生存の条件を問うことは、最低限の生き方を問うことではない
金融危機に端を発する世界経済の急速な悪化によって、先進諸国では新たな貧困が問題になっています。貧困の拡大・変質は、すでにバブル崩壊後の日本では、他の先進諸国に先んじて顕著になっていましたが、今回の金融危機は、さらにそれに拍車をかけるものとなりました。
セーフティネットという概念があります。生活や雇用を支える最終的な安全網のことです。ところが、今回の不況は、このセーフティネットが機能不全に陥っていることをはからずも露呈させてしまったのです。セーフティネットが機能していない、それは、端的に生存権が脅かされているということです。ただ普通に生きること、言い換えれば、生存すること自体が、日本ではままならなくなっているのです。
今号では「生存」について考えてみましょう。生存とはそもそも何を意味するのか。そして、その条件とは何か。生きることとは、可能性へ開かれていること。そう捉え直してみることから、改めて人間における生存の意味を問うてみたいと思います 。
現代の貧困
もはや、誰も貧困を無視することはできなくなりました。つい数年前まで「貧困は解決した」ものと思われていましたが、いまやそこかしこに貧困が顔を出しています。解決どころか拡大し、新たな貧困すら生まれているのです。なかでも注目すべきは、若年層の貧困率が増大していることです。
OECD(経済協力開発機構)が昨年末に発表した報告書『Job for Youth-Japan』によれば、日本の15~24歳の失業率は2002年の9.9%から2007年には7.7%へと低下したものの、2007年の15~24歳の長期失業率は10年前の18%から21%へと上昇、若年就業率も41.5%と依然として10年前の水準を下回り、OECD平均の43.6%より下回っている。つまり、若年層の五人に一人は12ヵ月以上仕事を見つけられない状態にあるというのです。
わが国の社会保障は、人生の後半に集中するという特徴をもっています。大まかに言うと、現役世代は、企業や家族で面倒をみて、人生の後半は社会が支えるという構造になっています。若い世代は自己責任でやれという考えが基本にあるので、もともとこの層を社会が支えるという発想がない。若年層の貧困の増大という事態は、その意味でわが国の社会保障制度の弱点を如実に示しているのです。そして、支えがないということは、言うまでもなく生存に関わる問題に直結します。セーフティネットが不十分な状態のなかで、雇用の保証すらない。それが現代の若者たちが置かれているリアルな現実なのです。 では、なぜ日本で貧困が拡大しているのでしょうか。五つの要因が考えられるといいます。一、収入源が限られている高齢者の増加。二、他に働く人や一緒に生活する人がいないため、生活費の増加や収入の減少を補う手段がない単身者世帯の増加。三、グローバル経済の進展による製造業の弱体化。四、技術や知識の市場価値が上昇するIT化社会のなかでの未熟練労働者の賃金低下。五、それに伴い顕在化していった非正規労働者やワーキングプアの増加などです(1)。これらの要因からわかることは、日本で起こっている貧困は、先進国共通の問題であると共に、高度成長期を経て、バブルの崩壊、長期的な景気の低迷がもたらした日本経済に特徴的な現象であるということです。 ここ十数年間の日本経済をエコノミストたちは「失われた10年」と呼んでいます。グローバル経済の展開によって、日本の製造業は国際競争力を失い、工場の海外移転が相次ぎました。その結果として、高卒生を正規労働者として吸収してきた地方での雇用の場が失われ、卒業無業やフリーターが増加するという事態を生んでいると指摘するのは経済学者の駒村康平氏です。駒村氏によれば、地方の製造業の消滅は、卒業時に安定した職場を紹介するという「教育と職業の橋渡し」的な高校の役割を奪い、その結果、戦後続いてきた中流階級の再生産の仕組み自体が壊されてしまったというのです。 国内の製造業の空洞化の一方で、大きく発展したのがサービス産業です。サービス産業は、消費者ニーズに柔軟に対応するために、より柔軟性をもたせた働き方を求めるようになりました。それを受けるように、それまで専門的な職業に限定されていた派遣が、他の労働でも可能なように規制緩和が進められました。その結果、今日、大きな問題となっている「ワーキングプア」を大量に生み出す結果になったのです。また、IT化の進展も高卒などには不利に働き、高学歴者の賃金と比較するとずっと低い労働環境が形成されてしまいました。 今、言ったように、デフレ、低成長、グローバル経済による価格引き下げ圧力、サービス産業の拡大、ITの普及といった日本経済の急激な環境変化を受けて、95年に日経連(現・日本経団連)は『新時代の「日本的経営」』というレポートを発表します。そのなかで、「雇用ポートフォリオ」という考え方が出されました。労働者を「長期蓄積能力活用型」、「高度専門能力活用型」、「雇用柔軟型」の三つに類型化するもので、経済状況に合わせて柔軟に雇用調整ができるようにしようという提案です。じつのところ、幹部候補生の正社員と、スキルがあって企業を渡り歩くスペシャリストと、雇用の調整弁としての使い捨て型の労働者に分けて、都合よく使うことができる労働者を増やそうというのがホンネだったというのです(3)。これが、昨今問題となっている九九年の労働者派遣法の改正、さらには2003年の製造業派遣の解禁につながっていったわけです。 産業のさまざまな分野で行われた規制緩和、柔軟に対応できる雇用環境の再構築、さらには、法人税、累進課税の減税。バブル経済以後の長期不況からの脱却を謳って始められた改革(改悪?)は、その意図とは裏腹に、結果的に「格差社会」を生み出してしまった。そして、言うまでもなく格差は、貧困へとダイレクトにつながっていくことになるのです。
格差と貧困の違い
所得格差の拡大と貧困の拡大は、しかしながらその意味するところが違います。所得格差の拡大は、高所得者と低所得者の所得の差が広がるということであり、他方、貧困の拡大は、貧困基準以下の所得で生活が成り立たないような人々が増加することをいい、その含意は大きく異なります。つまり、貧困率の上昇の方が、格差の拡大よりずっと深刻な問題であり、格差縮小よりも貧困の解決の方が優先されるベきなのです(1)。 社会福祉学の岩田正美氏も同様の見方をしています。その理由として、格差は、基本的にそこに「ある」ことを示すだけで済むことですが、貧困はそうはいかない。貧困は、人々のある生活状態を「あってはならない」と社会が価値判断することで、「発見」されるものだからだというのです(2)。したがって、貧困の解決は、その具体策を社会に迫っていくものとなります。 また、貧困という問題を考える時には、この「あってはならない」という判断をめぐる議論が大事だともいいます。つまり、何を「あってはならない」状態と考えるか、根気よく議論をしていくべきだというのです。さらにもう一つの問題として、貧困がどのような人々の間で起こっているのかを正確に把握する必要があるということです。日本は、それを検証するためのデータがないために、生活保護の保護世帯数の増加ばかりが取り沙汰されますが、たとえば、貧困が一時的なものなのか、固定化したものなのかによって、その対応は異なったものになるといいます。そして、早急の策が必要なのは、固定化した貧困の方であると岩田氏は主張します。 ところで、イギリスで貧困と都市との関わりを調査したシーボーム・ラウントリーは、貧困がライフサイクルと関係することを発見しました。ラウントリーによれば、特別な技能をもたない労働者の場合、失業しなくても人生で三回貧困に陥る危険があるというのです。一回目は、自分が子供時代、二回目は、結婚して自分の子供を育てている時代、三回目は、子供が独立し、自分がリタイヤした高齢期です。一回目、二回目はいずれも子供の扶養費が拡大して生活費を圧迫する時期であり、三回目は子供が独立し、自分は労働市場からリタイヤし、収入そのものが途絶えるか低下する時期にあたります。 ラウントリーのライフサイクル・モデルは、貧困に陥る危険性が、劣悪な雇用・労働条件からだけではなく、普通に生活している場合でも、扶養期や高齢期においては貧困に陥る可能性のあることを示唆したことで、注目されました。このライフサイクル・モデルは、年金や児童手当などの社会保障制度づくり、また生命保険会社のライフプランにも活用されました。ラウントリーの見出した貧困は、その意味で20世紀的な、近代社会が生み出す貧困だったといえます。貧困の予防策を講じることを前提とした国家の構想、すなわち福祉国家は、ラウントリーのこの考えをベースにしています。 冒頭、言いましたように、バブル崩壊とその後の金融危機は、世界経済を大きく変えることになりましたが、それは新たな貧困を生み出すことになりました。日本の場合は若年層の貧困がその一つです。ラウントリーのモデルは、あくまでも近代社会、とりわけ工業社会の労働者のライフスタイルを想定したもので、そのモデルを基礎にして福祉国家が構想されたわけですが、新たな貧困の登場は、福祉国家の限界を示すことになったのです。言い換えれば、現代の貧困問題は、これまでの福祉国家モデルでは立ちいかない側面をもっているということです。 昨今、所得などの経済的な尺度だけでは見えない新たな貧困を、「剥奪」とか「社会的排除(social exclusion)」という言い方で社会的に定義づけようという考えが出てきました。「剥奪」とは、一般に人々が使えるはずのモノやサービスが利用できないことをいい、「社会的排除」は、モノやサービスに加え人間関係も失い社会的に孤立した状態になることをいいます。 「今日起きている貧困の問題は、実は金銭を保証して解決できるような単純なものではなく、この剥奪・社会的排除が加わった複雑な様相を呈したものとなってい」て、「ホームレス、アルコール中毒、多重債務、孤独死といった現象は貧困問題と併発して起こっているが、ある意味で貧困をきっかけに、剥奪や社会的排除が起こり、さらに問題が深刻化していったことを示している」(駒村康平)のではないかというのです。
機能不全に陥っているセーフティネット
80年代以降に登場してきた新たな貧困も含めて、最終的な支えがセーフティネットです。一般に、一段目の雇用の領域でうまくいかなくても、企業に雇われている場合は、二段目の雇用保険や健康保険の「正規労働者向けの社会保険のネット」があり、さらには、三段目の国民健康保険や生活保護といった公的扶助の「最終的なネット」がある三層構造になっています。この重層的構造をもったセーフティネットが、じつは、現在穴だらけになっているというのです。一段目の雇用が減り、二段目の社会保険の幅は狭まり、ついには最後の支えである公的扶助による援助の水準が低下している。セーフティネットそのものが、まともに機能しなくなっているわけです。
たとえば、こんなデータがあります。生活保護を受給できるはずの世帯のうち、実際に需給している世帯の割合を示す数値に捕捉率がありますが、捕捉率でみると、日本は約二割程度といわれています(アメリカ約七割、イギリス約九割)。しかも、最近の研究では、この数値はますます低下しているといいます。つまり、五人のうち四人はこのネットからこぼれ落ちる計算です。一方、全人口/世帯に対する受給者/世帯の割合を保護率といいますが、この保護率と捕捉率を合わせると、なんと100世帯中、10世帯が生活保護基準以下の生活をしていて、実際に保護を受けることができているのはたったの二世帯、というのです。この数字を見る限り、わが国のセーフティネットは、機能不全に陥っていると考えて間違いないと指摘する識者もいます(4)。
貧困状態を測るモノサシ「貧困水準」には、「絶対的貧困水準」と「相対的貧困水準」の二つの考えがありますが、前者は「人が〈生存する〉のに最低必要な所得水準」で、人間が生存するのに必要なカロリー量に基づき数値的・客観的に設定したものです。先ほど言ったラウントリーも、栄養科学=必要カロリー摂取量基準を使って科学的な「生存費用」を算定できると言っています。ラウントリーは、「単なる肉体的能率を保持するために必要な最小限度の支出」を人間の生存の費用と考えました。すなわち、少なくとも「ぎりぎりの水準」をカロリーという数値的表現によって提示することは、価値判断をもち込むことなく生存費用が得られるという利点があると考えたわけです(2)。
それに対して後者は、社会の一般的な生活を送っている人の生活水準に比較して、一定水準、たとえば一般的な生活水準の50%、あるいは60%程度の生活水準を保証するというものです。現在の日本の生活保護制度が定める貧困水準は、この〈相対的水準〉に基づいています(1)。ラウントリーに言わせれば、まさにその相対的というところが、問題だと言うに違いありません。実際日本の経済界の一部にも「“真の貧困基準”とは死ぬか生きるかのぎりぎりの水準を基準とするのがよく、政府の保証もその程度でよい」という意見もあるようです(1)。
最低限度の生活とは何か
「1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」 これは、日本国憲法第二十五条による生存権の規定です。われわれ日本国民は、「最低限度の生活」を営む権利がある。そして、国家はその向上に努めなければいけないというのです。この「最低限度の生活」とは、ラウントリーのいう「ぎりぎりの水準」のことなのでしょうか。それとも、生活保護制度に定められた〈相対的水準〉に準拠して、その時代時代の経済状況に合わせつつ営まれる暮らしのことなのでしょうか。
セーフティネットが機能不全を起こしている根拠として、生活保護が受けられるにも関わらず、実際の受給者がわずか二割にすぎないと言いました。絶対的な貧困であれ、相対的な貧困であれ、この生存権の規定と照らし合わせてみると、最低限度の生活ですら、われわれは営むことができなくなりつつあるということになります。しかし、それにしても「最低限度」とはどういう意味なのでしょうか。社会学者の立岩真也氏は「〈最低限〉を保証さえすればそれで〈上がり〉ということではないのだという視点を保っておく必要がある」と言っています(5)。ここでの文脈に引きつけるならば、生存が保証されればとりあえずいいということではなく、まさしくその条件とは何かを問う視点をもち続けることが重要だということになるでしょう。生存を問うことは、その生存を規定する条件を問うことと同義なのです。
アイザイア・バーリンは自由には積極的自由と消極的自由があると分類して、自由の平等な保証は、消極的自由に限定すべきだと主張しました。それに対して、インドの経済学者アマルティア・センは、むしろ積極的自由の概念に着目します。センによれば、自由とは「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことを意味し、「自己にも他者にもその理由をつまびらかにしながら、ある生を価値あるものとして選び取っていくという個人の主体的かつ社会的な営みが、実質的に可能であることを意味する」というのです。
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・後藤玲子氏は、「このような広義の自由を人々に平等に保障すること、そのために必要な制度的な諸条件の整備--生存を支える物質的手段の保障から個人の主体的な生を支える社会的諸関係や精神的・文化的諸手段を整えることまで--を的(object)とした」として、センの経済学において、「自由」がキー概念になると指摘します。経済システムの分析・評価・構築にあたっては、広義の意味での自由の保障--意思・利益・評価主体である個人を尊重すること--を外的視点として明示的に導入すること。センの経済学の中心にある社会的選択理論&潜在能力アプローチの重要性は、まさにその「自由」の概念にあるというのです。
人間における生存とはどういう意味をもつのか、アマルティア・センのキーワードの一つである「潜在能力アプローチ」を導きの糸に、後藤玲子氏に考察していただきます。
カネには交換とは別の起源と機能があると津田塾大学国際関係学科准教授・萱野稔人氏は著書で指摘しています。奪うものと奪われるものがあり、奪う側が権利関係を無理やり組み立てて、労働の成果、すなわちカネを吸い上げていく。つまり交換は、資本主義を生み出さないというのである。カネは交換のためにあるのではなく、むしろ、国家の徴収ないし収奪のためにこそあるというのです。
たとえば、ベーシック・インカムが提起するのは、ここの問題に関わってくるといいます。労働と賃金のつながりを切断しようとするのが現代の資本主義だとすれば、ベーシック・インカムはまさにその関係を逆転しようとします。働かなくたってカネはもらってもいい、ベーシック・インカムは、労働と賃金が連動していないという資本主義社会の現実を、全く裏返しの形で暴き出します。
賃労働ではない労働によって支えられている資本主義。生存と労働の関係が根本から崩れたところに発生する生存の危機について、萱野稔人氏に考察していたただきます。
「フーコー自身が語るとおり生存の美学や自己への配慮は〈胸糞が悪くなるもの〉であり、それ自体は革命や抵抗を保証しない」といいます。そして、「生存の美学」は「政治性」を拭い去られた「霊性」の一ヴァージョンでしかないとすら言うのは、立教大学他で講師をされている佐々木中氏です。
ラカンの「余剰享楽」という既存の枠内で「ない」ものを「ある」として掠め取る機制を壊乱するアンスクリプションとしての「女性の享楽」、ルジャンドルの社会体を措定するテクストの書き換えによって発生するある種の神話、そしてフーコーがイラン革命に幻視した統治性に抗する汚辱にまみれた身体における「戦いの響き」としての政治的霊性……。この三つの概念が、相互に反復しつつ私たちを「生存」の際へと連れ出すのです。
「すべてについてすべてを」語ろうとする社会批評家と「一つについてすべてを」語ろうとする専門家の書き方は、結局のところ同じファルス的な欲望に根ざしていると言い切る佐々木中氏に、あえて、今日語りうる「生存」とは何か、その条件について論じていただきます。(佐藤真)
引用・参考文献
(1)駒村康平『大貧困社会』角川SSC新書、2009
(2)岩田正美『現代の貧困 ワーキングプア/ホームレス/生活保護』ちくま新書、2007
(3)雨宮処林凛他著『脱「貧困」への政治』岩波ブックレット、2009
(4)山森亮『ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える』光文社新書、2009
(5)立岩真也他『生存権 いまを生きるあなたに』同成社、2009
|