Yoshiyuki Koizumi
談 no.70 WEB版
 
特集:自由と暴走
 
表紙:O JUN 本文ポートレイト撮影: 鈴木理策、坂本正十賜
   
 


(対談) 大澤真幸×廣中直行

「人間的」自由と「動物的」自由

大澤真幸 Masachi Ohsawa
動物としての人間に回収しきれない余剰のようなものがあって、それが人間を人間たらしめているものだと考えられてきたわけです。 ところが、その余剰の部分、プラスアルファの部分が総崩れになってしまった。現代社会で起こっていることは、人間の定義そのものが揺らぎ始めているということなんです。今、改めて人間とは何かを問う必要がある。これは僕たちにとって思想的な課題であり、政治的な課題であり、自然科学的な課題でもあります。
おおさわ・まさち
1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程終了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授。比較社会学、社会システム論専攻。著書に、『自由を考える』(東浩紀との共著)2003、『文明の内なる衝突』2002、いずれもNHKブックス、『戦後の思想空間』1998、『虚構の時代の果て』1996、いずれもちくま新書、『身体の比較社会学』1、2、勁草書房 〜1992、ほかがある。 
 

廣中直行 Naoyuki Hironaka
脳が心の司令塔であり、その中でも自我のやどる高等な中枢が人間の存在全部を規定する最高機関だというような考えは今はそう強くありません。いろいろなシステムがバラバラに動いていると考える方が強くなっているようです。一見てんでバラバラに見えても、なんとなくゆるくまとまっている、そういう人格のイメージ、人間のイメージがつくれないかなと思っているんですよ
ひろなか・なおゆき
1956年山口県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程終了。現在、専修大学文学部心理学科教授。神経精神薬理学専攻。医学博士。著書に、『快楽の脳科学』NHKブックス、2003、『やめたくてもやめられない脳』ちくま新書、2003、『人はなぜハマるのか』岩波科学ライブラリー、2001、ほかがある。

 


リベラリズムからリバタリアニズムへ


森村進  Susumu Morimura
リバタリアンは、個人の自由というものを絶対的なものであると考えていて、非常に強い理由がなければ、それを制約することは許さない。同様に、経済的活動も個々人にとっては、 宗教的活動や学問や表現行為とまったく同じ程度に、あるいは人によってはより以上に重要なものと考えています。一方、政府が果たすべき役割は、非常に限定されます。法秩序の維持、警察、最小限の福祉、国防ぐらい。 産業政策、経済政策、あるいは社会保障の中でも最低限の福祉以上の年金なんていうのは不必要で、 むしろ有害であるとすら考えています。
もりむら・すすむ
1955年東京都生まれ。東京大学法学部卒業。現在、一橋大学大学院法学研究科教授。 著書に、『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』講談社現代新書、2001、『財産権の理論』弘文堂、1995、『権利と人格』創文社、1989、ほかがある。
 

自由主義の課題……個人と公共政策をリンクさせる

稲葉振一郎 Shin-ichiro Inaba
不況になった時は、競争を一時的に取りやめて、談合も認めざるをえないのか。 そういう決断が必要なんじゃないかということなんです。公共政策という課題は、じつはそういう判断と直結した問題だろうと思う。そういう判断を行えるようなところをたとえばどこに確保するのか。どのくらい確保するのか。自由な市場経済の原則を維持するという意味は、まさにそういうことなんじゃないか。そういうような市場経済のコントロールを、政策当局ができるようにすること。それが、市場経済における公共性であり、それこそがリベラリズムじゃないかと思うんです。
いなば・しんいちろう
1963年東京生まれ。東京大学大学院経済学研究科単位取得退学。岡山大学経済学部助教授、オーストラリア・モナシュ大学日本研究センター客員教授を経て、現在、明治学院大学社会学部助教授。社会倫理学専攻。著書に、『経済学という教養』東洋経済新報社、2004、『リベラリズムの存在証明』紀伊國屋書店、1999、『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』窓社、1996、ほかがある。

 



虚構としての〈自由な主体〉……人間性の限界


仲正昌樹  Masaki Nakamasa
「主体性」というのはあらかじめあるものではなくて、何かをやっていくうちに状況が変わり、 その中から新しいルールを発見していくうちに、事後的に見出されてくるものだと思う。 言い換えれば、相互行為の中で形成されてくるようなルールの中から見出していくもの。「人間性が豊かだ」というのは、じつは、そういうルールを見つけ出すテクニックが豊かだということなんじゃないかと思うんです。
なかまさ・まさき
1963年広島県生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在、金沢大学法学部助教授。学術博士。著書に、『「不自由」論-----「何でも自己決定」の限界』筑摩新書、2003、『ポストモダンの「左」旋回』2002、『貨幣空間』2000、以上、情況出版、『法の共同体』2002、『モデルネの葛藤』2001、以上、御茶の水書房、ほかがある。

 

editor's note[before]


私たちは本当に「自由」なのだろうか

「自由」を確かめる

  私たちは、「自由」という言葉を普段なんのためらいもなく使用している。「自由」という言葉の使用方法を詳細に検証するなどということはしないだろう。それほど「自由」は、ごくありふれた言葉であり、特段問題にならない概念である。しかし、改めて考えてみると、「自由」という言葉の守備範囲はかなり広いことがわかる。たとえば、表現の自由、思想の自由、宗教の自由ということを私たちは主張する。他方、自由経済、自由市場という言葉を使ったり、フリーライターとかフィギュアスケートの「フリー演技」という使い方もある。文脈はそれぞれ異なっているが、これらはすべて私たちが、なんらかの強制や規則に縛られていないという意味で使っている例としては同じである。
 しかし、社会や権力や伝統による強制や規則から逃れるというばかりが「自由」という意味ではない。「〈自由意志にもとづく安楽死の選択〉とか、〈子供を産むか産まないかを決定する自由〉、あるいは〈芸術創造における自由な精神の発露〉などという時の自由には、外からの強制が存在しないという側面よりも」、自分自身で自分の在り方を選択する、あるいは自ら責任を引き受けるといった側面が強く表れている(伊藤邦武「自由」〈『哲学の木』所収〉)。つまり、強制、規則から逃れるのではなくて、自分で考え、自分で決定し、自分で行為する意味をもつのである。政治哲学者であるアイザイア・バーリンは、前者を「〜からの自由」という意味で「消極的自由」と言い、後者は「〜への自由」という意味で「積極的自由」と名付け、両者を明確に区別した(『自由論』みすず書房)。
 私たちが、普段何気なく使用している「自由」という言葉には、じつはこの両者が混然一体となっている場合が少なくないのだ。強制の不在という意味で使ったつもりが、いつのまにか自己決定という意味になっていたり、その逆の場合があったり、厳密に使い分けられているわけではない。
 昨今、「それは、自由のはきちがいだぞ」、「自由の濫用だ」という批判をよく耳にする。そう諭されると「そうだ、何ごとにも規範が必要だ」などと急に襟を正さなければと思ったりするのだが、よくよく考えてみると、これは今言った前者の側面と後者の側面が入り交じって使われていることから起こる混乱ともいえる。「自由」という意味のあいまいさが、その原因の一つになっているのである。たとえば、「モラルに訴えても埒が明かないから、ルールを定めて厳しく規制しよう」ということが、今、さまざまな場面で起こっている。その度に議論や論争が起こる。議論や論争をすることが無駄だというのではないが、そもそも「〈自由〉という概念そのものがそれほど一貫した、単一の内容をもった概念であるとはいえない」(前出)とすれば、モラルかルールかという二者択一の議論も、検討を要するだろう。今一度「自由」という言葉の意味を、しっかりと考えてみる必要があるのではないかと思うのである。
 今号は、この「自由」という言葉を掘り下げてみることにする。

「自由」の背理

 次の文章を読んでいただきたい。
 「(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ」。
 大澤真幸氏の「〈自由〉の条件」(『群像』所収)から引いたものだが、大澤氏によれば、私たちは規範的な制限を少しずつ取り除いていって、許容されうる行為や体験の領域を著しく拡大させてきたという。その結果、「自由の未曾有の繁栄」を手に入れることができた。なるほど、現代社会とは「自由」を謳歌している社会である。ところが、そう述べたすぐ後で次のように言うのである。
 「だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる」。
 一方では、行為に対する許容度は著しく高まっているのに、他方では、同じ領域に属する行為に対する規制が急速に増大しているというのである。つまり、こういうことだ。一方ではすべてのことが許されているかのように見えるけれども、他方では、これまで疑うことすらなかったような当然の行為、すなわち「私的領域」に属する行為が規制の対象になり始めた。行為に対する規制緩和と規制の締めつけが、同じ領域内で同時に起こっているというのである。
 規範をめぐって相反する二つのベクトルが重なり合うのである。大澤氏の言葉を借りれば、「極限において一致してしまう」。現代社会においては、「自由」の繁栄がそのまま「自由」を生きることの難しさへと直結してしまうのである。こうした「自由」が置かれている状況を、大澤氏は「自由の困難」と呼ぶ。
 大澤真幸氏は、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授である。『談』では、すでに数回登場していただいた。大澤氏は、近年「自由」について精力的に研究をされていて、とくにここで述べられているように、「自由の困難」、「自由」の孕む背理について言及されている。
 私たちは、現代社会における「自由」の現れ方の一つとして、「自由の困難」に注目してみたい。
 かつてエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元新社)の中で、消極的自由を手に入れると、自由を堪えがたい重荷と考えるようになり、かえって権力への服従を求めるようになると警告した。今、同質の事態がより深刻さを増して現出しているように思われる。私たちは、なんの不自由もなく、一見「自由」を満喫しているかのように生活をしている。にもかかわらず、こころの底から解放感を感じることがない。むしろ、多くの人たちは閉塞感すら抱いているのではなかろうか。大澤氏の考えに従えば、それはどうやら「自由」という概念そのものが、ある種の背理をもっているからであり、「自由」が深刻な困難を抱えているからだという。この困難とは何か、なぜ現代において顕著になってきたのだろうか。さしあたって、私たちはこの「自由」の背理を議論の俎上に載せてみたいと思う。

暴走する脳

 『談』no.66号でインタビューをさせていただいた廣中直行氏は、昨年、『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか』(NHKブックス)と『やめたくてもやめられない脳 依存症の行動と心理』(ちくま新書)の二冊をほぼ同時期に上梓された。前者は、快楽という感情がなぜ起こるのかを、また後者は、ヒトがハマってしまうのはなぜかを、解き明かすという内容であった。クスリやゲームやセックスに耽溺し、あるいは賭事や買い物やケータイにハマってしまうのはなぜか。脳内メカニズムにその答えが隠されていた。やめたくてもやめられなくなり、どうにも止まらなくなってしまうのは、ほかならぬ脳それ自体に原因があるというのだ。しかも、興味深いことに、脳が低次脳と高次脳の二つから成り立っていることから起こる、これは一種の「脳の暴走」なのだという。脳の暴走? 私たちは、これまで暴走を制御しコントロールする役目を担っているのが脳だと思い込んでいた。ところが、制御機能をもっているはずの脳自体が、自ら暴走してしまうということがあるというのである。
 これまで脳の機能という場合、高次脳にばかり関心がもたれていた。ここでいう高次脳とは、主に新皮質のことを指す。ものごとを学んだり、言語を使ったり、論理を組み立てたりといった、いわゆる「精神的」機能を担う部分である。生物の中で唯一人間だけがこの部分を発達させることができたため、最も「人間らしい脳」と見なされている部分だ。
 だが、いうまでもなく脳は新皮質だけでできているわけではない。というよりも、新皮質は脳の機能の中でも最も新しくできた部分である。生物としての原始的な脳が中心部にまずあって、それを新皮質が被う構造になっている。その原始的な脳が低次脳である。脳幹から大脳辺縁系までを低次脳に含める。驚いたり、食べたり飲んだりとか、子孫をつくるとか、あるいは、好き嫌いを判断したりするのが低次脳の役割だ。いわゆる「動物的」機能を担っている部分である。脳は通常この二つの機能が組み合わさって働いているのである。たとえば、感覚や運動は、高次脳と低次脳の両方を使っていることがわかっている。
 高次脳の制御力が弱まると低次脳の活動が表に出てくるという。つまり、「精神的」機能=理性によって抑え込まれていた「動物的」機能が、時に前面に現れてくることがあるという。そのいい例が飲酒して起こることだ。おおざっぱに言うと、アルコールの作用で、大脳皮質の働きが抑制される。そのため、逆に低次脳の機能が活発に働くことができるようになり、その結果陽気になったり多弁になったりするのである。アルコールの麻酔作用が、低次脳を働きやすくするわけだ。これを低次脳の暴走と捉えることができるというのである。
 しかし、この逆もある。生物としての土台をつくる低次脳の任務は生存である。生きて子孫を残すための機能を司るのが低次脳である。ところが、高次脳の調整機能に狂いが生じると、低次脳の働きを脅かすことが起こる。たとえば、自殺はその代表であろう。生きたい(生存)という努力をする低次脳の働きを、高次脳が抑え込んでしまう。これは、高次脳の暴走と考えられる。廣中氏は、大脳皮質が異様に膨れ上がり、宗教や政治、哲学といった余剰産物をつくり出してしまったのは、すべて高次脳の暴走の結果ではないかという。
 じつは、「快楽」についても、ここでいう高次脳、低次脳の働きが深く入り込んでいることがわかってきた。私たちは「理知的な動物であるが、豊かな喜怒哀楽をもち、たえず気持ちのゆらぎを感じながら生きている動物」である。こういう快の感情=快楽がどこから生まれてくるのかというと、まさに高次脳、低次脳の働きが作用しているのである。時にそれは、暴走を許すことにもなり、快は一転して不快に変わることがある。高次脳/低次脳が混然一体となっていることにより、快が生まれたり不快が生まれたりするわけだ。
 もちろん、繰り返すまでもなく脳の働きはどれをとっても低次脳だけ、高次脳だけで完結しているわけではない。廣中氏も本の中で注意を促しているように、この分類は脳の活動を整理するために持ち出された概念である。分けて見ることで、「快楽」などの「こころ」の機能がはっきりしてくる。そこにこの分類の意義があるのだ。
 そこで、こうした最新の脳科学の知見を「自由」の問題群とすり合わせてみることにする。自由を謳歌することと、「快」を感じることは深い関係がある。そうだとすれば、大澤氏が「自由の困難」と呼ぶ事態の発生の要因は、こうした脳の暴走とかかわっているのではないかという仮説が成り立つ。人間の「動物化」という問題ともこの議論は当然重なってくるはずである。ここでは、大澤氏と廣中氏にこの仮説をもとに討論していただく。

リバタリアニズムは何を問題にするのか

 生物学者である池田清彦氏によれば、「人が生きることは、欲望を解放すること」だという(『正しく生きるとはどういうことか』新潮OH!文庫)。つまり、欲望が満たされた時に、人は生きている喜びを感じることができる。私たちが「自由」を求めるのは、まさにこの喜びを感じたいからであろう。「自由」とは、言い換えれば、欲望を解放することでもある。しかし、人々の欲望はさまざまで、時には欲望を解放するために手段を選ばなくなる恐れがある。たとえば、犯罪を犯すとか、場合によっては人殺しをすることもある。そこで、欲望を調停するための道具をつくり出した。道徳や倫理や法律がそれだ。道徳や倫理は、必然的に社会の構成員たる個々人に求められるものだが、法律は個々人の集合である共同体が定めるものである。平たく言えば、前者はマナーに類するものであり、後者はルールにあたる。
 私たちの多くは、国家内で暮らしている。通常「国家」とは、領土、国民、統治権(主権)という三つの要素からなる。ところで、国家は必要悪とする考えがある。国家は必然的に強大な権力を独占し、その領土内の人々の自由を制限するからである。それでも「国家」が必要なのは、「国家」は個人の自由な活動を保護し実現するために必要な制度であるからだ。「国家」あるいは個々人にとって、最も大きな力をもつのが法律である。個々人の利益(権利)が正当な形で保証されるために、法律=ルールは制定されるが、「国家」もまたこのルールの下にあるという関係になっている。しかし、そうは言っても「国家」は肥大化する恐れをもっている。個々人の利益(権利)を最優先するためには、「国家」が果たすべき機能は最小に抑えなければならない。そこで、昨今政治思想、社会哲学の世界で注目されるようになってきたのがリバタリアニズムである。
 日本語では「自由至上主義」あるいは「自由放任主義」とも訳されるが、旧来の自由主義、リベラリズムとの違いを明確化するために、今はリバタリアニズムとそのまま表記されることが多いようだ。
 先に紹介した池田清彦氏はリバタリアンを自認する一人であるが、一橋大学大学院法学研究科教授・森村進氏は、リバタリアニズムをコスモポリタンな自由主義的帝国と位置づけて、リバタリアンの考えるユニークな「国家」観を紹介している。それは、「いかなる政治的決定も個人の基本的秩序を侵害できない(…)自由主義的法秩序の維持と最小限の公共財と社会保障の提供という中立的な任務以外になんら独自の目的を持たない」、また民族の歴史とも結び付かないような「国家」だという(『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』講談社現代新書)。簡単に言えば、個人の自由と経済的な自由を至上とし、国家など権力を極力排除する立場だといえるだろう。リバタリアニズムを押し進めると、裁判の民営化、課税の最小限化、さらには、法から自由な婚姻制度の確立なども主張できるというのである。
 この一見極端にも聞こえる新たな自由の空間について、リバタリアニズムの考えを手掛かりに主に「国家」との関係から考察する。お尋ねするのは森村進氏である。

すべての個人の自由は両立しうるか

 個々人の自由を最大限に確保するために、国家の機能を最小限にする。だが、そもそも個々人の自由とはいかなるものか。個々人の自由をなぜ最優先しなければならないのだろうか。今一度私たちは、個人の自由の必然性について考えてみる必要があるのではないか。それは、「自由」が成り立つ基盤を問い直すことであり、リベラリズムという思想への問い掛けでもある。
 「各人は自分の欲求、意図を実現すべく行為すると想定されるが、その途上でさまざまな障害、制約にぶつかることがある。そのような障害、制約の中にはほかの個人たちの存在、それら個人たちのめいめいの欲求、意図の実現に向けての行為もまた含まれる。そして、逆に当の個人の存在、その欲求、意図の実現を目指す行為もまた、他の個人たちの欲求に、意図の実現にとって障害、制約となることがある。つまり、すべての個人の自由が同時に両立する保証はない」。
 明治学院大学社会学部助教授・稲葉振一郎氏はこう述べた後で、リベラリズムを次のように定義する。
 「自由主義(liberalism)とは、すべての個人の自由ができる限りかつ平等に両立することを、つまり、それを可能にするような道徳を各個人に示し、それを支える制度を構築することを目指す思想である。しかしこの〈すべての個人の自由のできる限りの両立〉を具体的にどのように解釈するか、そもそも個人の〈自由〉をどう解釈するか、によって幾通りもの〈自由主義〉がありうるし現にある」と。
 稲葉振一郎氏は、著書『リベラリズムの存在証明』で、リベラリズムとは、最も簡単に言いうるとすればそれは魂の擁護ではないかという。それも、一人のではない、他者のも含めたものとして――。
 「個人を、それが単に唯一無二の存在であるからではなく、魂を備えた存在であるからこそ、その尊厳を第一義的に優先する立場として、私はリベラルな立場を理解している。(…)他の魂こそ、それを備えたものこそが〈他者〉なのであり、ハンナ・アーレントの表現を借りれば、互いに根底的に違うという一点においてのみ同種のものである魂たちの尊厳をそれとして支持する限りにおいて、私はリベラルな立場にコミットするのである」。
 「自由」とは、この場合他者と共にある、他者と共在する存在の在り方、それ自体なのである。それが「魂」という言葉に託された意味ではないか。
 そうした他者の魂の擁護という視点を視野に入れた時に、「最小福祉国家」の構想が生まれる。稲葉振一郎氏にズバリ、リベラリズムの存在理由を解き明かしていただく。

「人間は自由だ」は虚構?

 私たちは、「自由」を考える時に、なんの疑いもなく「自由な主体」という言葉を口にしてしまうことがある。「自由」と感じるのはほかならぬ自分自身であると。だが、「自由な主体」、自由な自分とはそもそもどういうものを言うのか。案外そのことをきちっと考えてみたことがなかったのではないか。
 「我々が、通常、〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉などといっているのは、文字通りの意味で、純粋に〈他者〉から自由になっている状態ではなく、〈状態Aは状態Bよりも、他者Pの影響から自由である〉というかなり限定的なものでしかない。従って、何を基準とする〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉なのか、はっきりと文脈を限定しなければ、意味をなさないはずである」(『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界』ちくま新書)。
 たとえば、金沢大学法学部助教授・仲正昌樹氏はこう切り出して、次のように結論づける。
「〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉など、人間の〈自由〉に関わる〈基本的〉な概念は、各人のうちに〈自然=自発的に〉生じてくるという西欧近代を支えてきた〈神話〉に内在する矛盾である。〈主体〉という概念自体が、ヨーロッパ近代が生みだしたものではなかったか。〈自由〉を考えることは、すなわち近代社会がつくり出した主体を問い直すことにつながる」と。
 仲正氏によれば、"自由な主体性"を、すべての人間に普遍的に備わっている共通項であるかのように考え、そうした「自由な主体間の普遍的な合意」によって成り立っているのが市民社会と信じられてきたが、じつはそれはフィクションであるということが露呈されつつあるという。それが、「ポスト・モダン」状況だというのである。
 「ポスト・モダン」状況――。大澤真幸氏が「自由の困難」ということを問題にするのも、現代社会が否応なくポスト・モダンと呼ぶような新たな段階を迎えているからにほかならない。私たちは改めて、こうしたポスト・モダンという位相の中で、「自由」を見据えてみる必要がありそうだ。「自由」を議論する前提として、無自覚に口に出してしまう「主体性」。それがどういうものか、本当にそれはフィクションなのだろうか。そうであるとしたら、そもそも「自由」という概念機序それ自体を建て直さなければならなくなる。インタビューの最後に、仲正昌樹氏にこの問題をぶつけてみたいと思う。 (佐藤真)



 

editor's note[after]


「自由」を動物の水準から捉え直す

科学と自由の関係

 科学って「自由」が嫌いだったんだ!? 対談の冒頭、廣中直行氏の口から次のような言葉が飛び出してきた時には、思わずそう叫びそうになった。そのくらい、この発言には驚いた。
「予測ができない事態がある時、科学ではそれを〈自由〉と捉えてきたと思います。科学の立場では、〈自由〉を一種の〈誤差〉と考えてきたんです」。
 いささか極端な言い回しではある。だが、とにかく、自然科学にとっては「自由」という問題はさほど重要ではなかったのである。それどころか、むしろ「自由」度をいかに小さくできるかに腐心してきた。それが自然科学の実態だというのである。
 自然科学が求めてきたものは、常に決定論的な解であって、それは今もまったく変わらない。複雑系やカオスの登場も決定論的世界観を覆すものではなかった。前号の池内了氏のインタビューが思い起こされる。科学の世界で「自由」が嫌われるのは、ラプラスの悪魔がいまだにしぶとく生き続けている証左なのかもしれない。
 決定論が主役の自然科学は、二○世紀後半、生命や脳をその対象領域にし始めた。物理学を指導原理として発展してきた科学が、いよいよ生物の世界から、さらには脳の世界へとその触手を伸ばしてきたのである。生物の世界は、これまで物理的な決定論的な見方では扱いにくいものと考えられてきた。とくに脳の場合、それが「こころ」の領域と重なっているために、なおさら自然科学はなじまないものと思われてきた。しかし、神経伝達機構、情報伝達物質の解明が進み、脳の情報処理機能が把握できるようになってくると、「こころ」の機能も科学によって明らかにできると考えるようになってきた。その結果、現在ではニューロンの発火と化学物質の挙動によって、ほぼ百パーセント脳内過程は記述できるところまでたどり着いたのである。

脳内過程と決定論的世界観

 「科学は自由を求めているのではなくて、むしろ決定論を求めている。つまり、なぜ私が今アイスコーヒーを飲みたいのか、その理由をはっきりさせたいと科学は考えます。〈なんとなくアイスコーヒーにした〉では困るわけで、どうしてそっちを選んだのかという明確な理由を科学は探ろうとする」。
 廣中氏が言うように、いまや科学は「なぜアイスコーヒーなのか」という選択の問題にまで踏み込みつつある。これは科学が「こころ」の領域に入ってきたこと、つまり、「自由」の問題にまで踏み込んできたことを示しているのである。とはいえ、「こころ」の作用のすべてを脳の物理的、化学的作用とその結果である、と言いきられてしまうととたんにある居心地の悪さを感じてしまう。たとえば、「こころ」に起こっているとされる感情、怒りとか喜びとか悲しみが、化学物質の変化によって生まれたものだと説明されたとしたら、すぐに「ハイそうですか」とはやはりうなずきにくいだろう。私たちの感情というものが、単なる脳内の物理的、化学的なプロセスから生まれたにすぎないという考えには、相当な抵抗があるはずだ。「冗談ではない、私の感情は私のこころ内部から生まれてきているもので、脳内変化ではない」と、多くの者は反対するにちがいない。「自由」を嫌う決定論的な世界観は、脳の世界、「こころ」のありようにはついに迫ることはできない。そこに越えがたい壁があったことを自然科学が自ら身をもって知ることとなる。決定論的世界観には限界があるのだ。
 と、言いたいところなのだが、ことはそう単純にはいかないのである。たとえば、「こころ」の内部で沸き上がってくる感情が脳内の物理的、化学的変化が原因でないとすれば、どこに原因があるのか。それが確証されなくてはならないからである。脳と「こころ」を限りなく接近させた現代の自然科学にとって、脳の物理的、化学的変化が感情や意識をつくり出すもとではないとしたら、それに代わる原因を突き止めなければならない。因果論をベースにする限り、自然科学はそのロジックから逃れることはできない。
 そこで、「自由」という問題が浮上してくるのである。はっきりとした物理的、化学的原因なしに、自らのこころの中にある感情が沸き上がってくる。つまり、自然に感情が生まれるものとして、その原因をどこにも帰属できないとなれば、それは自己原因ということになる。自らが原因となって世界が組み立てられる。これは哲学においては存在論の領域に入る問題で、ギリシアの時代から多くの哲学者が格闘してきた難問の一つだ。そして、「自由」は、この問題とじつは深くかかわっているのである。カントの言った「自由意志」が、まさにそれに当たる。なんの具体的な原因もなく(つまり、原因は自らにある)、ある感情が生まれ、行為が選択される。世界の中のすべての事象に先駆けて、自らの行為が選択されるということが起こるとするならば、それはある意味で「無」から生じる行為ということになる。
 editor's note beforeで紹介したバーリンの「積極的自由」は、この「自由意志」のことでもあるが、すぐにわかるようにこの考えはかなり際どいものである。なぜなら、「なんの原因ももたずに〈無から〉行為の選択を行う力をもつというのであれば、このことは、世界の中のあらゆる事象にはそれに先行する原因が存在しているという、存在論上の基本的な前提を破ることになる」(伊藤邦武「自由」『哲学の木』所収)からだ。「物理的必然性(前もって世界にある原因から帰結された)か精神の自由(世界に先立って無から生じた)か」、この対立は、中世の時代に「神の摂理か人間の自由か」という形でさんざん議論されてきた神学論争をそのまま引き継ぐものである。つまり、存在論では神を原因にしてきたものが、ここでは物理的原因がそれに取って代わったのである。かつて神だったものを、今は科学が請け負っている。乱暴に言ってしまうと、そういうことになる。もうおわかりのように、前号の「神を演じる科学」で論じた構図を踏襲するものだ。

ドラッグ・アディクションの逆説

 私たちが無原因、無動機な選択を行う力をもっているのかということを問うこと。これは、じつはとても重要な課題である。なぜならば、「積極的な自由」を認めながら、他方、自然科学の論理とも折り合いをつけていかなければならないからだ。たとえば、「こころ」の病気に著しい効果を発揮するクスリ(化学物質)があることを患者さんたちがすでに知っているにもかかわらず、そうしたクスリの使用に患者さんは慎重である。決定論的世界観によって自らの「こころ」=脳が変化してしまうことに対して、素朴に拒否反応を示すのである。「積極的な自由」を希求するがゆえに、自然科学の決定論には一定程度距離を置きたいと思うからであろう。ところが、逆の現象もある。若者たちのドラッグ・アディクションがそれだ。彼(彼女)らは、ドラッグ(化学物質)によって自らの「こころ」=脳が変化してしまうことに、拒否反応があるどころか、反対にそれを受け入れようとする。彼(彼女)らが安易にドラッグを使用する背景にあるのは、決定論的世界観への強い信頼感ではないか。もっとも、こうした決定論的世界観への信頼は、普段私たちがあらゆる場面で経験することではある。たとえば、体調が少し悪い時に、簡単にクスリで治そうとする。クスリ(化学物質)への無自覚な信頼があるからそうするのであろう。若者のドラッグの使用とそんなに大きな相違はないのかもしれない。
 いずれにしても、問題は、「自由」と自然科学の論理をいかにして無理なく調停するかである。自然科学に抵触させることなく「積極的な自由」の根拠を見出すこと。その論理をみつけ出すことである。

必要なのは新たな「人間」の定義

 神が原因でなくなった時、私たちはそれを科学に委ねる。大澤真幸氏のキーワードを借りれば、「第三者の審級」の不在を埋めるのは、化学物質や遺伝子である。すなわち、第三者の審級の役割を自然科学に求めるのである。「第三者の審級」とは、簡単に言えば、世界に責任をもってくれているもの。かつては、それが神だった。ところが、神がいなくなったために、たとえば、「自分は今苦しんでいる。それはいったいなぜなのか。自分のせいなのか、誰かのせいなのか、それはわからない。誰もそれについて説明をしてくれない。また、誰に聞けばいいのかすらわからない」という状況に置かれてしまう。そこで、「僕がこんな気持ちになっているのは、脳内の物質の相互作用や反応に問題があるのではないか」と考えてしまうのである。「第三者の審級」である科学は、今や立派な神であるというわけだ。
 では、新たに「第三者の審級」の位置に収まった科学は、私たちの不安や疑問を十分に解消してくれているかというと話はまた別である。そうした期待に応えてくれないばかりか、ある場面ではそれをそっくり私たちに丸投げしてしまう。死の問題しかり、医療問題しかり、ゲノムの問題しかり。しかも、都合の悪いことに、科学、技術が発展すればするほど、丸投げする確率は高くなっていくのである。それはなぜか。このロジックには、もともと「自由」というものがそっくり抜け落ちているからである。
 「自分は今苦しんでいる。それはいったいなぜなのか」。その原因は、ほかならぬ「自己」にある。「誰に聞けばいいのかすらわからない」のは、この問題を問うこと自体が自らに問う以外の筋道がないからである。どういうことか。なんの原因ももたずに「無から」行為の選択を行う力をもつことが「自由意志」であったと言った。その考えを嫌って、原因を神に求めたり科学に求めたりしても、じつは埒は明かない。「〜からの自由」ではなく、「〜への自由」である以上、もともとそこに積極的な意味での「第三者の審級」は存在しない。だから、大澤氏が指摘するように、「第三者の審級の不在というのは、自由というものを骨抜きにする」ということが起こるのである。神に頼れなくなったから科学に、その科学も頼れなくなったので、今度はサイコロに託す。一見この構造は、私たちの選択の幅を高めているように思える。少なくとも、神から科学に取って代わられた時点では、自由度が上がっているように見える。ところが、最後に登場するのがサイコロ。私たちは、一気に選択の余地のない偶然性の支配する世界に放り出されてしまう。つまり、この構造においては、選択という自由度は単なる情報量の拡大を意味しているだけで、「積極的自由」の選択が求められているのではないのである。
 そこで、大澤氏は次のように提起する。「真理が支配していた必然的だった世界から、偶然が支配する世界に転換する。むしろ僕は、そういう時にその偶然性をうまく利用する方法がないか」と。この問題提起を編集子なりに解釈すると、「積極的自由」の選択へと――自由意志のようなものがあるかないかは問わずに――あえて自らを投げ出すことではないかと考えられる。必然性と偶然性をブレンドさせることとは、第三者の審級の不在の場所に、「自由意志」を持ち込むことではないか。「自由意志」などというものは、そもそもあるかないかわからないものである。にもかかわらず、その「自由意志」に賭けてみる。理性に回収されることなく、また、物理的世界にも包摂されない状態、そういう「自由意志」とは何か。もはやそれは「人間」に固有なものではないだろう。たとえば、それを動物の自由ということができないだろうか。動物化という問題を偶有性の実現と考えて見られないかということだ。
 「動物性という視点、つまり生き物としての身体を持った存在としての人間という視点からもう一度掘り起こしていくことがきっと重要になってくる」と廣中氏が指摘するように、このレベルの「自由」を考えるためには、ある意味で「人間」という枠をいったん白紙に戻してみることが必要になってくるのではないか。そして、「動物としての、あるいは身体としての人間の上で作動しているある種のメカニズム」が捉えきれるようになった時、偶有性の感覚を不可避にする条件が明らかになるかもしれない。

自己所有権テーゼを中心に据える

 「リバタリアンは人間の権利主体としての性質を、単に〈利益を共有する〉というような、受動的なところで重視するのではなくて、〈自分で権利を行使できる、自分で思ったように行動できる〉という、能動的な側面を尊重する」。それは現実の意志とか選択行為と、密接に結び付いたものであると森村進氏は言う。だから、リバタリアンが何よりも強く主張するのは、個人の自由である。個人の自由をリバタリアンは絶対的なものであると考えて、「非常に強い理由がなければ、それを制約することは許さない。それは経済的活動においても同じ。なぜならば経済的活動も個々人にとっては、宗教的活動や学問や表現行為とまったく同じ程度に、あるいは人によってはより以上に重要なものでありうるから」だと考える。「他人に比べて自分がどれくらい豊かか/豊かではないかというような、いわゆる相対的な豊かさではなくて、絶対的なレベルで自分がどれくらい豊かかを考えるべきで、自由市場経済は少なくとも集産主義的な社会主義的な経済よりは、ほとんどすべての人の生活の水準を向上させるから優れている」と森村氏は結論づける。
 リバタリアニズムは、人間の行為、人間の意志は自然法則によって決定され尽くしているわけではなく、法則では割り切れない要素があるとする「自由意志論」を原義とする。ただ、現在使われている意味で言えば、やはり、経済的な自由を尊重するという面が強調されているし、森村氏もその立場である。リバタリアニズムは、なぜこのように経済活動の自由を強く訴えるのだろうか。それは、インタビューでも主張されているように、リバタリアンは自己所有権テーゼというものを支持するからである。自己所有権テーゼというのは、「自分のからだは自分が好きなように動かしたり、取引の対象にしたりすることは許される」とする考えだ。だが、当然この自己所有権テーゼに対する批判も少なくない。そもそもそう確信する自己所有権なるものは、いったいどこから出てくるのかという批判である。そんなものはどこにもないではないかというわけだ。そう、それはどこからも出てこない。ただ、「われわれはみんな、他人から強制を受ければそれは不正だという感覚を現にもっている。表現の自由や人身の自由、信教の自由も大切だと考えている。その一方で、自分の表現や宗教のために他人を強制することが正当だとは考えていない」。これは、言うまでもなく自分自身の身体に対する「排他的」な支配をお互いに認め合っていることである。その発想こそが自己所有権にほかならないのだ、と森村氏は言う。
 心理的な説明によって、また、哲学的な正当化によってそれを根拠づけることは構わない。しかし、単に道徳的な直感に由来するということでいいのではないかというのが森村氏の主張だ。私たちは、自らの身体を感じ取ることができる。反対に、他者の身体はどうやっても感じ取ることができない。自分が傷つけられれば痛いが、他者の痛みは感じ取れない。この経験的事実が、何よりも自己所有権を示している根拠である。この理論の立て方に編集子は、プラグマティズムの思想を感じる。リチャード・ローティの言う意味でのプラグマティズムである(自分たちの目的に役立つものを「真」と考える)。リバタリアニズムとプラグマティズムには、案外深い関係があるのかもしれない。

「ケインズ主義最小国家」論が示唆するもの

 稲葉振一郎氏のインタビューのポイントは、大きく三つあった。一つは、自由を問題とする時に、少なくとも哲学的な「自由意志」の問題と、政治的・社会的な「自由」の問題の二つのオーダーがあるということ。両者をうまくリンクできていないというところに、現代のリベラリズムの問題点が潜んでいないかという指摘である。今日、リベラリズムを正面切って論じることにある種の恥ずかしさがあるとすれば、それは両者をうまく結び付ける接点が見出せないからであろう。二つ目は、リベラリズムが、個人の合理性に基礎づけられた道徳を前提に成り立っていることの問題点。「生きていることがうれしい」ということを自然の与件としていること自体に問題がないのかという疑問である。人間における動物としての相を問題にしないで、道徳や法の水準の成立する相しか考えてこなかったことに対する反省である。リベラリズムの可能性を問う時に、「動物化」という現象をどう射程に収めることができるかが一つの鍵になってくる。三つ目は、リベラリズムのプラクティカルな有効性をいかにして見出すかという問題である。具体的に、ケインジアン・リバタリアニズムというアイデアが出され、その可能性を探るべくいくつかの論点が明示された。
 最初の「自由意志」と現実の「自由」の問題がつながっていないということについて。対談の廣中氏の発言に関して触れたように、実際には両者のかかわりは大変に深いのである。リンクしていないどころか、むしろ複雑に絡み合っていると言った方がいい。だか、もとより稲葉氏が指摘しているのは、そういう現状についてのコメントではなくて、その関係をうまく整理できていないことを突いているのだ。政治的・社会的な文脈では、それは自明なものとして改めて問題にされるようなものではないと考えられている。しかし、「自然科学的世界観と人間の自由意志の存在の想定とをどう両立させるかということは優れて現代的な課題」と稲葉氏が言うように、今日、さまざまな場面で取りざたされている「自由」を巡る問題の多くは、まさにこの二つのオーダーの接触面で起こっている。対談の議論と、稲葉氏の問題意識は完全に重なっているのである。注目したいのは、二つ目の問題も、対談の争点と二重写しになっていることだ。ここでも、いちばんの問題点は、「自由」の自明性にある。「一般に言われる動物のレベルの健全さというものを、人間は一様に備えているというふうに考えられてきたがどうもそうではなく、道徳や法が効かない水準がある」ことがわかってきた。クスリ(ドラッグ)を自由意志で飲みそれを幸福と感じられる人間は、リベラリズムにとっては埒外な者としてその対象にもしてこなかった。しかし、もしもそうした人間が大衆化したとしたら、リベラリズムは彼(彼女)らをどう捉えるのだろうか。これはリベラリズム固有の問題ではなくて、私たちすべてに与えられた課題であろう。「人間」の新たな定義が必要という対談の指摘が、ここでも繰り返されているのである。
 三つ目の問題は、稲葉氏のインタビューのハイライトでもある。稲葉氏の立論の前提となっているのは、不況やバブルの発生に関して、ケインズ主義経済学は新たな理論的な枠組を提起したというところにある。すなわち、市場が完全な競争原理にもとづいていても不況は起こる。そういう状況下では、流動性選好という効用に着目することで有効な経済政策が打ち出せる、そういうモデルをケインズが出した。そのことを再評価しようというのである。このモデルで見る限り、現在日本で進められている構造改革は、今日の不況をより悪化させる方に働く恐れがある。リベラリズムを貫徹するのであれば、むしろ市場経済を良い方向へ回復させる政治的介入をある程度容認することも必要なのではないか。市場そのものが自滅してしまっては、市場経済を最優先するリバタリアニズムもその主張を退けざるをえなくなる。何はともあれ市場をきちっと機能させることを最優先させるべきである。そのためには、自明とされてきたケインズ経済学を新たな視点から見直して、有力な武器として活用する方法を見出すことだ。それは、リベラリズム(の考える最小国家)に、ケインズ主義をインボルブすることでもある。最小国家か福祉国家か、その選択はこれまでリベラリズムの抱えるジレンマであった。この相反するベクトルに橋をかけ、生産的な妥協点を見出すこと。ケインジアン・リバタリアニズムという

二つの「自由」のイメージ

 「自由」という概念は虚構である。字義どおりに受け取ると、「〈自由〉はまったくのつくりもの」ということになるわけだが、仲正昌樹氏が言っている意味は少し異なる。簡単に整理しておこう。
 キリスト教とプラトニズムの伝統にそって、西欧には人間には目に見えない本性があって、それがこの肉体の牢獄の中に囚われて苦しんでいるという考えがあった。だからこそ肉体と切り離して精神を解放させる必要がある。それが「自由」だと考えられてきた。だが、実際にそんなものがあるわけではなかった。カント以降の近代哲学の大前提になっている「自由な人間性」は、結局のところつくられたもの=「虚構」である。もっとも、ここで言う「虚構(フィクション)」は、架空という意味ではなく、無から有を創造するような、文字どおり「ポイエーシス(制作)」という意味である。
 一方、ルソーの登場で、「自然人」という発想が生まれてきた。この考えは、人間は、もともと「自然人」としての無邪気さが抑圧されている。そのためには、そうした抑圧から欲望を解放する必要がある。それを「自由」と言い、「自然人」としての人間の自然への本性回帰だと考えられたのである。
 一八世紀以降、古代ギリシア以降の"つくっていく"方の「自由」か、"本能のままに生きる"イメージとしての「自由」か、西洋思想の中でこの二つの「自由」の意味がごっちゃになってしまったのである。しかも、日本ではその混乱を抱えたままの状態で「自由」という概念が輸入されてしまったために、さらに事態はややこしくなる。「自由」を考えるにあたって、まずこの「自由」に関する思想的な混乱を把握しておくことがどうしても必要である。(ところで、バーリンの分けた「消極的自由」と「積極的自由」は、この二つの「自由」とどう関係するのだろうか。おそらく、この視点から見ると、両者はむしろあいまいである。こんなにきれいにスパッと分けてしまうから、かえって「自由」の概念がややこしくなってしまうのでないか、という議論も成り立つような気がする。この問題は、改めて追究する必要がありそうだ)。
 たとえば、王政を倒して市民社会を立ち上げていく時に「人間本性」の回復ということが言われた。しかし、今言ったように前者の場合は「自由」は虚構であった。ゆえに、この場合「人間本性」とは言いつつも、実態はつくりものである。本当はそんなものはないのだが、それでは話にならないので、とりあえず「人間本性」なる虚構をつくりあげたのである。もとよりそれを「虚構」だと言ってしまうと、その正当性は弱くなる。なんとかそれを表に出さずに、それをそれとして提示し続ける必要がある。ここに、根本的な矛盾が生じるのである。つまり、社会を変革しようとする実践者自らがそうしたありもしない「人間本性」を頼りに戦うという構図ができてしまったからだ。
 「主体化」という言葉がある。今言った文脈から捉え直してみると、「主体化」もまた虚構にすぎない。そもそも主体=subjectになるということは、be subject toという表現に見られるように、何々に従うという意味である。「主体」という概念自体が、「人間本性」というものではないのである。「自己」にせよ「人間」にせよ、結局のところそのような形でつくられたものには違いないのだ。

ヒューマニズムの危険性

 「人間中心主義のいちばんの問題というのは、人間であるという共通性があるのでお互いに平等であり、尊重すべきだとしている」ところにある。仲正氏は、フーコーのこの発言に続けて次のように言う。「人間という概念を拡大しすぎると必ず人間らしさを限定してしまい、そういう生き方をするように強いてしまうことになるから、人間をやめようと言った」。つまり、人間であることによってかえって窮屈になっているのなら、いっそ人間をやめてもいいと考えたのではないか。フーコーは、ヒューマニズムという考え方そのものに限界があることを示唆したのである。
 フーコーは、「主体化」が形成されていくプロセスの中で、そうしたヒューマニズムがより明確に、そして強固になっていくことを明らかにしていった。たとえば、同性愛者というカテゴリーを生み出すことによって、逆にその反対項として「まともな主体性」というものを「つくり出し」ていく。最初に「まともな主体性」があるわけではないのだ。いわゆる「デフォルト/例外」図式を当てはめてみれば、デフォルト(初期値)が、「まともな主体性」ではなくて、同性愛者の方がデフォルトの位置にいる。そしてそれ以外の多数者が例外と見なされる。ところが、それが反転するのだ。いつのまにか、「まともな主体性」がデフォルトになり、同性愛者は例外となって、徹底的に差別化される。「デフォルト/例外」図式の特徴は、デフォルト、例外、双方とも根拠性が希薄なことである。もっと言えば、確たる根拠はいらないのだ。図式ができ上がったところで、事後的に根拠が形成されていく。この場合で言えば、「主体化」というものも、同性愛というものも、後付け的につくられたものである点では、どちらがより普遍であるかということはなく、まったく同じなのである。「自己」、「主体」、そして「自由」という概念も、ある意味ではみな事後的につくり出されたものである。問題は、何が普遍、初期値となりうるかということだ。
 ヒューマニズムの危険性は、それが普遍なものと見なされた時に起こる。「人間」を最上位に置くことは、「人間」とは見なされない例外をつくり出していくことである。「人間」として、あるいは「人間」にとって、さらには、「人間であれば」という言葉の裏には、常にそうした危険性が付いて回る。私たちが自明なものと考えている、「倫理」や「モラル」も、それが「人間」に基礎づけられた概念である以上、決して例外ではない。相当に疑ってかかる必要がありそうである。

「自己」の再創造、「自由」の再定義

 「自己」も「主体」も、そして「自由」も、つくられたものであるとしたら、私たちは何を根拠にすればいいのだろうか。そうした根拠不在の状況をポスト・モダンと言うのであれば、そのポスト・モダンを踏まえたうえで、新たな戦略を構築しなければならない。仲正氏がインタビューの後半で言及したドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域への権利」は、その一つの戦略知である。「イマジナリーな領域」とは、「周囲の〈他者〉たちとの相互関係の中で、〈他者〉たちを〈鏡〉としながら〈自己〉が形成されていく」というラカンの言う「想像界」のこと。「イマジナリーな領域への権利」とは、したがって、〈決定〉する主体としての〈自己〉を"自主的に"〈決定〉することのできる〈権利〉ということになる。つまり、簡単に言うと、「自己」を再創造する権利(法的・政治的)のことである。「自己」というものが、確定的でないのであれば、事後的につくり出していけばいいという考えだ。それも、「自己」は個人に完結しているわけではないのであるから、複数の「他者」も交えて再創造すればいいという。重要なのは、そうやってつくり出していくプロセスである。ああでもないこうでもないと悩み逡巡することそれ自体が「自己」の形成だということになる。
 対談に触れて、物理的な強制や規則からの「自由」だけではなく、「〜への自由」という「自由意志」がポイントになると言った。この「イマジナリーな領域への権利」は、「自分の意志を決めるために猶予を与えられる権利」とも理解できる。要するに、虚構としての「自由意志」を、あえて虚構として再創造、つくり直していくことだ。

 なんの原因ももたずに「無から」行為の選択を行う力。そうした「無から」の選択、「無から」の力として、「自由」を捉え直す。それは、「人間」という虚構、そのロジックからいったん離れることから見えてくる。私たちは、「自由」の概念を、「自由」の領域を、新たにつくり出していく必要があるのかもしれない。それはまた、動物性の水準から「人間」を捉え直すことであり、人間観や政治観をつくり直していくことにもつながってくるのではなかろうか。 (佐藤真)

 
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◎リベラリズム/リバタリアニズム
自由のためのメカニズム  D・フリードマン 森村進ほか訳 勁草書房 2003
リベラリズムの再生 可謬主義による政治理論 施光恒 慶応義塾大学出版会 2003
偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 R・ローティ 斎藤純一ほか訳 岩波書店 2002
リベラル・ユートピアという希望 R・ローティ 須藤訓任ほか訳 岩波書店 2002
正しく生きるとはどういうことか 池田清彦 新潮OH!文庫 2001
自由主義論 J・グレイ 山本貴之訳 ミネルヴァ書房 2001
自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門森村進 講談社現代新書 2001
国家民営化論 笠井潔 光文社知恵の森文庫 2000
自由に生きることは幸福か 池田清彦 文春ネスコ発行 文芸春秋発売 2000
リベラリズムの存在証明 稲葉振一郎 紀伊國屋書店 1999 
リバータリアニズム入門 D・ボウツ 副島隆彦訳 洋泉社 1997
財産権の理論 森村進 弘文堂 1995
ノージック 所有・正義・最小国家 J・ウルフ 森村進ほか訳 勁草書房 1994
自由の正当性 古典的自由主義とリバタリアニズム N・P・バリー 足立幸男監訳 勁草書房 1990
[雑誌]現代思想 4月号 特集リベラリズムとは何か 青土社 1994   
無政府国家への道 P・ルミュー 渡辺茂訳 春秋社 1983
アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界 R・ノージック 嶋津格訳 木鐸社 1974

◎ポストモダンと自由論
自由を考える 9・11以降の現代思想 東浩紀・大澤真幸 NHKブックス 2003
ポスト・モダンの左旋回 仲正昌樹 情況出版 2002
〈法〉と〈法外なもの〉 ベンヤミン、アーレント、デリダをつなぐポスト・モダンの正義論へ  仲正昌樹 御茶の水書房 2002
文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える 大澤真幸 NHKブックス 2002
法の共同体 ポスト・カント主義的「自由」をめぐって 仲正昌樹 御茶の水書房 2002

◎自由論の拡張
自由の平等 立岩真也 岩波書店 2004
「不自由」論 「何でも自己決定」の限界仲正昌樹 ちくま新書 2003
自由の倫理学  M・ロスバード 森村進ほか訳 勁草書房 2003
自由の代償/フリーター  小杉礼子編 日本労働研究機構 2002
自由とはなんだろう 桂木隆夫 朝日新聞社 2002
自由の根源的地平 池田全之 日本図書センター 2002
自由と権利の哲学 福吉勝男 世界思想社 2002
九・一一とアメリカ知識人 N・フレイザー 仲正昌樹訳 御茶の水書房 2002
自由のハートで D・コーネル 石岡良治ほか訳 情況出版 2001
自由論 酒井隆史 青土社 2001
弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術 立岩真也 青土社 2000
自由の社会理論 数土直紀 多賀出版 2000
自由論 I・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房 1997
私的所有権 立岩真也 勁草書房 1997
ナウシカ解読 ユートピアの臨界 稲葉振一郎 窓社 1996 
虚構の時代の果て オウムと世界最終戦争 大澤真幸 ちくま新書 1996
理由と人格 非人格性の倫理へ D・パーフィット 森村進訳 勁草書房 1994
所有 A・ライアン 森村進ほか訳 昭和堂 1993

◎市民社会と公共性の哲学
市民法学の可能性 篠原敏雄 勁草書房 2003
普遍の再生 井上達夫  岩波書店 2003
ハンナ・アーレントを読む 情況出版編集部編集 情況出版  2001
他者への自由 公共性の哲学としてのリベラリズム  井上達夫 創文社 2000
丸山真男 日本近代における公と私 戦後思想の挑戦 間宮陽介  筑摩書房 1999
全体主義の起原 1、2、3 ハンナ・アーレント 大久保和郎訳  みすず書房 1981

◎正義論の圏域
責任と正義 リベラリズムの居場所 北田暁大 勁草書房 2003
中断された正義 「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察  N・ フレイザー 仲正昌樹ほか訳  御茶の水書房 2003
[雑誌]季刊理戦74 特集リチャード・ローティ 実践社 2003
多元的世界の政治哲学 ジョン・ロールズと政治哲学の現代的復権 伊藤恭彦 有斐閣 2003
正義の根源 D・コーネル 仲正昌樹訳 御茶の水書房 2002
正義の経済哲学 ロールズとセン 後藤玲子 東洋経済新報社 2002
無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略 岡本浩一 PHP新書 2001
ロールズ正義論再説 その問題と変遷の各論的考察 渡辺幹雄 春秋社 2001
自由の構造 正義・法の支配 R・E・バーネット 森村進ほか訳 木鐸社 2000
政治哲学の復権 アレントからロールズまで 寺島俊穂 ミネルヴァ書房 1998
人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ  J・ロールズほか 中島吉弘ほか訳 みすず書房 1998
ロック所有論の再生 森村進 有斐閣 1997
ロールズ 正義の原理 現代思想の冒険者たち23  川本隆史 講談社 1997
社会契約論の系譜 ホッブズからロールズまで D・バウチャー、 P・ケリー  飯島昇蔵ほか訳 ナカニシヤ出版 1997
ロールズ 『正義論』とその批判者たち C・クカサス 嶋津格ほか訳 勁草書房 1996
倫理の復権 ロールズ・ソクラテス・レヴィナス 岩田靖夫 岩波書店 1994
権利と人格 超個人主義の規範理論 森村進 創文社 1989
共生の作法 会話としての正義 井上達夫 創文社 1986
正義論 J・ロールズ 矢島鈞次訳 紀伊國屋書店 1979
実践理性批判 カント 波多野精一ほか訳 岩波文庫 1979

◎動物化と快楽、ゾーエーとビオス ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2003
快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか 廣中直行 NHKブックス 2003
やめたくてもやめられない脳 依存症の行動と心理 廣中直行 ちくま新書 2003
動物化する世界の中で 全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評東浩紀、笠井潔 集英社新書 2003
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 東浩紀 講談社現代新書 2001
人はなぜハマるのか 廣中直行 岩波科学ライブラリー 2001
アウシュヴィッツの残りのもの アルシーヴと証人 G・アガンベン 上村忠男ほか訳 月曜社 2001
不過視なものの世界 東浩紀 朝日新聞社 2000
人権の彼方に 政治哲学ノート G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2000
人間の条件 ハンナ・アーレント 志水速雄訳  ちくま学芸文庫 1994
暴力批判論 ベンヤミン 野村修訳 岩波文庫 1994

◎無為の共同体/マルチチュード 帝国 A・ネグリ、M・ハート 水嶋一憲ほか訳 以文社 2003
ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還 A・ネグリ 杉村昌昭訳  作品社 2003 
共出現 ジャン=リュック・ナンシー 大西雅一郎ほか訳 松籟社 2002
無為の共同体 哲学を問い直す分有の思想 ジャン=リュック・ナンシー 西谷修ほか訳 以文社 2001
自由の経験 ジャン=リュック・ナンシー 沢田直訳 未来社 2000
構成的権力 近代のオルタナティブ A・ネグリ 杉村昌昭ほか訳 松籟社 1999
明かしえぬ共同体 M・ブランショ 西谷修訳 ちくま学芸文庫 1997
自由の新たな空間 闘争機械 F・ガタリ 丹生谷貴志訳  朝日出版社 1985

◎市場経済と自由論 経済学という教養 稲葉振一郎 東洋経済新報社 2004
ライブ・経済学の歴史 "経済学の見取り図"をつくろう 小田中直樹 勁草書房  2003
クルーグマン教授の経済入門 P・クルーグマン 山形浩生訳 日経ビジネス人文庫 2003
経済学の再生 道徳哲学への回帰 A・セン 徳永澄憲ほか訳 麗沢大学出版会 2002
自由と経済開発 A・セン 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 2002
アマルティア・セン 経済学と倫理学 鈴村興太郎、後藤玲子 実教出版 2001
自由と秩序 猪木武徳 中央公論新社 2001
貧困の克服 アジア発展の鍵は何か A・セン 大石りら訳 集英社新書 2000
ユートピスティック I・ウォーラーステイン 松岡利道訳 藤原書店 1999
市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか 間宮陽介 中公新書 1999
アフター・リベラリズム I・ウォーラーステイン 松岡利道訳 藤原書店 1997
国家と神の資本論  竹内靖雄 講談社 1995
市場経済の哲学 桂木隆夫 創文社 1995
ケインズとハイエク―「自由」の変容 間宮陽介 中公新書 1989
自由市場の道徳性 A・シャンド 中村秀一ほか訳 春秋社 1983