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「こころの病い」の時代とエコロジー
こころの周辺で何かが起こり始めている。
PTSD、ADHD、LD、DID、GID、CS、IBS。今、聞きなれないこうした横文字が、新聞やTV、雑誌を賑わせている。これらはそれぞれ、心的外傷後ストレス障害、注意欠陥多動性障害、学習障害、解離性同一性障害、性同一性障害、化学物質過敏性障害、過敏性腸症候群の頭文字をとったものであるが、いずれも「こころ」と深いつながりをもつ。もちろん、ひきこもりやトラウマ、自傷行為、パニック障害、思春期拒食症といった言葉はすでに何年も前からメデイアに頻繁に登場している。また、必ずしもこころだけに還元できないものかもしれないが、ドメスティック・バイオレンス、マインドコントロール、アダルト・チルドレン、児童虐待、さらには癒しといったものまで加えれば、おそらく私たちは毎日これらの言葉を目にしているのではないだろうか。
こころへの関心が高まっていることは確かだろう。文化庁長官にユング心理学の学者が就任する時代である。聞くところによれば、現代の人気職業の上位に臨床心理士を挙げる若者が多いという。まさに、現代は「こころ」の時代なのだ。ただ、それは言うまでもなく、病気や社会問題を伴うようなネガティヴな意味での「こころ」である。だから、正確には、「こころの病い」の時代というべきであろう。
こころの周辺で何かが起こり始めている。それは、こころをとりまく環境が大きく変わりつつあることを示しているのではないだろうか。現代のこころの置かれている状況を、今号は「エコロジー」という観点から捉えてみようと思う。
見直される心身医学
従来、こころを扱う科学は心理学であった。心理学は言葉からのアプローチと、行動からのアプローチと大きく二通りの方法でこころについて考えてきたといえる。前者は言語とこころの中身とのかかわりを探るという意味では、こころそのものに直接関与しようというものである。一方、後者は、こころのありようを外部から眺めるものである。人間の行動はこころの表象であるという認識にもとづいて、こころにいわば間接的に迫ろうというものだ。言うまでもなく、前者は精神分析であり、後者は行動主義である。
こうした二つの視点に対して、こころは脳にあるという立場で考えるのが認知心理学だ。認知心理学は、こころの働きに照準を合わせて、脳機能のメカニズムとしてこころを捉えようというものである。この立場を押し進めたものが脳機能還元主義で、いっさいのこころの現象は、脳内過程によって生み出されるというものだ。
ところで、こころを考える時に、こころだけを対象にしていては限界がある。というのも、こころはからだと一体になっているからだ。からだからこころを分離してはこころの実態には迫れない。思えば、言語(発話)は喉や呼吸器官を使うという意味でからだなくしてはありえないものであるし、行動の表象はからだの表象とイコールである。いわんや脳は臓器の一つであり、からだそのものだ。つまり、心理学はこころそのものを対象にしているといいながら、そのじつからだも射程に含まれていたと考えても間違いではない。間違いではないのだが、なぜかからだについて心理学は深く言及することはなかったように思われる(からだを真正面から取り上げたのは生態心理学が最初である)。
こころとからだを切り離してしまったのは医学であるという反省を出発点として、誕生したのが心身医学だ。日本では心療内科という名前がつけられているが、医学の側からこういう考えが生まれてきたことに注意したい。こころとからだは二つで一つという前提のもとにこころをからだとの相関で捉えようという発想は、医学の一分野として生まれてきたのである。心身医学が扱う中心は、自立神経系、内分泌系、免疫系などの生体調節機構である。とくに、ストレスとの関係でそれぞれの生体調節機構がどう働くかがその研究対象になっている。ストレスというゆがみが及ぼす功罪を考えるのである。つまり、心身医学はこころをからだとのつながりの中で、ストレスとのダイナミックな関係として考察するのである。心身医学は、言い換えればこころとからだの生体=生態環境の科学なのだ。
冒頭に挙げた現代のこころの病いに共通するのは、奇しくも自立神経系や内分泌系、免疫系などの生体調節機構と深く連動する病気が多いことに読者は気づかれるだろう。その理由を探ることも今号の特集の一つの目的ではあるが、それはひとまず措くとしても、現代のこころの問題が、からだとの深いつながりをもっていることに大きな特徴があることは確認しておきたい。
免疫、自然治癒の力
あなたは「顆粒球人間」か、それとも「リンパ球人間」か。そんなコピーが表紙を飾っている『未来免疫学』(インターメディカル)という本に出会った。胃潰瘍やがんになりやすい人、ストレスやおなかの空いている時、あるいはからっと晴れた日、人は交感神経が優位になって顆粒球が多くなる。また、花粉症やアトピーになりやすい人、ゆったりとした性格の人、満腹時、あるいは雨がそぼ降るほの暗い日、人は副交感神経優位になってリンパ球が多くなる。交感神経緊張状態にある人は「顆粒球人間」で、逆に副交感神経が働いている状態にある人は「リンパ球人間」。両者のバランスから人間を捉え直せるのでないか、というのが本書の内容であった。
この本の著者安保徹氏は、免疫学の専門家だ。安保氏は、免疫機構を研究していく中で、免疫の働きを担う白血球が顆粒球とリンパ球からなることをつきとめた。そして、その割合が自立神経系と同調し、絶えず変化していることを科学的に明らかにしたのである。顆粒球が多くなっている人を「顆粒球人間」、逆にリンパ球が多くなっている人を「リンパ球人間」と二種類に分けてみる。すると、その人のからだが今どんな状態にあるかよく理解できるようになるという。おおよそどっちのタイプに属するか人間を二通りに分けることもできるが、一人の人間でも「顆粒球人間」になったり「リンパ球人間」になったりする。人間とは、その両者をリズミカルにいったりきたりする存在であり、それはまた人間という生きものの面白いところだという。
安保徹氏は、この考えをさらに進めて、病気の原因とは何かという問題に踏み込んだ本を著した。それが、『医療が病をつくる』(岩波書店)で、ここでは現代の病気の八割近くは、広い意味でのストレスや薬剤の使用法の間違いから起こっているという考えを示した。ストレスの持続は交感神経を緊張状態にする。交感神経緊張状態は、顆粒球増多を招き、病気を発症させる引き金となる。したがって、まずストレスを取り除くことが治療の第一歩になるという。それには、顆粒球とリンパ球の拮抗関係、そのメカニズムを理解したうえで、個体の持つ組織修復能をうまく導き出すことにあるというのである。
これまでの免疫学はその発生機序やメカニズムにばかり研究が進んでしまったために、生体を修復するという機能の研究がおろそかになってしまった。本来重要と思われるのはむしろこっちで、何もいたずらに難しく考える必要はなく、白血球の働きをきちっとおさえることから免疫の仕組みを考えればよい。それをあえて新しい未来の免疫学と呼ぶとすると、それは「こころとからだをつなぐ免疫学」なのだというのだ。
私たちは、「こころとからだのエコロジー」を、免疫学の最新の研究を探るところから始めてみたい。もちろん、お尋ねするのは、『未来免疫学』『医療が病をつくる』の著者新潟大学大学院医歯学総合研究科教授・安保徹先生である。テーマはズバリ「こころとからだをつなぐ免疫機能……顆粒球とリンパ球から見た人間」。免疫力を見直しその修復能を高めれば、不治の病いといわれるがんにも対抗できるという。免疫という精妙なシステムを、「こころとからだをつなぐ」自然治癒力という観点から捉え直してみたい。
ストレスを主因とする過敏性腸症候群
極度の便秘や激しい下痢に悩む若い女性が多いといわれる。とくに会社や学校に行く日、あるいは月曜日の朝にそうした症状が出やすい。最近では、同じ症状を訴える男性も目立ってきたといわれる。ところが、レントゲンや内視鏡の検査をしても、潰瘍や炎症、ポリープといった病変は見当たらない。そのため「がんや潰瘍はないので放っておいても大丈夫」「死ぬような病気ではないので心配はいらない」と医者に言われ、悩み続けている。こうした腹痛、便秘、下痢の異常を訴える患者さんのおよそ二割は、IBS=過敏性腸症候群だといわれる。消化管の機能性疾患の一つだが、これまではっきりとした病態が示されないために、まともに取りあげられずにきたのである。しかし、何度もトイレに駆け込まなければならなかったり、腹痛で仕事もろくに手に付かない、また、熟睡できないなどの抑うつ傾向の患者さんも少なくなく、QOLの著しい低下を招いているということで、にわかに関心が高まってきた。
過敏性腸症候群の特徴の一つは、不安やストレスによって症状が出やすいことだ。脳が不安や精神的ストレスを受けると自律神経を介して胃や腸に情報が伝わり、運動異常を引き起こす。過敏性腸症候群はストレスを主因とする心身症なのである。
ところで、腸は脳と脊髄から独立していることを特徴としている。私たちが寝ている時、あるいは麻酔をかけられて寝かせられている時でも、腸は確実に働き続けている。交通事故にあって脊髄損傷を起したり、いわゆる脳死の状態であっても腸はその動きをやめない。「腸は自律能をもっている」という意味で「腸は小さな脳である」という(藤田恒夫著『腸は考える』岩波新書)。
過敏性腸症候群の患者さんは、健常者と比較して大腸に知覚過敏が起きているということを検証しているのが東北大学大学院医学系研究科人間行動学教授・福土審氏である。福土氏の研究によれば、脳と腸の間では情報のやり取りがあり、脳から腸へのシグナルだけではなく、反対に腸から脳へのシグナルもあるということがわかった。この相互関係を「脳腸相関」と呼び、過敏性腸症候群の発症の仕組みを明らかにしようというのだ。福土審氏に、こころとからだの結び付きを脳と小さな脳である腸の相関、「脳腸相関」を手掛かりに探っていただく。
生物学的性と自己意識としての性の食い違い
私たちは、男と女のどちらかに属している。少なくともこれまではそう考えてきたし、それについて疑うなどということはなかったはずだ。自分が男であるか女であるかは、自明である。履歴書やパスポートの性別欄に男/女のどちらかを書き込むことに躊躇するなどという事態が起ころうとは考えてもみなかったのである。もちろん、両性具有や半陰陽ということがないわけではなく、そうしたことが存在することは知られていた。しかし、それはあくまでも例外的なことには違いなく、ほとんどの人は間違いなくどちらかの性に帰属している。
ところが、性には生物学的な性のほかに、自己意識・自己認知としてのもう一つの性があるのだ。しかも、生物学的な性には外内性器の違いのほかに、脳内の性差があって、外内性器の差異と脳内の性差が一致しない場合があるという。発生生物学、内分泌学の立場から、性そのものが可塑的なものだということも明らかになった。つまり、性には、からだの性とこころの性があり、両者は必ずしも一致しないということがわかってきたのである。
生物学的性別=セックスと性の自己意識・自己認知であるジェンダーが一致しない、こうした性の同一性が障害されている場合を「GID=性同一性障害」という。生物学的性に違和感をもち、自己意識・自己認知としての性の方がしっくりいく。そういう場合、自らの生物学的性を受け入れることができず、そのために身体の性別を変えたいと彼ら/彼女たちは希望する。このようなものを性同一性障害というのである。
「性同一性障害」はそれまで自明とされていた男女という性差に対して大いなる疑問を突きつけた。ヒトにとって男であること、女であることはどういう意味を持つのか。あるいは、「男らしい」、「女らしい」とは何を意味するのか。さらには、ヒトにとっての性行為は、生物の生殖と同じなのか違うのか……。これまでの性の固定概念は、「性同一性障害」をきっかけに崩れ始めた。
一九九六年、埼玉医科大学の倫理委員会が性同一性障害を医学的治療対象と認め、治療の一つの手段として、性転換手術を含む手術療法も正当な医療行為であるという判断を下した。この決定がいかに画期的なものであったかは、その後の反響の大きさからもうかがえる。医学の領域で性の多様性が真剣に議論される道が開かれたのである。
こころとからだは、性という視点からみる限り決して一義的な関係では捉えることはできないのだ。性の自己意識・自己認知とは何か、それはこころとからだの自己意識・自己認知とどうかかわるのだろうか。埼玉医科大学倫理委員会の委員長として、性転換手術の実施に道を開いた埼玉医科大学副学長・山内俊雄教授におうかがいする。
ポストモダンと解離現象
男女のどちらかの性をもつということがもはや自明ではなくなる。同じようなことが、じつは自分の存在においても起こり始めているとしたら……。解離性障害を簡単に言うと、「私は私」「自分は自分」という一貫性が感じられなくなり、自分がいる現実もリアリティを失ってしまうような状態になることだ。自分は、あるまとまりと連続性をもった存在であるというということが確信できなくなり、昨日の私と今日の私、あるいはAさんと話している私とBさんと話している私はまったくの別人のように思えてしまう。現実感が希薄になって、自分と現実、自分と身体、さらには、自分自身が分離されて自分と自分の間にあたかも膜のようなものができたとように感じられる。つまり、「私」という存在自体の自明性がゆらぎ、あいまいなものになってしまうのだ。
こうした解離性障害がさらに進んだ状態が多重人格で、自分そのものが複数化してしまう。自分の中に、Aという自分とBという自分がいる。Aは、Bというもう一人の自分のことを知らない。ところが、しばしば自分はBになり、その時は、もちろんAという自分の存在を知らない。これは個人の中に二人の人格がいる例だが、多重人格には数人、時には数十人という人格が現れる場合も稀ではないという。
唐突にさまざまな人格が現れる。柔和で、いかにも人に好かれそうな女性が、突然会話の途中に話し相手に罵声をあびせる。形相は一転し邪心のかたまりのような表情になって、ののしり続ける。ところが、それもつかの間、急に男性のような野太い声で自分はある著名なスポーツ選手などと言い始める。これは、あるドキュメンタリー番組に登場した多重人格者の例であるが、こんな奇妙なことが起こるのである。しかも、多重人格を含む解離性障害は、ここ十年で猛烈な数で増えているというのだ。
あるアメリカの報告では、多重人格の診断は七○年代までの五○年間にわずか一二例を数えるにすぎなかったが、八六年には約六○○○例に膨れあがり、現在では人口の一%が潜在的な患者だというのである。もちろん、これは日本においても例外ではなく、同様に九○年代から患者数は激増しているという。たとえば、神戸の連続児童殺傷事件の少年、西鉄高速バス乗っ取り事件、奈良の看護婦による毒物混入事件などの精神鑑定で、「離人症などを主体とする解離性障害」の診断名が下されたことは記憶に新しい。
「多重人格現象こそが、ポストモダンの想像的戯画にほかならない。」
多重人格を含む解離性障害は、九○年代以降のいわゆるポストモダンの状況を忠実に反映した現象だと述べたのは精神科医の斎藤環氏である。八○年代にもてはやされたフランス現代思想に「n個の自我」という概念があったが、解離性障害はまさにそれを実現化したものではないかという。しかも多重人格の交代人格は、いわゆる「キャラ立ち」的なニュアンスを強く感じさせるという意味でもきわめて九○年代的だというのだ。
そこで、この不思議で奇妙なこころの病いについて、斎藤環氏にお聞きする。
二一世紀のエコロジー思想
「地球という惑星は、いま、激烈な科学技術による変容を経験しているのだが、ちょうどそれに見合うかたちで恐るべきエコロジー的アンバランスの現象が生じている。このエコロジー的アンバランスは、適当な治療がほどこされないならば、ついに地上における生命の存続をおびやかすものになるだろう。」
思想家であり精神分析医であったフェリックス・ガタリは、『三つのエコロジー』という著作の冒頭でこう述べたうえで、現代の地球的な生態学的な危機に対して、自然環境の悪化を食い止めるためだけではダメで、社会的かつ精神的な生態学が必要だと説いた。ガタリはこれを新しいエコロジーと呼び、来るべき二一世紀の変革のための思想であると宣言した。
ガタリは、エコロジーには三つあるという。一つは環境エコロジー、二つめは社会的なエコロジー、そして三つめが精神的なエコロジー。ふだん私たちは、狭義のエコロジーである環境エコロジーのみをエコロジーと呼んでいるけれども、じつは三つのエコロジーが相互補完的に関係しあっているとガタリは指摘した。ガタリはそれをエコゾフィーという美的--倫理的な課題として展開することが、わたしたちの生の実践であると主張したのである。
こころとからだは一体となってエコロジカルな生態環境を形成している。しかし、今、それは至るところで軋みを起こし始めている。とりわけこころは、からだとのつながりを失い、不安や喪失、苦痛にあえいでいる。私たちは、そうした現代の状況をこころの危機と考え、改めて生態環境という観点に立ち返ってみるところからこころの問題、さらにはからだの問題を考えてみようと思う。
最後に私たちは、この来たるべき二一世紀のエコロジー思想--------こころとからだ、その周囲を取り囲む外部環境をも一体とみる--------に耳を傾けてみたい。お尋ねするのは、『三つのエコロジー』の翻訳者でガタリと親交のあった竜谷大学教授・杉村昌昭氏である。
(佐藤真)
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