ヒト、生きもの、いのち
生命体と「いのち」の関係 人間を生物学ではヒトという。ヒトという言葉には、「生きもの」としての存在の意味が込められている。人間はヒトであることから逃れることはできない。
先端医療は「からだ」を詳細に分析し、今や「からだ」は新たな資源だという。また、生命科学は、ゲノム解析を完了し、次なる目標は分子間相互作用だという。脳科学は神経系統や脳内化学物質のメカニズムを明らかにして、いよいよ人間の知性究明に踏み込んでいく時が来たと鼻息が荒い。科学・技術の進歩発展によって、人間は相当程度明らかになったと自然科学者は口を揃えて言うだろう。人間という実体が科学によって知り尽くされる日が来るのも、もはや時間の問題だというわけだ。
人間は、他の生物と同様に細胞の集合体である。この細胞の集合を生物学では生命体という。実体とは、この生命体という意味だ。科学・技術は人間の生命体としての側面を明らかにした。そのことは、しかし、ヒトとしての人間を解明したことにはならない。なぜならば、このヒトという言葉に込められている「生きもの」とは、すなわち「いのち」をもっているということだからだ。言うまでもなく、「いのち」は、自然科学の言葉ではない。「こころ」と同じように、むしろ自然科学の言葉の外側、より正確に言えば、自然科学を含む「自然」に棲息する言葉である。「いのち」は、自然と科学の言説の間で、いかにもあやうい存在だが、このあやうさこそ「いのち」の本性でもあるのだ。
ヒトとしての側面に立ち返ることは、「いのち」を授かったこと、すなわち「生きもの」であるということを自覚することでもある。だが、そもそも「生きもの」とはどういうものをいうのか。「いのち」を考えることは、言うならばこの「生きもの」とは何かについて究明することでもある。
今、私たちは、「いのち」をどう考え、どう捉えるべきなのだろうか。「いのち」をもった存在としての「生きもの」、ヒトについて、じっくりと腰を据えて考えてみたい。今号からしばらくの間、「いのち」、また「いのち」の周辺、「いのち」にまつわる事柄を探っていこうと思う。
「いのち」の政治学
「いのち」に値段はつけられるか。こんな問いかけから「いのち」の考察を始めてみたい。これは、いささかセンセーショナルな問いかけではある。だが、保険の見積りや請求の場面では、「いのち」に値段をつけることはごく普通に行われている。「いのち」の対価を計算することは可能なのだ。
「いのち」というものが今日の社会の中でどう扱われているか、お金との関係で見るとわかりやすい。たとえば、医療保障、医療保険制度との関わりでいえば、「いのち」は即、国民経済、とりわけ国の財源と深く結び付いていることがわかる。「いのち」を、まず社会保障制度や福祉、あるいは税金の問題から考えてみることにしよう。
少子高齢化、経済の低迷で将来への不安が増しているが、そうした背景もあって公的年金や医療、福祉といった社会保障制度への国民の関心は非常に高い。生活不安を解消すべきはずの社会保障が、かえって生活不安を助長させ、高齢者や障害者の生存権さえ危うくさせているとか、あるいは現行の医療保険制度はさまざまな制度が分立しているため負担と給付が異なり、実質的な格差につながっているとか、制度そのものに不満をもつ者は多い。社会的な不平等感が拡大するなか、要するに「いのち」の値段が公正に計られていないのではないかという疑念があるからだろう。なかでも年金問題は、老後の保障、つまり死ぬまでの「いのち」の保障を金銭の額に換算するわけだから、単純に理解しやすいのかもしれない。まさしく、「私のいのちはおいくらですか」ということだ。
昨年、年金改革をめぐる議論が活発に行われた。そんな中、社会保障の全体像をめぐる議論が不足しているとし、社会保障の基本的な方向をまず考えていくことが先決ではないかと提言した方がおられた。千葉大学法経学部教授・広井良典氏である。言われてみれば確かにそうかもしれない。年金問題だけを切り離して論じようとすること自体そもそもおかしいというわけだ。
広井氏によれば、議論の前提として、日本の社会保障の規模は先進諸国の中でアメリカと並んで最も低い水準にあるという事実確認がまず必要だという。そして、日本がこうした低い社会保障給付でやってこれたのは、かいつまんで言えば、「カイシャ」や家族が「見えない社会保障」としての機能を果たしてきたこと、公共事業が「職の提供を通じて」事実上生活保障を代替する役割を担ってきたこと、この二つが効いていたからだというのである。しかし、低成長が構造化し、また「カイシャ」や家族の流動化が進行する中では、「共同体」に依存するこれまでのやり方は成り立たなくなり、公的な社会保障の再編成や強化がきわめて重要な課題となってくるという。そうした状況では、医療・福祉重点型の社会保障にこそ軸足を置くべきではないかと主張する。その理由は、医療や福祉は、リスクの予測が困難でかつその個人差が大きいからだ。こうした分野は、公的な保障をしっかり行うことが求められる。これに対して、年金は老後の生活費の保障である。「いのち」の値段がつけにくいのが、医療や福祉の分野であり、だからこそむしろ公的な保障を強化すべきだという論理である。そして、人生にとっての終盤より、その前半にこそ社会保障が重要である。なぜならば、機会の平等と社会保障はセットにして初めて有効性をもちうるからだという。
広井良典氏は、近著『生命の政治学』で、「生命」ということを中心的なコンセプトにすえて、これからの時代の社会構想やその基礎となる枠組みを明らかにすることを目的とする議論を展開している。社会保障、環境政策、生命倫理が対象となる領域だ。すなわち、「生命」=「Life」=「生活」と捉えれば、それが三つの領域を横断するコンセプトであることは、容易に理解できるだろうというのである。改めて言うまでもなく、この「生命」=「Life」は、「いのち」のことでもある。
広井良典氏は、『談』no.59「老いの哲学」で、一度ご登場いただいた。急速に進む高齢化の中で、老いという事実を肯定したうえで、新たな高齢社会のヴィジョンを描くという主旨だった。広井氏に改めて「いのち」について、社会保障、福祉という観点からお話をお伺いする。今回のインタビューは、その意味では「老いの哲学」の続きでもある。ヒトという存在を「いのち」という観点から捉え直し、老いだけではなく、その誕生までさかのぼって考える。ヒトのケアのあり方、高齢社会のケアというものが今回の中心的なテーマとなるはずだからだ。
自分の身体を自由にできるのか
ところで、私の「いのち」はいったいどこにあるのだろうか。ふと、そんな疑問がわいた。私がヒトである以上、私は「いのち」をもった存在である。「いのち」をもつだって?
「いのち」はもつものなのか。「いのち」をもった存在として生まれてきたという事実をとりあえず真実として受け止めよう。だが、そうだとしたら、私の「いのち」は、私にとっては所有物なのか。つまり、「いのち」は私が生まれて初めてもつことになるものなのか。これは、なかなかやっかいな問題である。
そんな疑問をもちながら、「いのち」とからだのつながりについて逡巡していたら、こんな文章に出会った。少々長いが引用してみる。 「あなたに、高校に通う娘がいたとしよう。ナミエというその娘は、日焼けサロンできれいに灼きあげた肌に、茶色に染めあげた髪を長くのばしている。
何もしなくても一番きれいなときなのに、とあなたは普段から思っている。それでも、娘にうるさがられることを半ば恐れ、娘の〈自由〉を尊重する親であることを半ば気どって、とりたてて何も言わない。
ナミエがあるとき、タトゥー(入れ墨)をいれて帰ってきた。ブラウスから見えかくれする図柄はアゲハチョウで、可愛いと言えば言えないこともない。あなたが少しだけ顔をひきつらせていると、ナミエは、こともなげに、〈ピアスもしてるよ、見る?〉と言った。
耳のピアスには気づいていた。聞けば、耳朶から始まって、下腹部にいたるまで、いまでは八カ所にあけているという。 あなたは、たまらず言うかも知れない。〈少しは自分を大切にしなさい。〉ナミエは不思議そうな顔をして、訊きかえす。〈なんで? だって、自分のからだだよ。誰に迷惑もかけるわけじゃなし。わたしもう大人だよ。〉子どもの〈自由〉を尊重する〈民主的〉な親であろうとするあなたは、ここで手をあげるわけにはいかない。(…)あなたは、娘を説得することができるだろうか」。
これは、『モラル・アポリア 道徳のディレンマ』(ナカニシア出版)に収録された熊野純彦氏の「自分の身体を自由にできるか」という論文の冒頭に登場する文章である。熊野氏は、「人は自分の身体を自由に処理する権利をもつ」というテーゼに対して「自分の身体の処理にも、無制限な自由が許されているわけではない」というアンチテーゼを立てて、議論を展開していく。
熊野氏がここで着目するのは、このテーゼ/アンチテーゼには共通の前提があるということだ。それは、「自分が自分の身体を所有している」ということである。つまり、娘の立場も親の立場も、結局のところ身体を所有物として見なすところから始めている点では、変わりがない。しかし、本当にそうなのか。むしろ、事態はこうではないか。「人間である他者に対しては、私の身体が〈私〉なのではないか」と。熊野氏はこう問うたうえで、この考えは近代にあっては、乗り越えがたい発想としてあり、市民社会を裏打ちする思想そのものと手を携えている思考の枠取りですらあるという。そして、とりあえずの結論としてこう言うのである。「私が〈私〉であることに気づいたとき、私はすでに身体を携えていた。私が生まれてきたこと、私の身体がやがて老いてゆき、病いを得ること、そして私がいつか死んでゆくであろうこと、これらの事柄は、むしろ、私の生の動かしがたい条件である」と。
私が私の身体を所有しているという表現には居心地の悪さがあると熊野氏は言う。私が私の「いのち」を所有しているという表現にも同じような感じをもつ。「いのち」をもつといっても間違いではないのだろうが、にもかかわらずある種の不自然さがどうしてもつきまとう。私は「いのち」をもっている、というよりも、私が「いのち」そのものなのではないか。「いのち」が私であると。だが、果たして本当にそう言いきれるのだろうか。
「いのち」と身体、「いのち」と私の関係について、東京大学文学部助教授・熊野純彦氏にお聞きする。
脳死者は生きている
「いのちのリレー」という言葉がある。臓器移植に際して臓器がドナーからレシピエントに提供されることを、ある時から「いのちのリレー」と表現するようになった。たとえば、心臓移植の場合、手術に数千万円から一億円という経費がかかる。個人が負担できるような金額ではないので、ボランティアの人たちが街頭に出て募金を集めることになるわけだが、その際「いのちのリレー」という言葉があたかも呪文のような効力をもつ。「いのちのリレー」という言葉は、ボランティアの必死の訴えをみごとに代弁してくれる。たくさんの善意に支えられてレシピエントは大事な「いのち」を受け取る。脳死者の死は決して無駄ではなかった。ドナーの「いのち」は、レシピエントの「いのち」へとリレーされて、ずっと生き続けるのである。めでたしめでたし、というわけだ。
むろん、ボランティアの善意を偽善にすぎないなどと言いたいわけではないし、その善意にウソはないと思いたい。ただ、「いのちのリレー」という言葉には、ある決定的な欠落があることを忘れてはならない。「いのちのリレー」という言葉が交わされる場面に現れるのは常にレシピエントの側だけだ。なぜかドナーという存在が現れることはない。レシピエントに向けられる感情と同じものが、ドナーに向けられてもいいはずなのに、どういうわけかその対象にドナーは顔を出さないのである。
善意がなぜドナーに向けられることがないのか。その理由は簡単だ。ドナーとなって臓器を提供した者、脳死者はすでに死んでいるからである。しかも、臓器を摘出されてしまった脳死者は、すでに人間と呼ぶにはあまりにも変わり果ててしまっている。ドナーとなった脳死者は、その意味でもう人間とは見なされないのかもしれない。しかし、脳死者は本当に死んでいるのか。「臓器移植法」によって、脳死をもって人の死とされた。けれども、この問題にじつはまだ決着はついていないのである。
以上は、東京海洋大学海洋学部海洋政策文化学科教授・小松美彦氏の意見を要約し、筆者なりに解釈したものだ。小松氏は、昨年、「脳死者は生きている」という衝撃的な論文を発表した。小松氏は、脳死者には意識がある蓋然性が高いこと、「ラザロ徴候」という体動が確認されること、心停止まで所要時間が数年という長い例があること、脳死=人の死とするのには無理があること、の四点を論拠に、脳死者は生きている可能性が高いことを、この論文で主張した。小松氏は、科学哲学、生命倫理の立場から、これまで脳死・臓器移植のもつ危険性を一貫して批判し続けてきたお一人である。そういう立場から、『談』no.71「匿名性と野蛮」収録の小泉義之氏のインタビュー「ゾーエー、ビオス、匿名性」の発言に対してもコメントしている。小泉氏は、脳死者の生を自明なこととしたうえでなお脳死・臓器移植を推進していることに対して、「脳死者の生」をいくら言ってみても意味がないというが、脳死・臓器移植の専門家には届いても、他の分野の人間にはそれは十分に有効的ではないかと指摘する。問題は、むしろ、脳死を自明とする論理、それを正当化しようとする権力にあるという批判である。
「いのち」とは何か、今それを話題にしようとする時、避けて通れないのはここで議論されている脳死・臓器移植の問題だ。最後に、小松美彦氏に脳死・臓器移植の関連から「いのち、守らなければならないものは何か」というテーマでお聞きする。 (佐藤
真)
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