[最新号]談 no.72 WEB版
 
特集:「公共性」と例外状態
 
表紙:岡崎乾二郎「斧を磨いて針にする」 本文ポートレイト撮影:鈴木理策 特別企画 藤部明子「The Hotel Upstairs」より
   
 
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(対談)平山洋介×五十嵐太郎

都市は誰のものか

……開くのか/閉じるのか

平山洋介
ひらやま・ようすけ Yosuke Hirayama
1958年大阪市生まれ。神戸大学工学部環境計画学科卒業。同大学院博士課程修了。現在、神戸大学発達科学部教授。著書に『不完全都市 神戸・ニューヨーク・ベルリン』学芸出版社、2003、『Housing and Social Change: East-West Perspectives』共著、Routledge、2003、『Comparing Social Policies』共著、Policy Press、 2003、『コミュニティ・ベースト・ハウジング 現代アメリカの近隣再生』、ドメス出版、1993、他がある。

五十嵐太郎
いがらし・たろう Taro Igarashi
1967年フランス・パリ生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。現在、中部大学工学部助教授。建築史・建築批評家。著書に『過防備都市』中公新書ラクレ、2004、『読んで旅する世界の名建築』光文社新書、2004、『戦争と建築』晶文社、2003、『新宗教と巨大建築』講談社現代新書、2001、『終わりの建築/始まりの建築 ポスト・ラディカリズムの建築と言説』INAX出版、2001、他がある。

神戸、ニューヨーク、ベルリン、この三つの都市は、大規模な破壊にさらされた。そして、今、競い合うように再建・再生に大わらわだ。一件出自も条件もおかれた状況も異なるこの三つの都市は、不思議に共通するところがある。破壊からの再建・再生の過程で、多様な欲求が噴出し、ある場面では反ばくしある場面では共闘する、対立と和合の「競合する空間」を形成していることだ。平山洋介氏は、都市とはそうしたさまざまな力がぶつかり合うことを常とし、決して完結することのない「不完全」な空間だという。 一方、テロや災害、犯罪に対する不安から、都市のセキュリティへの関心が急速に高まっている。それは、ある種の無菌状態を理想とする都市イメージを醸成する。こうしたセキュリティを過剰に求め無菌化を理想とするという意味で、五十嵐太郎氏は「過防備都市」と命名した。 都市生活者にとっては、都市に生きることはすなわちリスクをとることだ。「不完全」であるがゆえに、都市は寛容であり続けた。ところが、今やその寛容さを放棄し、リスクゼロの空間づくりへと邁進する。「過防備都市」とは、不寛容をよしとする「完全」都市のことでもある。 改めて問いたい。都市は誰のものか。多様な価値観を許す「不完全」で寛容な場所ではなかったのかと。

 
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公共性による公共の剥奪


立岩真也 Shinya Tateiwa

欲望には複数あって、その中のどれが表に出されるか、強いものだというふうにされるかは、いろいろな事情によって変わってくる。 あるのにないことにされる場合もあれば、それほど強くないものなのに強いものだとされてしまうこともある。 とすれば、その配合みたいなものをすこし変えればよい。 私と他者との存在を支持する力とそれに拮抗する力とが、四:六であれば死んでしまうけれども、六:四ならば生きていられる。 そんなことなんですよ、ぼくの言いたいことは。だからこれは決して悲観論じゃないんです。
たていわ・しんや
1960年、新潟県佐渡島生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に、『ALS──不動の身体と息する機械』医学書院、2004、『自由の平等──簡単で別な姿の世界』岩波書店、2004、『弱くある自由へ──自己決定・介護・生死の技術』青土社、2000、『私的所有論』勁草書房、1997、他がある。 

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公共性、複数の位相/複数の次元

齋藤純一 Junichi Saito

八○年代以降社会秩序の編成原理に関して根本的な変化が生じています。 統合の過剰というよりは、むしろ他者に出会わなくさせる、人々を相互に隔離し分断する、そういう新たな秩序の再編が起こっている。 インテグレーションからセグリゲーションへ。まさにその象徴的な事象がフィルタリングです。 サイバー・スペイスでは、自分に好都合な情報環境を構築するのがきわめてたやすくなっていて、その影響力は絶大です。 他者の現われは排除されて、他者の生きる世界はステレオタイプに還元されやすくなりますから。
さいとう・じゅんいち
1958年福島県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得終了。現在、早稲田大学政治経済学部教授。著書に、『表現の<リミット>』ナカニシヤ出版、2005(共編著)、『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、2004(編著)、『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、2003(編著)、『アーレント政治思想集成』1・2 みすず書房、2002、『公共性』岩波書店、 2000、他がある。
 

editor's note[before]

「公共性」という言葉の混乱

高まる「公共性」への関心

 「公共性」への関心が高まっている。実際、書店の棚を見渡してみると、「公共」あるいは「公共性」と名のつく書籍が目に付く。政治や経済だけに限らない。哲学・倫理や法学、社会学、都市工学や科学技術といった学問領域でも「公共」論は一種のブームになっている。さらには家族や生活といった身近なところで起こる問題についても「公共」を切り口にした考察や研究が目立つ。
 これまでも「公共」という言葉が一種のキー概念になっていた分野があった。グローバリズムと市場メカニズムの徹底化が「市場の失敗」をまねき、政府の市場への介入が要請される。いわゆる「公共経済」といわれるもので、資源の効率的分配、供給がその目的である。また、憲法に謳われている基本的人権に制限を与える「公共の福祉」は、表現の自由やプライバシーの保護に関する調整でしばしば焦点になることがある。いずれも、特定の個人に先だって優先される便益や権利に対して「公共」という言葉が冠せられた例である。
 これに類する使用例は日常のレベルにもある。「公」と「私」という使い分けだ。とくに日本社会では、「公」は、民である「私」と上下関係を形成し、多くの場合「公」である「お上」が民に「お触れ」として告知するという独特の構造をもつ。この官尊民卑の発想は徐々に改善されつつあるというが(今田高俊)、政治や行政、組織には依然としてこの対立図式が色濃く残っている。
 「公共」という言葉は、このように人々の耳目をひくところだが、「公共性」という言葉になるとその流通分野は限られてくる。しかも、どちらかというと否定的なニュアンスで受け取られてきたようだ。典型的な例で言うと、「公共事業」といわれる土建屋仕事に対して、国や自治体が市民に理解を求める際に使用される言葉がまさに「公共性」であった。「公共性」はそもそもが官製用語の一つであり、その使われる範囲は自ずから限定されていたのである。
 「公共性」がそうした限られた文脈から飛び出して、肯定的でしかも活発に用いられるようになったのは一九九○年代になってからである。早稲田大学政治経済学部教授・齋藤純一氏によれば、「公共性」が「肯定的な意味合いを獲得するようになったコンテクストの一つは、国家が〈公共性〉を独占する事態への批判的認識」の拡がりがあったからだという。
 すでに六○年代末以降、公共事業を含む政府の「公共政策」に対して、住民運動、市民運動という形での抗議が提起されてきた。それが、九○年代初頭、バブル崩壊後に国家の財政破綻が露になると、「公共性」に対する批判的な問題意識は広く一般に共有されるようになったという(齋藤純一著『公共性』岩波書店)。他方、ボランティア団体、NPO、NGOといった市民によるアソシエーションの活動が、「市民的公共性」の生成、醸成におおいに貢献した。「公共性」は九○年代を経て国家が独占するものから、市民の側へとその圏域を拡張していったのである。
 しかし、看過されてはならないのは、そうした「市民的公共性」とは明らかに異なるもう一つの「公共性」論がこの時期に台頭してきたことだ。「公共性」をナショナリズムによって定義し直そうという思潮である(前出)。出てきた時期が重なるために混同されがちだが、両者は根本的なところで異なる。齋藤氏の言葉を借りれば、前者が真の意味で「公共」であるのに対して後者は「国民共同体」のそれである。両者は全く別物である。この点については齋藤氏にインタビューで詳しく論じてもらうが、いずれにしても昨今の「公共性」への関心には、一見重なるように見えながらも、じつは相反する二つのベクトルがあることを十分に認識しておく必要があるだろう。

「公共性」概念の歴史的経緯

 ところで、「公共性」という場合一般的にはヨーロッパ社会において誕生した概念を指す。簡単に歴史的経緯を辿っておこう。「公共性」概念が人口に膾炙するきっかけとして決定的な影響力をもったのが『公共性の構造転換』(一九六二年/邦訳は一九七二年)である。著者ユルゲン・ハーバーマスによれば、ヨーロッパ社会において一八世紀中頃カフェやサロンを舞台に「文芸的な公共圏」として立ち現れた。「宮廷や教会など旧来の公的・精神的権威に対抗して、また、生産や消費の必要性からも解放された空間にあって、表現の自由を標榜する全くの私人(市民)による自律的な領域」(伊東貴之)を形成した。
やがて、フランス革命に前後して、言論、出版、集会の自由を核とする市民層の要求と結び付き政治的意味合いを強く帯びるようになっていった。「公共性」は、ヨーロッパ近代に育まれた啓蒙の理念を体現するものとして強く意識されるようになったのだ。
 ところが、一九世紀後半から、国家行政と経済の結び付きが強くなり、国家と社会の分離を前提とする市民的公共性の自律性は相対的に弱体化し、その危機が喧伝されるようになった。その後二○世紀後半まで状況はよりいっそう深刻化していくが、そこに登場したのがハーバーマスの著作であった。ハーバーマスは、行政・経済のシステムから相対的に自律した社会の新しい理解と公共性の理念を結合させる政治・社会理論を展開していく。「公共性」の批判的・規範的な側面を再生させようとしたのである。その中心となる概念が、「コミュニケーション的自由」と「批判的公開性」だ。絶えざる合意形成へと向かう試行錯誤の空間そのものが「公共性」であり、常に「開かれている」こと、すなわち「公開性」が「公共性」の第一の条件とされた。
 ハーバーマスの「公共性」論は、その後同時代のガダマーやポスト構造主義の思想家などからの批判、またハンナ・アーレントの「公共性」論との比較検討を通して、その評価は微妙に変わっていく。とはいえ、「公共性」の規範的理解を語るうえでは、今なお十分な説得力をもっていることは言うまでもない。ハーバーマスの「公共性」概念を参照しつつ、現時点で使用されている「公共性」という言葉の意味合いを齋藤純一氏の著作から紹介しておこう。
 一般に「公共性」という言葉が用いられる主要な意味は、次の三つに大別されると言う。第一に、国家に関係する公的な(official)ものという意味。第二に、特定の誰かにではなく、すべての人びとに関係する共通のもの(common)という意味。この意味での「公共性」は、共通の利益・財産、共通に妥当すべき規範、共通の関心事などを指す。第三に、誰に対しても開かれている(open)という意味。この意味での「公共性」は、誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報などを指す。
 齋藤氏はこの三つの主要な意味が、互いに抗争する関係にあるという点に注目する。たとえば、「公共事業」に対しては、その実質的な「公共性」(publicness)を批判的に問う試みが行われている。また、国家の活動が常に「公開性」(openness)を拒もうとする強い傾向をもつこと。とくに、「共通していること」と「閉ざされていないこと」はそもそも相反する傾向をもつ言葉であり、両者は衝突せざるをえないという。

ポリスと公共性

 「公共性」を問うに当たって、まず現代の都市で起こっている現実に眼を向けることから考察を始めてみたい。というのも、今述べた「公共性」の意味の抗争関係がまさしく都市で、今、実際に発生しているからである。一種の「公共性」のディレンマともいえる事態が起こっているのだ。
 都市とはその出自において公共世界であったというのが一般的な見方であろう。古代ギリシアのアテネでは、都市(ポリス)は国家を表し、公論を闘わせる場所であったという。ポリスとは、共に活動し共に語り合う場所という意味で、まさしく「公共性」の空間として存在した。ところが、近代都市はそうしたポリス的要素を捨て去り、むしろ積極的に私的領域を拡大していく。他方、それは管理・制御するための行政機構の充実化を促すことになる。人々が自由に欲望を満たすためには、多少のリスクは仕方がない。いや、むしろリスクを冒してでも自由を満喫したい。そのために、「公共」はその欲望を上手にコントロールする役割を担う。そして、都市はその方向で邁進し続けたのだ。結果、蕩尽と殺戮、過剰と破壊、熱狂と退廃が渦巻く渾沌の別称として都市は語られるようになった。都市は、「公共性」を喪失した非ポリス的空間に甘んじることをよしとしたのであった。
 しかし、その終焉は唐突にやってきた。二○○一年に起こった同時多発テロである。都市はこの事件をきっかけに、急速にリスク回避の方策を打ち出していく。私的領域を拡大させるだけが都市のコントロールではなく、逆にそれを抑え込むこと。成長を促進させ、開放させる方向ではなく、それを抑制し閉じる方向に一八○度舵を取り直す。都市は、いわば「リスクテイカー」からセキュリティの空間へと変貌していく。再び都市のポリス的要素に光が当てられるようになる。都市において、改めて「公共性」が課題として浮上してきたのだ。

不完全都市から過防備都市へ

 「二十一世紀は不安とともに始まった。国外ではテロや戦争が相次ぎ、国内でも情勢の不安が進む。テロへの恐怖、未成年の凶悪犯罪、ピッキング、そして痛ましい学校の襲撃。日本の犯罪は七年連続で戦後最悪の記録を更新し、二○○二年は二八五万件に達している。(…)安全神話は崩壊したかのようだ」。都市は、「増加する監視カメラ、自警団の結成、要塞化する学校、そして防犯性能のマンション」を次々に生みだし、やがてそうした「セキュリティが都市の空間を変えていく」という。
 中部大学工学部助教授で建築批評家の五十嵐太郎氏は、『過防備都市』(中公新書ラクレ)の冒頭でこう言って、今や日本も世界的な流れに同調してセキュリティ過剰に向かっていると指摘する。そして、「空間への意識が、監視、排除、防衛と結び付く。われわれは仮想の内戦状態に突入している。だが、セキュリティは、われわれを安心させるどころか、皮肉なことに、かえって不安を増幅させるのではないか」と危惧する。セキュリティ過剰が不安を増幅させる。不安の増幅は、セキュリティ過剰に拍車をかける。それはさらなる不安の増幅へつながり、不安の増幅は……、まさに事態はイタチごっこの様相を呈し始めている。かつて寛容さの象徴でもあったはずの都市は、反対にますます不寛容で閉じたものへと変わりつつあるのだ。今や町は悪意に満ちている。五十嵐氏が都市に対して下した結論である。
 神戸大学発達科学部教授・平山洋介氏は、一九九五年一月一七日阪神・淡路大震災を経験した。その復興に関わりながら、神戸とその前後に訪れた二つの都市で起こっていることとが、不思議に共通するところが多いことに気がついたという。それを一言で表現すると「競合する空間」が出現していることだというのだ。平山氏は著書『不完全都市 神戸・ニューヨーク・ベルリン』(学芸出版社)の冒頭で、次のように記している。
 「神戸は大地震に見舞われた。(…)ニューヨークは人口と資本を失い、苦境に陥っていた。グローバルに拡大する市場経済は衰弱した都市に再興の機会をもたらした。ベルリンはイデオロギーが引き裂いた異形の空間であった。再び合体した都市では多数の開発事業が進んだ」。「破壊と再建は交錯する。神戸の復興は過去の空間を再現せず、それとは異なる空間を生み出した。マンハッタンでは美麗なランドスケープが出現し、低家賃の住む場所が消失した。ベルリンの統一が招いたものは、どの記憶を救い出し、どの記憶を消し去るのか、という論点であった。何かを再建する作業は別の何かを破壊する。多くの都市が〈破壊/再建〉の錯綜を経験した」。
 神戸、ニューヨーク、ベルリン、この三つの都市は、出自も条件もおかれた状況も異なる。しかし、九○年代に大規模な破壊にさらされたという共通性をもつ。そして、三都市は奇しくも破壊からの再建・再生の過程で、ある場面では反駁し、ある場面では共闘する、対立と和合の「競合する空間」を形成しているという点でも共通しているというのである。
 誰が、誰のために、なんのために、何を再建するのか。こうした問題は、社会的、政治的な競合関係を誘い出し、摩擦の力学を駆動させる。その意味で、都市は常に「不完全」でしかありえない。「不完全都市」の中で、人々は競合し合う。それゆえ、都市は新たな可能性に向かって開かれていくのである。 
 さまざまな声が反響する空間、そうした多声に対して寛容であり続けることが都市というものの特性であると平山氏は言う。だが、「不完全」であることに終止符を打ち、あえて完全かつ純粋な空間を完成させようとする力の存在が、今、私たちの目の前に出現し始めている。寛容さを犠牲にしてまでも、都市に完全さを求めようとする力の存在に対して、平山氏はそうした振る舞いこそが都市を再び破壊することになると警鐘を鳴らす。
 「セキュリティ」や「再建」という言葉と共にその特性である寛容さを捨て去ろうとする。それは、誰に対しても開かれているという意味で「公共」の場であったはずの都市を自ら否定することではないだろうか。五十嵐太郎氏と平山洋介氏に、「公共性」を切り口に、「都市は誰のものか」というテーマで話し合っていただく。

社会的分配はいかにして可能か

 一人ひとりの存在はそれ自身が一つひとつの世界であり、ある他者が失われることは、自らとは異なった世界が失われることを意味する。他者の存在が失われることを惜しみ、それが可能な限り失われないようにすること。それを「私と別の存在がいることの快」と表現したのが、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・立岩真也氏である。対談では、「公共性」の意味の一つ「共通していることと」と「閉ざされていないこと」が一つの争点になるが、立岩氏にはこの問題を他者との関わりを軸に、「社会的分配はいかにして可能か」というテーマで展開していただく。
 立岩氏は、著書『自由の平等』(岩波書店)で、リベラリズムやリバタリアリズムの正義論を見きわめつつ、「自由」と「平等」という現代社会の中心的理念を再検討した。その手掛かりを、「働ける人が働き、必要な人がとる」という当たり前で単純な主張をいかにして言うことができるかというただ一点に見出し、徹底的に掘り下げた。そこから見えてきたことは、「私がつくったもの」を、「私のもの」と無理矢理に結び付けることはないという、きわめて当たり前の事実だった。「できる」と「もつ」、能力と分配をいったん切り離して考える。この考えを今日の「公共性」の議論に重ねてみると、そこに見えてくるものはやはり「公共性」の互いに抗争する関係である。別の言い方をすれば、「公共性」が「公共」それ自体の意味を剥奪する関係があるということだ。

「共同体」との違い

 先程、「公共性」の議論で、公共性とは明らかに異なる「国民共同体」論が台頭してきたと述べた。齋藤純一氏は、「公共性」という言葉をいたずらな混乱の中に陥れ、それを無意味なものにしてしまわないために、共同体との違いを明らかにしておく必要があると主張する。
 公共性と共同体は、ではどのように違うのか。共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間である。また、共同体は等質な価値に満たされた空間であるのに対して、公共性は、複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間である。さらには、共同体がなんらかのアイデンティティが制覇する空間であるのに対して、公共性は差異を条件とする言説の空間である。共同体のように一元的・排他的な帰属を求めないのである。
 齋藤氏は、現在提起されている「公共性」論には、閉鎖性と同質性を求め、排除と同化を強いる「共同体」の思潮が紛れ込んでいることに注意を促す。「公共性」を人々の間を超えた次元の「国民的なもの」として位置付けるこの思潮は、経済的なナショナリズムとも親和性をもつことで、一定程度の支持を得ている。しかし、繰り返すまでもなく、「共同体」は「公共性」とは全く相容れないものである。同化/排除の機制を不可欠とする「共同体」と違って、「公共性」は、価値の複数性を条件とし、共通の仕方で関心をいだく人々の〈間〉に生成する空間である。「公共性」の意味でいえば、誰に対しても開かれているということが何よりも重要なのだ。
 最後に、複数の価値、複数の意見の〈間〉に生まれる空間としての「公共性」、その可能性について齋藤純一氏にお聞きする。 (佐藤真)

 

 

editor's note[after]

「公共性」、価値の複数性が保証される空間

定義しにくい場所を消す

 近代都市計画の起源を平山洋介氏の発言に準じて一九世紀とする。ここで注目したいことは、その誕生には公衆衛生上の強い動機付けがあったとする点だ。当時ヨーロッパではペストなどの伝染病が大流行していた。その猛威から身を守るために、生活の場である都市をコントロール可能なものにする。近代都市計画の理念には、すでに衛生管理の考えとそれを実行に移すための方法論が組み込まれていた。今様の言い方をすれば、スラムクリアランス、ジェントリフィケーションの思想と手法は近代都市計画にとって当初から織り込み済みだったというわけだ。何も新しい概念ではなくて、それらは都市をプランニングするうえで重要な課題として意識されていた。そして注視しなければならないのは、後述するようにその対象となる者(ターゲット)が明確に想定されていたことである。
 五十嵐太郎氏の指摘する都市の「過防備化」は、最近顕著になった現象ではあるけれど、その思想そのものは近代都市計画の延長上にあるものである。リスクに対する過剰ともいえる対応、あるいは防犯・防災へのオブセッショナルな反応は、少なくとも近代都市と矛盾するものではないし、それどころかその理念を従順に履行している証しであるともいえるのだ。
 しかし、言うまでもなく都市とは近代都市だけを指すものではない。近代都市はむしろ都市という上位概念に含まれる一類型にすぎない。そこで改めて問われるのは、では都市とは何かということだ。
 「都市とは、歴史を見ると分かるように、コミュニティの権力と文化の最大の集中点である。それは生活のもろもろの発散光線が、社会的な影響と重要性の両者の利点をもって、焦点にあつまる場所なのである。(…)多様化され、こここそ人間の体験がいける表徴、象徴、行動のパターン、秩序の大系などに移し入れられるところなのだ」。都市論の古典『都市の文化』でルイス・マンフォードは都市をこう定義する。都市とは、要するに渾沌としての「生の体験」を「秩序」へと変換する装置であるというのである(遠藤薫「情報〈公共〉空間としての都市」)。
 都市は、人間の存在なくしては成立しない。人々が集い、暮らし、活動する場所が都市である限り、しばしばそれは渾沌へと向かう。人間のエネルギーは秩序だって一定の方向にだけ向かうとは限らないわけで、常にさまざまな方向へ拡散する可能性を秘めている。また、何が起こるかわからない、一種の予想不可能性を内在している。こうした渾沌(カオス)自体が都市にとっては必然であり、それはまた都市の魅力でもあった。このように都市とは渾沌と秩序(コスモス)の両面を合わせもつ。都市とは何かという問いを前にして、これまで繰り返し言われてきたのがこの都市の両義性についてであった。平山洋介氏の「不完全都市」とは、まさしく都市のこの両義的な性格を別の言葉で表現し直したものである。
 ところが、都市の前提条件ともいえるこの両義性、「不完全性」をよしとしない風潮が起こり、それは今日確実に肥大化傾向にある。都市の安全性、セキュリティが強調されるなかで、渾沌や予測不可能なものは明らかに負の要因と捉えられるようになってきたのだ。五十嵐太郎氏が言う「定義しにくい場所」とは、都市に偏在する渾沌や予想のできない空間(や事態)を具体的に名指したものである。つまり、そこがなんであるか、それがなんであるか判然としないからこそ刺激に満ちた空間や時間でありえたものが、単に「不完全なもの」「定義しえないもの」という観点から切り捨てられ、排除される。両義的で多元的であった空間は、一義的で一元的なものへと改変させられていくのである。

誰のための「公共性」か

 そうした一元化へ向かわせる要因の一つが、安全神話の崩壊という言説だ。「日本は犯罪の少ない安全な社会」であるという「安全神話」が、今まさに揺らぎ始めている。治安は悪化し防犯力が衰退し、確実に「安全・安心」ではない都市になりつつあるという。それは市民に恐怖や不安感を抱かせる。犯罪が増加し凶悪化し、日本は確実に治安が悪くなったとするこの認識が果たして正しいものかどうか、じつは議論の多いところで「そうではない」とする意見も少なくない。したがって、その事実考証についてはひとまずおく。ここで問題にしたいのは、そうした議論の際に「公共」や「公共性」という言葉がマジックワードのようにして使用されることだ。
 都市空間はまぎれもなく公共の空間である。それは平山氏も五十嵐氏も同意することであるが、「公共性」の理解のされ方、言葉の使用方法に偏りがあるのではないかとお二人は指摘する。とくに平山氏は、「都市とは、たくさんの人たちがいるところ」であるというのが都市の最大の条件であり、それこそが「公共性」ということの意味でもあると言う。ところが、今日言われる「公共性」は、最初から一つの価値観に集約されていて、公共性のもつもう一つの側面、「たくさんの人たち」=複数性という意味が捨象されている。複数性を維持する過程それ自体が「公共性」であるはずなのに、むしろ「合意形成」という言葉が象徴的に使われるように、複数の意見や考えを一本化、一元化することが「公共性」であるかのように捉えられている。
 さらに問題なのは、「公共性」がそうした意味で使用される場合、誰に対しても開かれているというのではなく、ある特定の層に有利に働くように使われてしまっているということだ。たとえば、「生活の質」を守るという言葉を旗印にして行われるジェントリフィケーションが、結局のところ排除と選別を合法的に行う隠れ蓑になっているという事実。「誰が誰のリスクを管理するのかということ、都市を開くと誰が困って、閉じることによって利益を得るのは誰か」(平山氏)ということをきちっと見きわめ、「マイナスも含めて、可能性がいっぱいあるからこそ魅力」(五十嵐氏)という両義的で不完全なものが「都市」本来の姿という視点から、都市の公共性を再考してみることが必要なのだろう。

「機会の平等」の限界

 「自分でつくったものは自分が取れるというのと、社会はより平等であった方がいいということを両立させるためには、人は同じだけ働けるという前提を置けばいいわけです。しかし、言うまでもなく、その前提が成立しなければ、二つは両立しません。しかし、この前提は成立しえません。人は同じになりませんし、また同じになるべきだとも言えません」。
 立岩真也氏は、平等主義は能力主義や業績主義とそもそも反りが合わないと主張する。近代社会においては、人はどんな立場や場面においても潜在的に同じだけの能力をもっているはすだと考える。現実に能力に差があったとしても、努力しだいでその差はいくらでもつめられるはずだ。できる人間はもっとできるようになるし、できない人間もやればとにかくできるようになる。汗水たらして働いた結果が自分の思っていた以下(の報酬)であった場合、それは自分の能力の問題というよりは社会が悪いと考える。だから、社会が改良され、是正されれば、やがてできる人間と同じように、自分もできるようになる。それが「機会の平等」の大原則である。しかし、立岩氏はそんなことはありえないだろうと言う。自分の働いた分を自分で取るという原理を残す限り、平等主義は貫徹できない。だからこの原理を崩して考える必要があるというのだ。そこで出された提案はきわめてわかりやすいものである。つまり、働ける人が働いて必要な人が取る。生産と取得の両者をいったん分離する。そして、一方で取得・所有の問題を考え、他方で、生産と労働のあり方を考えようというのである。
 立岩氏は、これまで著書の中で公共性という言葉をあえて使ってこなかった。それは、公共性という言葉があいまいなままに使用されてきたからだという。公共性を説明し分析する前に、その概念が成り立っている社会の、構成要素をまず考える。たとえば、取得・所有の問題で言えば、消費における分配、生産財における分配、労働における分配、それぞれを別々に考えるのではなくて一緒に考える。そして、最初から、筋道に沿って丁寧に掘り下げてみる。そういう社会の構成要素、部品の検討をきちんと行うことをしないで、公共性をいくら論じても議論が袋小路に陥るだけだというのだ。
 すべての人々に関係する共通のものという「common」の意味で公共性を捉えると、平等主義という考えと自然につながる。共通の利益・財産を私利・私権より優先させること。しかし、特定の利害に偏らないという利点はあるが、逆に権利の制限や「受忍」を強いることにもつながる。平等主義は公共性を基盤としているが、それはリベラリズムの本義と抵触する面も出てくるのだ。それは、公共性に問題があるのでも平等主義に問題があるのでもなくて、公共性の概念をつくりあげていく段階でまだ十分に吟味されていないからだろう。公共性という言葉が、「公共」という概念をかえってあいまい化させてしまわないためにも、その概念をさらに練り上げていく必要があるように思う。

反原理主義としての公共性

 立岩氏は、「他者がいることの快」という言い方で、複数性の重要さを指摘した。それは、「自分と違う他人がいるというのが自分にとっては気持ちがいいという」ところから生まれた当然の帰結であって、私たちにとっては「ごく普通の感覚」ではないかと言う。なぜそう思うのかといえば、私たち自身がすでに複数の欲望をもった人格だからだと言うのである。決して私たちは単一の欲望で動いているわけではなく、常にさまざまな欲望を発動させながら生きている。その中のどれが表に出るかはその時々の事情によって変化する。それは他者も同様だ。つまり、そうした複数の欲望が交錯する場所が私たちの生きる社会なのである。
 この議論は、そのまま齋藤純一氏が主張する「価値の複数性が保証される空間」としての公共性という話へ引き継がれていくものだ。インタビューの冒頭、斉藤氏はアーレントの議論を敷衍して次のように言う。公共性には、res publica=「公共の事柄」の他に、「それぞれが決して自分のものとしては所有しえない価値が互いに現われる空間」というもう一つの意味がある。アーレントは、「自分のものではないものが自分の前に現われるということが私たちの生にとって基本的なニーズである」として、「公共性」を思い描く時に、常に「複数性」ということを念頭に置いていたと言う。この「複数性」の考えこそ、アーレントの「公共性」論のユニークなところだ。そして、私たちは従来の硬直した「公共性」論を打ち破る新たな可能性をそこに見出すことができるのである。
 editor's note[before]で指摘したように、「公共性」を論ずる場面で、それは、「〈われわれ〉が共に追求する共通善で、それを実現していくこと」という意味で捉えられていることがほとんどである。さまざまな意見や複数ある価値は、「共通善」に向かって一元的に収斂していく。その時に生まれる共同体的な連帯感や同じ価値を追求するというそのことが「公共性」であると理解されていた。しかし、アーレントの考えは全く異なると言う。アーレントは、「自分とはパースペクティヴを異にする他者、自分とは共約不可能な価値を生きる他者」との交渉の中で、「自分がもっていた選好とか意見とかに対する修正が生じる」としたら、それこそが「公共性」の経験だと言うのである。他者と出会い、他者と交渉を続けることによって、自らも変わっていくこと。自らの価値観を他者に押し付けるのではなく、また他者から押し付けられるのでもなく、お互いの価値観が交錯するその「間」に形成される空間、それが「公共性」のもう一つの重要な側面なのである。だから、「変わるのは私たちではなくお前たちである」と考えるのが原理主義だとすれば、「公共性」とは、まさしく「反原理主義の思想」だと齋藤氏は言う。

統治の統治とつくられる「健康ニーズ」

 一見自由に見えるけれども、私たちをとりまく社会環境は急速に不寛容さの度合いを強めている。no.71号「匿名性と野蛮」でそのことを確認したが、今、改めて考え直してみなければならないことは、そうした「不寛容」さが「公共性」の名のもとに公然と社会の中に浸透し始めているということだ。もちろん、「公共性」がそのままダイレクトに「不寛容」さと結び付いているわけではないし、そうした「不寛容」の精神を告発し修正を加えていくのも「公共性」論の役割である。「公共性」の意味が「official」と「common」に偏ることで、もう一つの「open」という意味が希薄になり、その結果、本来その三つの意味を合わせもち「寛容」さへと開かれていたはずが、狭義の意味しかもちえなくなってきたのではないかということだ。近年の「公共的なもの=国家的なもの」という定式による「公共性」の意図的な読み替えや、「公共性」のあり方そのものの非対称性ということなどがその背景にあることは齋藤氏の指摘するとおりである。しかし、ここで強調しておきたいのは、「公共性」と社会の統治との関係だ。社会の統治の方法がここにきて大きく変化してきたというのである。齋藤氏はその例としてアンソニー・ギデンズの「福祉国家」から「社会的投資国家」への再構築という論を紹介しながら、社会保障の階層化と一部市民の賎民化が現実に進行していることを報告する。国家は、生存ギリギリのレベルだけに配慮し、そこから落ちこぼれる者はもはや「例外状態」として干渉しないという政策をとり始めているという。その際注視しなければならならないことは、統治の主体が国家でも共同体でもなく、本人自身に置かれているところだ。
 「統治の統治」という言葉で表現されるように、統治されるべき主体が自己統治の主体になる。責任はもっぱら自分自身にあるというわけだ。昨今の自己責任論などはまさにこうした文脈から出てきた議論だろう。「自己統治というのは、言い換えれば自己規律、自己の生存の秩序化」であるから「社会にとっては負担にならない」。そうやって、コストをかけずに秩序を形成・維持させるというのである。興味深いのは、健康への関心が高まっているが、これはまさにそうした自己統治の考えの徹底化として捉えることができるという指摘である。健康ニーズを掘り起こすことによって、生存の秩序化を自己責任でやってもらう。「健康管理を怠って病気になったとしたら、それはあなた自身の責任」であり、国も社会ももう面倒は見ないよ、というわけだ。「健康」とは自己統治の新たな戦略拠点なのである。
 自己統治を積極的に促すというこの新たな統治の方法は、当然「公共性」の議論にも影響を与えている。今日取り沙汰される「公共性」論は、今言ったように本来の意味とはだいぶ異なり、狭義の意味で理解されているように思われる。私たちは、改めて「official」、「common」、そして「open」という三つの相の重なりの中に「公共性」があるということを確認しておく必要があるだろう。  (佐藤真)


 
   editor's note[before]
 


◎公共圏/親密圏

公共性の法構造 神長勲他編 勁草書房 2004
公共性の哲学を学ぶ人のために 安彦一恵他編 世界思想社 2004
「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える 土井隆義 岩波ブックレット 2004
自由の平等 簡単で別な姿の世界 立岩真也 岩波書店 2004
政策形成の過程 民主主義と公共性 C・E・リンドブロム他 薮野祐三他訳 東京大学出版会 2004
[雑誌]唯物論研究年誌 9 親密圏のゆくえ 唯物論研究協会編 唯物論研究協会発行 青木書店発売 2004 
親密圏のポリティクス 齋藤純一編 ナカニシヤ出版 2003 
新しい公共性 そのフロンティア 後藤玲子他 有斐閣 2003
公共性のエートス 三宅雪嶺と在野精神の近代 長妻三佐雄 世界思想社 2002
ボランティアと市民社会 公共性は市民が紡ぎ出す 立木茂雄ほか編著 晃洋書房 2001
公共性 齋藤純一 岩波書店 2002
エイジングと公共性 渋谷望他編著 コロナ社 2002
[雑誌]思想6月号 特集・公共圏/親密圏 岩波書店 2001
弱くある自由へ 自己決定・介護・生活の技術 立岩真也 青土社 2000
他者への自由 公共性の哲学としてのリベラリズム 井上達夫 創文社 1999
私的所有論 立岩真也 勁草書房 1997
規制破壊 公共性の幻想を斬る  中条潮 東洋経済新報社 1995
公共性の喪失 R・セネット 北山克彦他訳 晶文社 1991
公共性の政治経済学 宮本憲一編著 自治体研究社 1989
現代社会と共同社会形成 公共性と共同性の社会学 山本英治編 垣内出版 1982

◎公共哲学

公共哲学の古典と将来 宮本久雄他編 東京大学出版会 2005
公共哲学 1〜15 東京大学出版会 〜2004
公共政策の基礎 I・M・D・リトル 松本保美訳 木鐸社 2004
公共哲学とは何か 山脇直司 ちくま新書 2004
市民社会と市場のはざま 公共理念の再生に向けて 中谷猛他 晃洋社 2004
公共空間とデモクラシー 星野智編著 中央大学出版部 2004
政治哲学へ 宇野重規 東京大学出版会 2004
宗教と公共哲学 生活世界のスピリチュアリティ 稲垣久和 東京大学出版会 2004
地球的平和の公共哲学 「反テロ」世界戦争に抗して 公共哲学ネットワーク編 東京大学出版会 2003
公共の哲学 片岡寛光 河出書房新社 2002
公共政策の倫理学 河宮信郎他著 丸善 2002
公共圏の社会学  デジタル・ネットワーキングによる公共圏構築へ向けて  玉川剛史 法律文化社 2001
公共政策のすすめ 現代的公共性とは何か 宮本憲一 有斐閣 1998
永遠平和のために カント 宇都宮芳明訳 岩波文庫 1985
啓蒙とは何か カント 篠田英雄訳 岩波文庫 1974
判断力批判 カント 篠田英雄訳 岩波文庫 1964 

◎都市、セキュリティ、監視

安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学 河合幹雄 岩波書店 2004
過防備都市 五十嵐太郎 中公新書クラレ 2004
外国人包囲網 「治安悪化」のスケープゴート 外国人差別ウォッチ・ネットワーク編 現代人社発行 大学図書発売 2004
監視と密告のアメリカ J・レッデン 田中宇監訳 成甲書房 2004
監視カメラ社会 もうプライバシーは存在しない 江下雅之 講談社+α新書 2004
不完全都市 神戸・ニューヨーク・ベルリン 平山洋介 学芸出版社 2003
戦争と建築 五十嵐太郎 晶文社 2003
路上に自由を  監視カメラ徹底批判 小倉利丸編著 インパクト出版会 2003
住基ネットと監視社会 田島泰彦ほか編著 日本評論社 2003
プライベートピア 集合住宅による私的政府の誕生 E・マッケンジー 竹井隆人他訳 世界思想社 2003
小泉改革と監視社会 斎藤貴男 岩波ブックレット 2002
監視社会 D・ライアン 河村一郎訳 青土社 2002
終わりの建築/始まりの建築 ポスト・ラディカリズムの建築と言説 五十嵐太郎 INAX出版 2001
要塞都市LA M・デイヴィス 村山敏勝他訳 青土社 2001 
監視社会とプライバシー 小倉利丸編著 インパクト出版会 2001
ホームレス/現代社会/福祉国家 「生きていく場所」をめぐって 岩田正美 明石書店 2000 
警察監視国家と市民生活  組織犯罪対策法をぶっつぶせ!!  足立昌勝ほか 白順社 1999
監視ゲーム プライヴァシーの終焉 W・ボガード 田畑暁生訳 アスペクト 1998
電子検問システムを暴く 浜島望 技術と人間 1998

◎アーレント、ハーバーマス

アーレント=ヤスパース往復書簡 1〜3  H・アーレント、K・ヤスパース L.ケーラー他編 大島かおり訳 みすず書房 2004
政治とは何か H・アーレント 佐藤和夫訳 岩波書店 2003
アーレント=ハイデガー往復書簡 H・アーレント、M・ハイデガー W.ルッツ編 大島かおり他訳 みすず書房 2002
アーレント政治思想集成 1.2 H・アーレント J.コーン編 斎藤純一他訳 みすず書房 2002
カール・マルクスと西欧政治思想の伝統  H・アーレント 佐藤和夫訳 大月書店 2002
アウグスティヌスの愛の概念 H・アーレント 千葉真訳 みすず書房 2002
暗い時代の人間性について H・アーレント 仲正昌樹訳 情況出版 2002
ハンナ・アーレントを読む 情況出版編集部編 H・アーレント他 情況出版 2001
暴力について  H・アーレント 千葉真訳 みすず書房 2000
ラーエル・ファルンハーゲン ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記 H・アーレント 大島かおり訳 みすず書房 1999
アーレント=マッカーシー往復書簡 知的生活のスカウトたち H・アーレント、M・マッカーシー C・ブライトン編 佐藤佐智子訳 法政大学出版局 1999
アレント 公共性の復権 川崎修 講談社 1998
アーレントと現代 自由の政治とその展望 千葉眞 岩波書店 1996 
暗い時代の人々 H・アーレント 阿部斉訳 河出書房新社 1995
革命について H・アーレント 志水速雄訳 ちくま学芸文庫 1995
人間の条件  H・アーレント 志水速雄訳 ちくま学芸文庫 1994
過去と未来の間 政治思想への8試論 H・アーレント 引田隆也他訳 みすず書房 1994
イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告  H・アーレント 大久保和郎訳 みすず書房 1994
精神の生活 上下 H・アーレント 佐藤和夫訳 岩波書店 1994
パーリアとしてのユダヤ人 H・アーレント 寺島俊穂他訳 未来社 1989
カント政治哲学の講義 H・アーレント R・ベイナー編 伊藤宏一他訳 法政大学出版局 1987 
全体主義の起原 1〜3 H・アーレント みすず書房 1981
人間の将来とバイオエシックス J・ハーバーマス 三島憲一訳 法政大学出版局 2004
他者の受容 多文化社会の政治理論に関する研究 J・ハーバーマス 高野昌行訳 法政大学出版局 2004
事実性と妥当性 上下 法と民主的法治国家の討議・理論にかんする研究 J・ハーバーマス 河上倫逸他訳 未来社 2003
道徳意識とコミュニケーション行為 J・ハーバーマス 三島憲一他訳 岩波書店 2000
史的唯物論の再構成 J・ハーバーマス 清水多吉他訳 法政大学出版局 2000
イデオロギーとしての技術と科学 J・ハーバーマス 長谷川宏訳 平凡社ライブリー 2000
近代 未完のプロジェクト J・ハーバーマス 三島憲一他訳 岩波現代文庫 2000
ハーバマスと公共圏 C・キャルホーン編 山本啓他訳 未来社 1999
理論と実践 社会哲学論集 J・ハーバーマス 細谷貞雄訳 未来社 1999
近代の哲学的ディスクルス 1.2  J・ハーバーマス 三島憲一他訳 岩波書店 1999
法と正義のディスクルス J・ハーバーマス 河上倫逸他訳 未来社 1999
過ぎ去ろうとしない過去 ナチズムとドイツ歴史家論争 J・ハーバーマス 徳永恂訳 人文書院 1995 
新たなる不透明性  J・ハーバーマス 上村隆広他訳 松藾社 1995
公共性の構造転換 市民社会の一カテゴリーについての探究 J・ハーバーマス 細谷貞雄他訳 未来社 1994
遅ればせの革命 J・ハーバーマス 三島憲一他訳 岩波書店 1992
未来としての過去 J・ハーバーマス 河上倫逸他訳 未来社 1992
社会科学の論理によせて J・ハーバーマス 清水多吉他訳 国文社 1991
意識論から言語論へ 社会学の言語論的基礎に関する講義(1970/1971) J・ハーバーマス 森元孝他訳 マルジュ社 1990
ポスト形而上学の思想 J・ハーバーマス 藤沢賢一郎他訳 未来社 1990
ハーバマスと現代 藤原保信他編 新評論 1987
批判理論と社会システム理論 ハーバーマス=ルーマン論争 上下 J・ハーバーマス、N.ルーマン 佐藤嘉一他訳 木鐸社 1987
コミュニケイション的行為の理論 上中下 J・ハーバーマス 藤沢賢一郎他訳 未来社 1986
哲学的・政治的プロフィール 上下 J・ハーバーマス 小牧治他訳 未来社 1986

◎福祉の政治学

福祉の公共哲学 塩野谷祐一他編 東京大学出版会 2004
福祉国家の一般理論 福祉哲学論考  P・スピッカー 阿部実他訳 勁草書房 2004
福祉国家と社会権 デンマークの経験から 竹内真澄 晃洋書房 2004
講座・福祉国家のゆくえ 1〜5 ミネルヴァ書房 〜2004
生命の政治学 福祉国家・エコロジー・生命倫理 広井良典 岩波書店 2003
経済と倫理 福祉国家の哲学  塩野谷祐一 東京大学出版会 2002
市場原理と弱肉強食の福祉への道 「構造改革」は日本の福祉をどこに導くか 浅井春夫 あけび書房 2002
福祉国家の変貌 グローバル化と分権化のなかで 小笠原浩一他編 東信堂 2002
福祉国家システムの構造変化 日米における再編と国際的枠組み 渋谷博史他編 東京大学出版会 2001
福祉国家の可能性 改革の戦略と理論的基礎 G.E‐アンデルセン 渡辺雅男他訳 桜井書店 2001
福祉国家の闘い スウェーデンからの教訓  武田龍夫 中公新書 2001
福祉国家への視座 揺らぎから再構築へ 大山博編著 ミネルヴァ書房 2000