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情動機能とは何か
五年ほど前のことです。ある企業からの依頼で人間の心的機能に着目した研究プロジェクトを立ち上げました。ヒトは、いつ、どんな場面で、愉しいと感じるのでしょうか。心底「愉しい」と感じているのは、いったいどういう時か。そのメカニズムが解明できれば、商品開発に活かせるかもしれない。そんな期待をもって研究会はスタートしました。『談』に登場していただいた何人かの先生にもご参加いただき、心理学、脳科学、生理学、哲学といった学問領域を超えて、毎回活発な意見交換がなされました。その研究会の座長を務められた松本元氏(理化学研究所脳科学研究センター・ディレクター[二○○三年に逝去])は、プロジェクトを立ち上げるにあたり次のように宣言しています。 「脳は、生存という生物にとって最も根源的な欲求のために、自らを設定し、設定した目標を達成するための仕組みをつくることを目的とする身体器官である。この目的を果たすための戦略として、脳はある重要な機能をもつに至った。それが情動である」。こうして、「EI(emotional interaction)フォーラム」、すなわちヒトの情動(emotion)機能に焦点をあてた研究会は始まりました。 研究会は一年で終了しましたが、目を転じてみれば、さまざまな分野で「情動」への関心が高まりを見せ始めていました。心理学、脳科学、生理学だけではなく、哲学や現代思想、社会哲学といった分野からも情動機能に注目が集まっていたのです。情動機能の特殊性を鑑みるにそれは当然のことでしょう。情動解明に横断的な探索が求められるのだとしたら、われわれの試みはその先鞭をつけたことになります。情動は、ヒトの生存、その根幹に影響をもつものです。その機能の究明が、今、本格的に始まろうとしています。今号では、「情動機能」に焦点を当てて、身体及び社会との関わりから考察します。
「知・情・意」と情動の関係
精神病理学者で近年カオス論、システム論から情動にアプローチしているL・チオンピは、著書『基盤としての情動』で次のように記しています。 「情動が思考や行動に影響をおよぼしているということは、とてもありふれた事実なのですが、しかしこれまで、こうした情動の影響というものは〈純粋思考〉や〈合理的行為〉にとっては妨害因子であって、したがってできる限り排除したほうがよいということになっていました」。 なぜ情動機能が妨害因子などという不名誉な称号を与えられてしまったのでしょうか。情動と認知の関わり、感情と論理の関係といったものが、心理学や生物学の分野で、これまで別々に取り扱われていたからだとチオンピは言います。情動・感情と思考の間になんらかの相互作用があることは薄々わかっていながらも、それを総合的に扱う術がなかった。情動という現象は方法論的にあるいは定義すること自体に難しさがあったのではないか。観察される現象を明確に捉えきれていないことは承知のうえで、科学は一方的に情動機能を排除、無視する方法をとってきた。その結果、一面的な知性中心の情動理解が幅をきかせることになったとチオンピは言います。 脳科学の進展そのものにも原因があったと指摘する研究者もいます。 「脳は〈こころの司令塔〉と呼ばれ、脳のはたらきを解明することが人間の精神や文明の究極的な理解に通じると考えられてきた。(…)これまでに脳科学とコンピュータシミュレーションの技術が合体して著しい成果を上げてきた領域は、たとえば記憶や連想の問題、われわれはいかにものを見ているのかというような認知の問題、正解や間違いを手がかりにしていかに課題に上達していくかという学習の問題などであった」(廣中直行『快楽の脳科学』)。合理的で巧みに演算する「知能の脳」にばかり目を向けて、人間を動かすどろどろとした原動力のようなものには焦点があてられてこなかったというのです。 九○年代、大脳新皮質は脳科学のフロンティアでした。認知機能の解明こそが使命であるという考えで脳科学全体が進んでいたのです。聴覚・言語・記憶を扱う側頭葉、行動のプラン・プログラム、人格の統御にかかわる前頭葉、体性感覚の頭頂葉、視覚の後頭葉が大脳新皮質で、廣中氏はそれを「高次脳」と呼び、脳科学そのものが関心の大半を「高次脳」に向けてきたというのです。そうした脳科学の流れの中では、「愉しい」とか「嬉しい」とか「悲しい」といったものはどこか泥臭い印象をもちます。人間の喜怒哀楽のようなものは、「高次脳」との比較でいえば「低次脳」(廣中氏)に属し、脳研究の中心にはなりにくいテーマだったというわけです。 ところで、「知・情・意」という言葉があります。「こころ」とは何かという場合、一般的にそれは知・情・意からなると考えられてきました。知・情・意は、本来並列関係にあります。どれかが上位に立つというものではなくて、三つの概念は、相互に重なり合いながら、横並びの関係にあるというのが本来の姿だと思われます。ところが、こころとは何かという究極的な課題に対して、こころとは脳ではないかという考えが出てきました。ヨーロッパ近代の思想の強い影響力の下で、そう考えられるようになると、知・情・意の関係も微妙に変化します。認知・記憶・創造といった「知」が「情」や「意」を統御するといった構図に置き換えられて理解されるようになるのです。脳科学に見たような一種の理性主義がこころの中にも入り込んでくる。こうして、理性が感情を抑えるといった一般的なイメージが形成されます。情や意は、知の下にあるようなイメージがいつのまにか定着してしまった。 ところが、近年当の脳科学の分野で変化が起きています。大脳新皮質の研究からさらに踏み込んで、大脳辺縁系や脳幹といった脳の内側の構造や機能に探求の目が向き始めた。廣中氏のいう「低次脳」に関心が及び始めたのです。冒頭紹介したプロジェクトは、まさにそうした脳科学の変化の胎動をいち早くキャッチして立ち上げられたものでした。この脳科学の地殻変動ともいえる変化は、こころの見方に対しても大きな変更を迫ります。松本元氏は、この事情をこんな言い方で表現しています。 「知・情・意は互いに並列ではなく、階層化され相互に連関し、情が受け容れられ意欲が高まり、知が働くと考えられる。脳では、〈情〉・〈意〉がマスター(主人)で「知」はスレーブ(従僕)であるとみなすことができよう」(『情と意の脳科学』)。 従来の見方とは逆に、情によって意欲が高まり、知が創造され働く。情動の科学的解明にこそ脳の最も根本的な課題があるというわけです。脳の「こころ」とは、情動であり、それは生きる「意欲」の基である。情動を含む「低次脳」の研究が、今後脳科学の最もホットなテーマになっていくだろうと廣中氏も予想しています。じつは、脳科学、神経生物学からの影響を受けて、心理学の領域でも新たな動きが起こっています。情動や感情と認知の相互作用に対する関心が高まってきているのです。心理学が観察できる表面的な行動だけを見てきた行動主義から袂を分かって、脳機能に接近していったことを心理学の「認知論的転回」だとすれば、今起こりつつあるのは第二の転回、言うなれば「情動論的転回」であると指摘する研究者も出てきました。
情動とは何か 「情動論的転回」とは具体的にどういうものか、それを説明する前に、哲学や心理学では情動をどう定義していたか、ざっと見ておきましょう。 ここまで情動という言葉をなんの留保も付けずに使ってきましたが、日本語で情動という場合、感情や情緒、情感、気分といった似かよった言葉がいくつもあってその違いはあいまいです。その点英語では、はっきりとした使い方の違いがあります。たとえば、emotion。motionとつくことから動きをもったものというニュアンスがあって、この言葉に情動という訳語を与えています。それに対してfeelingは、ingがつくことからもわかるように、瞬間的・皮膚感覚的な側面をもっているようで、こちらを感情と訳しているようです(松本桂樹『心理学入門』)。他にeffectは情感、moodは気分、passionは情熱、sentimentは情操といった同種の言葉がありますが、これらは感情の中に含まれると考えて差し支えないでしょう。整理しますと、心理学では、喜怒哀楽のような主に身体性を伴う、一過性のこころの作用が情動、身体的な変化は少なく快-不快の次元で捉えられるものが感情と考えられているようです。 さて、哲学において最初に正面から情動を俎上にのせたのは誰か。それはデカルトだと言われています。デカルトは『情念論』で「こころ」は「脳」とは異なり、物質的実体のないもので、「こころ」が松果体を介して「脳」をコントロールすると考えました。デカルトにとって、ヒトの身体は脳も含めて単なる機械にすぎません。その意味では動物と同じですが、ヒトの場合にはこころがあり、それが動物と分かつところです。デカルトによれば、感情(情動)は次のように描写されます。たとえば、危険から逃れるという行動は、感覚受容器から来た感覚信号が脳で意識の介入なしに評価し、松果体を経由して機械的に自動反応を起こす。一方、反応は松果体を伝わってこころと連絡し、感情(情動)を体験する。デカルトの立場は心身二元論でしたが、松果体(という不思議な物質)を通じて両者はつながっていたのです。脳の一部である松果体をインタフェイスにして、感覚刺激を情動として体験する。現代科学における情動論の萌芽を私たちはそこに見出すことができます。情動モデルの基本をつくり出したという意味で、デカルトは情動研究の源泉と考えられているのです。 デカルトから約二○○年後、心理学の父といわれるウィリアム・ジェームスがカール・ランゲと共に情動に関する新たな知見を提唱しました。彼らは、デカルトの考えを踏襲しながらも、感覚及び運動神経の大脳皮質局在説などを根拠にして、情動体験は脳で起こることを主張したのです。「刺激によって誘発された身体の生理的変化(情動表出)を認知することにより情動体験が生じる」。要するに、生理的・身体的な反応が情動に先行するとしたのです。たとえば、強盗にナイフを突きつけられて、「恐ろしいから心臓がドキドキし身体が硬直する」のではなく、「心臓がドキドキし硬直するから恐ろしい」と感じる。これが情動の末梢起源説で、情動体験は情動表出の結果生じるものとジェームス=ランゲは主張しました。 この理論に対して、ウォルター・キャノンは情動の中枢起源説(一九二七年)を唱え、真っ向から反対しました。キャノンによれば、末梢反応、つまり情動表出が情動体験の発生に必ずしも必要ではなく、また両者が一致するとは限らない。身体が反応する以前に恐怖を感じていて、身体反応は大脳皮質と視床下部の両方に伝わると主張しました。 両者の論争は、情動研究の発展に大いに寄与しました。廣中直行氏によれば、前者は怒りや恐れ、喜びなどに特化した身体反応が直に「高次脳」に伝わるという説であり、後者は情動が「低次脳」の内部でつくられるという説。両者は情動に対する二つの立場を示しているように見えますが、じつは見ているものそのものが違っていたと廣中氏は指摘しています。つまり、情動体験と情動表出のどちらにウェイトを置くかという根本的な違いをあらわしているというわけです。 その後情動の研究は、情動体験と情動表出の違いをあいまいにしたまま進んでいきますが、六○年代になってスタンレー・シャクターが認知的視点を導入して新たな情動モデルを提唱します。「情動は身体の生理的変化にも、また、状況の認知的評価にも影響を受ける」というもので、情動の二要因起源説として知られる理論です。簡単に言うと、情動反応を受け止めた低次脳は高次脳と直接結ばれていないために、生理的興奮(情動の内容)が怒りなのか喜びなのかわからない。そういう場合には高次脳が周囲の状況から推測して「自分は怒っている」とか「喜んでいる」と判断する。言い換えると、本当はよくわからない身体反応に対して、高次脳が勝手にラベルを貼るというわけです。シャクターは、キャノンの説ではなく、ジェームスらの末梢起源説を批判的に継承したと考えられますが、いくつかの難点もあって、未だに検証実験が行われているようです。しかしながら、シャクターの理論は、情動体験における認知過程の関与の可能性、また情動表出の脳内機構とのつながりに見通しをつけたということで大きな意味をもっていると思われます。この時点ではまだ心理学と脳科学は別個に進んでいましたが、いずれお互いがお互いを必要とする時代がかならずくるはずだ、そんな予感を感じさせる何かがシャクターの情動モデルにはありました。
情動の脳科学
以上三つの理論を紹介しながら、大まかではありますが心理学の分野で情動がどのように捉えられていたかを俯瞰しました。ところで、心理学はその後関連する諸科学との関係を深めながら、新たな領域を開拓し始めていきます。なかでも、脳科学との連携により、知覚や記憶、意思決定、行動といった脳の高次機能と意識の関わりを探る研究に関心が集まります。人間の思考とは何か、言語活動とは人間にとってどのような意味をもつのか、いわゆる認知心理学が脚光を浴びます。心理学もいよいよ「高次脳」の究明へと向かい始める。これが先程言いました心理学の認知論的転回です。 心理学における情動論的転回は、まず脳科学とのコラボレーションによって起こった認知論的転回を経て、九○年代後半から始まります。その立役者がジョセフ・ルドゥーとアントニオ・R・ダマシオです。ジョセフ・ルドゥーは、情動を単なる心理的状態として捉えてきた従来の心理学を批判し、情動は脳・神経系の生物学的機能であるという立場から、それが脳内メカニズムと密接な関係をもつことを明らかにしました。分子生物学の手法を持ち込んだことで脳科学に大きな影響を与えたとされるルドゥーですが、情動機能の解明にも生物学的視点が重要であることを強調しています。脳の内部に「単一の情動部門は存在しない、情動とはただのラベルに過ぎない」と喝破したのです。とくに情動が勝手に生起してしまう現象に着目し、自律性こそ情動の最も重要な機能であることを明らかにし、情動をシステムと捉えるという視点を導入しました。ここにルドゥーの先見性があります。なぜならば、この考えは脳内メカニズムのシステム論的展開への道を拓いたことになり、脳科学それ自体にも大きな認識論的な変更を迫ることになったからです。 一方、アントニオ・R・ダマシオは、脳に損傷のある患者の神経活動を画像診断技術を使って研究している神経学者です。ダマシオは「脳だけではこころは生まれない」という立場から、脳と身体の連関を強調します。ダマシオの名を一躍有名にしたのが「ソマティック・マーカー仮説」です。これまで、意思決定には大脳新皮質の認知機能がその役目を果たしていると考えられていましたが、身体が反応し最適な意思決定を行う場合があることを発見し、推論と意思決定は身体に支えられているとする「ソマティック・マーカー仮説」を打ち出したのです。さらにダマシオは、情動、感情の相互作用を認めたうえで、身体が生命調節機能によってこころとつながっていることを提唱し、そのアイデアの源流をスピノザに求めたのです。スピノザこそ、情動と感情の哲学者であり、情動と感情が人間の生きる意味に根拠を与えているという考えを、脳科学の立場から初めて言及しました。スピノザは情動・感情との関わりから生命の自己保存という考えを打ち出し、それは脳科学の知見とまさに一致するというのです。
今号では、三つの切り口から情動機能について考えてみましょう。まず、情動体験と情動表出を軸に、最新の脳科学の知見を踏まえながら、情動のシステム論的展開の可能性について論じていただきます。精神分析にシステム論を導入し独自の理論へと発展させている精神分析医の十川幸司氏とオートポイエーシス論に現象学を接続させて新たなシステムの機構を構想する東洋大学教授・河本英夫氏に、情動システムの生成を入り口にして対談してもらいます。 二番目は、スピノザ哲学における情動・感情の意味について。とりわけ自己保存という問題系に分け入り、その類い稀なる思想を関東学院大学教授・浅野俊哉氏にお話しいただきます。 三番目は、情動機能と心的コントロールの関係について。「生-政治」からさらに進んで、人間を情動次元において管理するコントロール権力が顕在化しつつあります。ドゥルーズが正しく予言したように、情動への介入は快楽技術そのものの管理を示唆し、全く新しい権力システムの出現を意味するものだと考えられます。この最もアクチュアルな問題に大阪府立大学人間社会学部助教授・酒井隆史氏とリヨン第三大学言語学部日本語学科講師・松本潤一郎氏に語り合っていただきます。 (佐藤真)
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