祝祭のトポス、カーニヴァルの身体
十分に生きる、あるいはその瞬間に完全に没入している状態、心理学者M・チクセントミハイは、それを「フロー」という概念から解き明かしました。フロー(flow)とは、自己目的的、かつ全人的に一つの行為に没入している時に感じる包括的感覚のことです(1)。「この特異でダイナミックな状態」=フローを「遊び」と関連付けて、まさに今/ここで愉しいと感じている時に人はフローを経験し、それは深い喜びを伴う、というのが前号(no.78)特集「遊び/愉しみのコミュニケーション」の一つの結論でした。今号では、愉しみ=喜びを感じている「フロー」を身体の内在的な経験として、主に「祝祭」という観点から改めて問い直してみたいと思います。 祝祭とは、その字のごとく祝い・祭りのことですが、ここでは祝祭に典型的に現れる「カーニヴァル性」に拘泥しつつ、一時的に出現する身体の特殊な様態、位相、圏域を取り上げます。 カーニヴァルとは、イースター(復活祭)の前の四○日間(四旬節)に先立つ行事=謝肉祭のことで、肉を断ち、懺悔を行う前に、飽食にあけくれ、どんちゃん騒ぎにうつつをぬかすことを言います(2)。ヨーロッパの農事暦に関わる冬から春にかけての季節祭にその源流を求めることができますが、中世の時代に仮装行列や見世物を伴う民衆的な祝祭に変貌しました。ラテンアメリカ諸国ではそれにアフロ文化の伝統が合体し、ブラジルのリオのカーニヴァルやトリニダード・トバゴのカーニヴァル、コロンビアのバランキアに見られるように、死と再生の祭礼という意味合いを強くもつ祝祭へと発展、進化していきました(3)。 よく知られているようにロシアの文芸評論家ミハイル・バフチンは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』において、カーニヴァル性について詳細な考察を行っています。バフチンはその中で、カーニヴァルとは、さまざまな祝祭、儀式、様式の総称であり、「自由で無遠慮な人間同士の接触」「常軌の逸脱」「ちぐはぐな組み合わせ」「卑俗化」という四つのカテゴリーが存在し、人々はそれらを組み合わせながら、ある限定された時間・空間を生きるもの、と定義しました。もっとも、バフチンの関心は、カーニヴァルそのものではなく、むしろカーニヴァルに生き続けている特異な身体性にありました。道化芝居やサーカスという形態に残り続けることになるある種のグロテスク、価値転倒のイデア、飽食の賛美、快楽への陶酔。バフチンは、そこに民俗性に根ざした自発的・即興的な身体性を発見し、カーニヴァルこそそうした身体性が最も発揮される場、「祝祭のトポス」であると分析したのでした。 今日、バフチンの発見した祝祭のトポス、自発的で即興的な創造性があふれる身体はどこにあるのでしょうか。もとより、今述べたカーニヴァルには、たとえそれが消費社会の中で換骨奪胎されたとしても、バフチン的身体というものは未だ健在です。しかし、私たちはあえてそうした身体性を現代のスポーツの中に探り出そうと思います。 自らを限界ぎりぎりまで追い込み、また、驚異的なスキルによって肉体の極限を表現するアスリートたち。彼らの競技、演技もさることながら、それを見る観客たちの参加でスタジアムは熱狂と歓喜の渦に包み込まれます。スタジアムの中は、アスリート、スタッフ、観客が一体となった非日常的な空間です。それはもはや一個の「スポーツする身体」(4)といっても過言ではないでしょう。今福龍太氏はカーニヴァルから本来のカーニヴァル性=カーニヴァレスクが失われて久しいと嘆いています(5)。しかし、私たちはそのカーニヴァレスクが、スタジアムの中に出現していることを確認するのです。祝祭のトポスとしてのカーニヴァレスク的感性は、「スポーツする身体」として復活ののろしをあげているといえるのかもしれません。 祝祭の起源としてのスポーツ そんなわけで、オリンピックなどのメガ・スポーツ競技を現代の祝祭の最も世俗化した形態とみなすことは、それほど突飛なことではないでしょう。数週間の間、世界中を熱狂させるこの世界最大のスポーツ・イベントこそ、国境を越えて存在する二一世紀の祝祭のトポスなのです。 スポーツそのものがこの半世紀の間に大きく変わりました。とりわけオリンピックは、その規模、内容、質ともに驚異的な変貌を遂げたといえます。二○○四年のアテネ五輪は、約一万一○○○人の競技者によって二八競技三○一種目が行われ、チケット販売数は三六○万枚、テレビ視聴者数は全世界で延べ三九億人に上り、二○○○年のシドニー五輪の三六億人を超えて史上最多だったと報告されています。また、サッカーワールドカップもその巨大さでは、オリンピックをはるかに凌ぎます。二○○六年のサッカーワールドカップドイツ大会の観客動員数は三三○万人、テレビ観戦者数は、延べ約三○○億人だったといわれています(6)。オリンピックとサッカーワールドカップは、まさしく世界中の国民を取り込み熱狂させるビッグ・イベント、現代の祝祭空間だということに異論はないでしょう。 近代オリンピック競技の起源とされる「オリュンピア祭」は、紀元前七七六年に再興され、紀元後三九三年まで一一○○年以上もの間、神々に捧げる祭典として民衆に支持されてきたものです。ギリシアがローマの属州となり、宗教もキリスト教に変わっていきましたが、その当初はゼウスの神殿を祀るオリュンピアの聖域の中で行われる純粋な「神事儀礼」でした。すなわち、「古代ギリシアの神話的コスモロジーのもとで、主神ゼウスを中心とする多くの神々に捧げられた神事儀礼として行われてきたのがオリンピック競技だった」(7)のです。 ですから、いわゆる競争などの競技種目の他に、即興で詩をつくったり、演奏や歌なども含まれていて、肉体的な力を競うだけではない総合的な祝祭として捉えられていました(8)。スポーツは、そうした総合的な競技祭の一つとして進化してきたといえるわけで、その意味でもスポーツはその起源から祝祭を形づける重要な要素であったのです。 「スポーツ行動」論はスポーツを記述できるか ところで、スポーツを議論する場合に、日常用語としてスポーツの具体的な行動場面やプレー状況を指す言葉としては、「スポーツ活動」が用いられていましたが、近年のスポーツを対象とした人類学的、あるいは社会学的な研究レベルにおいては、「〈文化としてのスポーツ〉に関する理論構築を企図した〈スポーツ行動〉という用語がよく用いられる」(9)といいます。それは、スポーツを社会的・文化的により意義のあるものとして捉えたいという志向、また、単なる個人的・孤立的現象としてスポーツは存在しないという方法論上の問題、さらには、文化人類学などの文化理論によって基礎付けられた「文化としてのスポーツ」を、哲学、心理学といった精神文化の一つとしてみなしたい、といった思惑が働いているからです。つまり、「スポーツ活動」といった言葉からは、その背後にある社会的、文化的文脈、言い換えればスポーツを成り立たせているディスクールまで読み取るのは困難であるし、そもそも「スポーツ活動」論自体が、機能主義的、機械論的人間観に強く拘束されて生まれてきたという背景があるからです。そうした「スポーツ活動」論の限界を見きわめたうえで、スポーツが成立する文化の枠組みを視野に入れながら、スポーツ自体の存立基盤を問う。そういう理論的構築を目指して「スポーツ行動」という概念枠が提示されたのです。 「スポーツ行動」という視点に立ってスポーツ文化を掘り下げてみる。スポーツ医学を筆頭にスポーツ社会学、広義のスポーツ文化論は、「スポーツ行動」論を意識しつつも、結果的には「スポーツ活動」への言及に終始し、「スポーツ行動」がまさにその中心課題とする「精神文化」へまでは及んでいない、確かにそうした批判もあるでしょう。一方、「スポーツ行動」という視点でみると、社会的・文化的体系の基盤にある「相互行為」という一面が見えてくることも確かです。相互行為に注目すると、これまでとかくアスリート個人に還元しがちな狭義のスポーツ観を相対化することが可能になります。それは、「スポーツ活動」論では捉えにくい身体性の問題があぶり出されてくることを意味します。とはいえ、そこで捉えられた身体の「行為」が、どのような機能と特徴をもち、どのようなメカニズムで作動しているのか、その実態解明にまでは手が届いていません。スポーツの「精神文化」に切り込むためには、「スポーツ行動」の行為者(アスリートだけでなくスポーツに関わる人々すべて)の内的体験を記述しうる理論が必要なのです。スタジアムの中のスポーツする身体は、いったい何をやっているのか。この「行為」そのもののありようを言葉にすることができないところに、「スポーツ活動」論の限界がありました。 「フロー理論」は、まさにその限界を乗り越える理論装置として登場しました。「フロー」という概念がこれまでのスポーツの記述言語と大きく異なる点は、この「行為」そのものへの眼差しにあります。「行為」自体をまるごと受け入れ、その「行為」の連続体として身体を捉え直すこと。身体が「行為」する連続体とみなすところに「フロー理論」の大きな特徴があります。そして「フロー理論」が一種の現象学でもあるというゆえんもここにあります。「フロー」は、今日の「スポーツ行動」論の欠落部分を埋め、「スポーツ行動」論を「スポーツする身体」の学へ、すなわち、精神文化へと導く強力な概念であることを確認しておきましょう。 フロー体験とスポーツ
チクセントミハイは、人間の行動のうちに常識と相いれない行動が存在することに注目し、それを「自己目的的」(オートテリック)な行動と名付けました。私たちは、日常生活においてきわめて功利的な原則に従って行動しています。そのような行動では、行動の目的が当の本人に自覚されているだけではなく、その目的に適合する手段も選択されているとチクセントミハイは言います(10)。 たとえば、出勤するために電車に乗るとしましょう。なぜ私たちは電車に乗るのか。それは、労力を最小にするために、それに見合ったモビリティを選択し、その結果ある路線(電車)が選ばれる。日常生活とは、すべからくこうした行動の連鎖から成り立っています。そして、そのことを私たちはほとんどの場合、疑問にすら感じていないのです。日常性とは、こうした行動の連鎖、行為の連続として存在します。別言すれば、行動の連鎖、行為の連続体が、私たちの日常というものであり、生活という実態なのです。 ところが不思議なことに、こうした行動の連鎖に相反する行動が存在するのです。それらの行動にあっては、「目的-手段」という合理的な関係を逸脱していて、そのような枠組みでは捉えることができないといいます。「コストとベネフィットのバランスを考慮に入れる限りつりあうはずがない。ロック・クライミングに代表される一連の行動は功利的原則を超えた、活動それ自体を目的にする行動と考えられる」(11)。そして、スポーツこそこのような行動の典型であるというのです。 スポーツとは、本質的に「遊び」の特徴をもっていて、実生活においてはなんの利益にも貢献しない身体的な能力の優越性を競うという、きわめて不可解な行動をいいます。スポーツにおける優劣は、日常生活に関わるあらゆる価値観とは全く無縁であり、そうであるがゆえに、無類の面白さを私たちにもたらすのです。「役にはたたないが、ないとさびしいもの」(岡田美智男/『談』no.78インタビュー)の典型、ホイジンガやカイヨワが「遊び」に見出した「無為の行為」の最もティピカルなモデルを、私たちはスポーツに発見できるのです。 「スポーツする身体」の逆説 「〈フロー〉と呼ばれる楽しさや喜びの感情は、行為に伴う意識の内容であるが、行為は刺激に対する反応と考えられることもでき(行為の「刺激-反応」図式と呼ばれる)、また目標を達成するための手段の選択と操作の過程とみることもでき(行為の「目標-手段」図式と呼ばれる)、さらには行為主体(人間)と行為客体(環境)との相互作用とみることもできる(行為の「主体-客体」図式と呼ばれる)。フロー理論は、これらの三種の図式すべてを含んでいる」。「フロー理論はその出自自体が〈行為の理論〉なのである」(12)。 「行為」の連鎖、連続が身体の日常性を示しているとすれば、それと全く反対の「無為の行為」が遊びであり、スポーツはその一つの現れだとチクセントミハイは言いました。そして、「行為」の連鎖であれ「無為の行為」の連鎖であれ、その経験を「フロー」として感じとっている時、それは「刺激-反応」、「目標-手段」、「主体-客体」といった二極間の一種の情報のやりとりとみることができるというのが、「フロー理論」のもう一つの特徴ではないか、と言うのです。 「フロー理論」を一つの情報論的システム理論としてみる。前号で小川純生氏は「情報負荷をシンプル化させたり、複雑化させたりすることによって、個人は、個人の最適情報負荷を求めている」(13)と言い、その最適情報負荷の維持が長ければ長いほど、面白さは持続すると言いました。その文脈で捉えるならば、「フロー」とは、情報負荷状態を最適に保つためのコントロールでありかつその結果として得られるものということになります。 情報論的システム理論を粗く解釈すれば、情報負荷状態がとにかく最適に維持されていれば、その当事者に「フロー」がもたらされることになります。ところが、ことはそう単純にはいきません。なぜならば、それがシステムである以上、そこにフィードバックが掛かってくるからです。チクセントミハイ自身もそのことには非常に慎重で、「フロー」を構成する条件の一つに、この「フィードバック」を挙げて、「フィードフォワードとフィードバックの過程が明瞭かつ滑らかに循環するならば、そこにフィードフォワードとフィードバックが連続するフロー・ループが生まれる」(14)と言っています。 問題を整理してみましょう。「フロー」は、果たして、「目的-手段」的合理性を逸脱した時に得られる、いわば超日常的な状態なのか。それとも、全く逆に、合理性が敏速にかつ徹底化された時にも得られるものなのか。つまり、日常と非日常のどちらにおいて、より多くの「フロー」が得られるのか。 「(祭りのような)集合的沸騰の経験は個人を単に現実の集団的抑圧から解放するカオス的儀礼に内在する心理的解放のみを意味しているわけではない。祭礼の乱痴気騒ぎやカーニバルにみられるような、俗なる構造から区別される未分化な平等性を実現する局面=コミュニタス(communitas)は、〈生理的に継承された衝動が文化的抑制から解放されてつくる単なる所産ではない。むしろそれは、合理的、決断力、記憶力など社会での生活経験と共に発達する人間に特有な能力の所産〉(15)なのである。つまり、ここでのカオスは、確かに集団的秩序に対立するが、それは「個人を集団から解放することによって集団以前の状態に引き戻すのではなく、むしろ集団以後の状態--集団的な経験へと連れ出すもの(16)」(17)である。 祝祭としての身体、その内的体験へ入っていくためには、まずこの問いに目鼻をつけておかなければなりません。
チクセントミハイのこの議論を念頭におきながら、今号では三つの方向から「フロー」経験、生きる身体について考えます。
まず、第一にスポーツ観戦における熱狂について。筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授でスポーツ社会学がご専攻の清水諭氏にお尋ねします。身体の文化的社会的な構築について、権力編成のメカニズムからご研究をされている清水諭氏は、とりわけスポーツというカルチャーの表象に関心をもっておられます。アスリートが自らつくりだし、さらには、スポーツ観戦する観客を巻き込む「熱狂」について、ズバリ「祝祭する身体」という視点から掘り下げてもらいます。
「スポーツする身体」とは何か。じつは、この命題は、日本体育大学大学院スポーツ文科系教授・稲垣正浩氏のご著書から拝借したものです。稲垣氏は、身体の知の体系として「スポーツ学」の必要性を説き、それは「スポーツする身体」というテーマに収束すると述べておられます。
トップアスリートたちのほとんどが体験するという「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」瞬間。それは、バタイユの言うエクスターズ(extase)、あるいは禅僧が座禅を通して得る「恍惚」と同じものではないかと稲垣氏は言います。夢中になってスポーツをしている時、私の身体は外部へと開かれているはずです。しかし、それは同時に暴力というものを招き入れる場に身を晒すことでもあるのです。スポーツとはもしかすると暴力ではないか。あるいは、暴力こそスポーツの源泉ではないか。暴力という概念をその根源にまで遡って問い質すこと。稲垣正浩氏にスポーツの中に内在する暴力についてお聞きします。
暴力は、祝祭とも深い関係をもっています。現代の祝祭空間には、暴力が渦巻いている。弘前大学教育学部准教授で写真家でもある冨田晃氏は、トリニダード・トバゴで生まれたスティールパンとカーニヴァルという二つの文化装置を手掛かりに、トリニダード・トバゴの黒人社会に切り込みました。そこで、目にしたものは、一見正反対と思われてきた祭りと暴力が同居する現実です。暴力への欲望を内包しながら快楽へと昇華する「祝祭」。まさに、そこにあるのは身体の二重性ではないか。カーニヴァルという切り口から、改めて身体の祝祭性について考察します。 (佐藤真)
引用・参考文献
(1) M・チクセントミハイ『楽しみの社会学』今村浩明訳、新思索社、2000
(2) 中牧弘允「序」中牧弘允編『陶酔する文化 中南米の宗教と社会』平凡社、1992
(3) 冨田晃『祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治』二宮書店、2005
(4),(7) 稲垣正浩『〈スポーツする身体〉を考える』叢文社、2005
(5) 今福龍太「カーニヴァルとカーニヴァレスク」『陶酔する文化』所収、平凡社、1992
(6) 高橋豪仁「メガ・イベントの諸問題」『現代スポーツのパースペクティブ』菊幸一他編著、大修館書店、2006
(8) 楠見千鶴子『ギリシアの古代オリンピック』講談社、2004
(9),(17) 菊幸一「スポーツ行動としてのフロー理論の可能性」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(10),(11) 亀山佳明「フロー経験と身心合一」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(12),(14) 今村浩明「フロー理論のこれから」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(13) 小川純生「面白さに関わる直前情報の影響-遊び概念と情報負荷-」2006
(15) V・ターナー『儀礼の過程』冨倉光雄訳、思索社、1976
(16) 上野千鶴子『構造主義の冒険』勁草書房、1985
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