生きる「力」の活用
フーコーは『知への意志』で次のように言う。 「恐らく歴史上初めて、生命の問題が政治の問題に反映される。生きるという現実は、もはや死の偶然とその宿命の中で時々浮上してくるにすぎない手の届かぬ基底といったものではなくなる。それは部分的には、知の管理と権力の介入の場へと移るのだ」。「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという」新たな権力が出現した。フーコーは、これを「生-権力(bio-pouvoir)=bio
power」と名付けた。 今や生に対して、その展開のすべての局面において、権力はその掌握を確立する。権力はもはや主権に還元されるものではなくなった。私たち個人の存在様式そのものを貫く、微細で多様性をもった力=生命の発現。「生」に照準を合わせた権力の時代が静かに幕を開けたのだ。
「生-権力」のさまざまなイメージ
今号では、旧来の権力のイメージを一変するこの新たな権力システムについて考えてみたい。 「生-権力」あるいは「生-政治(bio-politique)」は、これまでインタビュー、対談の随所で話題にされてきた。ざっと拾い出してみよう。 まず、「匿名性と野蛮」(no.71)で小泉義之氏は「人間をケアし、健康・病気・出生数・死亡数のコントロール、衛生管理、感染症対策を直接の政治課題」とし「近代政治と根本的に対立するもの」として「生-政治」があると指摘された。 「公共性と〈例外状態〉」(no.72)では、齋藤純一氏が「統治の統治、つまり、統治されるべき主体が自己統治の主体になる」という言い方で「生-権力」を捉えている。「生-権力」とは自己規律、自己の生存の秩序化であって、コストのかからない管理技術だという。現代では、こうした「生-権力」が社会の隅々にまで入り込んでいるというのだ。 「いのちのディレンマ」(no.73)では、小松美彦氏が、生命倫理の文脈に沿って「生-権力」の実態を暴き出した。「脳死者、持続性植物状態の患者、末期ガン患者、長期の闘病生活を続ける老人、精神障害者、知的障害者、遺伝性の疾患を抱えている人々」を「生きるに値しない者」として人為的に廃棄する方向へしむけるのが「生-権力」である。 「ゾーエーの生命論」(no.74)で佐藤純一氏と野村一夫氏はヘルシズム(健康主義)とメディカライゼーション(医療化)の関係について、健康言説を支える「生-権力」のメカニズムから批判的検討を行った。小泉義之氏と金森修氏は、「生-政治がビオスからゾーエーそのものを対象とするようになった」(アガンベン)と指摘された。 このように、いずれの方々も現代社会に根を下ろし、われわれの行動様式を規定しているものとして、「生-権力」に注目するのである。「生-権力」は、私たちが追求してきた「いのち」を解き明かすための、一つの重要な手がかりとなることは間違いないだろう。しかし、「生-権力」は、決してわかりやすい概念ではない。「生-権力」には、常にある種の理解しがたさがついてまわる。そもそも「生」と「権力」がなぜつながるのか、全く理解不能だという意見も聞いた。その場合の権力が、旧来通りの主権的なものとして理解されている限り、そうした印象をもたれるのもやむを得ない。しかし、「生-権力」の理解なくして、「いのち」の問題、「生命」を巡る言説に切り込んでいくことはできないであろう。少なくとも、私という生きる実体を精確に描写するためには、身体に張り巡らされた「生-権力」の解明は不可欠である。 力関係の連鎖としての権力
権力について、たとえば一般的には「他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力」とか「他人を強制し服従させる力」と定義される。ある者(支配者)がそれ以外のある者(被支配者)を「強制」する時に権力が働く。言い換えれば、権力とはある特定の主体が行使することである。では、ある特定の主体とは何を意味するのか。いわゆる絶対主義の時代には、ある一人の主体、つまり国王に権力が集中した。国王という主体に、すべての権力が集まった。いわゆる権力の源を辿っていくと、この主体への集中、主権という考えに辿り着く。つまり、主権という特権的なものを想定するところから権力という発想が生まれたと考えられる(杉田敦『権力』)。 絶対主義から議会制民主主義への変遷は、権力における主体の変化と捉え直すことができる。ジンメルは、これを支配のあり方の変容と簡潔に述べた。すなわち、ある一人の絶対的な権力者(国王)が他のすべての人間を思うがままに支配する形態が絶対主義である。披支配者は支配者に対して絶対服従であり、その関係はゆらぐことがない。それに対して、議会制民主主義では、支配者は複数存在する。この場合多数決に従った集団、多数派が支配者になる。ジンメルは、この第二の集団による支配から、さらに次のフェイズへの移行を示唆する。それを「原理による支配」と呼んだ。ヴェーバーの言う「合法的支配」がその一例である。たとえば、役人が市民に向かって法律で決められているから○○○をしなさいと言った場合、一見役人が支配者のように見えるが、実際はそうではなく、いわば法律が支配者の役割を担っている。法律によって、役人も市民に命令するように命じられているにすぎない。 支配のあり方が、個人=君主主権による支配から、集団=人民主権による支配へ、そしてさらには原理による支配へと変化し、それに伴って支配者像は次第にぼやけ、不過視のものになっていく。市野川容孝氏は、権力の歴史とは、非人格化していく過程だという(「権力」『哲学の木』所収)。 君主主権であれ人民主権であれ、主権論というのは単一の権力を中心に据えるという意味では変わりはない。いずれも特権的な位置には主権が置かれる。この図式を遵守する限り、常に権力はある一定の方向を目指して働く。つまり、権力は支配者から被支配者に向かって一方的に行使される。このように、権力は上からくるものというイメージは、長い間自明のこととされてきた。しかし、果たしてそうだろうか。権力は一元的で単線的にしか行使されないのだろうか。 たとえば、人民主権を主張したとしよう。君主主権はそれがどんなに非合理的で恣意的な決定であっても、そこでの決定が最終決定であり、その意味で絶対である。一方、人民主権の場合はどうか。人民は必ずしも理性的存在とは言い切れないし、きわめて現実的な対応をする場合も少なくない。人民は理念的には理性的ではあっても、現実的には理性的であるとは限らないのだ(杉田敦、前出)。 一八世紀においてルソーは、人民の意思を最終審級として見なし人民主権論を展開したと言われている。だが、一方で「盲目の群衆は、何が自分たちの利益となるかをめったに知らないために、しばしば何を欲するのかわからない。(…)人民はおのずから、常に利益を望むが、自分では必ずしもその利益がわからない。一般意思は常に正しいが、それを示す人々の判断は必ずしもかしこいとはいえない」と言っている。人民は自らが権力を行使することに論理的に先立つ形で、自らに権力を及ぼされることになるとルソーは言いたいのだろう。つまり、人が権力の主体となることが同時に権力の客体となることもありうるということを示唆しているのだ。 「主体的権力とは、必ずしもある特定の個人や集団の意図に還元できるものではないし、権力を及ぼされている側も、一方的に権力を行使されているわけではなく、この権力は人に力を与える面と人から力を奪う面との二面性を持っている」(杉田敦、前出)。じつは、こうした権力の二面性にいち早く注目したのがフーコーであった。フーコーは言う。「権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」。「権力は至る所にある。すべてを統括するからではない、至る所から生じるからであ」り、それらを「固定しようとはかる連鎖にすぎない」と。 権力における二つの極、「規律権力」と「生-政治」 これまでの一方的で単線的な権力理解に代わって、フーコーは一種の力の連鎖、その網状のシステムとして権力を捉えている。そのうえでこの新しい権力について『知の意志』でいくつかの提言を行っている。紹介しよう。 ●権力とは手に入れることができるような、奪って得られるような、分割されるような何ものか、人が保有したり手放したりするような何ものかではない。権力は無数の点を出発点して、不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使される。●権力の関係は他の形の関係(経済的プロセス、知識の関係、性的関係)に対して、外在的な位置にあるのではなく、それらに内在するものである。権力の関係は、単に禁止や拒絶の役割を担わされた上部構造の位置にはない。それが働く場所で、直接的に生産的役割をもっている。●権力は下からくる。権力の関係の原理には、支配するものと支配されるものという二項的な対立はない。生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会全体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。●権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的である。権力を司る司令部のようなものを求めるべきではない。●権力のあるところには抵抗がある。にもかかわらず、いやそれゆえに「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものもない。権力の関係は、無数の多様な対抗点との関係においてしか存在し得ない。 権力が上からくるものではなく錯綜したシステムであるというだけであれば、少し想像力を働かせば思いつくことだ。むしろ、含意はその先にある。フーコーによれば、そうした総体的な権力が、外からの働きかけによるものではなく、端的に内在的なものであり、直接に生み出されるというのである。つまり、そうした権力は私たち自身が、直接的に生産するものであり、何か明確な主体によって命令されたり、指示されたり、あるいは拘束されたりするようなものではないということだ。権力が下からくるというのはそういう意味である。 フーコーは、権力論を展開するにあたり、この内在的な権力の発現について、別の観点から重要な指摘を行っている。規律権力(le
pouvoir disciplinaire)というものが働いているというのだ。『権力』(杉田敦)によれば、たとえば病院、学校、監獄といった多数の人間を収容する施設が、目的は異なりながらもきわめてにかよった側面をもっているという。どれも、規律権力が作用しているというのである。 それぞれの施設の中で、人々はある決まったふるまいをするように求められる。もしそれに従わない場合には、従うように強制される。そうした過程の中で、人々は次第にそうしたふるまいを身につけるようにしむけられる。こうした規律が貫徹されるためには、監視施設、監視装置が必要になる。そこで採用されたのが「パノプティコン」(一望監視装置)である。ベンサムによって考案された「パノプティコン」は監視員を置いた一つの円塔の周囲に放射状に収容所を配置したもの。監視員からは収容者を見ることができるが、収容所側からは監視員の存在を確認することはできない。収容者はいつ見られているか確認できないために、常に見られているという前提で行動せざるを得なくなる。「パノプティコン」の利点は、監視員が四六時中監視していなくても監視効果が発揮できることである。監視員がいてもいなくても、収容者はそれを知ることができない。監視の無人化が可能になるのである。つまり、収容者は、たとえそれが無人であっても、誰もいない円塔からの「視線」に常におびえ続けることになるわけだ。実体としての具体的な主体が実際に存在しなくても、権力が行使される。主体が存在するかもしれないというだけで十分に権力は発揮される。しかも、自分の行動様式を決定付けているのは自分自身に他ならない。もっとも、こうした規律権力はその構成員全員に共有されている必要があるだろう。抜け駆けは許されず、そのためには構成員が平等であることが必要条件になる。要するに、規律権力は構成員の平等意識と一体になっている時に最も効果を発揮する。 フーコーは、この新たな権力の発現にあたって、もう一つの要件が準備されている必要があると述べている。それは今言った平等ということに関わることだ。つまり、規律権力の目的が従順な人間(=身体)にあるとして、それが十全に機能するためには同じような水準にある人間がとりあえず大量にいる方がいい。規律権力が貫徹する同一の人間が大量にかつ途切れることなく再生産されることによって、権力はその機能をより強い形で発揮することができるのである。フーコーは、二つの政治の極をもつことによって、権力は新たな段階へと発展することになったと指摘する。「身体の調教、身体の適正の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの平行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを保証した人間の身体の解剖-政治学」という極と、「生物学的プロセスの支えとなる身体を中心に据えた、繁殖、誕生、死亡率、健康、寿命、長寿を変化させることができる人口の生-政治学」(フーコー『知への意志』)という極である。 冒頭「いのち」の問題、「生命」を巡る言説に切り込んでいくために、フーコーが明らかにした新たな権力に注目する必要があると言った。それは、権力を構成するこの二つの極が物質としての身体と、その身体を生へと押し進めていく「いのち」に直接関与するからだが、しかし、なぜ権力構造を変換させる必要があったのか。支配/被支配の旧来の権力がそれまでのやり方を捨てて、あえて錯綜した網状の権力システムへと変わらざるを得なかった理由とは何か。 「いのち」を奪い取る権力と産出する権力 「生-権力」のある種のわかりにくさの一つがここにあるように思う。権力とはある特定の主体が行使することであっていっこうにかまわない。事実、強権発令型の権力があからさまに行使されている例は今でも数多く存在する。国家というレベルで見ても、主権権力は生き続けている。支配/被支配の権力は決してなくなったわけではないのだ。このことは十分に認識されてよい(先取りして言うと、今号の対談のテーマの一つでもある)。フーコーも『監獄の誕生』で冒頭一八世紀にパリで行われたダミアンに対する公開処刑の例を紹介している。国王殺害を企てた罪への処刑であったが、まさに残酷の極みであった。公開処刑では、殺し方がそのまま権力の誇示につながった。人々から「いのち」を奪い取ること、それが権力であり、また「いのち」を奪うことができる者が、権力の主体であったのだ。 しかし、こうした権力は近代化と共にその重要性を徐々に喪失していく。それに代わって新しいタイプの権力が登場する。この新しい権力は、人々の「生命」を奪い取るのではなく、逆に「生命」を産出する(市野川容孝『身体/生命』)。フーコーによれば、「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の保管物となる」権力が出現するのである。 市野川容孝氏は人々の生命を奪い取る権力から産出する権力への転換が「生-権力」の基盤にあるとして、それは次のような理由からではないかと一つの仮説を提起する。 「(ウイリアム)・ペティは、次のように述べている。〈人民が少数であるということは、真実の貧乏である。つまり、八○○万人の人民がいる国は同じ広さの地域に四○○万人しかいない国よりも二倍以上、富んでいる〉(『租税貢納論』)。そして次のようにも。〈土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素であるというわれわれの見解の帰結として、国家がその成員を殺したり、その手足を切断したり、投獄したりするのは、国家自身も処罰することに他ならないということを想起すべきである〉(同前)。〈人口〉というものに注意深いまなざしを注がなければならないのは、なぜか。ペティによれば、人口こそ国富の源泉だからであり、(…)貧者を救い、病を減少させ、国内の死亡率を引き下げると同時に、出生率を上昇させること、それがペティの考える国王と国家の課題である」(市野川容孝、前出)。 ペティにとって人口がなぜ重要だったのか。それは、人口の減少は、単純に国家そのものを貧しくさせることになるからだ。住民こそ資産である。国力というものを誇示したいのであれば、まず人口を増加させなければならない。フーコーが「生-政治学」を新たな権力のもう一つの極においたのは、まさにこの点に着目したからである。身体に関わる権力の水準である規律権力と構成員の人口(数)に関わる「生-権力」が、こうして旧来の権力システムからの変換を促したのである。 国家と暴力
主にフーコーの権力論を基に考えてきたが、本稿を書くにあたって杉田敦氏の『権力』を参考にさせていただいた。本書の冒頭杉田氏はこう述べている。「権力は頂点にあるのか、底辺にあるのか。権力は忌避されるべきか、尊重されるべきか。権力は暴力的なのか、それとも暴力とは一線を画されるものなのか」。権力の一義的な定義を急いで示すよりも、権力の多義性(ambivalence)を受けとめ、断定を避けるから本書は出発すると言う。「生-権力」を考察するにあたって、私たちも著者の顰にならい、旧来の権力論にとらわれずに始めることにしよう。最初にお訊ねするのは、この著者である法政大学法学部教授・杉田敦氏だ。「生-権力」が現代の政治シーンの中で、どのような形で現れてくるのか、具体的な事例を参考にしながらお話ししていただこうと思う。 次に、「生-権力」の「生」に着目する。すなわち、「いのち」の問題だ。少し視点を変えてエコロジーについて考えてみたい。地球環境問題が政治的課題になる時代である。エコロジー思想への関心は日増しに高くなっているが、地球環境の保全のためには人口の縮小もやむなしという極端な主張をするグループも出てきた。「人間非中心主義」を謳うディープエコロジー運動がそれだが、じつはこれと全く同じ主張を四○年も前に、実際に断行した国家があったのだ。ナチスドイツである。ナチスの根底には、「生物圏平等主義」というエコロジー思想が息づいていて、それが極端な形で噴出したのがホロコーストであった。自然や「いのち」を守るということがなぜ史上稀にみる大虐殺を引き起こすことになったのか。そこには、「生-権力」の孕む最も重大な問題が横たわっているよう思う。 昨年、エコロジー思想とナチズムの結び付きを論じた研究が出た。有機農業からナチス・エコロジズムの本質に迫るという斬新な研究だ。そこで、この『ナチス・ドイツの有機農業』の著者である京都大学人文科学研究所文化生成部門助手・藤原辰史氏に農業技術とナチス・エコロジズムのつながりから、「生-権力」に迫っていただく。 さて、昨年、『国家とはなにか』が話題を呼んだ。「国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行する」。「国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない」と本書は断言する。国家とは何よりも暴力に関わる運動だと説く著者は、フーコーの次の言葉に鋭く反応する。「生-権力のモードのうえで国家が作動するようになると、国家のもつ殺害の機能はレイシズムによってのみ保証されるのです」。そして著者はこう続ける。「われわれは、このようなレイシズムの役割を決して過小評価してはならないだろう。それこそがわれわれの時代における権力の逆説を、つまり生の増強をめざす産出的な権力によって大規模な暴力が組織されるという逆説を可能にしたからである」と。社会構成主義的に理解されてきたフーコーの権力論を、暴力のエコノミーから読み直そうというのである。 ところで、『談』no.70「自由と暴走」でインタビューをさせていただいた仲正昌樹氏は、近著『日本とドイツ
二つの戦後思想』で、マルクス主義とポストモダン思想の比較検討から、ネーションと戦争責任の関わりについて注目すべき発言をされた。フランクフルト学派の言動に触れて「野蛮な暴力を行使するギャングやテロリストを武力で制圧しようとすれば、(…)相手の恨みを買い、第三者まで巻き込んだ暴力の連鎖を引き起こしてしまうかもしれない(…)。西欧文明は、その始まり以来、この逆説に取り憑かれている」と言うのである。そして、文明と野蛮が表裏一体となった「啓蒙の弁証法」は決して解消されないだろうと示唆する。国家と暴力、あるいは文明と野蛮。権力のシステムが変容するなかで、レイシズム、ナショナリズム、セキュリティがこの問題系を解きほぐす重要なキーワードになると思われる。 最後に、『国家とはなにか』の著者東京大学大学院総合文化研究科21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員・萱野稔人氏と金沢大学法学部教授・仲正昌樹氏に「暴力とセキュリティ」という切り口から、この問題に切り込んでいただく。 「生きさせるか死の中へ廃棄させる」。この言葉の本当の意味を知りたい。 (佐藤
真) |