photo
[最新号]談 no.75 WEB版
 
特集:バイオ・パワー ・・・利用される生きる「力」
 
表紙:牛腸茂雄 本文ポートレイト撮影:鈴木理策
   
 photo
「生-権力」はどのように現れるか

杉田敦 Atsushi Sugita
生-権力というのは国家権力を通じて現れるわけですが、必ずしも否定的なものとして出てくるとは限らない。 ある場面では、ポジティヴにも解釈できることもあるんです。生-権力とは、そういう二面性をもっている。 というか、そもそも権力というもの自体が、二面性をもっているものなんです。 生-権力にしても権力のメカニズムにしても、いいか悪いかというものではなくて、そこに既にあるものなんです。 それをどのように受け入れるかは、個人の問題であり、自分の問題です。
すぎた・あつし
1959年群馬県生まれ。東京大学法学部卒業。現在、法政大学法学部教授。政治理論専攻。著書に、『境界線の政治学』岩波書店、2005、『デモクラシーの論じ方』ちくま新書、2001、『権力』岩波書店、2000、共著書に、『社会の喪失』中公新書、2005、訳書に、『アイデンティティ/差異──他者性の政治』W・E・コノリー、岩波書店、2005、他がある。

 photo
再生産される「生命空間」

藤原辰史 Tatsushi Fujiwara
アーリア人種とユダヤ人の間にある差異の方が、人間と自然、人間と家畜の差異よりはるかに大きい。 そういうイメージをもった時に、想像を絶するような暴力が生まれる。 食と農という絶対不可欠な人間基盤を養分とするおぞましい暴力が生-権力のもう一つの実体だと思う。 ナチスの「生-権力」の本当の恐ろしさがここにあるんです。
ふじわら・たつし
1976年北海道旭川市生まれ。京都大学人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻博士課程退学(京都大学博士)。現在、京都大学人文科学研究所文化生成部門助手。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業──「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』柏書房、2005、主要論文に、「ドメスティケーション試論 ──『人類の自己家畜化と現代』を手がかりに」『池田浩士2004 past & present』、2004、「総力戦とエコロジズム ──「戦時農業」をめぐるナチスの言説から」『現代文明論』5、2004、「もうひとつのチャヤーノフ受容史 ──橋本伝左衛門の理論と実践」『現代文明論』3、2002、他がある 
 photo
(対談)仲正昌樹×萱野稔人

「暴力とセキュリティ」


仲正昌樹 Masaki Nakamasa
生-権力が露骨に意識されるようになると、ゾーエーのレベルでの自己防衛をめぐる個人の態度が 両極化してくるのではないでしょうか。 もっと強力な国家が欲しいと望むのか、逆に国家に見きりをつけて、ネグリ=ハート的に言えばマルチチュード的に振る舞うのか。最終的にどっちに転ぶかはわからないけれど、今は、両方が同時に進行している感じがします。
なかまさ・まさき
1963年広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学部教授。社会思想史・比較文学専攻。著書に『デリダの遺言──「生き生き」とした思想を語る死者へ』双風舎、2005、『日本とドイツ 二つの戦後史』光文社新書、2005、『なぜ「話」は通じないのか──コミュニケーションの不自由論』晶文社、2005、共著書に、『日常・共同体・アイロニー』双風舎、2004、他がある。
 photo
萱野稔人 Toshihito Kayano
暴力の歴史からみるなら、国民国家は国家の最終形態ではない。 今の国家は一つの通過的な形態にすぎない。ということは、国民国家の次、ポスト国民国家がありうるということです。 アメリカ型モデルかEUモデルか、この二つのモデルのもとで、国民国家を超えるような暴力の組織化が今起こりつつあるのではないか。
かやの・としひと
1970年愛知県生まれ。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了(パリ大学哲学博士)。現在、東京大学大学院総合文化研究科21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員、東京外国語大学外国語学部非常勤講師。著書に、『国家とはなにか』以文社、2005、主要論文に、「テロリズムと主権国家の例外」(雑誌『情況』2004年11月号)、「フーコーの方法」(雑誌『現代思想』2003年12月臨時増刊号)、他がある。
 

editor's note[before]


生きる「力」の活用


 フーコーは『知への意志』で次のように言う。
 「恐らく歴史上初めて、生命の問題が政治の問題に反映される。生きるという現実は、もはや死の偶然とその宿命の中で時々浮上してくるにすぎない手の届かぬ基底といったものではなくなる。それは部分的には、知の管理と権力の介入の場へと移るのだ」。「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという」新たな権力が出現した。フーコーは、これを「生-権力(bio-pouvoir)=bio power」と名付けた。
 今や生に対して、その展開のすべての局面において、権力はその掌握を確立する。権力はもはや主権に還元されるものではなくなった。私たち個人の存在様式そのものを貫く、微細で多様性をもった力=生命の発現。「生」に照準を合わせた権力の時代が静かに幕を開けたのだ。

「生-権力」のさまざまなイメージ

 今号では、旧来の権力のイメージを一変するこの新たな権力システムについて考えてみたい。
 「生-権力」あるいは「生-政治(bio-politique)」は、これまでインタビュー、対談の随所で話題にされてきた。ざっと拾い出してみよう。
 まず、「匿名性と野蛮」(no.71)で小泉義之氏は「人間をケアし、健康・病気・出生数・死亡数のコントロール、衛生管理、感染症対策を直接の政治課題」とし「近代政治と根本的に対立するもの」として「生-政治」があると指摘された。
 「公共性と〈例外状態〉」(no.72)では、齋藤純一氏が「統治の統治、つまり、統治されるべき主体が自己統治の主体になる」という言い方で「生-権力」を捉えている。「生-権力」とは自己規律、自己の生存の秩序化であって、コストのかからない管理技術だという。現代では、こうした「生-権力」が社会の隅々にまで入り込んでいるというのだ。
 「いのちのディレンマ」(no.73)では、小松美彦氏が、生命倫理の文脈に沿って「生-権力」の実態を暴き出した。「脳死者、持続性植物状態の患者、末期ガン患者、長期の闘病生活を続ける老人、精神障害者、知的障害者、遺伝性の疾患を抱えている人々」を「生きるに値しない者」として人為的に廃棄する方向へしむけるのが「生-権力」である。
 「ゾーエーの生命論」(no.74)で佐藤純一氏と野村一夫氏はヘルシズム(健康主義)とメディカライゼーション(医療化)の関係について、健康言説を支える「生-権力」のメカニズムから批判的検討を行った。小泉義之氏と金森修氏は、「生-政治がビオスからゾーエーそのものを対象とするようになった」(アガンベン)と指摘された。
 このように、いずれの方々も現代社会に根を下ろし、われわれの行動様式を規定しているものとして、「生-権力」に注目するのである。「生-権力」は、私たちが追求してきた「いのち」を解き明かすための、一つの重要な手がかりとなることは間違いないだろう。しかし、「生-権力」は、決してわかりやすい概念ではない。「生-権力」には、常にある種の理解しがたさがついてまわる。そもそも「生」と「権力」がなぜつながるのか、全く理解不能だという意見も聞いた。その場合の権力が、旧来通りの主権的なものとして理解されている限り、そうした印象をもたれるのもやむを得ない。しかし、「生-権力」の理解なくして、「いのち」の問題、「生命」を巡る言説に切り込んでいくことはできないであろう。少なくとも、私という生きる実体を精確に描写するためには、身体に張り巡らされた「生-権力」の解明は不可欠である。

力関係の連鎖としての権力

 権力について、たとえば一般的には「他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力」とか「他人を強制し服従させる力」と定義される。ある者(支配者)がそれ以外のある者(被支配者)を「強制」する時に権力が働く。言い換えれば、権力とはある特定の主体が行使することである。では、ある特定の主体とは何を意味するのか。いわゆる絶対主義の時代には、ある一人の主体、つまり国王に権力が集中した。国王という主体に、すべての権力が集まった。いわゆる権力の源を辿っていくと、この主体への集中、主権という考えに辿り着く。つまり、主権という特権的なものを想定するところから権力という発想が生まれたと考えられる(杉田敦『権力』)。
 絶対主義から議会制民主主義への変遷は、権力における主体の変化と捉え直すことができる。ジンメルは、これを支配のあり方の変容と簡潔に述べた。すなわち、ある一人の絶対的な権力者(国王)が他のすべての人間を思うがままに支配する形態が絶対主義である。披支配者は支配者に対して絶対服従であり、その関係はゆらぐことがない。それに対して、議会制民主主義では、支配者は複数存在する。この場合多数決に従った集団、多数派が支配者になる。ジンメルは、この第二の集団による支配から、さらに次のフェイズへの移行を示唆する。それを「原理による支配」と呼んだ。ヴェーバーの言う「合法的支配」がその一例である。たとえば、役人が市民に向かって法律で決められているから○○○をしなさいと言った場合、一見役人が支配者のように見えるが、実際はそうではなく、いわば法律が支配者の役割を担っている。法律によって、役人も市民に命令するように命じられているにすぎない。
 支配のあり方が、個人=君主主権による支配から、集団=人民主権による支配へ、そしてさらには原理による支配へと変化し、それに伴って支配者像は次第にぼやけ、不過視のものになっていく。市野川容孝氏は、権力の歴史とは、非人格化していく過程だという(「権力」『哲学の木』所収)。
 君主主権であれ人民主権であれ、主権論というのは単一の権力を中心に据えるという意味では変わりはない。いずれも特権的な位置には主権が置かれる。この図式を遵守する限り、常に権力はある一定の方向を目指して働く。つまり、権力は支配者から被支配者に向かって一方的に行使される。このように、権力は上からくるものというイメージは、長い間自明のこととされてきた。しかし、果たしてそうだろうか。権力は一元的で単線的にしか行使されないのだろうか。
 たとえば、人民主権を主張したとしよう。君主主権はそれがどんなに非合理的で恣意的な決定であっても、そこでの決定が最終決定であり、その意味で絶対である。一方、人民主権の場合はどうか。人民は必ずしも理性的存在とは言い切れないし、きわめて現実的な対応をする場合も少なくない。人民は理念的には理性的ではあっても、現実的には理性的であるとは限らないのだ(杉田敦、前出)。
 一八世紀においてルソーは、人民の意思を最終審級として見なし人民主権論を展開したと言われている。だが、一方で「盲目の群衆は、何が自分たちの利益となるかをめったに知らないために、しばしば何を欲するのかわからない。(…)人民はおのずから、常に利益を望むが、自分では必ずしもその利益がわからない。一般意思は常に正しいが、それを示す人々の判断は必ずしもかしこいとはいえない」と言っている。人民は自らが権力を行使することに論理的に先立つ形で、自らに権力を及ぼされることになるとルソーは言いたいのだろう。つまり、人が権力の主体となることが同時に権力の客体となることもありうるということを示唆しているのだ。
 「主体的権力とは、必ずしもある特定の個人や集団の意図に還元できるものではないし、権力を及ぼされている側も、一方的に権力を行使されているわけではなく、この権力は人に力を与える面と人から力を奪う面との二面性を持っている」(杉田敦、前出)。じつは、こうした権力の二面性にいち早く注目したのがフーコーであった。フーコーは言う。「権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」。「権力は至る所にある。すべてを統括するからではない、至る所から生じるからであ」り、それらを「固定しようとはかる連鎖にすぎない」と。

権力における二つの極、「規律権力」と「生-政治」

 これまでの一方的で単線的な権力理解に代わって、フーコーは一種の力の連鎖、その網状のシステムとして権力を捉えている。そのうえでこの新しい権力について『知の意志』でいくつかの提言を行っている。紹介しよう。
●権力とは手に入れることができるような、奪って得られるような、分割されるような何ものか、人が保有したり手放したりするような何ものかではない。権力は無数の点を出発点して、不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使される。●権力の関係は他の形の関係(経済的プロセス、知識の関係、性的関係)に対して、外在的な位置にあるのではなく、それらに内在するものである。権力の関係は、単に禁止や拒絶の役割を担わされた上部構造の位置にはない。それが働く場所で、直接的に生産的役割をもっている。●権力は下からくる。権力の関係の原理には、支配するものと支配されるものという二項的な対立はない。生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会全体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。●権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的である。権力を司る司令部のようなものを求めるべきではない。●権力のあるところには抵抗がある。にもかかわらず、いやそれゆえに「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものもない。権力の関係は、無数の多様な対抗点との関係においてしか存在し得ない。
 権力が上からくるものではなく錯綜したシステムであるというだけであれば、少し想像力を働かせば思いつくことだ。むしろ、含意はその先にある。フーコーによれば、そうした総体的な権力が、外からの働きかけによるものではなく、端的に内在的なものであり、直接に生み出されるというのである。つまり、そうした権力は私たち自身が、直接的に生産するものであり、何か明確な主体によって命令されたり、指示されたり、あるいは拘束されたりするようなものではないということだ。権力が下からくるというのはそういう意味である。
 フーコーは、権力論を展開するにあたり、この内在的な権力の発現について、別の観点から重要な指摘を行っている。規律権力(le pouvoir disciplinaire)というものが働いているというのだ。『権力』(杉田敦)によれば、たとえば病院、学校、監獄といった多数の人間を収容する施設が、目的は異なりながらもきわめてにかよった側面をもっているという。どれも、規律権力が作用しているというのである。
 それぞれの施設の中で、人々はある決まったふるまいをするように求められる。もしそれに従わない場合には、従うように強制される。そうした過程の中で、人々は次第にそうしたふるまいを身につけるようにしむけられる。こうした規律が貫徹されるためには、監視施設、監視装置が必要になる。そこで採用されたのが「パノプティコン」(一望監視装置)である。ベンサムによって考案された「パノプティコン」は監視員を置いた一つの円塔の周囲に放射状に収容所を配置したもの。監視員からは収容者を見ることができるが、収容所側からは監視員の存在を確認することはできない。収容者はいつ見られているか確認できないために、常に見られているという前提で行動せざるを得なくなる。「パノプティコン」の利点は、監視員が四六時中監視していなくても監視効果が発揮できることである。監視員がいてもいなくても、収容者はそれを知ることができない。監視の無人化が可能になるのである。つまり、収容者は、たとえそれが無人であっても、誰もいない円塔からの「視線」に常におびえ続けることになるわけだ。実体としての具体的な主体が実際に存在しなくても、権力が行使される。主体が存在するかもしれないというだけで十分に権力は発揮される。しかも、自分の行動様式を決定付けているのは自分自身に他ならない。もっとも、こうした規律権力はその構成員全員に共有されている必要があるだろう。抜け駆けは許されず、そのためには構成員が平等であることが必要条件になる。要するに、規律権力は構成員の平等意識と一体になっている時に最も効果を発揮する。
 フーコーは、この新たな権力の発現にあたって、もう一つの要件が準備されている必要があると述べている。それは今言った平等ということに関わることだ。つまり、規律権力の目的が従順な人間(=身体)にあるとして、それが十全に機能するためには同じような水準にある人間がとりあえず大量にいる方がいい。規律権力が貫徹する同一の人間が大量にかつ途切れることなく再生産されることによって、権力はその機能をより強い形で発揮することができるのである。フーコーは、二つの政治の極をもつことによって、権力は新たな段階へと発展することになったと指摘する。「身体の調教、身体の適正の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの平行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを保証した人間の身体の解剖-政治学」という極と、「生物学的プロセスの支えとなる身体を中心に据えた、繁殖、誕生、死亡率、健康、寿命、長寿を変化させることができる人口の生-政治学」(フーコー『知への意志』)という極である。
 冒頭「いのち」の問題、「生命」を巡る言説に切り込んでいくために、フーコーが明らかにした新たな権力に注目する必要があると言った。それは、権力を構成するこの二つの極が物質としての身体と、その身体を生へと押し進めていく「いのち」に直接関与するからだが、しかし、なぜ権力構造を変換させる必要があったのか。支配/被支配の旧来の権力がそれまでのやり方を捨てて、あえて錯綜した網状の権力システムへと変わらざるを得なかった理由とは何か。

「いのち」を奪い取る権力と産出する権力

 「生-権力」のある種のわかりにくさの一つがここにあるように思う。権力とはある特定の主体が行使することであっていっこうにかまわない。事実、強権発令型の権力があからさまに行使されている例は今でも数多く存在する。国家というレベルで見ても、主権権力は生き続けている。支配/被支配の権力は決してなくなったわけではないのだ。このことは十分に認識されてよい(先取りして言うと、今号の対談のテーマの一つでもある)。フーコーも『監獄の誕生』で冒頭一八世紀にパリで行われたダミアンに対する公開処刑の例を紹介している。国王殺害を企てた罪への処刑であったが、まさに残酷の極みであった。公開処刑では、殺し方がそのまま権力の誇示につながった。人々から「いのち」を奪い取ること、それが権力であり、また「いのち」を奪うことができる者が、権力の主体であったのだ。
 しかし、こうした権力は近代化と共にその重要性を徐々に喪失していく。それに代わって新しいタイプの権力が登場する。この新しい権力は、人々の「生命」を奪い取るのではなく、逆に「生命」を産出する(市野川容孝『身体/生命』)。フーコーによれば、「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の保管物となる」権力が出現するのである。
市野川容孝氏は人々の生命を奪い取る権力から産出する権力への転換が「生-権力」の基盤にあるとして、それは次のような理由からではないかと一つの仮説を提起する。
 「(ウイリアム)・ペティは、次のように述べている。〈人民が少数であるということは、真実の貧乏である。つまり、八○○万人の人民がいる国は同じ広さの地域に四○○万人しかいない国よりも二倍以上、富んでいる〉(『租税貢納論』)。そして次のようにも。〈土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素であるというわれわれの見解の帰結として、国家がその成員を殺したり、その手足を切断したり、投獄したりするのは、国家自身も処罰することに他ならないということを想起すべきである〉(同前)。〈人口〉というものに注意深いまなざしを注がなければならないのは、なぜか。ペティによれば、人口こそ国富の源泉だからであり、(…)貧者を救い、病を減少させ、国内の死亡率を引き下げると同時に、出生率を上昇させること、それがペティの考える国王と国家の課題である」(市野川容孝、前出)。
 ペティにとって人口がなぜ重要だったのか。それは、人口の減少は、単純に国家そのものを貧しくさせることになるからだ。住民こそ資産である。国力というものを誇示したいのであれば、まず人口を増加させなければならない。フーコーが「生-政治学」を新たな権力のもう一つの極においたのは、まさにこの点に着目したからである。身体に関わる権力の水準である規律権力と構成員の人口(数)に関わる「生-権力」が、こうして旧来の権力システムからの変換を促したのである。

国家と暴力

 主にフーコーの権力論を基に考えてきたが、本稿を書くにあたって杉田敦氏の『権力』を参考にさせていただいた。本書の冒頭杉田氏はこう述べている。「権力は頂点にあるのか、底辺にあるのか。権力は忌避されるべきか、尊重されるべきか。権力は暴力的なのか、それとも暴力とは一線を画されるものなのか」。権力の一義的な定義を急いで示すよりも、権力の多義性(ambivalence)を受けとめ、断定を避けるから本書は出発すると言う。「生-権力」を考察するにあたって、私たちも著者の顰にならい、旧来の権力論にとらわれずに始めることにしよう。最初にお訊ねするのは、この著者である法政大学法学部教授・杉田敦氏だ。「生-権力」が現代の政治シーンの中で、どのような形で現れてくるのか、具体的な事例を参考にしながらお話ししていただこうと思う。
 次に、「生-権力」の「生」に着目する。すなわち、「いのち」の問題だ。少し視点を変えてエコロジーについて考えてみたい。地球環境問題が政治的課題になる時代である。エコロジー思想への関心は日増しに高くなっているが、地球環境の保全のためには人口の縮小もやむなしという極端な主張をするグループも出てきた。「人間非中心主義」を謳うディープエコロジー運動がそれだが、じつはこれと全く同じ主張を四○年も前に、実際に断行した国家があったのだ。ナチスドイツである。ナチスの根底には、「生物圏平等主義」というエコロジー思想が息づいていて、それが極端な形で噴出したのがホロコーストであった。自然や「いのち」を守るということがなぜ史上稀にみる大虐殺を引き起こすことになったのか。そこには、「生-権力」の孕む最も重大な問題が横たわっているよう思う。
 昨年、エコロジー思想とナチズムの結び付きを論じた研究が出た。有機農業からナチス・エコロジズムの本質に迫るという斬新な研究だ。そこで、この『ナチス・ドイツの有機農業』の著者である京都大学人文科学研究所文化生成部門助手・藤原辰史氏に農業技術とナチス・エコロジズムのつながりから、「生-権力」に迫っていただく。
 さて、昨年、『国家とはなにか』が話題を呼んだ。「国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行する」。「国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない」と本書は断言する。国家とは何よりも暴力に関わる運動だと説く著者は、フーコーの次の言葉に鋭く反応する。「生-権力のモードのうえで国家が作動するようになると、国家のもつ殺害の機能はレイシズムによってのみ保証されるのです」。そして著者はこう続ける。「われわれは、このようなレイシズムの役割を決して過小評価してはならないだろう。それこそがわれわれの時代における権力の逆説を、つまり生の増強をめざす産出的な権力によって大規模な暴力が組織されるという逆説を可能にしたからである」と。社会構成主義的に理解されてきたフーコーの権力論を、暴力のエコノミーから読み直そうというのである。
 ところで、『談』no.70「自由と暴走」でインタビューをさせていただいた仲正昌樹氏は、近著『日本とドイツ 二つの戦後思想』で、マルクス主義とポストモダン思想の比較検討から、ネーションと戦争責任の関わりについて注目すべき発言をされた。フランクフルト学派の言動に触れて「野蛮な暴力を行使するギャングやテロリストを武力で制圧しようとすれば、(…)相手の恨みを買い、第三者まで巻き込んだ暴力の連鎖を引き起こしてしまうかもしれない(…)。西欧文明は、その始まり以来、この逆説に取り憑かれている」と言うのである。そして、文明と野蛮が表裏一体となった「啓蒙の弁証法」は決して解消されないだろうと示唆する。国家と暴力、あるいは文明と野蛮。権力のシステムが変容するなかで、レイシズム、ナショナリズム、セキュリティがこの問題系を解きほぐす重要なキーワードになると思われる。
 最後に、『国家とはなにか』の著者東京大学大学院総合文化研究科21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員・萱野稔人氏と金沢大学法学部教授・仲正昌樹氏に「暴力とセキュリティ」という切り口から、この問題に切り込んでいただく。
 「生きさせるか死の中へ廃棄させる」。この言葉の本当の意味を知りたい。   (佐藤 真)

 

 

editor's note[after]

「生-権力」と健康イデオロギー

 「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」。フーコーは、この新たな権力を「生-権力」と呼んだが、この「死の中へ廃棄する」という意味が今ひとつつかみきれないでいた。「生-権力」を考えるにあたって、まずこの言葉の含意を知るところから始めようと思ったのはそういう理由からだった。しかし、答えはすぐに返ってきた。
 「〈生-権力〉の核心は、一部の人間が死ぬことによって多くの人間を生かそうとするところにある」。「それが最もはっきりした形で現れるのが戦争である」。
 まず始めに登場していただいた杉田敦氏は、こう明確に述べられた。戦争というものは、「死んでもいい人と、死んではまずい人と、人間のいのちにある種の格付けをする行為」である。つまり、境界線を引くこと。人間に対する格付け、境界線を引くことが、「生きさせるか、死の中へ廃棄するか」という意味なのだ。
 戦争は特殊状況である。私たちの日常生活の隅々にまで浸透していると思われる権力システムを考えていこうとする際に、戦争という例はいささか唐突なように思えるかもしれない。『社会の喪失』の対談者の市村弘正氏が最初戸惑われたように。だからこそ、私たちは、杉田氏のおっしゃる戦争の意味をもう少し伺う必要があった。
 生-権力的な視点からは、歩留まりがあれば、権力としては成り立つ。ある程度の犠牲者が出ても、勝ちは勝ちということになる。要するに、一部の人間が死ぬことによって多くの人間が生き残る。それでよしとするわけだ。その理由は明白だ。共同体を存続させるためである。人間の格付けの意味は、ここにある。しかし、重要なのはその先だ。戦争を典型とする事態と同等のことが、じつは至る所で起こっているというのである。戦争に典型的に現れた事態とは、言い換えれば、リスクを一部の誰かに被せて、それ以外の大多数の人間が生き残ることである。リスクを誰かに被せることによって社会全体を存続させるという戦略、「生-権力」の関心の中心は、まさにそこにあるというのである。

権力システムからみた現代の日本社会

 杉田敦氏は、現代の日本社会で「生-権力」がどのような形で表出しているか、具体的な例をいくつか挙げながら言及された。一つは自殺の増加、もう一つは公務員叩き、それから少子高齢化。一見共通性がないように思えるが、いずれも背後には「生-権力」が控えているのである。
 たとえば、自殺は今や社会的な問題となっている。とくに中高年層の増加が著しい。杉田氏はそれが「構造改革」の進行と連動しているのではないかと指摘する。新自由主義による市場経済が猛烈な勢いで進行するなか「構造改革」が着々と進められている。徹底的な合理化とリストラによって競争力を高め、世界市場で勝ち抜くこと。それを至上命令としながら、日本は「構造改革」に突き進んでいる。そうしたなかで、足を引っ張る者は即「構造改革」を遅らせるものとみなされる。たちまちターゲットに曝されることになる。早い話が、切り捨てられるということだ。かつては連帯の拠り所であったはずの組合が、いまやモラルハザードの温床とみなされるご時世である。そうした構造改革、新自由主義、市場経済の徹底化の帰結として現れているのが、自殺の増加という事態ではないか。
 たとえば、そうした風潮は特殊利益批判という形でも吹き出している。その典型が郵政民営化論であり、今やそのターゲットは郵政だけではなく、公務員全体に広がっているという。特殊利益批判とは、簡単に言ってしまうと、「固有の利益より全体の利益を優先すべし」という考えだ。少数派の利益よりも多数派の利益につながるように行動せよということになるが、逆に言えば、これは多数派の利益につながらないものは切り捨てよという意味でもある。つまり、一部の人間にリスクを被せることで全体が生き残るというメカニズムの裏返しにすぎない。公務員の場合は、市場原理に曝されていないから、それ自体存在価値がないという極端な意見すらある。特殊利益批判、とくに郵政民営化論は、その意味で「構造改革」の格好のスケープゴートになったのもむべなるかな、といえる。
 少子高齢化はどうか。「生-権力」がもっと露骨に現れていると杉田氏は言う。本来、少子化と高齢化は別の問題であるにもかかわらず、一体化されているというところにまず問題がある。高齢人口の増加で、年金にあてる資金不足が懸念されるなか、少子化はそれに拍車をかけるという議論である。しかし、考えてみると年金の負担を誰がするかということは、少子化とは無関係に以前より問題になっていたことだ。子供をもっと産めば解消するというものではないことは明らかである。それを少子化問題に転嫁することで、帳尻を合わせようという戦略である。しかも、それだけではない。子供を産む/産まないというのは、きわめてプライベートなことで、それに対して国家が介入するということ自体大きな問題である。さらに、少子化は人口減少化を加速させ、ひいては国力の低下につながるという意見も出されている。たとえそうだとしても、移民をもっと受け入れるなどの解決策は考えられるのに、日本人というネーションにこだわり続ける。少子化と高齢化、少子化と労働力不足という本来無関係のものをリンクさせるという発想、また、それが人口(繁殖、健康、寿命)に直接関わるところに「生-権力」の特徴が見てとれる。
 いったん「生-権力」のメカニズムに飲み込まれてしまうと、そこから容易には抜け出せない。そこが「生-権力」の怖いところだと杉田氏は強調する。「一部を犠牲にすることで、大多数が生き残る」という「生-権力」が草の根から実践されると、「粛正の論理」に行き着く。「粛正の論理」は、一種のスケープゴート探しなので、いったんそのメカニズムが作動し始めると陰惨な結果を生むことになる。「誰もが自分のサバイバル以外、何も考えられなくなる」。自殺者は一種の不良債権処理と思うような雰囲気すら蔓延しているのではないかと杉田氏は危惧する。しかも、そうやってスケープゴート探しに躍起になっている自分自身を、単なるマジョリティと思い込んでいて、自分に非があるなどとはつゆとも思っていないのだ。「生-権力」と「粛正の論理」の関係の究明は、今後さらに検討が必要だ。

「生-権力」――「いのち」を再生産する権力システム

 自然、生命、成長という「いのち」に連なる概念が、ひとたび狂い始めるとおぞましい暴力となって噴出する。エコロジー思想に潜む危うさとは何か。それが「生-権力」とどう関係しているか。藤原辰史氏のインタビューのポイントを挙げてみよう。一、シンボルとしての「血と土」、二、五感に働きかけるナチス、三、馴致される「生き甲斐」、四、自給自足と国威発揚、五、「生-権力」と共生のパラドクス。
 まず、一、シンボルとしての「血と土」だが、これはナチスのスローガンとしてよく知られている。とくに「血」については、人種や血統の表象という意味でナチズムのイメージとすんなり結び付く。ところが、「土」の方は今ひとつはっきりとしなかった。藤原氏が注目したのは、農である。土というのは、食べものを育てる大地である。大地の恵みである食べものを食べて人間は生きている。大地は人間を成長させる源泉である。すなわち、「土」は、人間を育む基盤なのである。農民は、日々土と直接触れあって生活をしている。農民にとっては、「土」は「血」と同様に、いのちを象徴するものとして認識されていたのだろう。そうした生命の源泉である大地と人間の生きる場所を、ナチスの一員は「生命共同体」と呼んだのである。
 ナチズムは、この「生命共同体」というイメージを十二分に利用した。それが二つめのポイントで、要するに、五感としての身体を農民に発見させた。直接土と格闘することによって得られる感覚、五感すべてを使って獲得される身体感覚といったものに直接働きかけたわけである。「土」が一種の媒介となって、農民はナチスに共感する、そういう経路をつくり出した。農民は働けば働くだけその見返りとして大地からの恵みを手に入れる。農民は農業に「生き甲斐」を強く感じるようになる。ナチスが重要視したのは、まさにこの「生き甲斐」だった。農民にとって何が「生き甲斐」となるのか、ナチスはよく理解していた。それが三つ目のポイントである。四つ目は、農業それ自体が農民に与えた影響力だ。ドイツは大変な化学肥料大国だったといわれている。土地がやせていたために農業生産には不利であった。それを一挙に解決したのが化学肥料の開発で、こうした農業技術の進歩によって、ドイツは世界でも有数の工業的農業国に変身を遂げたのであった。ナチスは、自給自足を合言葉に農民たちに生産力のさらなる向上を訴えた。農民の創意工夫次第でまだまだ自給力を高めることができる。それはすなわち国力の顕示にもつながる。農民たちの努力がダイレクトに国家への貢献になるということをナチスは強調したわけである。もっとも、そのことによって化学肥料に頼る従来の工業型農業への疑問も生まれ、BD農法へ傾斜していく農民たちも出てきた。いずれにしても、自給自足というスローガンが、農民と土地との関係、農業と国力との結び付きをより強固なものにしたことは間違いなく、ひいてはナショナリズムへと結実していくことになる。工業型農業もまたその批判から出てきた有機農業も、国家への貢献という同じ目的に収斂していくことになった。収量か品質かという問題は、少なくともナチスにとってはさした問題ではなかったのだろう。
 最後のポイントは、その自給自足と深く関わることだが、自然への強い共感が、やがて自然との共生、さらには自然そのものとの一体性へと変容していったことだ。ついに、農民の視線はすべての「いのちあるもの」と同等の位置まで下降する。たとえば、家畜と人間は「いのちあるもの」としては同じ位置にあり、その間には差異はない。ところが、奇妙なことに同じ種である人間同士の間には、明確な差異が認められるという。アーリア人種とユダヤ人の間にある差異の方が、人間と自然、人間と家畜の差異よりはるかに大きいものと感じられるようになる。その結果が、あのホロコーストであったことはいうまでもない。なぜそんなイメージが生まれてしまったのか。おそらく、最初のポイントにあげた「血と土」というシンボルが深く関わっているように思う。大地の恵みは身体に吸収されて血となり栄養となる。人間はその繰り返しによって生き続けることができる。「いのち」を大切にしたい、だからそれを育んでくれる土地を守りたいと思うことはごく自然な感情だろう。しかし、その大切にし、守りたいという気持ちが、一方でそれを拒み脅かすものが出現した時にどうなるか。想像を絶するような暴力を生み出すのである。もとより、農民たちがそう思ったかどうかはわからない。むしろそうした感情をナチスがうまく利用したのかもしれない。ただ言えることは、「食と農という絶対不可欠な人間基盤を養分とするおぞましい暴力」こそ「生-権力」の実体だということだ。大地との一体感をもつこと、あるいは自然との共生。そういった人間にとってごく普通の感情が、「生-権力」を介した時におぞましい暴力性を生み出すという事実。ここにあるのは「いのち」のディレンマだ。

暴力の生態学――権力との交差のはざまで

 戦争に典型的に現れた事態が「生-権力」である。「生-権力」の特徴を検出するためには、戦争は格好のモデルとなる。しかし、戦争それ自体が大きく変わりつつあるとしたら……。
 仲正昌樹氏と萱野稔人氏の対談は、戦争の変容が何を意味するか、そのやりとりから「生-権力」が新たな段階を迎えつつあるという議論に発展した。そのことに触れる前に、まず萱野氏の考える暴力と国家の関係を確認しておきたい。萱野氏によれば、まず暴力の組織化ということが起こる。そして、組織化されることによって暴力は管理可能なものになる。しかし、当然であるが組織化は完全ではない。未組織の部分が残る。当然、組織化を逃れようとする者たちもいるだろう。その時、組織は何をするか。暴力を行使するのである。組織の安定状態とは、その暴力の行使の結果なのである。こうして安定を維持することができたとしよう。それが国家である。仲正昌樹氏曰く、国民国家とは暴力の組織がうまくいっている状態のことなのだ。
 だが、暴力の組織化はすでに次の段階に入っている。それを如実に示しているのが戦争の形態の変化である。萱野氏はドゥルーズ=ガタリの議論を援用ながら言う。「国民国家においては暴力の単位が領土の区画に完全に一致する」。「暴力の組織化は空間の条理化に基づいてなされる。これに対して、アメリカはそうした領土を通じた囲い込みを無効化していくような活動形態をとっていて、世界そのものを平滑空間にしてしまう」。条理化された空間を平滑空間にする。アメリカは、国民国家的な暴力の組織化とは全く異なる位相をつくり出しているというのである。条理空間/平滑空間とは、乱暴に言ってしまうと定住的空間/ノマドによる空間である。つまり、アメリカは、「地理的に離れたいくつもの地域にまたがってネットワーク化することで暴力を集団的に行使しているのであって、この点でそれは世界を平滑空間化、脱領土化している」という。この空間の平滑空間化、脱領土化は、経済におけるグローバリゼーションと完全に並行関係にある。しかも、あろうことか現代の「テロ集団」も全く同じ位相にあるのだ。
 アメリカと「テロ集団」の戦争形態における一致。これは何を意味するのだろうか。国民国家的な暴力の組織化とは全く異なる位相に両者は入っているということだ。国民国家という枠組みで戦争を捉えることがすでに的外れな状況になっているのである。仲正昌樹氏もこれには同意する。颱風の比喩を使ってその状況を説明する。「国家はもともとステート state だから、ある〈状態〉にたまたまなっているものだと思えばいい。歴史的に考えても、常に別の状態に移行する可能性を含みながら、一応安定した状態にあるものが国家」であって、あたかも颱風のようなものだと言う。
 ところで、国民国家という単位が暫定的なものにすぎないとしたら、当然権力システムというものも一義的ではなくなる。少なくとも主権による支配/被支配という構造では捉えきれなくなる。というより、権力とは本来多義的なものであって、たまたま主権的な形態をとっていたにすぎない。権力のシステムそれ自体を国民国家と切り離して考える必要があるということだ。
 権力システムは、新たな段階を迎えた。それが「生-権力」であることは、繰り返し述べてきたことである。ところが、今やその「生-権力」自体も変わり始めているのではないかというのだ。仲正昌樹氏は言う。「国民国家というのは、ある程度何が起こるか予想のつく社会」であり、それは「安心・安全を保証することであり、社会の安定につながっていた」。「フーコーが言う生-権力とは、この安定を保証する装置のこと」だった。これまで安全・安心は水と同じでタダだと思われていたのは、日本が国民国家だったからである。ところが、そうした安全神話が急速に崩れ始めた。たとえば、先程言ったように戦争が条理空間から平滑空間へと変化すると、恒常的に安全な場所というのは、原理的には存在しなくなる。世界がネットワーク化されることによって、いかなる場所も危険地帯になりうる可能性が出てきたのである。それは、国民国家の内部でも同様の事態をつくり出していく。世界は常に不安定な状態に置かれ続けることになる。それは、権力システムにも大きな影響をもたらす。「生-権力」が微妙に変容し始めるのだ。
 「権力というのは、これまでどういうようにふるまっていたらあなたはだいたい安全に生きられて、暴力的なものと衝突しないで済むのかということを表示する役割」をもっていた。別言すれば、それが「生-権力」だが、「危ない目に遭いたくなかったらこの網の目の中で、つまり、ノルム(規範)の中で動きなさい」と、そういう生き方を強いてきた。そして、私たちもそれを当然のことと受け入れて、それ自体を疑うこともなければ、拒否することもなく、ただその中にどっぷりとつかっていた。実際そうやって生きてきたのだった。ところが、社会が安定性を失い始めると、こうしたノルムが効かなくなってくる。「他人が不合理な行動をとる可能性が高くなってくると、自分がいくらノルムに合わせて行動していても危険は避けられなくなる」。今までは、自らの行動パターンをノルムによって、すなわち社会に合わせていくことによってリスクを最小限におさえてきた。それを保証していたのが「生-権力」だった。ところが、そういう生き方ができなくなってきたのである。仲正昌樹氏は、「生-権力」そのものがここにきて効かなくなってきたのではないかと指摘する。
 萱野稔人氏は、今、それが、逆に国家の暴力を期待する方向に大きく動き始めているのではないかと危惧する。暴力の予見可能性が低くなってくると、国家の暴力への期待が逆に強く出てくるようになる。しかし、国家が唯一合法的な暴力として社会のなかに君臨している時は、暴力の暴走を、また権益の拡大を抑止することは困難になる。「暴力による暴力のコントロール」が効かなくなるからだ。社会における暴力の予見可能性が高まれば、相対的に非暴力的な空間は拡大するかもしれない。けれども、抑止する側の暴力、取り締まる側の暴力も暴力であることには変わらない。暴力とセキュリティの問題の核心がここにある。私たちは暴力の生態学を考える必要があるのだ。
 萱野氏は続ける。「もともと生-権力の働きとは、生きるに相応しい人を生きさせるということであり、その一方には常に排除」があった。「生-権力において、生かすことと死のなかに廃棄することは表裏一体」であり、「現在はその排除の側面がずっと強くなってきているんじゃないか。それが新自由主義的な自己責任論と一体化して出てきている。生-権力そのものが変わってきた」のだという。

健康イデオロギーと「生-権力」の変容

 「生かすことと死のなかに廃棄すること」がセットになっている。それがあからさまに現れる時がある。伝染病になった時だと仲正昌樹氏は言う。そして、昨今の健康ニーズの高まりは、そうした生-権力の動きと連動しているというのだ。「〈健康な常態に復帰したいなら従ってください〉じゃなくて、〈おまえに人を不健康にする権利はない〉という形で露骨に出てくる」。当たり前のことだが、「隔離は本人以外の他の国民健康維持のために行われる」。これまでは、伝染病が発生した時に、患者を隔離するというある意味では特殊な状況下において、「生-権力」は発現した。ところが、今は日常生活のなかにまで「生-権力」が入り込み、私たちの意識や行動様式に決定的な影響を与えるようになった。たとえば、人を不健康にする権利はないという言説は、健康増進法の基本的な姿勢である。「受動喫煙の問題が最たるもので、自分が不健康になるのは勝手だけれど、他人を不健康にするな」という。それができない人間は、サンクションを受けてもらうというわけである。そういう言い方に対して、賛同する人間もやはりいて、「喫煙者たちによって自分たちの健康が脅かされている、だから国家権力の力を借りてでもあれは排除すべきだ」と主張する。おそらくコストのことを考えれば、全員をファッショ的に洗脳して馴致させるよりは、危ない人間を放り出す方がはるかに安上がりなのだろう。
 「生-権力」の実践がすぐに暴力の問題と結び付くとは思いにくいかもしれない。しかし、そうではないのだ。「生-権力」は、暴力の組織化という審級を背景にしながら、私たちの日常の内部に入り込み実践されているのである。その身近な例が「健康」である。たとえば、健康増進法に、私たちはその露骨な姿をみてとることができるのだ。
 杉田敦氏がインタビューの最後で語った言葉を思い出してもらいたい。「生-権力」は必ずしも否定できるものではないという。「生-権力」は、「ネガティヴな面もあればポジティヴな面もある。そうした両面性を生-権力はもっている」。実際、「生-権力の働きによって福祉社会が実現した面がある」ことは否定できない。「生-権力」自体が二面性をもっているのである。だからこそ、単純な権力批判という「解」に逃げ込むことはできないのだ。むしろ、そうした「生-権力」のなかに私たち自身が組み込まれているという事実から出発しなければならない。
 杉田氏は、薬害問題に触れて、その背景にある問題をあぶり出した。薬害問題を製薬会社やそれを管轄する国の責任にだけ押しつけて済ますわけにはいかない。「薬によって支えられている現代の健康社会、その背景となる〈健康イデオロギー〉を支持しているのは他ならぬわれわれ自身で」あり、「問題の本質は、じつはそこにある」。「われわれの社会、つまり群れ全体がそういう方向へ向かうことをよしとしていた」ということをこそ問わなければならない。「今、決定的に欠如しているのは、生-権力をはじめとする権力作用についての認識の欠如」であり、「権力を意識することなしには、権力を変えることもできない」。
 「一部を犠牲にすることで、大多数が生き残る」社会。そこから抜け出すことは用意ではない。だが、少なくともそうしたなかにいて、権力システムの発現を自らの身体を媒介にして意識することはできる。「生-権力」も、そして「生-権力」の変容も。そこからすべては始まる。   (佐藤 真)

 
   editor's note[before]
 


◎フーコーの思想、フーコー論
自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録 M・フーコー他著 田村俶他訳 岩波現代文庫 2004
フーコーの穴 重田園江 木鐸社 2003
フーコー思考集成 1〜10 M・フーコー 小林康夫他編訳 筑摩書房 〜2002
フーコー講義集成 4、5、11 M・フーコー 広瀬浩司他訳 筑摩書房 〜2002
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一他訳 河出書房新社 2000
ミッシェル・フーコー F・グロ 露崎俊和訳 文庫クセジュ 1998
フーコーの系譜学 フランス哲学〈覇権〉の変遷 桑田礼彰 講談社選書メチエ 1997
ミッシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて H・L・ドレイファス他 山形頼洋他訳 筑摩書房 1996
フーコーの〈方法〉を読む 山本哲士 日本エディタースクール出版部  1996
フーコー 現代思想の冒険者たち26 桜井哲夫 講談社 1996
ミシェル・フーコーの世紀 蓮實重彦他 筑摩書房 1993
ミシェル・フーコー 考古学と系 A・クレメール=マリエッティ 赤羽研三他訳 新評論 1992
ミシェル・フーコー伝 D・エリボン 田村俶訳 新潮社 1991
ミシェル・フーコー 主体の系譜学 内田隆三 講談社現代新書 1990
性の歴史 1〜3 M・フーコー 田村俶他訳 新潮社 1987 
同性愛と生存の美学 M・フーコー 増田一夫訳 哲学書房 1987
ミシェル・フーコー 権力と自由 J・ライクマン 田村俶訳 岩波書店 1987
臨床医学の誕生 M・フーコー 神谷美恵子訳 みすず書房 1986
ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性 M・フーコー 岸田秀、久米博訳 河出書房新社 1986
ミシェル・フーコー 1926〜1984 M・フーコー 桑田禮彰他訳 新評論 1984
知の考古学 M・フーコー 中村雄二郎訳 河出書房新社 1981
監獄の誕生 監視と処罰 M・フーコー 田村俶訳 新潮社 1977
狂気の歴史 古典主義時代における M・フーコー 田村俶訳 新潮社 1975

◎国家、暴力、帝国
マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上下 A・ネグリ、M・ハート 幾島幸子訳 NHKブックス 2005
国家とはなにか 萱野稔人 以文社 2005
デリダの遺言──「生き生き」とした思想を語る死者へ 仲正昌樹 双風舎 2005
日本とドイツ 二つの戦後史 仲正昌樹 光文社新書 2005
暴力の哲学 酒井隆史 河出書房新社 2004
帝国 A・ネグリ、M・ハート 水嶋一憲他訳 以文社 2003
ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還 A・ネグリ 杉村昌昭訳  作品社 2003 
スペクタクルの社会 G・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003
自由論 酒井隆史 青土社 2001
構成的権力 近代のオルタナティブ A・ネグリ 杉村昌昭他訳 松籟社 1999
暴力批判論 W・ベンヤミン 野村修訳 岩波文庫 1994
千のプラトー 資本主義と分裂症 G.ドゥルーズ、F.ガタリ 宇野邦一他訳 河出書房新社 1994
自由の新たな空間 闘争機械 F・ガタリ 丹生谷貴志  朝日出版社 1985

◎権力、生-権力、生-政治
境界線の政治学 杉田敦 岩波書店 2005
反権力 潜勢力から創造的抵抗へ M・ベナサジャグ 松本潤一郎訳 ぱる出版 2005 
テロ後 世界はどう変わったか 藤原帰一編 岩波新書 2002
デモクラシーの論じ方 論争の政治 杉田敦 ちくま新書 2001
フーコーの権力論と自由論 その政治哲学的構成  関良徳 勁草書房 2001
権力論 G・フェレーロ 伊手健一訳 きこ書房 2001
現代権力論の構図 星野智 情況出版 2000
権力 思考のフロンティア 杉田敦 岩波書店 2000
権力の系譜学 フーコー以後の政治理論に向けて 杉田敦 岩波書店 1998
権力 社会的威力・イデオロギー・人間生態系 山本耕一 情況出版 1998
現代権力論批判 S・ルークス 中島吉弘訳 未来社 1995

◎健康、ナチズム、肉体
アウシュヴィッツの"回教徒"-現代社会とナチズムの反復 柿本昭人 春秋社 2005
ナチス・ドイツの有機農業 「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」 藤原辰史 柏書房 2005
健康帝国ナチス N・P・ロバート 宮崎尊訳 草思社 2003
健康と病 サンダー・L・ギルマン 高山宏訳 1996
〈病人〉の誕生 C・エルズリッシュ、J・ピエレ 小倉孝誠訳 藤原書店 1992
健康と病のエピステーメー 柿本昭人 ミネルヴァ書房 1991
聖別された肉体 横山茂雄 白馬書房 1990