロピーを増大させる装置であるというのです。エントロピーの増大は生命の死を意味しますが、生命とはまさしくこの死へ向かうもの自体だというのです。生命そのものがじつは逆理を孕んだ存在なのです。
 長沼氏が最後に付け加えた言葉が印象的でした。生命現象を追究していくと、再現性がきかないn=1の世界に行き当たるというのです。そもそも生命の歴史自体が、一回しかないのですから。そして、n=1の世界は、自然科学が通用しない世界のことを意味します。厳密に言えば、今の自然科学は本当の意味で生命現象を捉えていないというのです。

カオスの中のカイロスという時間

 「あらかじめ予測可能であるならば、それは必然だということになります。しかし、それが全く予測不可能であればそれは偶然だという」ことになる。「この必然と偶然のあいだくらいを偶有性と言っている」「必ずしも必然だけかというとそうではない。じゃあ、すべて偶然かというとそうでもない。ただ、これは非常に重要なことで、カオスの意義というのは、じつはそういうところにあるんじゃないか」。対談の冒頭、津田一郎氏はこう話を切り出しました。そして、偶有性を考える場合、この問題は人間の記憶と深く関連するというのです。外部環境が全くランダムで予測不可能な状態にある場合、記憶は役に立たない。なぜならば、長沼氏の指摘するようなn=1を含むunpredictableな世界にあっては、起こる事象すべてが記憶の対象になる。つまり、生きていることイコール記憶し続けることであり、それは原理的に不可能だというわけです。反対に、予測が百パーセント可能な、たとえば、周期運動だけが起こっている世界でもやはり記憶は役に立たないという。なぜならば、繰り返し同じことが永遠に続く世界にあっては、記憶するという意味がそもそも必要ないからだというのです。なぜ人間は記憶というものを必要としたのか。それは、完全な予測不可能な世界でもなく、かといって完全に予測可能な世界でもない、言い換えれば、確率論的でも決定論的でもない、その両方がブレンドされているような世界が私たちの生きている世界だからだというわけです。つまり、偶有性の世界に生きているからこそ、記憶というものを人間はもつことになったというのです。
 偶有性は、記憶にとって重要な意味をもち、同時にそれは時間解釈と密接な関連性をもっているというのです。時間、カオス、偶有性。対談は、これらの概念を経巡りながらの議論となりました。
 二人の発言からポイントとなる事柄を挙げてみましょう。木本圭子氏は、津田氏の言葉を受けて、作家活動を始めたきっかけが、まさに予想可能でも予想不可能でもない世界と出会ったことにあったといいます。そして、非線形力学の世界が決定的だったと述懐します。非線形力学の式が生み出す驚くべき豊饒な映像世界。いち早く視覚表現の限界を感じていた木本氏は、視覚対象と全く切れた数が表象する、シェーマ(図表)の世界に魅せられたのです。
 視覚表現に決定的に欠けていたもの、それは運動であり、時間だったといいます。時間はパラメータであり、空間との対応でそれ自体自由に変換できることに木本氏は驚いたといいます。時間軸が伸縮自在で座標変換が自由なもの。そこに表象する映像世界は、視覚表現とは根本的に異なる、まさに抽象表現のきわみのようなものだったという。しかし、何より驚いたことは、そんな抽象表現が、最も遠い存在だと思われていた自然や人間の感情といったものときわめて近い存在に見えたことです。まさにそこに顕れたものは、今まで視覚が邪魔をして素直に見ることのできなかった「自然性」そのものだった。木本氏は、こうして数を導きとして、世界に時間を呼び込み、自由に時間を変換させることで、今ここにある世界、その理をさまざまに組み換えることで生成する、視覚表現の焦極点に辿り着こうとしているのです。
 津田氏は、木本氏の作品を見ながら、その画像に全く違う時間があることを察知し、その作品に偶有性を見出します。ただ、アーティストと学者は、ここで立ち位置の違いを自覚します。津田氏は科学のフワフワという言い方をしますが、このフワフワをそのまま表現できるアートの世界と、そのフワフワを自然科学の言語に置き換えてはじめて表現できる論文の世界、この違いが公共性に関わる問題であり、その意味で科学は公共財だというのです。
 木本氏が画像に生成させた時間は、カイロスの時間でないかと問いかけます。クロノスはクロックの時間、つまり空間化された時間であるのに対して、カイロスの時間はいわばわけのわからない時間、しかし、カオスにはこのカイロスの時間としかいいようのない時間があると付け加えます。カオスの中に潜む時間は、内在した時間としか表現できないような、まさにカイロスの時間ではないかというのです。
 たとえば、「無限との戦いというのがあって、やはり連続無限というのを考えるのは相当に難しい」「自然数を追いかけていっても」その無限には辿り着かない。「この数え上げをいつまで続けても結局加算無限にしかならない」「いったい非加算無限はどこから来るのか」。結局のところ「それをあると認めるための思考方法」が必要だというのです。津田氏の言葉を都合よく解釈するとすれば、この思考方法の訓練によって、今は捉えられることのできない隅有性を、明瞭に感じ取れる時が来るかもしれないということです。
 偶有性を手掛かりにして、インシデント、カイロス、カオスと、「あわい」の領域、あいまいの海を、津田氏の言葉を借りれば遍歴してきました。今、それは私たちの中に侵入し、さらに私たちの意識の内部に無数の進入路を形成しようとしています。アルスへ開かれる道が築かれる、それは最初の兆候かもしれません。
(佐藤真 )


 
   editor's note[before]
 


◎コンティンジェンシー、インシデント、コンタンジャンス
連載「薄墨色の文法」今福龍太 月刊『図書』所収 新潮社 2008 8月~
連載「偶有性の自然誌」茂木健一郎 季刊『考える人』所収 新潮社 2008 冬~
ミニマ・グラシア 歴史と希求 今福龍太 岩波書店 2008
賭博/偶然の哲学 檜垣立哉 河出書房新社 2008
賭ける魂 植島啓司 講談社現代新書 2008
サンパウロへのサウダージ C・レヴィ=ストロース、今福龍太 みすず書房 2008
群島-世界論 今福龍太 岩波書店 2008
偶然のチカラ 植島啓司 集英社新書 2007
偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選 九鬼周造 書肆心水 2007
何も共有していない者たちの共同体 アルフォンソ・リンギス 野谷啓二訳 洛北出版 2006
汝の敵を愛せ アルフォンソ・リンギス 中村裕子訳 洛北出版発行 松籟社発売 2006
アーキペラゴ 群島としての世界へ 今福龍太、吉増剛造 岩波書店 2006
生命と現実 木村敏との対話 木村敏、檜垣立哉 河出書房新社 2006
「脳」整理法 茂木健一郎 ちくま書房 2005
偶然性の精神病理 木村敏 岩波現代文庫 2002
偶然性と運命 木田元 岩波新書 2001
五感 混合体の哲学 M・セール 米山親能訳 法政大学出版局 1991
偶景 ロラン・バルト 沢崎浩平他訳 みすず書房 1989
生成 M・セール 及川馥訳 法政大学出版局 1983
九鬼周造全集 第二巻  偶然性の問題 岩波書店 1982
物の本質について ルクレティウス 樋口勝彦訳 岩波文庫 1961

◎非線形、カオス遍歴
非線形科学 蔵本由紀 集英社新書 2007
カオス 力学系入門 1.2. K・T・アリグッド他 津田一郎訳 シュプリンガー・ジャパン 2006
水滴系のカオス 津田一郎他 岩波書店 2004
Imaginary・Numbers 木本圭子 工作舎 2003
ダイナミックな脳 カオス的解釈 津田一郎 岩波書店 2002
複雑系脳理論 「動的脳観」による脳の理解 津田一郎 サイエンス社 2002
カオスと秩序 複雑系としての生命 F・クラマー 高木隆司他訳 学会出版センター 2001
雑誌『現代思想』10月臨時増刊「数学の思考」青土社 2000
哲学者クロサキと工学者アイハラの神はカオスに宿りたもう 合原一幸、黒崎政男 アスキー出版局 1999
複雑系入門 知のフロンティアへの冒険 伊庭崇、福原義久 NTT出版 1998
カオスの紡ぐ夢の中で 金子邦彦 小学館文庫 1998
複雑系の進化的シナリオ 生命の発展様式 金子邦彦他 朝倉出版 1998
複雑系のカオス的シナリオ 津田一郎他 朝倉出版 1996
カオス まったく新しい創造の波 合原一幸 講談社 1993
カオス 自然の乱れ方 竹山協三 裳華房 1991

◎生命、かたち、モルフォロジー
連載「形態の生命誌」長沼毅 季刊『考える人』所収 新潮社 2008 夏~
宇宙がよろこぶ生命論 長沼毅 ちくまプライマリー新書 2009
生きていることの科学 郡司ペギオ−幸夫 講談社現代新書 2006
原生計算と存在論的観測−生命と時間、そして原生 郡司ペギオ−幸夫 東京大学出版会 2004
生命の形式 同一性と時間 池田清彦 哲学書房 2002
深海生物学への招待 長沼毅 NHKブックス 1996
生命と主体 ゲシュタルトと時間・アノニューマ V.V.ヴァイゼッカ— 木村敏訳 人文書院 1995
ゲーテ 自然と象徴 自然科学論集 高橋義人編訳 富山房百科文庫 1982
「かたち」の探求 高木隆司 ダイヤモンド社 1978

◎クロノス/カイロス
時計の時間、心の時間 退屈な時間はナゼ長くなるのか 一川誠 教育評論社 2009
時間の正体 デジャブ・因果論・量子論 郡司ペギオ−幸夫 講談社選書メチエ 2008
時間と絶対と相対と−運命論から何を読み取るべきか 入不二基義 勁草書房 2007
時間はどこで生まれるのか 橋本淳一郎 集英社新書 2006
時間は実在するか 入不二基義 講談社現代新書 2002
「時間」を哲学する 中島義道 講談社現代新書 2002
時間の本姓 植村恒一郎 勁草書房 2002
カオスから見た時間の矢 時間を逆にたどる自然現象をなぜみられないか 田崎秀一 講談社ブルーバックス 2000
時間論 中島義道 ちくま学芸文庫 2002
時間 その哲学的考察 滝浦静雄 岩波新書 1976