| |
談 no.65 WEB版 | |
特集:〈触〉の臨床 | |
Translated : Andrew Dewar
photo:鈴木理策 | |
| | |
|
| 肌理、まみれる、迎える……シネステジーとしての <触>
鷲田清一 Kiyokazu Washida
ひらがなで「からだ」と書く表現から感じられることは、肌理の感覚です。皮膚というか表面というか、身体の内部ではなく、からだそのものを包んでいるテクスチャーの感覚。われわれが、今、感じ取れる身体的なリアリティは、おそらくこうしたテクスチャーの感覚に置かれているんじゃないかと思います。〈触〉の志向へ、さまざまなモノや考えが、今、ジワジワッと移行しているとすれば、それはとりもなおさずテクスチャーの感覚にわれわれ自身が何かを感じ取っているからでしょう。
-------------------------------
he Japanese word “karada”, meaning body, makes one think of the sensation of texture.
The skin, our surface, gives us a sense of texture that surrounds the whole body,
but not a sense of our insides.
The bodily reality we sense doubtless comes from this sense of texture.
If various things and thoughts are now steadily moving us toward an intention
to touch, that is because we ourselves are getting some sensation from our sense
of texture. |
わしだ・きよかず
1949年京都市生まれ 。
京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
現在、 大阪大学大学院文学研究科教授。哲学・倫理学専攻。
著書に、『「聴く」ことの力』TBSブリタニカ、1999、
『皮膚へ』思潮社、1999、
『現象学の視線』講談社学術文庫、1997、
『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書、1996、
『ことばの顔』中央公論新社、1994、他多数がある。 |
|
|
| 触覚とは何か……触受容器研究から探る
宮岡 徹 Tethu Miyaoka
視覚や聴覚、味覚、嗅覚といったほかの感覚は特定の感覚器官を持って情報をキャッチしていますが、触覚は全身の皮膚でそれをやっています。触覚が原始的な感覚だといわれるゆえんは、このようにからだの皮膚の全体にそれが散在しているからでしょう。しかし、触覚研究者から言わせれば、それはあえて視覚や聴覚のように感覚器官としてまとまる必要がなかっただけです。むしろ全身に広く散らばっているからこそ触覚としての意味を持つ。そういう観点からいえば、原始的とか下等な感覚という言い方は正しいとは言えません。
-------------------------------
Sight and hearing, taste and smell all have specialized receptors to capture sensations,
but the sense of touch uses the skin of the whole body. The reason that touch
is often considered a more primitive sense than the others is because its receptors
are dispersed over the whole surface of the skin.
But researchers studying touch say that this is simply because there was no need
to concentrate the receptors into a single organ like the ear or eye.
Rather, the real value of the sense of touch is in its dispersal over the entire
body.
Seen in this way, touch cannot be called a primitive or lesser sense.
|
みやおか・てつ
1949年東京都生まれ 。
大阪大学大学院文学研究科博士課程中途退学。
医学博士(名古屋大学)。
現在、 静岡理工科大学情報システム学科助教授。
共著書に、『触覚と痛み』ブレーン出版、2000、
『感覚知覚心理学ハンドブック』誠信書房、1994、他がある。
論文に、Miyaoka,T. et al.,“Mechanisms of fine-surface-texturediscrimination in human
tactile sensation”,The Journal of the Acoustical Society of America,
105,2485-2492,1999,他がある。
|
|
|
| 口の中で <ふれる> もの……口腔領域の生物学的重要性
上田 実 Minoru Ueda
口の中の三叉神経というのは、モグラのヒゲと同じような働きをしているんです。モグラは、暗いところに生息しているせいで目が退化していますが、眼窩下神経がヒゲにつながっていてるためヒゲは非常に敏感で、ヒゲでもって餌を探すことができます。それと同じことが子供の時にも起こっていて、口の周辺は非常に敏感なんです。お母さんのおっぱいを探してみたり、食べ物を探してみたり、子供にとっては、口が目の役割を果たしているんですね。口腔粘膜は皮膚よりずっと敏感なんですよ。
-------------------------------
The trigeminal nerve inside our mouth works in the same way as the mole's nose
feelers.
Because the mole spends its life in the dark its eyes have devolved, but since
the suborbital nerve is connected to the feelers around its nose, the feelers
are very sensitive, and useful in searching for food.
In exactly the same way, the area around the mouth of the human baby is very sensitive,
and helps the infant in finding its mother's teat and other food.
For babies, the mouth fills the role of the eyes. For this reason, our oral membrane
is much more sensitive than the rest of our skin. |
うえだ・みのる
1949年大阪府生まれ 。
京都大学工学部航空工学科卒業、東京医科歯科大学歯学部歯学科卒業、名古屋大学大学院医学研究科修了。
医学博士(名古屋大学)。
現在、 名古屋大学大学院医学研究科頭頚部感覚器外科学講座教授。
著書に、『カラーアトラス口腔顎顔面インプラント』上田実ほか監著、クインテッセンス出版、1995、
『咀嚼健康法』中公新書、1998、
『ティッシュエンジニアリング』上田実編著、名古屋大学出版会、1999、
『咬むことと脳の働き』デンタルフォーラム、2000、他がある。 |
|
|
|
(対談)坂部明浩×徳永和幸×高橋真樹
日常空間を拡げる……触れることのエコロジー 日常生活の「触る」には「知らせる」という側面とモノとしての「接触」という両面があるということですね。そのような目でこの生活空間を改めて見まわすと面白いんですね。視力以上にわれわれの動作というか、無意識に触っている部分というのが非常に大きい。たとえば、われわれが頭の中で考えてしまうと、椅子というのは単に座るためのものだと固定的に考えてしまうので、最小空間でそこに到達していると思いがちですね。でも座るために私たちが何をやっているかというと、テーブルにむやみに触っていたりとか衣類のすそを遊ばせてみたりとか、いろんなことをやっているわけです。
-------------------------------
In daily life, “touch” contains the two aspects of “informing” and
“contacting.” It is interesting to reexamine our everyday space
in light of this thought.
Our unconscious and our actions are affected much more by touch
than by sight.
For example, when we think about a chair, the stereotypical image
that appears in our head is simply of an item to sit on, and we
tend to believe that when we sit we just sit.
But what we actually do when we sit is casually touch the table
in front of us, or play with the hem of our clothes; we actually
do more touching than sitting.
|
さかべ・あきひろ
1961年東京都生まれ。
早稲田大学政経学部卒。YKK建材部門勤務後、フリーに。ライター&プランナー。
郵便局とろう者界を縦断した「ろう者による『ふるさと手話便』コンクール」などのプランニング、
共著書に、『汽車旅にっぽん周遊』『らくらくバリアフリーの旅』昭文社、2000、他がある。 |
| |
|
とくなが・かずゆき 1971年長崎県生まれ。
長崎県立盲学校専攻科卒業。
鍼灸マッサージ師。 |
| |
|
たかはし・まき 1971年長崎県生まれ。
花園大学中退、現在法政大学2部法学部在学中。 |
|
|
〈触〉の臨床とは何か。
からだ全体に広がる感覚
「触ったり」「触れたり」することを、私たちは日々どれだけ意識しているだろうか。外界の様子を知るために、まず触ってみるなどということはあまりない。あったとしても、無意識にやっていることがほとんどで、意識にのぼることは少ないだろう。外部からの情報は、眼や耳に頼っていることがほとんどだ。「触覚」に対する私たちの関心も、視覚や聴覚、味覚といった感覚に比べるとかなり低いものと思われる。
だが、いうまでもなく、ヒトにとって触覚はなくてはならない感覚の一つである。たとえば、手。ヒトにとって、手の働きは重要だ。ヒトの行う作業の大半は手を介して行われる。その際、手は必ず外界の事物と接触し触れることになるわけだから、「触ったり」「触れたり」することは、じつは日常生活において数限りなく起こっていることなのだ。
もちろん手だけではない。通勤・通学の満員車両で他人と接触することは日常茶飯起こることであるし、第一われわれは立って歩くわけだから、足の裏は常に地面と接触していなければならない。
日々の自分の行動を思い起こしてみよう。椅子に腰掛けようとする時には、椅子にまず手を触れて、背の部分を引き出し、おしりの位置をさだめて、腰を下ろす。原稿を書こうとする時には、ラップトップ式のコンピュータのふた(液晶部分)を手で開けて、スイッチを入れて、ソフトがたちあがったところで、両手の指を総動員して文字を入力する。椅子に座って文字を書くというただそれだけの行為の中に、すでに外界との接触の機会は溢れている。一連の作業は、どれ一つとっても外部の事物と接触することなしにその行為を遂行することはできないのだ。
そうやって改めて見直してみると、われわれは常に何かに「触り」「触れ」ている。手や足のみならず、からだのあらゆる場所は、外界にあるあらゆる事物と常に接触し続けているのである。
にもかかわらず、触覚はほかの感覚に比べて意識にのぼりにくい。それはなぜだろうか。触覚は、特別な感覚器官を持っていない。視覚ならば眼、聴覚ならば耳というように、視覚や聴覚は固有に発達した感覚器官を持っている。ところが、触覚の場合それに該当する器官はない。あるのはからだ全体に広がる皮膚感覚である。触覚は、ほかの感覚器官とは異なり、いわばからだそのものが一つの感覚器官なのだ。これは、ほかの感覚にはない大きな特徴である。とくに意識して捉えられることが少ないのは、このように皮膚の全体に広がる感覚だからだろう。
今号では、この触覚のメカニズムを通して、「触る」「触れる」という経験について考えてみようと思う。触覚は身体にとってどのような役割を果たしているのだろうか。触覚とは私たちにとって、どのような意味を持つ感覚なのだろうか。〈触〉の実態とそのシステムを探ることによって、感覚器官の錯綜体としての身体に迫ってみたい。
<皮膚・皮膚感覚のしくみ
触覚は、からだ全体を被う皮膚と深いつながりのある感覚である。まず、皮膚のしくみについておおまかに述べておきたい。
皮膚は人間のからだの中で、最も大きな器官である。成人の場合でいうと、面積にして一・六〜一・八平方メートルあり、重さは三〜五キログラムに達する。皮膚はどの器官よりも成長が速く、常に新しく生まれ変わっている。これも皮膚の特徴の一つだ。
皮膚には五つの役割があるという。一つは、外部からの機械的な刺激や熱、化学的な障害からからだを保護すること。二つ目は、冒頭で述べたように、外界の状況を探査する感覚器官としての役割。三つ目は、体温の調整とその保持。四つ目は、外界から酸素を取り入れる呼吸作用。五つ目は、体内に生じた老廃物の放出である。
次に、皮膚を組織構造から見てみよう。いちばん外側から体内に向かって、表皮、真皮、皮下組織という三つの異なる組織から構成されている。外界から身を守るという目的から見ると、最も重要な働きをするのは上皮組織の表皮だ。表皮はケラチノサイト(角化細胞)からできていて、基底層から上方に押し出され、さらに表皮の上皮(外界との接触面)の最下層から最上層へと移動し、約四〜五○日で垢となってむけ落ちる。この細胞の入れ替わりをターンオーバーという。要するに、細胞がトコロテンのように内側から外側へ向かって押し出され、その途中で次第に乾燥し、表面に達した時には干からびてはげ落ちる。このターンオーバーを、皮膚は生涯繰り返すのである。
表皮の下にある真皮は、コラーゲンという線維組織で、別名膠原線維といわれる。いわゆる膠で、革製品は動物のこの部分をなめしたものである。
真皮の下にある皮下組織は、体内の内側の筋肉や骨と接する部分で、脂肪からできていて、皮膚にとってはクッションの役目をする。また、体温を保持するのも皮下組織の役割だ。
感覚器官としての皮膚感覚には、触覚、圧覚、温度感覚(温覚、冷覚)、痛覚がある。触覚と圧覚は、モノと接触したり、皮膚に圧力が加わった時に感知する感覚である。触覚と圧覚を分ける場合もあるが、感覚を感知する受容器のレベルでは両者の境界はあいまいである。したがって、両者を合わせて「触覚」と呼ぶ場合もある(「触覚とは何か」東山篤規『触覚と痛み』所収)。本稿では、東山氏の説に準じて、両者を合わせて「触覚」と呼ぶことにする。
温度感覚は、熱いもの、冷たいものに触れた時に感知するもの。また、痛覚は、たとえばトゲが刺さった時に痛いと感じるような、いわゆる痛みの感覚である。
自分の手足が今どのような位置にあるか、自分の手足がどのように動いているか、あるいは、自分の手足がどのように緊張しているか。私たちは、こうした感覚を知らず知らずに受け取っている。これらのからだに関する状態を知らせるのが自己受容感覚だ。この自己受容感覚と皮膚感覚を合わせて、体性感覚という。視覚や聴覚の機能が欠落した人間は少なくないが、体性感覚が欠落した人間というのはほとんどいないと考えられる(前出、東山)。その意味からいうと、体性感覚は人間にとってきわめて基礎的な感覚だといえる。
私たちのからだは、先に述べたように、外界からの刺激のちがいによってそれを受容する感覚が異なる。
これらの感覚刺激を受け止めるのは、視覚であれば視細胞、聴覚であれば聴細胞、においであれば嗅細胞であり、どれも細長い形状の細胞であることが共通している。これらを一括して感覚上皮細胞と呼んでいる(「感覚器のはなし」新島迪夫)。上皮というのは、からだの表面やからだの内部にある面、胃などの内臓の内側を被う組織のことである。
なぜ異なった感覚器官であるにもかかわらず、上皮細胞と呼ばれるのかというと、じつはこれらはいずれも発生において、同じ上皮細胞を起源に持つからである。つまり、いずれの感覚器官も、もとをただせば体表の上皮細胞という共通した細胞から、進化、発展したものなのである。視覚、聴覚、嗅覚、そして味覚も、そのもととなる感覚器官をかたちづくる細胞は、いずれもからだの表面にあった上皮細胞に由来する。上皮細胞がそれぞれ都合のよいような形に集合していった結果、独立した別個の感覚器官を形成したのである。これらの感覚器官に対して、上皮細胞が体表に散在したままの状態で残ったものが体性感覚である。体性感覚は、感覚受容のために特殊化された器官を持つことがなかった。その理由は簡単だ。持つ必要性がなかったからだという(前出、東山)。
触覚は、からだが何かに接触したことを知らせ、また接触した対象の形状や表面の様子、またそのコントロールのための情報を提供する。痛覚は、からだへの侵襲が起こったことを知らせる。温度感覚は、体温のバランスを知らせ、また接触した対象の熱伝導率などの情報をもたらす。これらは、生命の生存には不可欠の情報であり、体性感覚以外の感覚に代替することは不可能な独自性を持つ。そして、何よりもからだの全体に広く散在することの方が都合がよい感覚である。ただ、その散在の密度は一定ではなく、かなり偏りがある。手や口唇部ではほかの部位よりその受容器の密度はずっと高い。
模式的にいうと、視覚、聴覚、嗅覚、味覚が特殊化した形でそれぞれの情報処理装置を経由して脳へ情報が伝達されるのに対して、触覚などの体性感覚は、からだの表面である皮膚や粘膜に直接埋め込まれた神経終末からそのまま脳へ情報が伝わるのである。
感触を探る
さて、機能という面から見ると触覚には次のような特徴があるという(前出、東山)。一つは刺激の強度に対する反応である。機械的な刺激が皮膚に与えられた時に、強い刺激に対しては大きな触覚が、また弱い刺激に対しては小さい触覚が生じる。ただ、皮膚圧には、強い刺激でも長く続くと次第に意識されなくなるといった「順応」の性質があり、また、同時に複数の刺激が与えられた時には、弱い刺激でもより弱い刺激は感じられなくなるという「対比」の性質がある。たとえば、ベルトを強く締めすぎてきついと感じたとする。ところが、しばらくそのままにしておくと、いつのまにかそれに慣れてしまって意識されなくなる。また、右腕を強くつねって痛みを感じたとする。その後で、今度は右手の腕をつねるのと同時に、左腕をそれよりもっと強くつねったとすると、左腕にしか痛みを感じなくなる。これらが、「順応」「対比」の例だ。刺激の強度に対する反応は、時間や条件によって変わるのである。
二つ目は、空間定位の働きである。たとえば、他人にからだのある部分をつねられたとする。どこをつねられたか、それをほぼ正確に言い当てることができる。あるいは、夏に夜道を歩いていて蚊に刺されたとしよう。暗くて視覚情報が得られなくても、刺された場所を同様に言い当てられるはずだ。これが空間定位の働きで、この機能は視覚や聴覚と独立して働いていることがわかる。
三つ目は、外界の対象の性質を知る働きである。触ることで、対象の湿性とか粘性とか弾性、つまり、それが湿っているか/乾いているか、ねばねばしているか/サラッとしているか、はずみやすいか/そうでないか、といった性質を知ることである。この機能も、視覚や聴覚を使わなくても、知ることができる。
これら触覚における機能の研究は、生理学の分野ですでに一九世紀から行われていた。なかでも、ウェーバー(Ernst.H.Weber)の研究はよく知られていて、とくに空間定位に関する知見は、その後の触覚研究に少なからぬ影響を与えたようである。皮膚感覚は、どの場所でも同じように感じられるのではなく、とりわけ刺激の強度や空間定位に関する感度は、からだの場所によってかなりばらつきがあるということを、ウェーバーは実験心理学的な方法で実証した。現在明らかになっている触覚刺激と感覚受容の関係における知見は、ウェーバーの研究に負うところが多い。
触覚は、触覚単独で感知される場合もあるが、痛覚や圧覚、温度感覚と複合化されて感じられることも多い。現代ではほぼ通念となりつつあるこうした考えも、今世紀の初頭までは一般化されていなかった。こうした触覚の複合感覚への理解を推し進めたのが、実験系心理学のティチナー(E.B.Titchener)である。ティチナーは、皮膚感覚において特殊な感覚である「くすぐったさ(擽感)」に注目し、それが単独の皮膚感覚ではなく、「かゆさ(痒感)」と同じように、圧覚や痛覚との相互関係で成り立つ感覚だという考えを提起した。ティチナーは、この考えをもとにして、感覚ピラミッドというダイアグラムを考案している。これは、「鈍い痛み」、「緊張」、「圧力」、「刺される痛み」の四点を底辺に、「くすぐったさ」を頂点とするピラミッド状の図だ。現在の研究から見ると不完全さは否めないものの、皮膚感覚のそれぞれの感覚が合成され複合化されることでつくり出される感覚として触覚を捉え直した意味は大きい。
わが国でも、触覚に対する優れた研究がいくつかある。その一つに吉田正昭氏の「表面触」の研究(一九六四年)がある。吉田氏は、暖かい/冷たい、堅い/軟らかい、粗い/滑らかな、濡れた/乾いた、重い/軽いといった対立軸をもうけて、紙、布、木、石、鉄といった二五種類の物質を、触覚的な観点から分類する研究を行っている。それによると、触覚のちがいは、たとえば金属性と繊維性では、比重、熱伝導、塑性、かたさ、面積によることが明らかになったという(「触覚の系統」吉田正昭)。吉田氏の研究は、触覚は、視覚や聴覚を介さないでも、独自にその対象の組成をある程度知ることができることを示唆している。
過去の研究により触覚に関して明らかになったことで、私たちにとって重要と思われることを挙げておこう。まず一つは、皮膚に広がる感覚領域のばらつきである。これは後に皮膚上の有毛部と無毛部における感度のちがい、それに伴う感覚受容器のちがいの発見へとつながっていく。同じ皮膚でも手や(とくに指)上唇(口唇部)は感受性において高いが、背中やふくらはぎは低い。手や上唇は毛のない(無毛部)皮膚であるのに対して、背中やふくらはぎは毛のある(有毛部)皮膚である。つまり、無毛部において触覚の感受性が強く働いているのである。もう一つは、何度も指摘しているように、皮膚感覚は皮膚感覚を構成するそれぞれの別個の感覚が独立して機能するよりも、複合化ないしは合成することによって得られる感覚だということだ。現代の触覚の研究は、だいたいにおいてこの二つの考えを基底に置いて進められていると考えていいだろう。
改めて〈触〉の感覚を問う
触覚を検討するにあたって、まず現代の触覚研究の動向を探ってみたい。お尋ねするのは、静岡理工科大学情報システム学科助教授の宮岡徹氏。触覚研究が、今、何を問題にし、どのようなことがわかってきたのかを俯瞰する。
触覚に関して、わかりやすくまとまった記述を読もうとすると、『感覚知覚心理学ハンドブック』(誠信書房、一九九四)がある。筆者も知覚研究に関する知見を参照する際に、これまで何度となく世話になっている。しかしながら、触覚研究は、精神物理学や神経生理学、認知心理学、脳科学などからのアプローチによって、近年飛躍的に進んだといわれている。とくに触覚受容器と情報伝達に関する研究のこの十年間の歩みは、これまでの研究を根底的に覆すほどだという。
『触覚と痛み』(ブレーン出版、二○○○)は、こうした触覚研究の最新の動向を伝えることを目的に書かれたと著者の代表者東山篤規氏は述べている。本書の中で、皮膚感覚における触覚受容器の研究について最新の研究成果を紹介しているのが宮岡徹氏である。宮岡氏によれば、触覚の生理的な神経機構の解明とは独立して、触覚の精神物理学の分野で振動刺激に対する皮膚感覚に関心がもたれ、数々の新たな発見が起こっているという。一九六○年代から始まったこうした動きは、今、生理学と改めて結び付くことによって、触覚のとりわけ触圧感覚について、一気に進展する可能性が出てきたというのだ。触覚における振動刺激との関連性。そもそも振動刺激とはどのようなものなのか。具体的な事例を元に解き明かしていただく。
ティッシュー・エンジニアリング(組織工学)という分野がある。生体組織を工学的な方法を用いてつくり出す技術のことだ。この分野で培養皮膚の研究に取り組んでおられるのが名古屋大学大学院医学研究科頭頚部感覚器外科学講座教授の上田実氏である。三年前、筆者も所属する文理シナジー学会のシンポジウム「生命倫理を考える」で、上田実氏は口腔粘膜を使用して培養した皮膚を熱傷の患者さんに移植し成果を上げているという報告を行った。今では、培養皮膚の研究を行うベンチャー企業も誕生し、本格的なティッシュー・エンジニアリングの時代を迎えつつある。しかし、シンポジウムでそれを初めて聞いたときは、まだ夢のような話のように思えたことを記憶している。わずか三年間で状況は一変したのである。上田氏は歯科医でもあり、その経験から口腔粘膜を培養皮膚に利用するというアイデアが生まれたのだという。口腔粘膜とは、いわば口の中の皮膚のようなものである。口腔粘膜の驚くべき特質を紹介していただきながら、口腔粘膜の触覚機能を中心に考察していただく。
昨年の一○月一四日に、「東京タワー点字物語計画…天の尺2000 」というイベントが開催された。これは、東京タワーの展望台へ至る外階段(五三一段)の階段の手すりのすべてに点字の物語を張り付け、視力障害者と晴眼者がそれに触れながら昇るというものであった。構築物、尺度、身体の関係。それを点字という「触ることば」を通して考えてみようというわけだ。このイベントの企画者の一人であるライターでプランナーである坂部明浩氏とこのイベントに参加された徳永和幸氏、高橋真樹氏に加わってもらい、視覚障害にとって触覚はどのような意味を持つのか、実体験を交えて話し合っていただく。
触覚は、視覚や聴覚を頼ることなく独立して働く。この意味は、たとえば布の表面を触ってみて得られるテクスチャーの感覚は、視覚を交えなくても得られる感覚だということだ。ただ、この場合テクスチャーの感覚には視覚的な要素が入り込んでいることは考えられる。逆に視覚は聴覚や触覚と独立して働くが、視覚に聴覚的要素や触覚的要素が入り込んでいることは十分にありうることだ。つまり、感覚は独立して機能するけれども、感覚が発動するただ中では、連動し共鳴することがありうるということである。大阪大学大学院文学研究科教授の鷲田清一氏は、かねてからそれぞれの感覚同士の連動、共鳴について言及されてきた。鷲田氏が主張する臨床哲学とは、「聴く」ことを重視する。「聴く」ことによって他者へと深くかかわっていこうとするわけだが、それはしばしば他者との交通の場をつくり出していくことになる。その交通の場では、感覚の連動、共鳴が大きな力となる。視覚は聴覚と連動し、聴覚も嗅覚と連動する。同様に触覚も、視覚や聴覚や嗅覚と連動し共鳴する。この独立しながらも互いに浸透し合うような関係、ここにこそ感覚の生々しい現場があるように思える。
私たちは、最後に、この触覚を例に感覚同士の連動、共鳴について考察する。臨床哲学による〈触〉への接近。それは、触覚の科学の最前線の知見と偶然にも接近することになる。
(佐藤真)
| | |
〈触〉の哲学、〈ふれる〉ものとの対話
応答特性の持つ意味
感覚器官の発生と歴史を見てみると、大まかにいえば、単純なシステムから複雑なシステムへの進化であった。たとえば、ゾウリムシはハンマーでからだの一部をたたかれると、そこから逃避しようとする反応を示すという。また、好みの温度帯に集合する性質も持っているという。同じ単細胞生物のミドリムシは、光をキャッチする眼点を持ち、光の方向へ集まる性質があるそうだ(『生命の精密機械』大沢文夫編)。単細胞生物には、すでに機械刺激、温度刺激、光刺激を受容する感覚システムが備わっているのである。それが多細胞生物になると、こうした体表面に散らばっていた感覚細胞同士が集まってくる。editor's
note [before] で触れたように、感覚細胞同士が集合することによって、視覚や聴覚のようにまとまりを持った感覚器官へと発達進化するのである。
それを近接感覚から遠隔感覚への進化であると述べたのが解剖学者の三木成夫氏であった。(『談』no.53「食の哲学」)。近接感覚とは触覚と味覚をさし、遠隔感覚とは嗅覚、聴覚、視覚をさす。一般に下等動物は、自分の身の回りのできごとをからだ全体を使って受け取る。そのために感覚細胞がからだの隅々までちらばっていた。それらは、直接接触(近接)することによって感ずる感覚である。それに対して、高等動物では、自分のからだから遠くにあるできごとにも感ずるようになる。すなわち、自分のからだに直接接することなく、距離をおいても感ずる感覚(遠隔)である。身近なものからより遠くのものへ、生物の進化とは、感覚の拡張の歴史でもあった。
触覚の中でも自ら進んで情報を得る機能を特化させたのが無毛部である。有毛部が受動的であるのに対して、手のひらや足の裏などの無毛部は能動性を合わせ持っている。宮岡徹氏はインタビューの中で、この無毛部における研究が触覚に関する研究を大いに前進させたと指摘する。なかでも触覚を形成する四つのレセプターの機能特性が明らかになったことは大きい。たとえば、触覚の独自性だ。触覚は視覚や聴覚とは独立した感覚であり、視覚よりも微細な特徴を検出できる機能性を持っている。同じ体性感覚である自己受容感覚からも独立していて、ほかの感覚器官にも劣らない豊富な情報伝達を行っている可能性が見えてきたのである。
たとえば、その一つがパチニ小体(FAII )だ。パチニ小体はその特異なカプセルを持つことで、信号の増幅を行っている可能性があると宮岡徹氏は指摘する。ほんの小さな振動であっても、それを増幅させることによって検知する。とくに高周波数に関する感度が高いという。また、外界物のテクスチャーについては、それが細かいものであればマイスナー小体(FAI
)が、また粗いものであればメルケル触盤(SAI )が関与している可能性が強いという。ふつう私たちは、モノの表面の性質を知る時に、触るのと同時に眼でよく見る。その場合にモノのテクスチャーの状態は、眼で見ることによって得ていると思い込んでいる。もちろん視覚は使っているのだが、じつはこの場合触覚からの情報が多く使われているのである。触覚が使われることによって、より正確なテクスチャー情報を得られるのである。視覚ではキャッチすることのできないような微細なテクスチャーの差異も、触覚は容易につかむことができるという。なぜそのようなことが可能なのだろうか。どうやら、触覚は視覚の情報処理とはちがう方法で、その差異を弁別し伝達しているらしい。たとえば、凹凸の振幅情報としてキャッチしている可能性が高いという。ただ、ここで注意しておきたいことは、それぞれのレセプターは単体で機能することもあるが、いくつか組み合わさったり、あるいは別の信号に変換されたりということがしばしば起こっていることだ。
この点についてインタビューとは別に、宮岡氏は著書の中で、ある実証的な実験を紹介しながら説明している。参考に補足しておこう。それは、電気的な微小刺激をレセプターに与えた時に、それが主観的感覚(実際に感ずる感覚)と一致するかどうかという実験だ。まず、金属微小電極を用いて、SAI
に通じている神経線維のみに電気パルスを与えたとしよう。その時被験者は、あたかも水彩画用の柔らかな筆で皮膚を押すような感覚を得たという。単に電気的パルスを与えただけであるのに、被験者はそれを筆として感ずることができたというのである。もちろん、実際に手の皮膚を、たとえば鉛筆で押したとすれば、主観的感覚も同じように鉛筆で押されたように感じる。
なぜこういう現象が起こったかというと、実験ではSAI にだけ刺激を与えたからである。実際に鉛筆で刺激した時にはSAI 単体ではなく、さまざまなレセプターを同時に刺激している。複数のレセプターの相互作用が働くことで、たとえば鉛筆なら鉛筆の刺激として受容することができるのである。つまり、それぞれのレセプターは単独で情報を受容するのではなく、レセプター同士が複数組み合わさって処理する。刺激は、総合化されることによって、正しく認識されるのである。各レセプターは、独立しながらも、状況によっては相互作用や総合化を行っているというわけだ。
触覚は、また、同じ体性感覚である自己受容感覚とは別に独立して働くことも、実験によって証明されている。たとえば、ねじれ唇の錯覚というのがある。これは被験者に上唇は右に、下唇は左に動かしてもらい、いわゆるしかめっ面をつくってもらう。そして、鉛筆などまっすぐな棒を垂直にして、唇に同時に軽く当てると、垂直なはずが左に傾いたように感じられる。これは唇がゆがんでいるという自己受容感覚の情報が与えられても、触覚系の情報はそれを無視して常態にあるものとして触覚的定位がなされることを示唆しているという(「触覚による距離、運動、方向の知覚」東山篤規『触覚と痛み』所収)。
触覚は、視覚や聴覚とは別種の方法で外界の情報を受容している。触覚独自の情報処理システムをもっているわけだ。むしろそう考えると、触覚から得られる情報は、視覚や聴覚より劣るどころか、豊かですらあるともいえそうである。触覚研究のよりいっそうの進展が期待される。
口の中の情報宇宙、そしてリズムと振動
口腔粘膜は皮膚ではない。しかし、触覚のレセプターは口腔内に集中して点在する。そして私たちのからだは、そこからさまざまな情報を得ている。口の中は、いわば外部情報をキャッチする総合メディア・センターのような場所なのである。上田実氏は、からだの中でも口腔領域は感覚器官が集中している場所であることを紹介し、とくに咀嚼の重要性を指摘する。インタビューでは、咀嚼と感覚器官としての口の役割、また口腔粘膜を培養皮膚として利用する最新の医療事情についてお話いただいた。
考えてみると確かに口というのは驚くべき器官である。外界に存在するモノを、そのまま取り込んでしまうのはからだの中でも口だけである。口は、外界の物質とダイレクトにコンタクトするために穿たれたゲートである。視覚や聴覚も外界に開かれた器官である。しかし、それはあくまでも情報に対して開かれているわけで、言うまでもなく実際のモノを取り込むわけではない。しょせん情報は情報(こと)にすぎず、物質性(モノ)とは切り離されて存在するものである。眼や耳は、ほとんどの場合そうしたモノから離れた情報をキャッチする。そうやってみると鼻も情報に対して開かれた器官といえる。化学物質と実際に接触することによって機能する器官という意味では視覚や聴覚とはやや異なるものの、多くの場合それが気体に限られるわけで、やはりモノとはちがう。嗅覚もモノというよりは情報のために開かれた器官と見るべきだろう。
中国料理で食べない四つ足(動物)はない、食卓以外には・・。これは、中国人の旺盛な食欲を皮肉ったものだが、何も中国人に限らず、人間というものはあらゆるものを口に放り込んできた動物であることをこの格言は示唆している。一説によれば、口から取り入れるのと同じ食べ物を血液から行おうとすると、たちまち拒絶反応を起こし死亡してしまうらしい。生体は外部からの侵入者に対しては、二重三重の防御機構を持っている。皮膚は、そうした外界の異物から生体を守る役割がある。免疫機構も、生体防御として働くシステムである。普通、他人同士で皮膚移植を行うとほとんど例外なく拒絶反応があらわれるのは、免疫のシステムが皮膚には張りめぐらされているからである。皮膚それ自体に、自分とは異なる他者の皮膚をリジェクトするしくみが組み込まれているのだ。
ところが、口の場合はどうか。そうした防御機構が解除されたかのように働くのである。上田氏が培養皮膚として口腔粘膜の可能性に注目したのも、口腔粘膜が免疫寛容を生じる特質を持つからであった。口腔粘膜にそういう特質が備わったのは、おそらく口が絶えず外部からの侵入にさらされ続けている器官だからではないかと上田氏は推測する。普段は扁桃腺に代表されるような強い免疫機能をもつ。ところが、その反面それこそ食卓以外あらゆるモノを放り込んでも大丈夫なような寛容性を示すのである。この一見相反する機能を合わせ持つところに、口の秘密がある。
口は食べ物が通過する場所だから清潔なところだと私たちは信じ込んでいる。しかし、これはまったくの思いちがいだ。食べ物というのは外界のモノ= 異物であり、異物が入る場所という意味では清潔さが脅かされる場所なのである。事実口腔内には、常時三○○種類近い細菌がうようよしているし、唾液一ミリリットル中には約一億もの細菌が含まれているという。これらの細菌は口腔内に生息する限りは、口腔内の免疫機構によって疾患の発症に結び付くことはない。ところが、いったん口腔以外の場所に定着・増殖すると感染症を引き起こすことがあるという。上田氏は、肺炎の原因の多くが、口腔内の細菌によるものだと著書で指摘する。口腔内では免疫機構が強く働いているが、場面場面では免疫寛容が生じるようなしくみになっているのである。
口腔粘膜には触覚を始めとする各種のセンサーが張りめぐらされているが、味覚はその中でも最も重要なセンサーの一つである。口腔内でとくに発達した感覚器官である。味覚は嗅覚と強い関連性を持っている感覚であるが、口腔粘膜とのかかわりで見ると触覚との結び付きも強い。上田氏が強調するように、味覚や触覚が口腔内で発達したのは、咀嚼という機能が働いているからだ。咀嚼機能の特徴は、脳で形成された指令によってつくられるリズム運動である。その運動によって口腔内の感覚センサーが刺激されるという。咀嚼運動が行われなくなると生体に悪影響を及ぼし、さまざまな症状が引き起こされる原因となると上田氏は警告する。気になるのは咀嚼がリズム運動だということだ。リズム運動とは、まさしく繰り返しであり、連続する振動である。触覚や味覚を刺激する連続運動としての振動。触覚の情報処理の方法として振動が使われていることと合わせて考えてみるとこのリズム運動は示唆的だ。どうやら、触覚においては、リズムや振動という反復運動が何か重要なかぎを握っているように思われる。
「ことば」とモノの世界
以前、眼も耳も不自由ないわゆる盲・ろう二重障害者である女性の記録を読んだことがある。彼女は大変な努力をして鍼灸師として自立するのだが、彼女のコミュニケーションの方法はもっぱら手のひらで文字を読むことであった(自分の手のひらに、指で文字を書いてもらう)。ひらがな、カタカナ、ローマ字、数字は言うに及ばす、画数の多い難解な漢字もすらすらと読むことができたと報告している(『触覚の世界』小柳恭治)。彼女によれば、ひらがなやカタカナは読むのに時間がかかるが、漢字は速く読めてわかりやすく便利だという。彼女はまたいろいろなものを使って外界の情報を得ていた。その一つが部屋の柱にくくりつけられた扇風機で、来訪者が玄関のブザーを押すと、強烈なライトが点灯するのと同時に扇風機が回り出す。その風で寝ていてもお客さんが来たことがわかるというのである。まさに、彼女の生活にとって、触覚は外部情報獲得のためになくてはならない感覚なのだ。
盲人の人たちは、実際にどのような方法で外部の情報を入手し、また伝え合っているのだろうか。座談会では日常の生活を事例に語り合っていただいた。想像したとおり、やはり触覚はその窓口として大きな役割を担っていた。触覚だけを使っているわけではないこともわかった。弱視の高橋真樹氏にとっては光(覚)もその手掛かりの一つになる感覚だが、街灯が切れてしまった時に次の手段として携帯電話を利用したというのには驚いた。触覚ばかりではなく、ある時には、光や音もコミュニケーションの道具となることを象徴するようなエピソードである。
坂部明浩氏が言うように、点字はある意味で究極の口語、表音文字である。「東京タワー点字物語計画」は、そうした点字の持つしくみを巧みに引き出したイベントであった。「物語」を生きる時間と「ことば」を読む時間を同期させて、それ自体が「生きる」時間となるような体験。時間とは、まさしくリニアな体験そのものであるという当たり前の事実を逆手にとったところに、この試みのユニークさがあったように思う。
ただ、筆者には疑問に残るところもあった。「読む」という体験が時間的なものであることはまちがいない。けれども、「ことば」そのものを時間性に還元することには無理がないだろうか。手のひらに書かれた漢字を高速度で読む人もいる。その人にとってみれば、言葉は表意文字であることの方が便利である。もとより、先天盲の場合でいえば、「文字」以前に、「ことば」の習得そのものが壁となるだろう。「ことば」はリニアな構造を持っていることは言うまでもないことだ。しかし、「ことば」は記号でもあり、また図にもなりうる要素を持っている。「ことば」と「図」「絵」などのヴィジュアル表現との境界は、私たちが思っているほどには明確ではない。両者を厳密に分かつような理由も意味も私たちは持ち合わせていないのだ(「初速と暗号、マルチメディアとしてのデリダ」東浩紀『談』no.62
所収)。また、「ことば」が本当にコミュニケーションの手段として十分だろうかという疑問もある。言語によって、私たちはコミュニケーションを飛躍的に高めることができた。「ことば」の発明が、ヒトという生物をつくり出したとさえ言い切れるだろう。しかし、そう言い切ったとしても、やはり「ことば」は「ことば」としての限界がある。
点字が文字表現を完ぺきに代替できないのは、触覚が視覚表現である文字より劣るからではない。触覚表現や触覚のコミュニケーションと「ことば」によるコミュニケーションとが、そもそも一致していないからではないか。点字は「ことば」のシステムを真似ている、そのことが点字を逆に限界付けていると思えるのだ。視覚表現が「ことば」と一体となっているのは否定しがたい事実である。言い換えれば、「ことば」のシステムが、視覚のシステムあるいは聴覚のシステムとうまい具合に結合したのである。理由はわからないのだが、とにかく「ことば」と視覚的な世界が一対一で対応している環境ができ上がってしまった。「見えている世界」と「語る世界」の一致。外界を見えるものによって分けていくことと、「ことば」の分けるしくみが、奇しくもピッタリと重なったのである。
ところが、触覚や嗅覚もそうだが、「ことば」のシステムがうまく当てはまらない。たとえば、カシミアのマフラーを指先で触って得た時に感じるあの感触を、「ことば」で表現しようと思ってもなかなかうまい言葉が浮かんでこない。感触を伝える「ことば」には、オノマトペ(擬音語)が多いのも特徴だ。「スベスベ」「ツルツル」「ベトベト」「カサカサ」「ザラザラ」「ヌルヌル」というように挙げだしたらきりがないが、どの「ことば」も擬音的で繰り返しが多い。まさにリズムと反復によって、触覚は表現されている。
「ことば」と触覚の関係性をどう捉えるか。最後にお尋ねした鷲田清一氏にお聞きしたかったこともこの「ことば」と触覚のかかわりであった。「ことば」あるいは文字による支配。それはまた感覚のレベルで見ると、視覚の専制という近代の特徴を象徴する事態と重なり合う。フーコーの分析を俟つまでもなく、「ことば」のシステムが私たちの意識のすみずみまで浸透している近代という時代は、感覚においては視覚が優位に立った時代でもある。「ことば」と視覚の二つのシステムは補強しあいながら、私たちの意識の深部にまでその支配力を持つ。視覚の優位を疑うとすれば、それは同時に「ことば」の支配に対する異議申し立てでもあるだろう。
鷲田氏はインタビューの冒頭、まず感覚を各感覚器官に還元するこれまでの考え方に疑問を投げ掛ける。感覚が感覚同士で融合しあっていると捉える方がはるかに実態に近いのではないかというのだ。感覚同士が相互に浸透しあうような関係、つまり、シネステジーとして感覚そのものを捉え直すべきではないかというのが鷲田氏の主張だ。
シネステジーとは、日本語に訳すと共感覚のことで、近年哲学や心理学の分野で注目されている考え方である。感覚において五感の独立性よりも五感相互の共振性を強調する。また、理性主義に裏付けられた客観性よりも、自らの身体性(オルガン)を基盤に置いた主観性を大切にする。こうしたシネステジーの考え方は、結果として触覚性の復権を促すことになる。それまで、感覚器官として二次性質としてある意味でほかの感覚と比べて低く扱われてきた触覚に対して、シネステジーはほかの感覚と積極的に交じり合っていく感覚本来の可能性を見いだすのである。そしてそれは「ことば」に代表されるような、構造的なものの捉え方を疑う。ストラクチャーからテクスチャーへという流れには、触覚という「ことば」の構造を離れて成立するような共感覚への志向の移動が見られる。
視覚がなぜ「ことば」とこれほど強く結び付いたのか、その本当の理由はわからない。ただ、確実に言えることは、「ことば」と結合することによって視覚は人間の意識に直結することができたのだ。そして強固な視覚文化を近代に開花させることになった。それに対して、触覚は最後まで「ことば」と結び付くことがなかった。その結果、原始的という言い方にも甘んじなくてはならなかった。
しかし、「ことば」と結び付くことがなかったことが、かえって触覚にとって可能性を開くことになったのである。「ことば」の影響を受けずに独自に発達した情報処理機構が、いかにしてほかの感覚器官と協働し合うのか。それは、感覚というシステムそのものの究明にもつながるだろう。触覚を中心とするシネステジー。感覚同士の共振関係には、「ことば」を媒介しないもう一つの対話の可能性が潜んでいる。
(佐藤真)
| | |