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[最新号]談 no.86 WEB版
 
特集:「エンボディメント…人間=機械=動物の身体」
 
表紙:山崎史生 本文ポートレイト撮影:すべて伊奈英次
   
    
 




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(対談)河本英夫×柳澤田実

近さと経験

河本英夫
かわもと・ひでお
1953年鳥取県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、東洋大学文学部教授。システムデザイン。著書に、『哲学、脳を揺さぶる』日経BP、2007、『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』新曜社、2006、『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』青土社、2002、他がある。

ここという位置を指定する行為は、
この行為と世界との関わりを組織化するという働きが含まれている。
またここという位置の指定は、この指定するという行為と共に、
この指定する者のそのものを形成させるという働きも含まれている。
またさらにこの指定する行為は、
同時に次の行為の起動条件にもなっている。
荒川修作の、ランディングサイトには
じつはいくつもの働きが含まれていたのです。

柳澤田実
やなぎさわ・たみ 1973年ニューヨーク生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部キリスト教学科准教授。哲学・倫理学、宗教学。論文に、「イエスの(接近=ディスポジション)」 (『ディスポジション』2008、所収)、「「地続き」の思想」(『SITE ZERO/ZERO SITE』01、2008、所収)、他がある。

私がイエスを好きなのは、
彼がある種の運動神経のようなものをもっていて、
いろんな人の到来をキャッチして、
その「近さ」を媒介に、
そこで一緒に生きられるという共同性をつくることができた点です。
まさにリアクションの達人。
その際に共同性が、目的化されていたり、
固定化・定式化されなかった点が重要だと思うんです。

 
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(対談)河本英夫×宮本省三

私はどのように動いているのか…運動・予期・リハビリテーション

河本英夫
かわもと・ひでお
1953年鳥取県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、東洋大学文学部教授。システムデザイン。著書に、『哲学、脳を揺さぶる』日経BP、2007、『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』新曜社、2006、『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』青土社、2002、他がある。

自分の走っている姿を見て感じることと、実際に身体として感じてる、
その感じ方がズレているわけです。
というより、そもそも一致しないんです。なぜならば、別のものだから。
そうであるにもかかわらず微調整ができるというのはなぜなのか。おそらく、
脳は、見るとは別の仕方で獲得しているある種のイメージをもっていて、
それがこの制御調整機能とどこかでつながっている。
人間の動作の多様さからいっても、そういう機能がどこかにないと、
人間は座ることさえできないかもしれません。

宮本省三
みやもと・しょうぞう 1958年高知県生まれ。高知医療学院理学療法学科卒業。現在、高知医療学院副学院長、日本認知運動療法研究会会長。理学療法士。著書に、『脳の中の身体 認知運動療法の挑戦』講談社現代新書、2008、『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』春秋社、2006、編著書に『認知運動療法入門』協同医書出版社、2002、他がある。

今までのリハビリ治療というのは、人間を見ているようで、
じつは人間の“動き”を全く見ていなかった。立ち上がるとか走るというのは
動物でもやっていることです。あたかも人間機械論的な治療を
やるような感じで人間の動きを治療してきたのが、
これまでのリハビリ治療だった。ところが、生きる人間の身体を
回復させようとすると、動きそのものの本質を見ないと治療できないんです。
自己の身体を感じ取らせていく作業こそが患者さんには必要であり、
それこそが認知運動療法というものなのです。

 

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(対談)稲垣正浩×柳澤田実

からだのなかにヒトが在る…動物・暴力・肉体

稲垣正浩
いながき・まさひろ
1938年生まれ。愛知県出身。東京教育大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。日本体育大学大学院教授を退職、現在、21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員。スポーツ史専攻。著書に、『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太・西谷修との共著)平凡社、2009、『〈スポーツする身体〉を考える』2005、『身体論-スポーツ学的アプローチ』2006、以上叢文社、他がある。

透明になって、健康であれば何も身体のことは考えなくていい。歯が痛い、
おなかが痛いという時に、はっとからだのことを思う。調子のいい時は
忘れていますよね。だけどその身体がだんだん何かで追い込まれていく。
スポーツでレベルを上げていくのもそうだし、病気が徐々に進行して
死に近づいていくというのも同じだと思いますが、肉体の極限状態に
追い込まれていくと最後はもう祈るしかないというところにいくんじゃないか。
それが宗教であれなんであれ、人間の能力の限界を超え出ていく世界に
向き合う時、人間はもう祈るしかなくなると思います。

柳澤田実
やなぎさわ・たみ 1973年ニューヨーク生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部キリスト教学科准教授。哲学・倫理学、宗教学。論文に、「イエスの(接近=ディスポジション)」 (『ディスポジション』2008、所収)、「「地続き」の思想」(『SITE ZERO/ZERO SITE』01、2008、所収)、他がある。

サッカーでパスを出すというのは、こう言ってよければ、
非常に倫理的な配慮に満ちた行為です。だからサッカーから、たとえば、
倫理を語り直せないかというのはずっと思っていたことです。
倫理というと、最も精神的な領域のことであって、
人間が意識的・意志的に実現しなければならない規範・ルールというのが
伝統的な考え方ですが、身体や知覚の可能性を尽くすところにこそ、
すでに実現しているけれど言葉が与えられていない倫理が
あるのではないかと考えています。


 

editor's note[before]

調教され続けている身体

 そもそもの発端は、『談』no. 85の佐々木中氏のインタビューにあります。佐々木氏は、冒頭私たちの質問に対して、次のように言いました。
 「様式をもたない、形式をもたない、裸形の生とか剥き出しの生などといわれるもの、そういうことをフーコーは全くといっていいほど問題にしていない。常にわれわれは〈調教〉されているし、常にすでに生の〈様式〉〈形式〉を無理やり与えられていて、そういう状態でしか存在し得ない」。とはいえ、「この人間の生に様式や形式を与える〈調教〉の作業は、かならず常にすでに歴史上どの時点でも存在する。が、しかし失敗を余儀なくされたものとしてだけ、壊れかけこけつまろびつしながらガタピシ動く〈調教機械〉のようなものの作用の結果としてのみ存在する」。
 私たちは、完全に調教されているというのです。しかし、完璧に隅から隅まで調教され尽くしているというわけではない。いやむしろ、その調教は、常にすでに中途半端に終わり、ようもなく失敗している。私たちは、その意味で「調教」の失敗の効果にすぎないというのです。その「失敗」の効果こそがまた後から権力の効果として事後的に捉え返される。つまり、それは、権力のいわば「後出しの勝利」にすぎないのだと。
 「調教」の失敗の効果? 「後出しの勝利」? 佐々木氏は、いったい何を言おうとしているのでしょうか。
 フーコーの生-権力論を知るものにとって、権力とは常に二面性をもったものとして理解されてきました。ミクロ的な形で私たちの社会、私たちの身体に深く入り込み、そうした権力を跳ね返すどころか、その侵入を抑えることも不可能です。私たちは、おとなしくそうした権力を受け入れて、むしろ、権力のポジティヴな側面に注目し、自己の生存の秩序化へ向けて再組織化する、それがフーコーの「統治」という戦略でした。
 自己統治のメカニズムをネガティヴなものとして捉えれば、それは、ただちに出口なしの状態、その無期限の持続と解釈できますが、ポジティヴに見れば、体のいい自己管理の手法と見なすこともできるのです。フーコーは、非常にきわどい言い方ではありますが、「統治」という概念によってその二面性を、いわば縫製するかのように一体化させてしまったのです。二面性をもちつつも、どこから見てもシームレスなもの。フーコーの統治は、完全なシステムとして機能する。私たちは、そこから抜け出すことはできないけれども、それを享受することはできるし、そこに快楽を見出すこともできます。システムが完璧であればあるほど、わたしたちはその中で生を全うする確率は高くなる。フーコーにとって、その可能性の中心は生を全うする、すなわち「生存の美学」にあるというのがこれまでのフーコー解釈でした。ところが、佐々木氏はこの考えを真っ向から否定したのです。
 「様式化されない生などない。しかし同時に、様式化され尽くしてしまう生もない。そして、〈生存そのもの〉も、そこから事後的に遡行することで見出される何かであるにすぎない」。フーコーは、「生存の美学」などに関心はなかったというのです。フーコーの視線は、むしろその生が全うされずに終わる、「調教」しようとして「調教」しきれずに常に失敗していく、そのことの在りようにこそ向かっていったのだというのです。
 私たちは、常に「調教」され続けている。私たちの「生」とは、その「調教」のプロセスの終わりなき反復にすぎない。であるとすれば、「調教」の失敗とは、何を意味するのか。そして、その失敗の効果が、なぜゆえに権力の「後出しの勝利」となりうるのか。
 フーコーがそう述べたように、佐々木氏もインタビューの最後、唐突にキュニコス派のディオゲネスを登場させ、次のように締めくくりました。
 ディオゲネスは、「われわれが、われわれ自身を統治するための、全く別のやり方がいまだに可能なのではないか」ということを示したのではなかったのか。であれば、「統治の仕方にもされ方にも無限のヴァージョンがあり、われわれはその可能性を捨てるべきではない」と示唆するのです。
  今号では、統治の仕方/され方の、いまだ試みられていない可能性について考えてみたいと思います。その舞台となるのは、いうまでもなく身体です。

身体を経験する建築、三鷹天命反転住宅の試み

東京都三鷹市、東八道路と武蔵境通りが交差する大沢交差点のすぐ近くに、その不思議な建物「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」はあります。芸術家・建築家である荒川修作+マドリン・ギンズ設計による集合住宅で、「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」(岡山県、1994年)、「養老天命反転地」(岐阜県、1995年)に次ぐ、日本における三番目のプロジェクトです。「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」は、斜め四五度に建つ筒型の側面内側に京都の龍安寺を模した石庭が配置された美術館、「養老天命反転地」は、1.8haの大地がすり鉢状にえぐられ、その上にさまざまなパビリオンが点在する一種のテーマパークでした。それに対して、「三鷹天命反転住宅」は、全部で九戸からなる集合住宅で、一般住居を目的としてつくられた建築作品です。実際に一部は、住宅として貸し出されていて、また、ショートステイ用住居も用意されています。
  「三鷹天命反転住宅」の特徴は、なんといっても一四色が施された内外装とその特異な形態にあります。東洋大学教授・河本英夫氏は、「天命反転住宅の外見は凄まじい。色も形も、およそこの世の住宅とは思えないほど科学的である」と評しました。
 壁面の配色は、赤、青、緑、黄、灰色からなり、形体は、円筒、半円(ハーフパイプ)、球、四角の組み合わせ。また室内(集合住宅)の壁は、曲率をもってそりあがり、床は傾き、床の表面には一面鱗のような小さな突起が突き出ています。天井にはフックが設置されていて、家具類はこのフックに吊り下げて置かれる。世界に一つとして存在しない孤立無援の建築であるという言葉は決して大袈裟ではありません。しかも、住宅ですから、日常、家族や個人が生活する場所でもあります。人はこの空間に住まい生活をするのです。
 そんな前代未聞の住宅を、河本氏は科学的と表現しました。いったいどこが科学的なのでしょうか。この壁の四原色は、ゲーテ自然学の正当な継承であり、多種多様な形体は、ゲーテが「原型」と呼んだそれと同じものだからです。事実、ゲーテが確信したように、自然界の生き物は、基本的にはこの「原型」の変化と継ぎ足しによってつくり上げられているといいます。
 ゲーテといえば、小説『若きウェルテルの悩み』や『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』、あるいは詩劇『ファウスト』の作者であり、主にドイツの文豪として知られていますが、じつは、ニュートン力学を真っ向から批判した自然科学者でもありました。ニュートンが著した『光学』(1704年)によって、近代科学の幕は切って下ろされたといわれていますが、その『光学』を徹底的に批判したのが他ならぬゲーテだったのです。詳しくは、『談』no. 64収録の「ゲーテの〈生き生きとした〉色彩論」をお読みいただくとして、簡単に言うと、ニュートン光学は光を定量化し数値に還元したことによって、生理的色彩、すなわち、私たちが見ている色の現象を捨象してしまったのですが、ゲーテは、ニュートン理論との対決を通して、人間の主観に定位する独自の色彩論を展開しました。
 電磁波として計測すれば、色彩は赤と紫を両極とする直線状の帯=スペクトルになります。ところが、私たちが実際に眼で見ている色彩(の世界)は、赤と紫が隣り合った円環として捉えています。そして、ニュートンのスペクトルには決して現れない「真紅」を頂点とする色彩環(色の円環)をゲーテは構想したのでした。ゲーテによれば、色彩環のなかで光に最も近い色彩は黄であり、反対に闇に最も近い色彩は青です。この二つの色彩は創造的に結合し、その頂点をなすのが「真紅」(赤)だというのです。
 ゲーテは『色彩論』の緒言で次のように記しています。
 「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は、統合へとかならずや移行するものであって、だから、世界を注意深く眺めているだけで、われわれはすでに理論化を行っていると言うことができる」。
 ゲーテの言う「理論化」とはなんでしょうか。ゲーテによれば、何かと触れ合いながら自分自身の宇宙の秩序を構築していくことだといいます。眼には、そういう働きがあり、だから、眼は単なる感覚の受容器官として捉えてはいけないとゲーテは言いました。ゲーテにとって自然とは色と形です。畢竟、彼の研究は、色彩論と形態学へ収斂していきますが、そこに結実したものが「原型」でした。
 河本英夫氏は、荒川修作+マドリン・ギンズの建築プロジェクトに、その「原型」、すなわち、自然が生成する端緒を見出したのです。原型は、端緒、発端、先がけであり、字義どおりに解釈すれば、動き、働き、変化それ自体です。自然は絶えず変化しています。決して静止することはありません。ゲーテの概念にメタモルフォーゼがありますが、これは、形(モルフェ)を超えていく(メタ)、つまり、絶えず変化していくものという意味です。この動き、働き、変化を捉えるためには、私たち自身も動き、働き、変化する「動的状態」に身を置く必要があります。現象学がいう「キネステーゼ(運動感覚)」とは、このことの重要性を問うたのです。世界は動き続け、われわれも動き続ける。その両者の相互作用によって、私たちは生き生きとした「経験」(高橋義人)を立ち上げることができるのです。「三鷹天命反転住宅」とは、じつは、そのような建築として構想されたものだったのです。壁面の色彩、形態の妙は、いずれもゲーテの自然科学を想起するものです。
 河本氏が、なぜ「三鷹天命反転住宅」に注目するのか。「三鷹天命反転住宅」において、私たちは、ずっと忘却し続けてきた身体を、まさに私たちが生身として生きている身体を、そこに初めて自覚的に発見することになるからです。「ただ、発見するだけではない。ひとたびそこに立つと、身体が自己の産出的形成運動を開始するのである。オートポイエーシスの局面が次々に身体内感として、つまり、感覚、知覚、認知されていくのである。身体が形成され、さらには経験が身体の調整能力を拡張するのである。生命と身体と空間が一致するのだ」と。
 私たちは、「三鷹天命反転住宅」という空間を経験することによって、まさしく、生きる自然である身体を経験することになります。身体の経験、身体の新な可能性の発見であり、言い換えれば、統治する仕方/される仕方を、身体という経験によって、全く別のやり方で、生き直すことなのです。

身体の空間化、空間の身体化

 「三鷹天命反転住宅」の住居を会場にして、「エンボディメント(enbodyment=身体化)……人間=機械=動物の身体」をメインテーマに、三つの切り口から、公開対談「トポロジカル・ディスカッション」を行いました。
 第一の対話のテーマは、「近さと経験」。
 東洋大学文学部教授でシステム・デザインがご専門の河本英夫氏と南山大学人文学部キリスト教学科准教授で哲学・倫理学、宗教学がご専門の柳澤田実氏によるディスカッションです。
 理性を中心とするヨーロッパの哲学的人間観において、精神的活動は、動物としての人間の行う生態的活動と明確に区別されてきたと柳澤田実氏は言います。なかでも、宗教的経験や美的経験は,最も主観的なものとみなされてきました。こうした断絶が、人間を全体として捉えることを困難にしました。この困難を乗り越える方策として、柳澤氏は「連続性の哲学」に注目し、とりわけベイトソンらの環境存在論を土台としながら、主知主義や狭義の自然主義と距離をとりつつ、人間の活動そのものをまるごと描き出そうとします。この「連続性の哲学」の方法の探究において、柳澤氏は、河本氏のオートポイエシスに関心を寄せます。
 そこで、イエスの態度、「近さ」を媒介とする行為を手がかりに、人間の活動の「経験」、その可能領域について、河本英夫氏と語り合っていただきました。
 第二の対話のテーマは、「私はどのように動いているのか……運動・予期・リハビリテーション」。高知医療学院副学院長で認知運動療法を研究・実践する宮本省三氏と第一部に引き続き、河本英夫氏によるディスカッションです。
 宮本氏は、全ての運動麻痺を「身体を使って世界に意味を与えることができなくなった状態」と解釈し、運動機能の回復とは、「世界に意味を与える身体」を取り戻すことだと考えておられます。その基本概念をもとに、損傷しているのは神経回路網であり、治療すべきは身体ではなく脳であるというのです。その確信のもとに始まったのが認知運動療法です。認知運動療法の最大の特徴は、従来の運動療法のように単に身体を動かしたり動作を反復するのではなく、患者に思考(考えること)を要求する点です。
 脳のなかに身体を発見し、身体を脳と陸続きに考えるこの全く新しい医療は、医療文化、身体論を超えて、人間とは何かというラディカルな問題提起へと発展します。認知運動療法を紹介していただきながら、身体を「運動」それ自体として思考する方法を考察しました。
 第三の対話のテーマは、「からだのなかにヒトが在る……動物・暴力・肉体」。21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員・稲垣正浩氏と第一の対話にご登場いただいた柳澤田実氏のディスカッションです。
 稲垣正浩氏は、そもそもスポーツとは暴力ではなかったかと問い掛けます。近代スポーツの優勝劣敗主義は、暴力を排除することによって逆説的に見出された「競争原理」です。それゆえ、今、スポーツを思考することは、暴力を徹底的に排除してきた近代の理性中心主義を批判することになると稲垣氏は言います。
 身体のなかに肉体を見出し、その肉体に内在する暴力を思考すること。それは、人間という具体性、ヒトという動物性に出会うことでもあります。動物、暴力、肉体の抜き差しならない関係について、官能、倫理、共同体という概念を交えながら語り合っていただきました。

 身体が言説を媒介にして外部環境と地続きになる。身体と建築、身体と機械、身体と動物、それぞれの境界が、今、融解しようとしています。身体の空間化、あるいは空間の身体化。エンボディメントの位相へのトポロジカルな接近――。
(佐藤真)

 

 

editor's note[after]

 「三鷹天命反転住宅」の一室を会場にして、三つのディスカッションを行いました。パネリストは、稲垣正浩氏、河本英夫氏、宮本省三氏、柳澤田実氏の四名。うち河本氏と柳澤氏には、二つのディスカッションに参加していただき、個々のテーマと議論を引き継ぎながら、掘り下げてもらうという、変則的なプログラムで進行しました。
 オーディエンスは、その刺激的な空間の内部に数時間身を置き、その空間から発想された、その空間に事寄せた言葉に耳を傾ける。私たちの眼、耳は、その時単なる受容器官から、対象に働きかけ、動的な状態で感受し続ける運動感覚へと再組織化する。ゲーテのひそみに倣い、言葉を媒介にして、話す者と聴く者、身体と環境が共にメタモルフォーゼすること。語り合い、聴き入ることを通じて得られる経験。それは、経験によって自らの身体をつくり変えることです。そんなことが一時でも起こればいい。果たしてそれは、みごとに果たされました。ディスカッションが行われたその場所において、少なくとも私の身体は、次の位相へと動き始めたことを、私の身体として実感できたのですから。
 何かが少し変わって見える。そのほんの少しの変化は、やがて大海をも揺るがす地殻変動へとつながっていく。ブラジルの蝶の羽ばたきが、やがてテキサスで竜巻を起こすという、カオス理論のバタフライ効果のように――。身体に定位して、身体から思考を始めること。それは、すでに次なる変化を予期していることなのです。

ランディングサイトと能力の形成
 四人のパネリストの発言からポイントとなる事柄を、拾い上げてみましょう。
  河本英夫氏は、荒川修作+マドリン・ギンズが「三鷹天命反転住宅」で何をやろうとしたのか、ランディングサイトという概念をひも解くところから語り始めました。
ランディングサイト=降りゆく場とは、荒川修作氏のキータームであり、直訳すれば「位置の指定」のことです。ここという位置を指定する行為は、この行為と世界との関わりを組織化するという働きが含まれています。また、ここという位置の指定は、この指定するという行為と共に、この指定する者のそのものを形成させるという働きも含んでいます。さらに、この指定する行為は、同時に次の行為の起動条件にもなっている。つまり、荒川氏の言うランディングサイトは、最初からさまざまな働きが包含されていて、それがわかりにくいところでもあるのですが、しかし、だからこそランディングサイトの意味を精確に理解しておく必要があるというのです。
 実際にここという位置を指定する行為が、空間の中で次々と自ずと分散されてしまうような仕掛けをつくると、「自ずと位置を指定するということの中に含まれている身体行為が引き出されるような場所を設定するようになる」というのです。「三鷹天命反転住宅」とは、そういう空間であり、荒川氏はそれを「建築」と呼んだのです。
 私たちはこの建築の中に入ると、自ずと能力は動き始め、形成運動をせざるを得なくなります。行為可能性から自らを変えていく、そういう場がランディングサイトであり、そういう場をつくる行為が荒川氏の考える設計だというのです。
 このランディングサイトという概念にとって、とりわけ重要なのが触覚です。ここで、河本氏は突拍子もない考えを披瀝しました。なんと感覚は四つしかないというのです。触覚は触覚運動であり、常に運動が内在している。そして、身体の基本はすべてこの触覚運動だというのです。
たとえば、手のひらが何かに触れて「硬いな」と感じたとすると、手のひらは間違いなくその硬いものを押すことでそうした感触をもつ。硬いと感じる前に、すでにそのものを私たちは手のひらで押している。運動がすでに内在しているという意味はこのことを言っているのです。「2500年もたって定義を変えなければならないというのはつらい」と言いながら、河本氏はこう断言します。「感覚は四つしかない」「何よりも触覚に対応する器官がない。それで広域感覚とか呼ばれているのですが、身体がそれとして自分自身を感じ取っている時にも触覚は働いている。触覚とは粗い総称のことで、この総称に対応するものが何かあるわけではない」。
運動を内在しているという点で、触覚は他の四つの感覚とは本質的に異なった感覚であり、触覚は運動と一緒になって初めて感覚できるという意味で、正確には触覚運動と表現すべきだというわけです。さらに、この触覚運動が河本氏のキー概念である二重作動にも関連することが次の宮本省三氏との対話で明らかになります。
 運動を内在しているために、触覚的認知は、運動の誘導を同時に要求することになります。言い換えれば、触覚すること自体が、運動そのものになっているのです。「たとえば、手をこうやって動かすでしょう。さっき宮本先生と皆さんと実験したことですが、これは身体が何かに触れるのとは別の形で、空間移動をさせている。移動させることが同時に何か別のこととつながるように、人間の身体というのはできているわけ」で、この空間移動を組織化と言ってきたというのです。
 この組織化が、二重作動、ダブルオペレーションと呼んでいる問題領域に接続する、と河本氏は続けます。「同じ一つの位置から、机が二重に見えたり、まるで別様に見えたりするのはダブルアスペクトです。見ている位置が一つでも、視点が切り替われば二つに見える。ところが、二重作動というのは、それ自体が動いている。位置も一緒に動くわけです。ただ単に手を動かしているだけなのに、それが同時に図形というものを指標することになってしまう」。
 この仕組みが、身体にとって、さらには、世界にとって多様性を生み出す基本になっているはずだといい、ヴァレラのオートポイエーシスもドゥルーズの差異化ももはや必要なくなったと言い切るのです。あることの実行が、同時に別様の現実を組織化し成立させるのであれば、差異化は本性的に、この二重作動の結果だということになる。ただ、そのことはある種の困難をも引き受けてしまう。「何かが動いている、何かが動いているということが同時に何か別の機能を含んでしまう、と記述したとたんに、それはダブルアスペクトになってしまう」からです。異なるものを外から見ているという状態からいったん離れてみる必要がある。別言すれば、その行為の最中にあえて入っていく方法、そういう仕組みをつくる必要性があると河本氏は主張します。
 「研究方法それ自体がある意味で問題だった」。従来の課題解決型、理論化を基礎とする科学は臨床には向いていないと言うのです。「むしろ必要なのは、創発系の科学ではないか」。「そう思ってみてみると、僕たちがやろうとしてきたものは、結局のところそうした創発系の科学、理論ならざる理論、別言すれば、半理論だったんじゃないか」ということがわかってきたという。「この半理論は、通常の理論と何が違うかといえば、課題が見えた時の対応です。通常理論というものは、壁に直面した時、それを乗り越えようと精緻化の方向に向かいます。より理論を研ぎ澄ます方向で乗り越えようとします。それに対して、半理論、創発系の方は、今までの理論そのものをつくり替える方向に進んでいく。僕の場合、アフォーダンスの定義もオートポイエーシスの定義も、結果的に変えざるを得なくなり、事実、すっかりつくり変えてしまいました。それらを踏み台にして自らで前へ進んでいく。限界にぶつかれば、自らをつくり変えてでも進んでいく」。これが運動であり、その運動を精確に捉えるためには、創発系の科学が必要になってくるというのです。

媒介としての「近さ」

 柳澤田実氏は、キリスト教のテキストと向き合うなかで、イエスの身体というものに強く惹きつけられていきました。イエスの身体が引き起こすただならぬ出来事。イエスとは、いったいいかなる存在なのか。その行為の遂行の場となる身体とは、いかなるものなのか。
 「私がイエスを好きなのは、彼がある種の運動神経のようなものをもっている」からだと柳澤氏は述べました。さまざまな人々の到来をキャッチして、「近さ」を媒介に一緒に生きられる共同性をつくる、それを可能にするイエスはある意味でリアクションの達人だったというのです。しかも、その共同性が、目的化されたり、固定化・定式化されなかったことに柳澤氏は注目します。イエスは共同性を築きながらも、「自分で行きなさいと言って、釣った魚を放流してしまう」。この種の倫理を他者に伝えることはことのほか難しい。そこで、キリスト教は、福音書のような物語とか、芸術とか、「行」とか、そうした表現形式を得ることによって初めて伝達できたのではないかというのです。つまり、共同性が立ち上がる過程を追体験すること、宗教やアートの意義も、まさにそこにあるのではないかと柳澤氏は言う。
 この種の倫理へ開かれた場をいかにしてつくり出すか。柳澤氏の探求はその倫理の場へ向かいます。その一つの例をスポーツ、とりわけサッカーに見出します。「あるテーゼとテーゼを持ち寄って戦わせるというディスカーシブな関係ではなく、とりあえずフィールドに出て一緒にボールを回しながら身体である近さを共有していくということが重要なのではないか」。知識依存的な議論よりも何か素手で目の前にあるボールに挑むこと。
 「サッカーでパスを出すというのは、こう言ってよければ、非常に倫理的な配慮に満ちた行為です。だからサッカーから、たとえば倫理を語り直せないかというのはずっと思っていたことです。倫理というと、最も精神的な領域のことであって、人間が意識的・意志的に実現しなければならない規範・ルールというのが伝統的な考え方ですが、身体や知覚の可能性を尽くすところにこそ、既に実現しているけれど言葉が与えられていない倫理があるのではないか」と柳澤氏は提起します。
 ところで、柳澤氏が、芸術活動、芸術表現、とりわけ近代以前の絵画に関心をもつのには、もう一つ理由があります。そこに知覚の探求という自然科学の営為をそこに見て取ることができるからだと言います。19世紀以降の芸術にはなく、それ以前の表現にはあるもの、それが自然科学の眼だったというのです。本来、芸術表現には自然科学的センスというものが発揮されていました。それをすっかり棄ててしまったのが近代芸術だと言うのです。
 「そもそも芸術家たちがやっていたことは間違いなく自然科学と近接した実験、知覚のリアリティを鑑賞者にも経験可能な仕方で記録するという実験だったはずです。長い年月を経ても今私たちに驚きを与える絵画には、知覚のリアリティを余すところなく伝えるあまりに現実でありつつ現実を超えている知覚経験を鑑賞者に与えるものが多いように思います」。眼がほとんど見えなかったはずのモネが描いた「睡蓮」はもとより、たとえば、15世紀のヤン・ファン・アイクは画面内の全ての事物を、金だらい、絨毯、マリアの王冠まで、驚嘆すべき筆致で再現しました。その結果、観る者は全てを等価に知覚することになります。リアリティの徹底化が、かえって非現実感を生むのです。
  「言うまでもなく、私たちの視知覚では、一度に全てに焦点が合うってことはあり得ないわけで、だからこそ、全てに焦点が合っているヤンの絵画は、ものすごくリアル」なのです。ヤン・ファン・アイクは、そのような経験をそのまま絵画に記録しようとしたのでしょう。知覚経験をそのまま絵画に結実させる。その結果、世界は日常的に意識化できている以上に過剰で豊穣なものであることを知ることになるのです。そして、「事物の再現(リプレゼンテーション)ではなくて、知覚を通じて直接ある認知のプロセスを追体験させることができるという点に、アートの最大の可能性を感じる」と柳澤氏は言葉を結びました。

微調整する身体

 認知運動療法の革新性は、まさにそれが身体の再生(リハビリテーション〉を促すものだからです。そこで捉えられる身体とは、脳と一体化した、字義どおりの「身体」です。宮本省三氏は、そこにリハビリテーションの未来、リハビリテーションによって開かれる身体の可能性に注目するのです。
  「今までのリハビリというのは、人間を見ているようで、じつは人間の“動き”を全く見ていなったんです。ところが、人間のからだを治そうとすると、動きそのものを見ないとできない。錐体路が障害されても粗大な動きはできるんです。ところが、微細な動きができなくなる。だから、触覚系や運動覚系も総動員させて、からだのあらゆる感覚に注意を向けさせければならない。それを感じ取らせていく作業こそが患者さんには必要であり、それこそがリハビリテーションというものなのです」。
 宮本氏は、ある神経系に着目します。「脳のシステムの中に錐体路と錐体外路と呼ばれている神経系があるんです。錐体外路系も錐体路系も脳から脊髄を下っていって、筋肉までつながっている。筋肉の収縮は、錐体外路系と錐体路系を情報が伝わって起こることです。ところが下等な動物には錐体路がないんです。霊長類になってサルとか人間になると、錐体路が出現してくる。錐体路の特徴は何かというと、脳の運動野と呼ばれる細胞から脊髄まで一本の線路でくることです」。つまり、人間の身体は、脳と運動系がダイレクトにつながっているのです。
 「環境は刺激にすぎない。ところが、人間はその刺激に晒された時に、自分をどう変えるかということを、常に考えていなければいけないわけです。そうしないと転倒したり、つまり、行為に失敗したりしてしまう。足、体幹、首、手など、全身を使い、微細にコントロールしながら、物体の刺激に対して自分を変えていく、改変させていく」。そういう微調整を、随時、継続し実行しているのが身体というものであり、それは脳システムの可塑性と深く関係しているというのです。
 認知運動療法がやろうとしていることと、「三鷹天命反転住宅」で荒川修作氏がやろうとしていることはじつは同じだったのです。「人間の運動は、すべてにおいて細やかなものです。そこのところをわれわれに想起させよう、復活させよう、気付かせよう、そういう作業をやろうとしているのが、荒川さんでありペルフェッティ先生だ」ったと宮本氏は述懐します。
 宮本氏の運動への思考は、さらに深く人間の精神活動の領域へと接触します。河本英夫氏も言及するイメージの領域です。動物と人間を分ける最も大きなものは、イメージがあるかないかです。もとより、人間の精神活動において重要な意味をもつイメージを、動物はもっていない。その差は、とても大きいという。
 イメージとは、言い換えれば、運動の予期です。次に何が起こるか、常に予期するのが人間であって、それこそが人間の想像力です。
 「不思議なのは、現実の知覚に対しても意識の志向性をもっていけることです。イメージに対して意識を向けることができるんです。自分がイメージした時、〈あっ、からだのここが動いたぞ〉と言えてしまうのは、意識の志向性がイメージに働きかけているからです。つまり、非現実な世界に対してさえ、志向性をもっていける」。これは、イメージを意識できるということです。別の言い方をすれば、非現実な世界を意識は制御しようとしていることだという。これはキネステーゼに関わる問題であり、現象学とのつながりを想起させます。イメージと現実世界はどのように接続しているのか、それはいかにして可能か、身体を考えるうえでの最大の課題だといえます。

空っぽの身体

 『談』no. 79「〈祝際〉する身体」のインタビューで、稲垣正浩氏は、トップアスリートたちのほとんどがバタイユが言う「エクスターズ」の瞬間を感じているはずだと言いました。言い換えれば、それは、「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」瞬間のことです。その時、アスリートの身体は間違いなく外部へと開かれている。しかし、それは同時に暴力というものを招き入れる場に、自らの身体を晒すことでもある。スポーツとは、その起源から暴力を内在するものだったと稲垣氏は言うのです。
 稲垣氏は、柳澤氏とのディスカッションで、そのスポーツにおける暴力を宗教の成立へと架橋させます。
 「英語のバイオレンス(violence)とドイツ語のゲバルト(Gewalt)とはまるで意味内容が異なる。ヴァルター・ベンヤミンの暴力論にならえば、ゲバルトとは第一に政治権力のように強い抑圧として働く〈権力〉、第二に日本語的な意味での肉体的な〈暴力〉、第三に自然現象や人間感情などの〈激しさ〉〈激情〉という三つがある」。この三つの暴力が、スポーツにおける暴力とどう関係するのかをまず認識しておく必要があるというのです。そのうえで、スポーツと暴力について考えてみると、スポーツの世界で一番大きな暴力は、ルールだという。スポーツというものは、すべからくルールによって規制されているものだからです。では、そのルールは誰が制定するのか。ここに暴力としてのルールの問題が浮上してきます。誰にとって有利で、誰にとって不利なのか。この問題系において利害の対立が生じるというのです。ルールを制定する暴力、ベンヤミンのいう〈法措定的暴力〉です。もう一つ、一度制定されたルールを死守し、維持していこうとする暴力があります。スポーツ競技におけるルールというものは時間の経過と共に風化していきます。それでも管理・運営を任されている競技団体は、可能な限り既定のルールを変えようとはしません。こっちは、ベンヤミンのいう〈法維持的暴力〉です。こういう〈暴力〉が、スポーツ競技においては常に働いていると稲垣氏は言うのです。
 「今日のテーマのキー・ワードに埋め込まれた〈暴力〉は、法措定的暴力によってスポーツ競技の世界から排除されてしまった〈暴力〉のことを意味しているのです。ヨーロッパ近代においてスポーツ競技を成立させるための第一条件は、選手たちの生命を守る、ということでした。第二の条件は、選手たちに大怪我をさせてはならない、というもの。すなわち、生命と怪我から選手たちを守る、ということが最優先されました」。逆に見れば、それほどかつてのスポーツは暴力に満ち溢れていたということです。前近代までの〈スポーツする身体〉は、ある意味で「決闘する身体」と背中合わせになっていた。つまり、こういうことだと稲垣氏は言います。「時代を遡っていきますと〈スポーツする身体〉がますます〈動物的〉になり、自然のままの〈肉体〉そのものが露呈してきて、原初の人間、つまり〈ヒト〉のレベルでの〈暴力〉がごく自然に立ち現れてくる」というわけです。
 ところで、稲垣氏は、そのスポーツする身体の暴力が、ある極限にまで達した時に感じるものが、「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」瞬間ではないかという。そして、その「エクスターズ」の瞬間に、私たちは宗教と出会うと言うのです。
 「透明になって、健康であれば何も身体のことは考えなくていい。歯が痛い、おなかが痛いという時に、はっとからだのことを思う。調子のいい時は忘れていますよね。だけどその身体がだんだん何かで追い込まれていく。スポーツでレベルを上げていくのもそうだし、病気が徐々に進行して死に近づいていくというのも同じだと思いますが、肉体の極限状態に追い込まれていくと最後はもう祈るしかないというところにいくんじゃないかと思うんです」。
 「禅仏教の坐禅をとおして到達する世界はまさに空っぽです。何も考えるな。眼も瞑ってはいけない、半眼で開けてろと。そして、ただひたすら坐りなさい(「只管打坐」)と教えていく。そうするとそのうちに自分と環境の境目がなくなってくる。つまり自己と他者の境目がなくなって、完全に一体化する時がある。それが悟りの一つのステップだと。室伏選手もハンマー投げという修行を一所懸命やって、あれは坐禅とほとんど同じではないか」。こうして、アスリートの身体は、からっぽの身体をくぐりぬけて宗教の身体へと辿り着くのでしょう。

 四人のパネリストの言葉をたよりに、身体の位相を経巡りました。そもそもの発端であった統治という問題に、アクセスできぬままに、言葉は脱臼し、拡散し、接木され、あらぬ方向へと動き出してしまったようです。きわめて個人的な問題意識から始められた今回の試みは、しかし、インティメイトな領域へ入り込んでいくことで、かえって問題の諸相を明らかにしたようにも思えます。
 ところで、荒川修作氏には、もう一つ「クリーヴィング」という重要な用語があります。「切り閉じ」と訳されているこの概念は、簡単に言うと、ある領域を瞬間分節し・縫製する状態を言います。河本英夫氏は、雨上がりの夕方の川原での集団が飛び交っている時、この蚋の集団を手で切ってみると、そのことによって集団は一時的に乱れるけれども、ただちにまた元の集団に戻っていく、まさにその状態が「クリーヴィング」だと言っています。卓抜な表現です。ランディングサイトの分散を支えているのは、まさに「クリーヴィング」があるからなのです。
 身体は自ら動き、また自らを領域化します。ランディングサイトがクリーヴィングによって動き始める時、クリーヴィングが起こりランディングサイトは動き始める。動きあるいは触覚。身体を介して、世界が少し違ったものに見えてきます。それが、私の新たな統治の始まりだとしたら――。
(佐藤真)

 
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◎システムデザイン、形成力、発達の最近接領域
哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題 河本英夫 日経BP社 2007
システム現象学 オートポイエーシスの第四領域 河本英夫 青土社 2006
脳の学習力 子育てと教育へのアドバイス S・ブレイクモア他 乾敏郎他訳 岩波書店 2006
新訳版 芸術心理学 ヴィゴツキー 新田義松訳 学文社 2006
生きていることの科学 生命・意識のマテリアル 郡司ペギオー-幸夫 講談社現代新書 2006
ヴィゴツキー心理学完全読本 「最近接発達の領域」と「内言」の概念を読み解く 中村一夫 新読書社 2004
「発達の最近接領域」の理論-教授・学習過程における子どもの発達 ヴィゴツキー 土井捷三他訳 三学出版 2003
メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心 河本英夫 青土社 2002
身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ ヴァレラ、エレノアブッシュ他 工作舎 2001
ヴィゴツキーの方法―崩れと振動の心理学 高木光太郎 金子書房 2001
新訳版 思考と言語 ヴィゴツキー 新田義松他訳 新読書社 2001
知恵の樹 F・マトゥラーナ、F・ヴァレラ 管啓次郎訳 ちくま学芸文庫 1997
オートポイエーシス 第三世代システム 河本英夫 青土社 1995
オートポイエーシス 生命システムとは何か F・マトゥラーナ、F・ヴァレラ 河本英夫訳 国文社 1991

◎ランディング・サイト、クリーヴィング、死ぬのは法律違反です
荒川修作の軌跡と奇跡 塚原史 NTT出版 2009
20世紀アヴァンギャルドと文明の転換 コロンブス、プリミティヴ・アート、そしてアラカワへ 大平具彦 人文書院 2009
建築する身体 人間を超えていくために 荒川修作、マドリン・ギンズ 河本英夫訳 春秋社 2008
荒川修作 60年代立体作品展カタログ ギャラリー・アンリミテッド 2008
三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために 荒川修作 水声社 2008
死ぬのは法律違反です 荒川修作、マドリン・ギンズ 河本英夫訳 春秋社 2007
雑誌 水声通信 特集荒川修作の“死に抗う建築” 水声社 2005
「荒川修作を解剖する」展カタログ 名古屋市美術館 2005
遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体 奈義町現代美術館 2005
死なないために 荒川修作、マドリン・ギンズ リブロポート 1998
意味のメカニズム 荒川修作、マドリン・ギンズ リブロポート 1998
雑誌 現代思想 特集 荒川修作+マドリン・ギンズ 青土社 1996
養老天命反転地 荒川修作+マドリン・ギンズ建築的実験 毎日新聞社 1995
生命の建築 荒川修作・藤井博巳対談集 水声社 1995
懐かしい未来の世界 荒川修作の仕事 工藤順一 新曜社 1995
建築・宿命反転の場 アウシュビッツ・広島以降の建築的実験 荒川修作、マドリン・ギンズ他 水声社 1995

◎認知運動療法、脳のリハビリテーション、情動の身体
脳の中の身体 認知運動療法の挑戦 宮本省三 講談社現代新書 2008
身体運動学 知覚・認知からのメーセージ 樋口貴広他 三輪書店 2008
リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦 宮本省三 春秋社 2006
感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ A・R・ダマシオ 田中三彦訳 ダイヤモンド社 2005
基盤としての情動 フラクタル感情論理の構想 L・チオンピ 山岸洋他訳 学樹書院 2005
無意識の脳 自己意識の脳 身体の情動と感情の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2003
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元他訳 東京大学出版会 2003
認知運動療法入門 臨床実践のためのガイドブック 宮本省三他 協同医書出版社 2002
認知運動療法 運動機能再教育の新しいパラダイム C・ペルフェッティ 宮本省三他訳 協同医書出版社 1998
認知運動療法と道具 差異を生みだす差異をつくる C・ペルフェッティ 宮本省三他訳 協同医書出版社 2006
脳のリハビリテーション 認知運動療法の提言 1 中枢神経疾患 C・ペルフェッティ 宮本省三他訳 協同医書出版社 2005
認知運動療法講義 F・アントニエッタ・パンテ 小池美納訳 協同医書出版社 2004
認知運動療法へ 私の臨床ノート 2 臨床思考の手続きと治療 塚本芳久他 協同医書出版社 2005
認知運動療法へ 私の臨床ノート 1 道具と治療 塚本芳久他 協同医書出版社 2004
精神医学 複雑性の科学と現代思想 L・チオンピ他 青土社 1998
感情論理 L・チオンピ 松本雅彦他訳 学樹書院 1996

◎スポーツ、倫理、ディスポジション
近代スポーツのミッションは終わったか 稲垣正浩 平凡社、2009
〈ISC・21〉IPHIGENEIA 創刊号 21世紀スポーツ文化研究所 2009
ディスポジション 配置としての世界 柳澤田実編 現代企画室 2008
ブラジルのホモルーデンス サッカー批評原論 今福龍太 月曜社 2008
紀要 IPHIGENEIA 1~7 日本体育大学大学院体育科学研究科スポーツ文化・社会科学系 稲垣研究室 ~2007
身体論――スポーツ学的アプローチ 稲垣正浩 叢文社 2006
エーコとサッカー P・P・トリフォナス 富山太佳夫訳 岩波書店 2004
〈スポーツする身体〉を考える 稲垣正浩 叢文社 2002
スポーツの汀 今福龍太 紀伊国屋書店 1997