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[最新号]談 no.82 WEB版
 
特集:おとはどこにあるのか……聴くではなく、奏するでもなく
 
表紙:勝本みつる 本文ポートレイト撮影:石川直樹
   
    
 


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(対談)柏野牧夫×池谷裕二

理性を導く音の快楽

柏野牧夫
かしの・まきお
1964年岡山県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科心理学専攻修士課程修了。現在、NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部感覚運動研究グループ主幹研究員・グループリーダ、独立行政法人 科学技術振興機構 ERATO 下條潜在脳機能プロジェクト 潜在聴覚処理研究グループリーダ、および東京工業大学大学院総合理工学研究科物理情報システム専攻連携教授を兼務。博士(心理学)。共著書に、『脳の計算機構』朝倉書店、2004、『コミュニケーションを科学する チューリングテストを超えて』NTT出版、2002、他。

聴覚においてフィードバック機構が
なんらかの役割を果たしているのは確かです。
要するに、聴覚というのは、
情報が順々に脳まで行って意識されるという
単純な代物ではないということ。
脳まで行っても、至るところに相互結合があり、
フィードバックもかかる。
そういうきわめてダイナミックなシステムになっているのです。

池谷裕二
いけがや・ゆうじ
1970年静岡県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程生命薬学修了。2002〜5年までコロンビア大学(米ニューヨーク)に留学。現在、東京大学大学院薬学研究科准教授。神経生理学。著書に、『進化しすぎた脳』講談社ブルーバックス、2007(朝日出版社 2004)、『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』祥伝社、2006、『海馬』糸井重里氏との共著、新潮文庫、2005、『記憶力を強くする』、講談社ブルーバックス、2001、他。

ニューロン1000個くらいに
それぞれ音をつけてみたことがあるのですが、
すると面白いことが起こる。
目で見ていると活動のパターンというのはよくわからないのですが、
耳で聴いているとあるメロディが何度も聴こえたり、
ある和音が急に変わったりするんです。
つまり、脳のニューロンには状態というのがあって、
そのステートが変わる瞬間があるんです。

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(対談)粉川哲夫×廣瀬純

無数の眼/耳/舌あるいは闘争の劇場としての…

粉川哲夫
こがわ・てつお
1941年東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了。現在、東京経済大学コミュニケーション学科教授。メディア論、映画批評、ラジオアート・パフォーマンス。ウェブサイト「ポリモーファス・スペイス」主宰。著書に、『政治から記号まで 思想の発生現場から』(共著)インパクト出版会、2000、『主体の転換』未来社、2000、『もしインターネットが世界を変えるとしたら』晶文社、1996、他多数。

今日の対談は、この会場のように、
わざわざここに来なければ聞けないようなイベントですが、
大放送で中継すると確実に放送優位になる。
しかし、このビル内だけしか届かない放送の場合は、
ライブの現場とリモートの現場との相乗効果が生まれたりすることもある。
インターネットのライブ放送は、その辺を微妙に調整できる。
僕は、グローバルに対して、トランスローカルという言葉を使っていますが、
これはグローバルでローカルという意味より、
「今・ここ」性をもっと意識したいからです。

廣瀬純
ひろせ・じゅん
1971年東京都生まれ。パリ第3大学映画視聴学研究科博士課程中退。現在、龍谷大学経営学部専任講師、仏・映画研究誌「VERTIGO」編集委員。映画論。著書に『闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』人文書院、2006、『美味しい料理の哲学』河出書房新社、2005年、他。

僕の好きな曲の一つに、ブラジルのSimoneという女性歌手の
Comecar de novoという曲があるんですが、CDやiPodで聴いても
アナログ盤で聴いた時と同じ感動を決して得ることができないんです。
記号がその量のレベルでコンパクト化されてしまっているからだと思います。
世界というのは圧倒的な量の、じつは記号に満ち溢れているが
充満しているところで、猛烈にカオス化している場なはずですよ。
その記号の充溢をどうやって取り戻すか、
ここにこそそれはまさに身体性の問題があるのだと思います。

 


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(対談)小沼純一×渋谷慶一郎

「聴いたことのない音楽」の方へ

小沼純一
こぬま・じゅんいち
1959年東京都生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。現在、早稲田大学文学学術院教授。音楽・文芸批評家。著書に、『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』青土社、2007、『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』みすず書房、2006、『サウンド・エシックス』平凡社新書、2000、『武満徹 音・ことば・イメージ』青土社、1999、他多数。

ペンデレツキのトーン・クラスターがバーッと鳴ったとすると、
何か快感があるじゃないですか。
調和しているわけじゃないから
ハーモニーとはいえないまでも、なんかいいわけ。
僕はそれを、ハーモノイズという言葉で言い表したら
面白いんじゃないかって思ってるんだけど、
渋谷さんがおっしゃる楽音でもなくノイズでもない感じの音って、
そういうのに近いように思うのです。

渋谷慶一郎
しぶや・けいいちろう
1973年東京都生まれ。東京芸術大学作曲科卒業。音楽家。ATAK主宰。CDに『ATAK010 filmachine phonics』2007、『ATAK007 yuji takahashi +keiichiro shibuya+maria』2006、『ATAK000 keiichiro shibuya』2004、『ATAK002 keiichiro shibuya+yuji takahashi』2003、『ATAK001 slipped disk』2002、すべてATAK、他。

今つくっているような第三項音楽の音色の生成ソフトの場合、
あるパラメータを入れると、サウンドファイルが一つできるというもので、
基本的なシステムとしてカオスというか非線形なので
パラメータを少し変えるだけで、すごく変わることがあるし、
無数の音色をつくることができます。これは、ある意味では、
コンピュータがつくった曲ともいえるわけで、
自分というものの比重が極端に少ない。これが普及すると、
電子音楽、コンピュータミュージックを巡る状況は、かなり変わると思います。


 


editor’s note

ヴァーチュアリティ-アクチュアリティ-リアリティ

 仮想現実とか人工環境と訳されたヴァーチャルリアリティという言葉を、一頃よく耳にしました。CGや音響効果を駆使してリアルな世界、現実世界を再現すること。言い換えれば、ホンモノそっくりな世界を疑似体験することです。現実世界とは別個に存在するもう一つの仮想された現実、これがヴァーチャルの一般的なイメージだといえるでしょう。
しかし、ヴァーチャルの語源はラテン語のvirtualis(ウィルトゥアリス)です。これは、力、潜勢態のことなのです。確かに虚という意味もあります。ヴァーチャルリアリティは、その虚のイメージを強く打ち出しました。ただ、本来は、むしろ潜勢態の意味で捉えられるべき概念なのです。では、潜勢態とは何か。簡単に言えば、現実に存在するものではないが、アクチュアル(現働)化されることを目指しているものです。現実ないし現働態を生み出していく力、潜勢力がヴァーチャルの本源的な意味、ヴァーチュアリティ=潜在性(virtuality)なのです。
 ヴァーチャルとは、リアリティと対立するものではないし、ましてや現実を人工的に疑似的に体験することだけではない。あえていえば、現実に先立ってある、現実を生成する体験それ自体なのです。精神医学者の木村敏氏は、「アクチュアリティがまだアクチュアリティとして実現されていない状態」、「なんらかの〈効力〉(virtue)あるいは〈力〉を備えていながら、まだそれを展開していない状態」(*1)がヴァーチュアリティであるといいます。つまり、アクチュアリティは、それが真にアクチュアルであるかぎり、まだアクチュアリティになりきっていない、逆にいえば、「アクチュアリティがアクチュアリティとして完成したとき、それはもはやアクチュアルであることをやめている」ことになります。「アクチュアリティがアクチュアリティでありうるためには、それは下半身をヴァーチュアリティに浸していなければならない」というのです。ヴァーチャルなものこそリアリティに先立ってあるものであり、リアリティとは、ヴァーチャルなものから立ち上がる現働態であるとすれば、リアリティとアクチュアリティが、ヴァーチャルなものとどう関係するのか、そのことを明らかにする必要があります。
 ヴァーチャルなもの(ヴァーチュアリティ)、アクチュアルなもの(アクチュアリティ)、リアルなもの(リアリティ)。この三つの様態は、われわれの今生きている社会、人間の思考、生命の営みを考える一つの有力な解読格子になりうるのではないか。つまり、ヴァーチュアリティ-アクチュアリティ-リアリティという三つの様態が、いかなるかたちで組み合い、構成されているかを突き詰めること、それが、社会や思考、また生命を問うことにつながると考えます。『談』では、これからしばらくこの三様態を基軸に、いくつかの補助線を引きながら、社会、思考、生命に迫ろうと思います。

「音」をめぐる三つの対話

 たとえば、音楽は「音」の内にあります。音楽は、無数の音(無音も含んだ)が多様に組み合わさって生成するものです。「音」のヴァーチュアリティが立ち上がり音楽というリアリティへと結晶化する。しかし、音楽という形に固着したとたん、発端としての「音」は雲散霧消してしまいます。端緒としての「音」、そしてその衝撃……。音楽は、「音/無音」から誕生するのだけれど、いったん音楽へと結実してしまうと、その世界へと穿たれた最初の「音/無音」は、いわば痕跡としてしか覚知できなくなる。音楽とは、「音」であるには違いないのですが、すでにその生まれたての「音」をそこに聴くことはできないのです。私たちが聴くことのできる「音」は、せいぜい「音」があったという記憶、「あとかた」としての「音」だけなのです。ここに、音楽の不思議と魅力があります。私たちが音楽に魅了され続けてきたのは、この聴こえているのに聴こえていない、その痕跡を耳でたどることができても、その「音」の根源には永遠にたどりつけないというある種の「もどかしさ」があるからではないでしょうか。「音」がヴァーチュアリティであり、その差異化によって生まれつつ現働化する音楽。ヴァーチュアリティとしての「音」、リアリティとしての音楽。その「音」が音楽へと生成変化するまさにその瞬間としてのアクチュアリティ。私たちは、このアクチュアリティのただ中で、「音」の痕跡をかすかに聴きとることができるのです。
 さまざまな「音楽」、さまざまな静寂、そのしじまを埋める無数の「音/無音」。ヴァーチュアリティ-アクチュアリティ-リアリティを考えるにあたり、その題材を「音」に探ります。今回新たな試みとして、公開対談を行いました。語り手たちの生の声に接してほしいと思ったからです。「音」そのものをめぐって、また社会とのかかわりの中で、さらには、「音楽」に潜む「音」について、六人が語り、話す、その声を聴く。言葉という「音(おん)」のつらなりが生み出す「音」の現場。今号は、吉祥寺にあるsound cafe dzumiで行われた対話のドキュメントです。

音、サウンド、言葉

 第一の対話は、NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部感覚運動研究グループ主幹研究員・グループリーダの柏野牧夫氏と東京大学大学院薬学研究科准教授の池谷裕二氏による「理性を導く音の快楽」。
 日常の環境では、聞きたい音の他にさまざまな音が鳴っています。そうした音が混ざり合った中で、聞きたい音を聞き取る機能を「聴覚情景分析」と言います。この聴覚情景分析の脳内メカニズムの解明から、聴取者の意識に上らないオートマティックなプロセスと意識的な注意のプロセスとのダイナミックな相互作用を研究しているのが柏野牧夫氏です。一方、脳の神経システムを研究する池谷裕二氏は、神経システムは、システム個体の歴史を鑑みることで決定し、そのことによって特定の世界を生起させているといいます。神経システムは、環境と相互にカップリングする連続的かつ安定的な運動システムだというのです。環境とシステムの相互作用の仕方は、では「音」とどう関わるのでしょうか。情動-理性-感性と身体との関わり、脳科学の最前線からみた音と美の関係について迫ります。
 あらゆる音楽はよじれています。よじれながら、つんのめりながら、どんどん自らの音の「からだ」を環境に馴染ませ、あるいは抵抗しながら、そしてさらなる生成変化を引き起こしていく。音楽の根底にあるもの、それは、音へ身体を委ね、そうすることで身体そのものを音響機械へと変容させる底知れぬ「非-知」ではないでしょうか。そういう身体をここでは、仮にマルチチュードと呼びます。
 第二の対話は、「無数の眼/耳/舌あるいは闘争の劇場としての…」というテーマで、マルチチュードの分析、実践活動を通して発言し続ける龍谷大学経営学部専任講師でフランスの映画研究誌「VERTIGO」編集委員の廣瀬純氏と東京経済大学コミュニケーション学科教授でラジオアートの実践家である粉川哲夫氏に、「音」を通奏低音に、ネグリとアクチュアリティ、料理とリアリティ、自由ラジオとヴァーチュアリティについて討論していただきます。
 第三の対話は、早稲田大学文学部教授で音楽評論家の小沼純一氏と自らATAKというレーベルを主宰し作曲、演奏活動を続けておられる渋谷慶一郎氏による「〈聴いたことのない音楽〉の方へ」。
 小沼純一氏は、さまざまな音楽はそれぞれに一つであるとしたうえで、「それぞれに共同体があり、ひとりの聴き手は複数の共同体に入っては出ていく。いくつもの音楽に対して開かれていること、複数の音楽に共感できること、それは複数のその時だけの共同体を実現すること」であり、「音楽の輪郭をできるだけ曖昧にし、引き伸ばすこと」が重要だと言います。一方、渋谷慶一郎氏は、コンピュータ・ミュージックの方法論が行き詰まる中で、「音響」の可能性に果敢にチャレンジし続けています。その試みの一つが非線形を持ち込んだ「第三項音楽」です。音楽と非線形、カオス論を擦り合わせることで、「今までに聴いたことのない音/無音」をクリエイトしようとしています。ヴァーチュアリティの領域である音の地平を拡張し、解体し、そして再び「音楽」へとつくり直すプロセス。「聴いたことのない音楽」が「聴くことのできる無音」の積分/微分化であるとしたら、陳腐な人間主義に陥ったコンピュータ・ミュージックを、本当の意味で人間の手・耳に奪還することになるかもしれません。今また、新たな領域を開きつつある「音響」の可能性を探りながら、音楽、聴くことの未来を語り合っていただきます。
 今号ではもう一つビジュアルページに新井卓氏のダゲレオタイプによる作品を掲載します。世界で最初の実用的写真術であるダゲレオタイプは、「音」のそれと同じように、見る者をして、感覚の痕跡へと誘い出します。「見え」のヴァーチュアリティをわたしたちは写像に聴くことになるのです。

 「音語り(おとがたり) 音のしじまに、ささやきを聴く 三つの夜、三つの対話」。私たちは、そこで聞こえない「音」に出会うことができるでしょうか。自らの耳の奥に聴く、他者の声としての「音」。対話というもう一つのヴァーチュアリティに耳を開く。本当の「音」を聴くために ―― 。  (佐藤真)


引用・参考文献
*1.「リアリティとアクチュアリティ」『木村敏著作集7 臨床哲学論文集』所収、 弘文堂、2001


 
   editor's note[before]
 


◎音、沈黙、あいだ
魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代 小沼純一 青土社 2007
雑誌 水声通信 16 特集ジョン・ケージ 水声社 2007
生命と現実 木村敏との対話 木村敏、桧垣立哉 河出書房新社 2006
音楽的時間の変容 椎名亮輔 現代思潮社 2005
音の静寂 静寂の音 高橋悠治 平凡社 2004
音楽という謎 近藤譲 春秋社 2004
武満徹 音・ことば・イメージ 小沼純一 青土社 1999
実験音楽 ケージとその後 M・ナイマン 椎名亮輔訳 水声社 1992
ジョン・ケージ 小鳥たちのために J・ケージ、D・シャルル 青山マミ訳 青土社 1982
音、沈黙と測りあえるほどに 武満徹 新潮社 1971

◎電子音楽、サウンド/アート、メディア
季刊Inter Communication 音楽/メディア ポストCD時代のMAKING MUSIC NTT出版 2008
貧しい音楽 大谷能生 月曜社 2007
日本の電子音楽 川崎弘二、大谷能生 愛育社 2006
バッハ「ゴルトベルク変奏曲」、世界・音楽・メディア 小沼純一 みすず書房 2006
テクノ/ロジカル/音楽論 シュトックハウゼンから音響派まで 佐々木敦 リットーミュージック 2005
憂鬱と官能を教えた学校 バークリーメソッドによって俯瞰される20世紀商業音楽史 菊池成孔、大谷能生 河出書房新社 2004
Ex-music  佐々木敦 河出書房新社 2002
ポストテクノ〈ロジー〉ミュージック 拡散する「音楽」、解体する「人間」 久保田晃弘他 大村書店 2001
電子音楽in Japan 田中雄二 アスペクト 2001
コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート C・ローズ 青柳龍也他訳 東京電機大学出版局 2001
テクノイズマテリアル  佐々木敦 青土社 2001 サウンド・エシックス 小沼純一 平凡社新書 2000

◎脳、記憶、「聴く」
進化しすぎた脳 池谷裕二 講談社ブルーバックス2007(朝日出版社 2004)
すべては音楽からはじまる 脳とシューベルト 茂木健一郎 PHP新書 2007
脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?  池谷裕二 祥伝社 2006
情動と音楽 音楽と心はいかにして出会うのか 國安愛子 音楽之友社 2005
脳の計算機構 ボトムアップ・トップダウンのダイナミクス 銅谷賢治他偏 朝倉書店 2005
コミュニケーションを科学する チューリングテストを超えて 柏野牧夫他 NTT出版 2002
記憶力を強くする 池谷裕二 講談社ブルーバックス 2001

◎音の力、闘争、マルチチュード
現代思想 2008年5月号 特集アントニオ・ネグリ 青土社 2008
未来派左翼 グローバル民主主義の可能性を探る 上下 A・ネグリ 廣瀬純訳 NHKブックス 2008
自由の新たな空間 闘争機械 F・ガタリ、A・ネグリ 杉村昌昭訳 世界書院 2007
芸術とマルチチュード T・ネグリ 廣瀬純訳 月曜社 2007
闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン 廣瀬純 人文書院 2006
美味しい料理の哲学 廣瀬純 河出書房新社 2005
音の力〈ストリート〉占拠編 De Musik Inter編 インパクト出版会 2005
マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上下 A・ネグリ、M・ハート 幾島幸子訳 NHKブックス 2005
マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために P・ヴィルノ 廣瀬純訳 月曜社 2004
帝国 A・ネグリ、M・ハート 水嶋一憲他訳 以文社 2003
ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還 A・ネグリ 杉村昌昭訳  作品社 2003
暴力と音 その政治的思考へ 平井玄 人文書院 2001
音の力 De Musik Inter編 インパクト出版会 1996

◎アウトノミア、分子革命、自由ラジオ
分裂共生論 グローバル社会を越えて 杉村昌昭 人文書院 2005
カオスモーズ F・ガタリ 宮林寛他訳 河出書房新社 2004
政治から記号まで F・ガタリ、粉川哲夫他 インパクト出版会 2000
主体の転換 粉川哲夫 未来社 2000
三つのエコロジー(新装版) F・ガタリ 杉村昌昭訳 大村書店 1997
分子革命 F・ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1988
これが自由ラジオだ 粉川哲夫 晶文社 1983