「自由」を動物の水準から捉え直す
科学と自由の関係
科学って「自由」が嫌いだったんだ!? 対談の冒頭、廣中直行氏の口から次のような言葉が飛び出してきた時には、思わずそう叫びそうになった。そのくらい、この発言には驚いた。
「予測ができない事態がある時、科学ではそれを〈自由〉と捉えてきたと思います。科学の立場では、〈自由〉を一種の〈誤差〉と考えてきたんです」。
いささか極端な言い回しではある。だが、とにかく、自然科学にとっては「自由」という問題はさほど重要ではなかったのである。それどころか、むしろ「自由」度をいかに小さくできるかに腐心してきた。それが自然科学の実態だというのである。
自然科学が求めてきたものは、常に決定論的な解であって、それは今もまったく変わらない。複雑系やカオスの登場も決定論的世界観を覆すものではなかった。前号の池内了氏のインタビューが思い起こされる。科学の世界で「自由」が嫌われるのは、ラプラスの悪魔がいまだにしぶとく生き続けている証左なのかもしれない。
決定論が主役の自然科学は、二○世紀後半、生命や脳をその対象領域にし始めた。物理学を指導原理として発展してきた科学が、いよいよ生物の世界から、さらには脳の世界へとその触手を伸ばしてきたのである。生物の世界は、これまで物理的な決定論的な見方では扱いにくいものと考えられてきた。とくに脳の場合、それが「こころ」の領域と重なっているために、なおさら自然科学はなじまないものと思われてきた。しかし、神経伝達機構、情報伝達物質の解明が進み、脳の情報処理機能が把握できるようになってくると、「こころ」の機能も科学によって明らかにできると考えるようになってきた。その結果、現在ではニューロンの発火と化学物質の挙動によって、ほぼ百パーセント脳内過程は記述できるところまでたどり着いたのである。
脳内過程と決定論的世界観 「科学は自由を求めているのではなくて、むしろ決定論を求めている。つまり、なぜ私が今アイスコーヒーを飲みたいのか、その理由をはっきりさせたいと科学は考えます。〈なんとなくアイスコーヒーにした〉では困るわけで、どうしてそっちを選んだのかという明確な理由を科学は探ろうとする」。
廣中氏が言うように、いまや科学は「なぜアイスコーヒーなのか」という選択の問題にまで踏み込みつつある。これは科学が「こころ」の領域に入ってきたこと、つまり、「自由」の問題にまで踏み込んできたことを示しているのである。とはいえ、「こころ」の作用のすべてを脳の物理的、化学的作用とその結果である、と言いきられてしまうととたんにある居心地の悪さを感じてしまう。たとえば、「こころ」に起こっているとされる感情、怒りとか喜びとか悲しみが、化学物質の変化によって生まれたものだと説明されたとしたら、すぐに「ハイそうですか」とはやはりうなずきにくいだろう。私たちの感情というものが、単なる脳内の物理的、化学的なプロセスから生まれたにすぎないという考えには、相当な抵抗があるはずだ。「冗談ではない、私の感情は私のこころ内部から生まれてきているもので、脳内変化ではない」と、多くの者は反対するにちがいない。「自由」を嫌う決定論的な世界観は、脳の世界、「こころ」のありようにはついに迫ることはできない。そこに越えがたい壁があったことを自然科学が自ら身をもって知ることとなる。決定論的世界観には限界があるのだ。
と、言いたいところなのだが、ことはそう単純にはいかないのである。たとえば、「こころ」の内部で沸き上がってくる感情が脳内の物理的、化学的変化が原因でないとすれば、どこに原因があるのか。それが確証されなくてはならないからである。脳と「こころ」を限りなく接近させた現代の自然科学にとって、脳の物理的、化学的変化が感情や意識をつくり出すもとではないとしたら、それに代わる原因を突き止めなければならない。因果論をベースにする限り、自然科学はそのロジックから逃れることはできない。
そこで、「自由」という問題が浮上してくるのである。はっきりとした物理的、化学的原因なしに、自らのこころの中にある感情が沸き上がってくる。つまり、自然に感情が生まれるものとして、その原因をどこにも帰属できないとなれば、それは自己原因ということになる。自らが原因となって世界が組み立てられる。これは哲学においては存在論の領域に入る問題で、ギリシアの時代から多くの哲学者が格闘してきた難問の一つだ。そして、「自由」は、この問題とじつは深くかかわっているのである。カントの言った「自由意志」が、まさにそれに当たる。なんの具体的な原因もなく(つまり、原因は自らにある)、ある感情が生まれ、行為が選択される。世界の中のすべての事象に先駆けて、自らの行為が選択されるということが起こるとするならば、それはある意味で「無」から生じる行為ということになる。
editor's note beforeで紹介したバーリンの「積極的自由」は、この「自由意志」のことでもあるが、すぐにわかるようにこの考えはかなり際どいものである。なぜなら、「なんの原因ももたずに〈無から〉行為の選択を行う力をもつというのであれば、このことは、世界の中のあらゆる事象にはそれに先行する原因が存在しているという、存在論上の基本的な前提を破ることになる」(伊藤邦武「自由」『哲学の木』所収)からだ。「物理的必然性(前もって世界にある原因から帰結された)か精神の自由(世界に先立って無から生じた)か」、この対立は、中世の時代に「神の摂理か人間の自由か」という形でさんざん議論されてきた神学論争をそのまま引き継ぐものである。つまり、存在論では神を原因にしてきたものが、ここでは物理的原因がそれに取って代わったのである。かつて神だったものを、今は科学が請け負っている。乱暴に言ってしまうと、そういうことになる。もうおわかりのように、前号の「神を演じる科学」で論じた構図を踏襲するものだ。
ドラッグ・アディクションの逆説 私たちが無原因、無動機な選択を行う力をもっているのかということを問うこと。これは、じつはとても重要な課題である。なぜならば、「積極的な自由」を認めながら、他方、自然科学の論理とも折り合いをつけていかなければならないからだ。たとえば、「こころ」の病気に著しい効果を発揮するクスリ(化学物質)があることを患者さんたちがすでに知っているにもかかわらず、そうしたクスリの使用に患者さんは慎重である。決定論的世界観によって自らの「こころ」=脳が変化してしまうことに対して、素朴に拒否反応を示すのである。「積極的な自由」を希求するがゆえに、自然科学の決定論には一定程度距離を置きたいと思うからであろう。ところが、逆の現象もある。若者たちのドラッグ・アディクションがそれだ。彼(彼女)らは、ドラッグ(化学物質)によって自らの「こころ」=脳が変化してしまうことに、拒否反応があるどころか、反対にそれを受け入れようとする。彼(彼女)らが安易にドラッグを使用する背景にあるのは、決定論的世界観への強い信頼感ではないか。もっとも、こうした決定論的世界観への信頼は、普段私たちがあらゆる場面で経験することではある。たとえば、体調が少し悪い時に、簡単にクスリで治そうとする。クスリ(化学物質)への無自覚な信頼があるからそうするのであろう。若者のドラッグの使用とそんなに大きな相違はないのかもしれない。
いずれにしても、問題は、「自由」と自然科学の論理をいかにして無理なく調停するかである。自然科学に抵触させることなく「積極的な自由」の根拠を見出すこと。その論理をみつけ出すことである。
必要なのは新たな「人間」の定義
神が原因でなくなった時、私たちはそれを科学に委ねる。大澤真幸氏のキーワードを借りれば、「第三者の審級」の不在を埋めるのは、化学物質や遺伝子である。すなわち、第三者の審級の役割を自然科学に求めるのである。「第三者の審級」とは、簡単に言えば、世界に責任をもってくれているもの。かつては、それが神だった。ところが、神がいなくなったために、たとえば、「自分は今苦しんでいる。それはいったいなぜなのか。自分のせいなのか、誰かのせいなのか、それはわからない。誰もそれについて説明をしてくれない。また、誰に聞けばいいのかすらわからない」という状況に置かれてしまう。そこで、「僕がこんな気持ちになっているのは、脳内の物質の相互作用や反応に問題があるのではないか」と考えてしまうのである。「第三者の審級」である科学は、今や立派な神であるというわけだ。
では、新たに「第三者の審級」の位置に収まった科学は、私たちの不安や疑問を十分に解消してくれているかというと話はまた別である。そうした期待に応えてくれないばかりか、ある場面ではそれをそっくり私たちに丸投げしてしまう。死の問題しかり、医療問題しかり、ゲノムの問題しかり。しかも、都合の悪いことに、科学、技術が発展すればするほど、丸投げする確率は高くなっていくのである。それはなぜか。このロジックには、もともと「自由」というものがそっくり抜け落ちているからである。
「自分は今苦しんでいる。それはいったいなぜなのか」。その原因は、ほかならぬ「自己」にある。「誰に聞けばいいのかすらわからない」のは、この問題を問うこと自体が自らに問う以外の筋道がないからである。どういうことか。なんの原因ももたずに「無から」行為の選択を行う力をもつことが「自由意志」であったと言った。その考えを嫌って、原因を神に求めたり科学に求めたりしても、じつは埒は明かない。「〜からの自由」ではなく、「〜への自由」である以上、もともとそこに積極的な意味での「第三者の審級」は存在しない。だから、大澤氏が指摘するように、「第三者の審級の不在というのは、自由というものを骨抜きにする」ということが起こるのである。神に頼れなくなったから科学に、その科学も頼れなくなったので、今度はサイコロに託す。一見この構造は、私たちの選択の幅を高めているように思える。少なくとも、神から科学に取って代わられた時点では、自由度が上がっているように見える。ところが、最後に登場するのがサイコロ。私たちは、一気に選択の余地のない偶然性の支配する世界に放り出されてしまう。つまり、この構造においては、選択という自由度は単なる情報量の拡大を意味しているだけで、「積極的自由」の選択が求められているのではないのである。
そこで、大澤氏は次のように提起する。「真理が支配していた必然的だった世界から、偶然が支配する世界に転換する。むしろ僕は、そういう時にその偶然性をうまく利用する方法がないか」と。この問題提起を編集子なりに解釈すると、「積極的自由」の選択へと――自由意志のようなものがあるかないかは問わずに――あえて自らを投げ出すことではないかと考えられる。必然性と偶然性をブレンドさせることとは、第三者の審級の不在の場所に、「自由意志」を持ち込むことではないか。「自由意志」などというものは、そもそもあるかないかわからないものである。にもかかわらず、その「自由意志」に賭けてみる。理性に回収されることなく、また、物理的世界にも包摂されない状態、そういう「自由意志」とは何か。もはやそれは「人間」に固有なものではないだろう。たとえば、それを動物の自由ということができないだろうか。動物化という問題を偶有性の実現と考えて見られないかということだ。
「動物性という視点、つまり生き物としての身体を持った存在としての人間という視点からもう一度掘り起こしていくことがきっと重要になってくる」と廣中氏が指摘するように、このレベルの「自由」を考えるためには、ある意味で「人間」という枠をいったん白紙に戻してみることが必要になってくるのではないか。そして、「動物としての、あるいは身体としての人間の上で作動しているある種のメカニズム」が捉えきれるようになった時、偶有性の感覚を不可避にする条件が明らかになるかもしれない。
自己所有権テーゼを中心に据える
「リバタリアンは人間の権利主体としての性質を、単に〈利益を共有する〉というような、受動的なところで重視するのではなくて、〈自分で権利を行使できる、自分で思ったように行動できる〉という、能動的な側面を尊重する」。それは現実の意志とか選択行為と、密接に結び付いたものであると森村進氏は言う。だから、リバタリアンが何よりも強く主張するのは、個人の自由である。個人の自由をリバタリアンは絶対的なものであると考えて、「非常に強い理由がなければ、それを制約することは許さない。それは経済的活動においても同じ。なぜならば経済的活動も個々人にとっては、宗教的活動や学問や表現行為とまったく同じ程度に、あるいは人によってはより以上に重要なものでありうるから」だと考える。「他人に比べて自分がどれくらい豊かか/豊かではないかというような、いわゆる相対的な豊かさではなくて、絶対的なレベルで自分がどれくらい豊かかを考えるべきで、自由市場経済は少なくとも集産主義的な社会主義的な経済よりは、ほとんどすべての人の生活の水準を向上させるから優れている」と森村氏は結論づける。
リバタリアニズムは、人間の行為、人間の意志は自然法則によって決定され尽くしているわけではなく、法則では割り切れない要素があるとする「自由意志論」を原義とする。ただ、現在使われている意味で言えば、やはり、経済的な自由を尊重するという面が強調されているし、森村氏もその立場である。リバタリアニズムは、なぜこのように経済活動の自由を強く訴えるのだろうか。それは、インタビューでも主張されているように、リバタリアンは自己所有権テーゼというものを支持するからである。自己所有権テーゼというのは、「自分のからだは自分が好きなように動かしたり、取引の対象にしたりすることは許される」とする考えだ。だが、当然この自己所有権テーゼに対する批判も少なくない。そもそもそう確信する自己所有権なるものは、いったいどこから出てくるのかという批判である。そんなものはどこにもないではないかというわけだ。そう、それはどこからも出てこない。ただ、「われわれはみんな、他人から強制を受ければそれは不正だという感覚を現にもっている。表現の自由や人身の自由、信教の自由も大切だと考えている。その一方で、自分の表現や宗教のために他人を強制することが正当だとは考えていない」。これは、言うまでもなく自分自身の身体に対する「排他的」な支配をお互いに認め合っていることである。その発想こそが自己所有権にほかならないのだ、と森村氏は言う。
心理的な説明によって、また、哲学的な正当化によってそれを根拠づけることは構わない。しかし、単に道徳的な直感に由来するということでいいのではないかというのが森村氏の主張だ。私たちは、自らの身体を感じ取ることができる。反対に、他者の身体はどうやっても感じ取ることができない。自分が傷つけられれば痛いが、他者の痛みは感じ取れない。この経験的事実が、何よりも自己所有権を示している根拠である。この理論の立て方に編集子は、プラグマティズムの思想を感じる。リチャード・ローティの言う意味でのプラグマティズムである(自分たちの目的に役立つものを「真」と考える)。リバタリアニズムとプラグマティズムには、案外深い関係があるのかもしれない。
「ケインズ主義最小国家」論が示唆するもの
稲葉振一郎氏のインタビューのポイントは、大きく三つあった。一つは、自由を問題とする時に、少なくとも哲学的な「自由意志」の問題と、政治的・社会的な「自由」の問題の二つのオーダーがあるということ。両者をうまくリンクできていないというところに、現代のリベラリズムの問題点が潜んでいないかという指摘である。今日、リベラリズムを正面切って論じることにある種の恥ずかしさがあるとすれば、それは両者をうまく結び付ける接点が見出せないからであろう。二つ目は、リベラリズムが、個人の合理性に基礎づけられた道徳を前提に成り立っていることの問題点。「生きていることがうれしい」ということを自然の与件としていること自体に問題がないのかという疑問である。人間における動物としての相を問題にしないで、道徳や法の水準の成立する相しか考えてこなかったことに対する反省である。リベラリズムの可能性を問う時に、「動物化」という現象をどう射程に収めることができるかが一つの鍵になってくる。三つ目は、リベラリズムのプラクティカルな有効性をいかにして見出すかという問題である。具体的に、ケインジアン・リバタリアニズムというアイデアが出され、その可能性を探るべくいくつかの論点が明示された。
最初の「自由意志」と現実の「自由」の問題がつながっていないということについて。対談の廣中氏の発言に関して触れたように、実際には両者のかかわりは大変に深いのである。リンクしていないどころか、むしろ複雑に絡み合っていると言った方がいい。だか、もとより稲葉氏が指摘しているのは、そういう現状についてのコメントではなくて、その関係をうまく整理できていないことを突いているのだ。政治的・社会的な文脈では、それは自明なものとして改めて問題にされるようなものではないと考えられている。しかし、「自然科学的世界観と人間の自由意志の存在の想定とをどう両立させるかということは優れて現代的な課題」と稲葉氏が言うように、今日、さまざまな場面で取りざたされている「自由」を巡る問題の多くは、まさにこの二つのオーダーの接触面で起こっている。対談の議論と、稲葉氏の問題意識は完全に重なっているのである。注目したいのは、二つ目の問題も、対談の争点と二重写しになっていることだ。ここでも、いちばんの問題点は、「自由」の自明性にある。「一般に言われる動物のレベルの健全さというものを、人間は一様に備えているというふうに考えられてきたがどうもそうではなく、道徳や法が効かない水準がある」ことがわかってきた。クスリ(ドラッグ)を自由意志で飲みそれを幸福と感じられる人間は、リベラリズムにとっては埒外な者としてその対象にもしてこなかった。しかし、もしもそうした人間が大衆化したとしたら、リベラリズムは彼(彼女)らをどう捉えるのだろうか。これはリベラリズム固有の問題ではなくて、私たちすべてに与えられた課題であろう。「人間」の新たな定義が必要という対談の指摘が、ここでも繰り返されているのである。
三つ目の問題は、稲葉氏のインタビューのハイライトでもある。稲葉氏の立論の前提となっているのは、不況やバブルの発生に関して、ケインズ主義経済学は新たな理論的な枠組を提起したというところにある。すなわち、市場が完全な競争原理にもとづいていても不況は起こる。そういう状況下では、流動性選好という効用に着目することで有効な経済政策が打ち出せる、そういうモデルをケインズが出した。そのことを再評価しようというのである。このモデルで見る限り、現在日本で進められている構造改革は、今日の不況をより悪化させる方に働く恐れがある。リベラリズムを貫徹するのであれば、むしろ市場経済を良い方向へ回復させる政治的介入をある程度容認することも必要なのではないか。市場そのものが自滅してしまっては、市場経済を最優先するリバタリアニズムもその主張を退けざるをえなくなる。何はともあれ市場をきちっと機能させることを最優先させるべきである。そのためには、自明とされてきたケインズ経済学を新たな視点から見直して、有力な武器として活用する方法を見出すことだ。それは、リベラリズム(の考える最小国家)に、ケインズ主義をインボルブすることでもある。最小国家か福祉国家か、その選択はこれまでリベラリズムの抱えるジレンマであった。この相反するベクトルに橋をかけ、生産的な妥協点を見出すこと。ケインジアン・リバタリアニズムという
二つの「自由」のイメージ
「自由」という概念は虚構である。字義どおりに受け取ると、「〈自由〉はまったくのつくりもの」ということになるわけだが、仲正昌樹氏が言っている意味は少し異なる。簡単に整理しておこう。
キリスト教とプラトニズムの伝統にそって、西欧には人間には目に見えない本性があって、それがこの肉体の牢獄の中に囚われて苦しんでいるという考えがあった。だからこそ肉体と切り離して精神を解放させる必要がある。それが「自由」だと考えられてきた。だが、実際にそんなものがあるわけではなかった。カント以降の近代哲学の大前提になっている「自由な人間性」は、結局のところつくられたもの=「虚構」である。もっとも、ここで言う「虚構(フィクション)」は、架空という意味ではなく、無から有を創造するような、文字どおり「ポイエーシス(制作)」という意味である。
一方、ルソーの登場で、「自然人」という発想が生まれてきた。この考えは、人間は、もともと「自然人」としての無邪気さが抑圧されている。そのためには、そうした抑圧から欲望を解放する必要がある。それを「自由」と言い、「自然人」としての人間の自然への本性回帰だと考えられたのである。
一八世紀以降、古代ギリシア以降の"つくっていく"方の「自由」か、"本能のままに生きる"イメージとしての「自由」か、西洋思想の中でこの二つの「自由」の意味がごっちゃになってしまったのである。しかも、日本ではその混乱を抱えたままの状態で「自由」という概念が輸入されてしまったために、さらに事態はややこしくなる。「自由」を考えるにあたって、まずこの「自由」に関する思想的な混乱を把握しておくことがどうしても必要である。(ところで、バーリンの分けた「消極的自由」と「積極的自由」は、この二つの「自由」とどう関係するのだろうか。おそらく、この視点から見ると、両者はむしろあいまいである。こんなにきれいにスパッと分けてしまうから、かえって「自由」の概念がややこしくなってしまうのでないか、という議論も成り立つような気がする。この問題は、改めて追究する必要がありそうだ)。
たとえば、王政を倒して市民社会を立ち上げていく時に「人間本性」の回復ということが言われた。しかし、今言ったように前者の場合は「自由」は虚構であった。ゆえに、この場合「人間本性」とは言いつつも、実態はつくりものである。本当はそんなものはないのだが、それでは話にならないので、とりあえず「人間本性」なる虚構をつくりあげたのである。もとよりそれを「虚構」だと言ってしまうと、その正当性は弱くなる。なんとかそれを表に出さずに、それをそれとして提示し続ける必要がある。ここに、根本的な矛盾が生じるのである。つまり、社会を変革しようとする実践者自らがそうしたありもしない「人間本性」を頼りに戦うという構図ができてしまったからだ。
「主体化」という言葉がある。今言った文脈から捉え直してみると、「主体化」もまた虚構にすぎない。そもそも主体=subjectになるということは、be subject
toという表現に見られるように、何々に従うという意味である。「主体」という概念自体が、「人間本性」というものではないのである。「自己」にせよ「人間」にせよ、結局のところそのような形でつくられたものには違いないのだ。
ヒューマニズムの危険性
「人間中心主義のいちばんの問題というのは、人間であるという共通性があるのでお互いに平等であり、尊重すべきだとしている」ところにある。仲正氏は、フーコーのこの発言に続けて次のように言う。「人間という概念を拡大しすぎると必ず人間らしさを限定してしまい、そういう生き方をするように強いてしまうことになるから、人間をやめようと言った」。つまり、人間であることによってかえって窮屈になっているのなら、いっそ人間をやめてもいいと考えたのではないか。フーコーは、ヒューマニズムという考え方そのものに限界があることを示唆したのである。
フーコーは、「主体化」が形成されていくプロセスの中で、そうしたヒューマニズムがより明確に、そして強固になっていくことを明らかにしていった。たとえば、同性愛者というカテゴリーを生み出すことによって、逆にその反対項として「まともな主体性」というものを「つくり出し」ていく。最初に「まともな主体性」があるわけではないのだ。いわゆる「デフォルト/例外」図式を当てはめてみれば、デフォルト(初期値)が、「まともな主体性」ではなくて、同性愛者の方がデフォルトの位置にいる。そしてそれ以外の多数者が例外と見なされる。ところが、それが反転するのだ。いつのまにか、「まともな主体性」がデフォルトになり、同性愛者は例外となって、徹底的に差別化される。「デフォルト/例外」図式の特徴は、デフォルト、例外、双方とも根拠性が希薄なことである。もっと言えば、確たる根拠はいらないのだ。図式ができ上がったところで、事後的に根拠が形成されていく。この場合で言えば、「主体化」というものも、同性愛というものも、後付け的につくられたものである点では、どちらがより普遍であるかということはなく、まったく同じなのである。「自己」、「主体」、そして「自由」という概念も、ある意味ではみな事後的につくり出されたものである。問題は、何が普遍、初期値となりうるかということだ。
ヒューマニズムの危険性は、それが普遍なものと見なされた時に起こる。「人間」を最上位に置くことは、「人間」とは見なされない例外をつくり出していくことである。「人間」として、あるいは「人間」にとって、さらには、「人間であれば」という言葉の裏には、常にそうした危険性が付いて回る。私たちが自明なものと考えている、「倫理」や「モラル」も、それが「人間」に基礎づけられた概念である以上、決して例外ではない。相当に疑ってかかる必要がありそうである。
「自己」の再創造、「自由」の再定義
「自己」も「主体」も、そして「自由」も、つくられたものであるとしたら、私たちは何を根拠にすればいいのだろうか。そうした根拠不在の状況をポスト・モダンと言うのであれば、そのポスト・モダンを踏まえたうえで、新たな戦略を構築しなければならない。仲正氏がインタビューの後半で言及したドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域への権利」は、その一つの戦略知である。「イマジナリーな領域」とは、「周囲の〈他者〉たちとの相互関係の中で、〈他者〉たちを〈鏡〉としながら〈自己〉が形成されていく」というラカンの言う「想像界」のこと。「イマジナリーな領域への権利」とは、したがって、〈決定〉する主体としての〈自己〉を"自主的に"〈決定〉することのできる〈権利〉ということになる。つまり、簡単に言うと、「自己」を再創造する権利(法的・政治的)のことである。「自己」というものが、確定的でないのであれば、事後的につくり出していけばいいという考えだ。それも、「自己」は個人に完結しているわけではないのであるから、複数の「他者」も交えて再創造すればいいという。重要なのは、そうやってつくり出していくプロセスである。ああでもないこうでもないと悩み逡巡することそれ自体が「自己」の形成だということになる。
対談に触れて、物理的な強制や規則からの「自由」だけではなく、「〜への自由」という「自由意志」がポイントになると言った。この「イマジナリーな領域への権利」は、「自分の意志を決めるために猶予を与えられる権利」とも理解できる。要するに、虚構としての「自由意志」を、あえて虚構として再創造、つくり直していくことだ。
なんの原因ももたずに「無から」行為の選択を行う力。そうした「無から」の選択、「無から」の力として、「自由」を捉え直す。それは、「人間」という虚構、そのロジックからいったん離れることから見えてくる。私たちは、「自由」の概念を、「自由」の領域を、新たにつくり出していく必要があるのかもしれない。それはまた、動物性の水準から「人間」を捉え直すことであり、人間観や政治観をつくり直していくことにもつながってくるのではなかろうか。
(佐藤真)
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