談 no.64 WEB版
 
特集:視覚論再考
 
Translated : Andrew Dewar
  photo:鈴木理策
   
 

遠近法の <神話>……思想の虚焦点としての

神崎 繁 Sigeru Kanzaki
プラトンは世界を夾雑物なしに知るという点で、当時の遠近法の萌芽形態に対して批判的だったんです。ところが皮肉なことに、ルネサンス期におけるプラトニズムは、一種の数学化をしてしまい、それによって遠近法が唯一の客観的な見方だというふうに、捩れてしまったわけです。これをプラトンが知ったらさぞ心外に思うでしょう。自分が批判した遠近法的な思考が、じつは幾何学化され、それが唯一の正しい世界の見方として固定されてしまった。哲学の歴史には、このように自分が批判したものに自分の考え方が取り入れられて、独自に成長してしまうこともあるんですね。
 
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Plato was critical of the effect of the then-sprouting technique of perspective on an impurity-free knowledge of the world. But, ironically, renaissance Platonism was twisted into a kind of mathematical system in which perspective became the only objective way of seeing things. Plato would have been surprised by this. The system of perspective he had criticized had been geometricized and accepted as the only true way of seeing the world. It would seem that through the course of philosophy, ideas one has once criticized are sometimes later added to one's thought and allowed to grow on their own.

かんざき・しげる
1952年兵庫県生まれ。
東京大学人文科学研究科・博士課程単位取得退学。
現在、東京都立大学人文学部講師。
著書に、『プラトンと反遠近法 』新書館、1999、
論文に、「ドラーマとパトス――悲劇と哲学との関わりをめぐって――」
雑誌『現代思想』一九九九年八月号所収、他がある。

 

ゲーテの「生き生きとした」視覚論……from the light から on the light へ

高橋義人 Yoshito Takahashi
晩年のゲーテが色彩論と形態学の研究に精力を傾けたことからも明らかなように、彼は、自然は色と形であると考えていました。しかも私たちはそれを眼によって捉える以外にはないのですから、どちらも視覚という感覚の問題になるんです。しかも感覚は生きて動いている。私たちは静止した世界を静止した状態で見ているのではありません。世界も動いているし、私たちもまた動いている。その双方が互いに働き掛け、両者が出会ったところから、初めて生き生きとした「経験」が立ち上がってくるのです。
 
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Goethe, in his later years, closely studied the theory of color and form, something which shows that he believed that the world is color and form. And because we have no other way of experiencing these than through our eyes, both involve the sense of vision. Moreover, sensation is a living, moving thing. We don't see an unmoving world in still images. The world is moving, and so are we. Both work together and on each other, and only where the two meet do we begin to experience vividly.

たかはし・よしと
1945年東京都生まれ。
慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程(独文学専攻)修了。
現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
著書に、『魔女とヨーロッパ』1995、岩波書店、
『ドイツ人のこころ』1993、岩波新書、
『形態と象徴 ―ゲーテと〈緑の自然科学〉』岩波書店、1988、
編訳書に、『自然と象徴―自然科学論集』ゲーテ(共訳)、冨山房、1982、
訳書に、『色彩論 完訳版』全3巻、ゲーテ(共訳)、工作舎、1999、
他がある。

 




セザンヌ……感覚の絵画、強度としての自然


前田英樹 Hideki Maeda
セザンヌが信じたのは、純粋視覚ではなく、眼の純粋感覚とでもいうべきものです。視覚というのは眼の知覚です。知覚と感覚との間には、決して無視できない性質の差異がある。知覚と感覚とを区別して考えるところにセザンヌ固有の問題が現れる。感覚は知覚の中に含まれていますし、知覚の一要素にはちがいありません。しかし、知覚とは明らかに異なる性質が感覚にはある、セザンヌのメチエはそこに集中しました。
 
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Cezanne believed that the sense of sight should not be called pure vision, but the pure sensation of the eyes. Vision is the sensation taken in through the eyes. One cannot ignore the difference between perception and sensation. But a problem specific to Cezanne develops when we make the distinction between perception and sensation. Sensation is included inムis an important part ofムperception. Still, there is something clearly different between the two, and Cezanne's concentration on this difference is his metier.
まえだ・ひでき
1951年大阪府生まれ。
中央大学大学院修了。現在、立教大学教授。
著書に、『セザンヌ 画家のメチエ』青土社、2000、
『在るものの魅惑』現代思潮社、2000、
『小林秀雄』河出書房新社、1998、
『映画=イマージュの秘蹟』青土社、1996、
『沈黙するソシュール』書肆山田、1990、
他がある。

 




(対談)佐々木正人×畠山直哉 

写真と生態心理学

僕が畠山さんを見ているという持続と、窓越しに外の景色を見ている持続とはちがうのですが、どっちも僕は一挙に見ています。それはすべてつながっていて、途切れていません。常に同時に見えている。このレポート用紙を見るのも、テーブルのコップを見るのも、壁のガラスを見るのも、編集者の方を見るのも、一挙に見ています。いろんな時間を僕は見ているわけで、裏を返せば時間などないということです。現実の視覚には、時間なんてものは存在しない。タイムレスなんです。
僕が問題にしたいのは、写真というメディウムこそがそういった行為を変化させる可能性をもともともっていたんじゃないかということなんです。確かに写真を軸にして外界とかかわることで、外界が変化し他者が変化し、僕自身も変わる。それは容易に想像できることであり経験することでもあります。でも、写真というメディウムのどの性質がそういう関係を変えていく可能性に寄与しているのか。僕が知りたいのはそのことなんです。
 
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Masato Sasaki:The time I spend looking at Mr. Hatakeyama and the time I spend looking out the window are clearly different, but I am actually seeing both at once. They are both connected and inseparable. We are always envisioning things at once. Whether I look at this notepaper, or the cup on the table, or the glass in the wall, or the editors over there, I see them at once. I am seeing them at a variety of times, or put another way, seeing them out of time. In vision there really is no time. Vision is timeless.
Naoya Hatakeyama:What I want to say is that photographs have the potential to change that. Certainly if I center my dealings with the outside world on photographs, the world changes, other people change, and I change. It is easy to imagine, and experience, this. But exactly what aspect of the photographic medium makes this change possible? That's what I want to know.



ささき・まさと
1952年北海道生まれ。
筑波大学大学院心身障害学専攻修了。
現在、東京大学大学院情報学環教授。
著書に、『知覚はおわらない・・アフォーダンスへの招待 』、 青土社、2000、『アフォーダンス 』(共著)、青土社、1997、 『知性はどこに生まれるか・・ダーウィンとアフォーダンス 』講談社現代新書、1997、『アフォーダンス・・新しい認知の理論』岩波書店、1994、 他がある。 
 
はたけやま・なおや
1958年岩手県陸前高田市生まれ。
筑波大学大学院芸術研究科修士課程修了。
写真家。第22回木村伊兵衛写真賞受賞(1997)。
第16回東川賞国内作家賞受賞(2000)。
国内外で展覧会多数。
著書に、 写真集『Underground 』メディアファクトリー、2000、 写真集『ライム・ワークス』シナジー幾何学、1996、 がある。

 

見ることの経験

岡崎乾二郎 Kenjiro Okazaki
ブルネレスキ考え出した方法、たとえば向き合った二枚のパネルからなる透視図法の装置は、後にアルベルティに誤読されることになったわけですが、アルベルティの発想とはまったく逆に、いかなるジャンルにも帰属しえないような、まったく超越論的なものだった。いわば彼は人間の精神あるいは知覚がもともともっている錯乱性・・たとえば端的に時間や空間の前後の分別が混乱する・・、あるいは逆に・・時間や空間の前後の境界を乗り越えてしまう・・という可塑性を前提にして、それを積極的に生かし、組織しようとしたわけです。
 
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Brunelleschi's method of creating perspective, through the device of two partially facing panels, was later misread by Alberti; in fact Alberti thought in a completely opposite, completely transcendental way that strove to avoid reversion to any particular genre. It is as if he took the plasticity created by the derangement inherit in the human spirit and in perceptionムfor example the blurring of the line between past, present, and future in time and space, or conversely the transversing of that lineムas a given when working, and then made coordinated and vigorous use of it.

おかざき・けんじろう
1955年東京都生まれ。
多摩美術大学彫刻科中退。Bゼミスクール修了。造形作家。
ユーロパリア'89現代日本美術展(ゲント)、 第9回インド・トリエンナーレ(ニューデリー、1997年)など 国内外の展覧会に出品。南天子画廊などで個展多数。
美術活動のほかにアート・プロジェクト企画制作、 美術評論など多彩な活動を繰り広げる。
雑誌『批評空間』連載の論文「経験の条件」を筑摩書房より近刊予定。

 

見えるもの/見えないものの対立軸では、もはや世界は見えなくなっている

東 浩紀 Hiroki Azuma
ポストモダンな世界は、一方では、情報の流通が豊かで、世界中のものが見えるようになったかのように見える。しかし、他方では、情報の流通があまりに豊かであるために、ほとんど何も見えない世界でもある。一方で私たちはますます不可視の記号(情報)に依存し、他方でますます可視的なもの(スペクタクル)だけの中に留まろうとしている。この二つの変化は互いに連動しているところが現代の特徴であり、分析を困難にしているのです。
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In the post-modern world, it seems that the movement of information has become very plentiful, and that it is possible to see anything in the world. But at the same time, so much information is moving about that we see hardly anything at all. On the one hand, we rely more and more on invisible signals (information), and on the other we try more and more to remain within the realm of visible things (spectacles). That these
two changes are connected is characteristic of the modern world, but makes any analysis of it difficult.

あずま・ひろき
1971年東京都生まれ 。
東京大学総合文化研究科博士課程修了(超域文化科学)。
現在、 日本学術振興会特別研究員。
著書に、『郵便的不安たち』朝日新聞社、1999、
『存在論的、郵便的』新潮社、1998、
近刊に、『不過視なものの世界』朝日新聞社、2000がある。

 

オートノマスな脳……知覚の現象学、脳の現象学

下條信輔 Simojyo Shinsuke
今ここに想像上の生き物が突然乱入してきたらそれが見えるか見えないか、という問題があります。じつは、これが見えるんです。それは、予期していないものについても眼から脳へのメカニズムが働いて、意識に上る形に、つまり、見えたとわかる形にする過程を脳がもっていて、本人が予期していようがいまいが、それを認識できる前に、むしろ認識を準備するために自働的に働いているということができます。視覚は、意外なもの、突然変化したもの、そういうものに非常に敏感に反応するようにできていて、またそうなるように時々刻々再調整されているわけです。
 
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One can question whether, if an imaginary animal suddenly appeared among us, we would be able to see it. In fact, we could see it. Even in the case of unexpected things, the mechanism passing messages from the eye to the brain operates and the brain converts them into a conscious image, an image that has been "seen." This happens whether or not we are expecting to see the thing, and before we recognize it;rather, it happens automatically, as though a kind of preparation for recognition. Vision is very sensitive to unexpected things and sudden changes, and is constantly adjusting itself to remain so.

しもじょう・しんすけ
1955年東京都生まれ。
マサチューセッツ工科大学心理学科修了(Ph.D.)、
東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
スミス・ケトルウェル視覚研究所研究員、
東京大学教養学部助教授を経て、 現在、カリフォルニア工科大学生物学科教授。
著書に、『〈意識〉とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』講談社現代新書、1999、
『サブリミナル・マインド』中公新書、1996、
『視覚の冒険―イリュージョンから認知科学へ』産業図書、1995、 他がある。

 

editor's note[before]


「見え」のメカニズム、「見る」ことの意味


眼と写真機モデル

眼を説明する場合、よく言われることが写真機との類似である。眼と写真機の構造を比較してみると、確かによく似ている。だが、この類似関係は、眼について考える時にむしろ問題となることが少なくない。とりわけ視覚を問題にする場合には、しばしば障害となってきた。『眼は何を見ているか』(平凡社)で、視覚心理物理学の池田光男氏は、視覚研究において写真機が一つの基本的なモデルとなっていたことを論じている。視覚を考察するにあたって、まずこの写真機モデルと視覚の関係、またその限界について、池田光男氏の議論にそって概略しておこう。
眼が写真機に似ているというより、写真機が眼とよく似た構造をもっているという方が正確だ。眼の水晶体にあたるところが写真機のレンズにあたり、瞳は絞りにあたる。網膜は、フィルムであり、水晶体と網膜の間にあるゼリー状の硝子体は、写真機にとっては暗箱になる。眼は、水晶体の厚さを調節することで焦点を合わせる。近くを見る場合は膨らませ、遠くを見る場合は扁平させる。眼の場合は、このように水晶体の弾性によって焦点距離を合わせるわけだ。写真機では、ヘリコイドを前後に動かして焦点を合わせる。眼は非常に細かく動き回るので、その都度それに同期させて焦点を合わせる働きをもっているが、写真機にもこれと同じような機能が備わっている。手ぶれ防止装置がそれである。このように、確かに眼と写真機はよく類似している。
しかし、ではまったく同じかというと、相違点もある。たとえば、その代表は網膜のいわゆる不均一性だ。写真機の網膜にあたるのはフィルムだと言ったが、フィルムは均一に保たれていて、レンズから入った光はフィルムにむらなくあたる。ところが、網膜の場合はどの場所にも均一に光があたっているわけではない。網膜には、中心窩というくぼみが一箇所ある。網膜で最もよく見える(視力)箇所はこの中心窩という小さな場所だけである。そのほかの場所は、視力という観点から見る限り性能はあまりよくない。なぜこんなしくみなのかというと、網膜の表面に神経細胞が並んでいるからである。つまり、外から入ってきた光は、この神経細胞の束を越えて網膜に達するために、結像という観点からいえば決していい条件とはいえないのである。神経細胞は透明であるが、夾雑物であるには変わりがないので、結像にとっては不利である。そこで、網膜の一箇所だけ、そうした夾雑物のない場所がつくられているわけだ。中心窩がくぼんでいる理由は、神経細胞の束がそこだけ周囲にかき分けられていて、直接光をキャッチできるようになっているからである。
このように、写真機の場合と異なって、眼では網膜の中心窩に性能がかたよっている。これは、色覚でも同様である。網膜全体が色を同じように見ているのではなく、やはり中心窩で最もよく色が見える。中心窩から周囲にいくにしたがって色は鮮やかさを失い、網膜の端では、白だけしか見えない。この点でも、写真機とは大きく異なるところだ。
ともあれ、眼と写真機ではいくつかの相違点はあるものの、基本的な構造はきわめて似ている。少なくとも、外界から光をレンズ(水晶体)を介して取り込んで、それをフィルム(網膜)に結像させるまでの過程は、まったく同じだといってもよさそうである。この写真機モデルが問題になるのは、ではどこだろうか。
それは、結像・視覚情報そのものにある。写真の場合は、その撮影された写真を見る者がいる。人の眼を通してそれは見えるものになった。言い換えれば、見る者がいなければ、写真はただの画像にすぎない。同じことは眼の場合でもいえることで、網膜の結像はそのままでは単なる結像にすぎない。つまり、その結像を見る者が必要になるということだ。
そこで登場したのがホムンクルスである。脳の中にもう一人の小さい自分がいて網膜に映し出された画像を見ているという例の図である(拙文「脳は環境と身体の中にある」 八六-八九頁 『からだブックナビゲーション』所収 河出書房新社)。この図が奇妙なのは、そうやって網膜の画像を見る自分の頭の中に、つまり脳の中にもまたその画像を見ているさらに小さい自分がいることである。そうやってその構図は、無限に後退し続ける。要するに、どこまでいってもそれを見ているもう一人の自分が出てくるというわけである。
もちろん本当に小さな自分・小人(ホムンクルス)が脳の中に住んでいると考えたわけではなく、イメージにすぎないことはいうまでもない。ただ、写真機モデルで視覚というものを考えようとすると、このようなホムンクルスを想定せざるをえなくなるのである。

網膜と脳をつなぐ

眼は大脳のアネックスであるという。つまり、出先機関であり、眼がなければ大脳の視覚中枢は用をなさないとさえいわれている。それほど大脳にとって眼は重要な働きをしているのである。眼で見るということは、すなわち脳で見るということだ。その意味では、脳の中に小人を住まわせたことも理解できなくもない。ここで問われることは、眼から得た情報が脳へどのように伝わっているかということである。
網膜から大脳への視覚情報の伝達過程の解明は、脳神経科学の発達によって飛躍的に進んだ。脳科学の発展が、眼のメカニズムの解明から、脳のメカニズムの解明へと視覚の研究を大きくシフトさせていくことになったのである。それは、視覚研究が、生理光学、知覚心理学、眼科学という従来のアプローチから、認知科学の領域へと入り込んでいくことを意味していた。
とはいえ、視覚を考えるうえでの基本的なメカニズムにおいて、依然として写真機モデルが援用されているのもまた事実である。たとえばその一つが「内的スクリーン」理論だ。これは、視覚対象の認知過程において写真機モデルを拡張し、視神経からきた情報が、大脳の視覚領野にあたかもスクリーンのごとく並んだ細胞を刺激するというものである。見るということは、視覚対象をこのように刺激として体験するということだと考えられたのである(J. Frisby "Seeing" 1979)。この考えでは、視覚対象と大脳内の細胞の関係は、一対一対応である。写真機モデルあるいはそこから導出されるホムンクルスが、視覚を考えるうえでいかに根強いものであったかを物語るいい例だろう。
さて、視覚研究を脳のメカニズムへと広げた認知科学は、しかし、この二○年の間にさらに大きく前進した。そして、ついに写真機モデルを乗り越えていく考えを生み出すに至った。その嚆矢は、デヴィット・マーとその共同研究者たちによる視覚系とコンピュータによる人工知能研究との乗り入れである。この考えの特徴は、情報処理過程におけるモジュール設計の原則の必要性にある。モジュール設計とは、簡単に言うと、情報処理の過程は、各部分に分かれた小規模の処理過程が総合化されていくことであり、それぞれは独立していてほかに影響されないというものだ。コンピュータのプログラミングにおけるこの原則は、人間の認知過程においても当てはまり、そのモジュールの解明およびモジュール間の関係の究明が、ひいては視覚認識のメカニズムの解明につながるというのが、彼らの考えであった。そして、事実このモジュールとして認識過程を見るという考えは、その後の視覚研究を大きく変えていくことになったのである。というのは、それまで視覚がさまざまな機能をもっていることはわかっていたが、それはあくまでも視覚という一つの機能に集約できるものとして捉えられていた。写真機モデルが支配的だったのも、それが光を集めるという機能に視覚が限定されていたからであり、その意味では視覚は単一のメカニズムに還元されていたからこそであろう。ところが、このモジュールという考えは、まさしくそうした単一のメカニズムに対する軌道修正なのだ。つまり、視覚におけるさまざまな機能、たとえば、立体視と奥行き知覚、色の知覚、運動知覚といったものが、別々に機能していると考えるからである。網膜から入ってきた視覚情報が、大脳へ伝わっていく過程で、大脳の視覚認識を行うさまざまな領野に分散する。そのように散らばった視覚情報の断片が、もう一度統合される。ものを見て、行動するという私たちの知覚体験は、集められた情報をそれぞれの機能を伴った認識細胞に振り分け、それを目的にそって選択しもう一度組み合わせる、それを瞬く間に行う脳内過程だというわけである。
現在の視覚研究は、こうして眼の生理的な構造の解明から、脳とのかかわりの中で、認知機構のプロセスそのものの解明へと、その対象自体を広げつつあるということができるだろう。それは、視覚が、知覚・行動にカテゴライズされるようなものではなく、脳内過程と連動する認知のメカニズム、いわば身体の行動原理といったものと深く関係してくるような、より全体的な心的システムとして捉えられる必要があるということを示唆している。視覚研究は、心と身体の究明へと向かっていくという意味で、きわめて重要な位置に今や成りつつあるといっても言いすぎではないのである。

「見え」を成立させるシステムの全体的把握へ 

眼の生理学から脳科学へと視覚の研究が移行してきた現状をざっとたどってみた。視覚は単独の知覚メカニズムではなくて、心的システムを形成する重要な機能の一つであり、それは身体と深くかかわるものである。別の見方をすれば、感覚とも強い結び付きのある知覚・行動の現れでもあるのだ。
視覚のより全体的な把握という視覚研究の動向を踏まえたうえで、これまで提起されてきたいくつかの視覚論をもう一度俎上にのせるところから、改めて視覚の構造および視覚というシステムに迫ってみたい。
その方法として、今述べたようにいくつかの視覚論を再検討するところから始める。それから、旧来の視覚の写真機モデルを、実際の写真芸術とすりあわせることによって、その問題点を改めて洗い出す。また、視覚および視覚論が問題となるそのバックグラウンド自体について考察する。そして最後に、現在の視覚論が切り拓いた認知システムの最新成果について迫る。
まず、これまでの視覚に関する考え方の中で、ある意味では最も支配的であった「遠近法」について再考してみたい。「遠近法」とは、ここではヨーロッパ・ルネサンス期に確立された絵画技法である「透視図法」のことを指す。透視図法は、その言葉どおり、三次元立体の外界を透き通ったスクリーン(たとえばガラス板)を通してみることで、そのスクリーン上に二次元の像を表す方法だ。技法としてはきわめて単純だが、その特徴は、三次元立体の奥行きは、水平線に向かって画面に平行する線(平行線)として再現され、また高さは、水平線上に与えられた一ないし二点へ収斂する錐状線束として再現されるところにある。この簡単な絵画技法が、じつは絵画上の技術論を飛び越えて、その後の人間のものの見方に深い影響を与えることになる。いわば近代の認識体系を支配するような枠組みを遠近法は、われわれにもたらしたといわれる。この遠近法とその理論について二つの視点から検討する。最初は、遠近法を主に精神史とのかかわりから、その成立と影響関係について東京都立大学人文学部講師・神崎繁氏にお聞きする。インタビューと対談をはさんで、今度は具体的な空間とその表象を題材に、遠近法の思考がもたらした思想上の混乱について、美術家・美術批評家の岡崎乾二郎氏にお尋ねする。
次に、色について考えてみたい。色は光線についているのではなく、人間の感覚器官が感じるものだとしたのがニュートンであった。ニュートンは、光は客観に属し色は主観に属すとし、したがってそのままでは色は近代科学の対象にはならないとしたのである。この考え方に真っ向から反対したのが、ゲーテであった。ゲーテはニュートンによって確立された光学的色彩論に対して、感覚にもとづく色彩論、人間の眼を基準にする視覚論を唱えたという。近代科学の基礎として、また視覚の写真機モデルの基ともなったニュートン光学に正面から切り込んだ、このゲーテの「色彩論」について、京都大学大学院人間環境学研究科教授・高橋義人氏にお聞きする。
ゲーテの「色彩論」は、絵画の分野では印象派の誕生に大きな影響を与えたといわれている。印象派と歩調を合わせて登場したセザンヌは、印象派の問題圏をはるか超えて、感覚の絵画と呼べるような領域へと踏み込んでいった類い稀なる画家である。それは、視覚を知覚の呪縛から解き放し、感覚の側へと呼び込んだ現代の視覚論の先駆者として捉えることもできるだろう。このセザンヌの視覚論について立教大学文学部教授・前田英樹氏にお聞きする。
視覚は、果たして知覚だろうか感覚だろうか。心理学の分野では、一般的に知覚のメカニズムの一つとして視覚を捉えていた。知覚研究から出発して、従来の知覚メカニズムとしての視覚理論に大幅な修正・変更を求めたのがジェームス・ギブソンであった。ギブソンが創設した生態学的心理学(視覚論)は、視覚の写真機モデルを根底から覆し、新たな認知モデルとしての、知覚-行為系の視覚論への道を拓いたといわれる。
一方、写真の世界では、写真機それ自体のメカニズムが生み出す表現に対して、果敢なる挑戦が試みられている。いわば写真に対する自己言及的追求が行われているのだ。
ギブソンの紹介者であり、生態学的心理学を独自の方法論を交えながら追求する東京大学大学院情報学環教授・佐々木正人氏と写真表現という実践活動を軸に、視覚論の領域に踏み込んだ作品を数多く制作している写真家・畠山直哉氏のお二人に、現代の写真表現を生態心理学の観点とすり合わせながら議論していただく。
今さらいうまでもないことであるが、現代社会は視覚の時代である。視覚表現が、あらゆる領域に入り込んで、いわゆる視覚優位の文化を築き上げているといえる。そうした時代状況の中で、今、大きな変化が起こっている。IT革命ともいわれるデジタル革命である。視覚表現において急速に進行するデジタル化の波は、これまでのあらゆる視覚論を木っ端みじんにしてしまうような根源的な変革を意味している。にもかかわらず、このパラダイム・チェンジに意外に私たちは鈍感だ。私たちの認識体系すらも変えかねない現在の視覚環境の変容および視覚の変質について、気鋭の批評家でデリダの研究者でもある東浩紀氏にお尋ねする。
最後は、視覚論の今後の展望を概観する。現代の視覚心理学は生理学、光学理論、そして神経科学、コンピュータ科学、さらには量子論、オートポイエシスなどを吸収しながら、まったく新しい領域を形成しようとしている。それは、神経生態学と呼ばれる視覚・知覚を軸とする脳・認知科学の地平である。ギブソンの生態心理学は、ここでは意識・身体の理論として新たな視点から組み替えられようとしている。意識・身体の学としての視覚論へ。カリフォルニア工科大学生物学科教授・下條信輔氏にお尋ねする。 (佐藤真)


 

editor's note[after]


流れる「見え」のシステム

固視と視線の跳躍

「〈遠近法〉は、視覚を固定してしまった。それは視覚にとってきわめて特殊なあり方である」
神崎繁氏がインタビューで繰り返し述べていたことは、「遠近法」における視点と空間の固定という問題であった。それは眼にとってきわめて不自然なことである。人間の眼は一点から見ているのではなく、常に複数の視点をもっている。エルンスト・マッハの疑問を待つまでもなく、それは私たちにとってはごく普通の感覚であろう。
実際人間の眼は常に移動している。神崎氏が指摘するように、本来見るということと行為は切り離すことはできないものだ。ものを見るためには動かなければならないし、また、動くためには見なければならない。このことは何も眼をもつ人間が移動する存在だという理由に留まらない。じつは、眼球そのものも常に動き続けているのだ。
眼球が決して静止することなく、動き続けているという事実は生理学が明らかにした。固視微動(視線の跳躍)と呼ばれている現象で、人間の場合一秒間に約三回跳躍するように、視線を移動させているという。それを際限なく繰り返している。つまり、眼は見たいものに視線を止めている状態と、次の移動先への跳躍を交互に繰り返し続ける。私たちが通常「見る」という行為は、生理学的に見れば、この固視と跳躍の両方をいうのである。
視覚における能動性。これは、旧来の視覚という枠組みからの自由を意味する。「遠近法」という視覚の枠組みは、プラトンに元凶があるのではなく、その事態を予測し、むしろそこから視覚を解放しようとした者こそプラトンではなかったか。神崎繁氏の「遠近法」批判は、ギリシャに起源をもつ西欧哲学に関する仮説というだけではない。本来私たちが常識としている眼の現実への回帰、視覚の陥穽への問い掛けでもあるのだ。

「表情」を見ること、「動く」こと

「感覚は欺かない。判断が欺くのだ」。ゲーテは、人間の感覚に無条件に信頼をおいてこう断言した。高橋義人氏が言うように、「表情」を見ることこそが、自然において「本質」を捉えることだからである。「表情」を見ること、ゲーテの言葉である「根本現象」は、フッサールの「本質直観」にそのまま接続する。ゲーテを西欧哲学における現象学の源泉として位置づけ直そうというこの考えは刺激的だ。よく知られているように、フッサールを創始とする現象学の基本概念である「志向性」は、主観-客観という古典的な二項対立による認識論上の枠組みに対して、関係概念として捉え直したところにある。客観的対象は感覚与件であり、また反対に主観は対象化作用であるとする古典的な客観と主観という対立軸に対して、それを関係性として読み直したうえで、その両義的な運動として「志向性」を捉えた。メルロ・ポンティの主張した身体性という概念も、この「志向性」という意識の全方位的機能の延長にある。フッサールの言う意識にしてもメルロ・ポンティの言う身体にしても、その根元にあるものはこの運動性・「動き」なのである。「私は見る」「私は動く」というフッサールの有名な「キネステーゼ(運動感覚)」という概念は、だから文字どおり主体が「動く」ことであると同時に、客観としての世界も動くということを意味しているのだ。そして、感覚とは、まさにそうした「動き」の中から、さらには「動き」の中へ生れてくるものである。要するに、感覚は、現象学においては単なる感覚与件として外部から与えられるものではなく、能動性と受動性の運動の関係として生成するものである。この考えは、カントによって体系づけられたはずの感覚論を大きく踏み超えることになる。そして、まさにその端緒にゲーテがいるというのだ。
これまでゲーテの「色彩論」は、ゲーテのほかの科学論文と比較していささか低く見積もられていた。形態学への関心とは対照的である(前田富士男「絵画の導きとしてのエネルギー・・クレーとゲーテ・再考」)。その要因の一つは、ニュートンの『光学』批判という面ばかりが前面に出すぎたせいではなかろうか。逆に、ニューエージ系の論者から再評価の声が上がったのも、その事情をよく示していると思われる。
しかし、改めて「根本現象」とのかかわりの中から見てみると、「色彩論」のもつ射程は驚くほど深いことがわかってくる。高橋義人氏が冒頭で述べているように、その近代科学批判は、一方で人間のもつ能力の可能性を讚える。感覚という領域があるということと、絶えず「動く」ことによってそれは感受されるということ。近代科学がまちがっていると決めつけているのではない。そこには「動く」ものはあっても、「動く」ことへの配慮が欠けている。「色」はこの「動く」ことによって、初めて捉えられるものだとゲーテは言うのである。

感覚と感覚対象の一致

この「動く」ことの重要性は、前田英樹氏のインタビューにおいても強調されている。セザンヌの絵画がほかの絵画表現と著しく異なるのは、この視覚の能動性に忠実だったところだという。絵画の歴史などではモネやルノアール、ドガなどと並んで印象派に含められる場合があるが、この視覚の能動性という観点から見ると、セザンヌは印象派とは明らかに一線を画す画家である。前田英樹氏は、印象派の中心的画家であったモネと比較して次のように言う。「モネが信じたのは純粋視覚の経験であり、セザンヌの信じたのは純粋感覚である」と。
ここでいうモネの視覚は知覚のことであって、知覚である以上知覚する主体と知覚される外界との分離が余儀なくされる。通常知覚と感覚は区別して考えることはあまりないのだが、セザンヌはそれを明確に切り離した。そして、モネの考える知覚の純粋性に対して、はっきりと感覚の優位を主張して、純粋感覚というものの領域へと踏み込んでいった。というのが前田英樹氏のセザンヌ解釈である。この純粋感覚は、眼の能動性から導出されるものだ。
この知覚と感覚をどう捉えるかということは、哲学の分野では常に議論になってきた。そもそも一八世紀後半に登場したロック、ヒューム、バークリーといういわゆるイギリス経験論の主題は知覚と感覚であったし、それを感性と悟性、またその二つを総合する超越論的構想力によってまとめ上げたのがカントであった。だが、いったんは統一されたかにみえたカントの図式においても、じつは感覚の問題は積み残されたままになっていた。詳細な検討は省くが、感覚をめぐっては、哲学でもいまだに議論が絶えないのである。そういう文脈を踏まえたうえで、改めてこのセザンヌの解釈に耳を傾けてみよう。たとえば、「知覚は私の身体の外にあるが、感覚は私の身体と共にある」と前田英樹氏は言う。「味」や「におい」は感覚対象であり、視覚にとっては「色」が感覚対象である。それらは、私の身体の中に、身体と共にある。ただ、ここで注意しなければならないことは、だからといってその感覚を、メルロ・ポンティの言う「生きられる身体」やアントナン・アルトーの「器官なき身体」と同じものと見なしてはならないということだ。前田氏があえてフランシス・ベーコンという二○世紀の具象絵画の極北に位置する画家と比較して、セザンヌを「身体なき感覚」という言い方で呼んだのは、感覚と感覚対象の一致が、物質がもつ「強度」を感ずるということだけを意味しているわけではない、ということを強調したかったためであろう。物質がもつ「強度」を感じる・・つまりそれが知覚経験であるが・・、それは、あくまでも身体の外にあるものを身体が感じていることである。そこには知覚によって知覚対象を感じるという経験がある。しかし、感覚と感覚対象の一致において、そうした経験はもはやどこかに消えてしまっているのではないか。つまり、感覚と感覚対象が一致する時、私の身体はもはやそれを感覚する位置にはいないということである。何かを食べていて「美味しい」と感じているまさにその瞬間、いい香りを嗅いでいて「いいにおい」と感じているその瞬間、私の身体はそれを感じている当のものであって、厳密にいうと感じているという身体はフッと消えてしまっている。誰でもがそう感じるのではないか。同じように、「ああ、きれいだな」と色を見て感じているその瞬間に、私の眼や身体はもうどこにも存在しない。それがここでいう感覚と感覚対象の一致ということなのだ。では、私の身体はその瞬間いったいどこに行ってしまったのか。

流れている世界

その疑問を解くヒントが、佐々木正人氏と畠山直哉氏の対談にある。佐々木正人氏には以前「アフォーダンスと反表象主義」(『談』no.54初出 後に『複雑性としての身体』河出書房新社に収録)というテーマでご登場をいただいた。ギブソンのキーワードの一つであるアフォーダンスを手掛かりに、身体と環境に関して独特な考えを提起した生態心理学についてじっくりお聞きした。今回の対談は、生態心理学という方法論を前提にして、その理論を写真表現の解釈に援用するとどうなるだろうかというアイディアから生れた。
畠山直哉氏の写真家としての活動は多岐にわたるが、ここでは、「ライムワークス」「blast」「drawing」「underground」と続く仕事に焦点を絞って話し合っていただいた。これらの一連の作品は、それぞれ独立していて制作上の一貫性はない。けれども、視覚という観点から見てみると共通するテーマを発見することができる。それは、冒頭、畠山氏自身が言っているように、人間の眼に見えている世界と写真というメディウムを媒介して見ることのできる世界との乖離と共通性を探るということだ。「ライムワークス」は、まさしく眼の「見え」を、写真というしくみに精確に置換する試みであった。「blast」は爆発という、通常人間の眼では知覚できない瞬間を写し出した。「drawing」は、カメラ・オブスキュラに入り込むことで、自らが写真機になってしまうという実験である。そして最近作の「underground」は、本来光を集めることによって成立する写真に抗して、光のない闇を撮るというものだ。畠山氏の動機はともかくとして、こうしてつなげてみるとその一連の作品が提起することは「見え」とは何かという、まさしく生態心理学が追求してきたテーマと重なっていることがわかるだろう。
視覚の原理には集中と分散の同時性があるということ。視覚には時間がないが写真には時間があるということ。視覚のインバリアントを探し出す行為全体が、視覚であるということ。そして、視覚が視覚となる組織化の法則とは何か、それを探し出すことから視覚表現の世界へようやく入り込むことができるということ。生態心理学ではもうおなじみの、だが既存の心理学、視覚論には十分にインパクトのある話が対談では交わされた。一つひとつ見当する余裕はないので、最初に断った感覚と感覚対象の一致についてここでは触れておきたい。
感覚と感覚対象が一致するという経験は、きわめて特殊な状況かもしれない。それは私たちの日常においてしばしば起こることではあるが、それを実際に感受することは難しいからである。そこで参考になるのが佐々木正人氏が言う「あらゆる場所に同時にいる」という考えだ。佐々木氏が名古屋を走るタクシーに乗って全部見えてしまうという体験を述べている。「あらゆる場所に同時にいる」という感じは、このような視覚体験を語ったものである。つまり、次々に眼は新たな「見え」を体験していく。たとえばクルマを運転していて、フロントウィンドウに現れる外の景色は、次々に自分の眼の前に現れては消えていく。フロントウィンドウの中心部で、はるか先にまだ見えずにいる世界がだんだん現れてきて、フロントウィンドウの周囲へ消えていく。無限の彼方から自分の眼の中心部ヘ向かって高速度で世界が飛び込んでくる感じ。私たちの「見え」を記述しようとするとこんなところではなかろうか。佐々木氏はあるところで、無限に層をなす画面の、いちばん手前にある画面が次々にめくれて、同時にその下に隠れていた世界が次々に現れるという表現で、この感じを伝えようとしていた。隠れていた世界がめくれながら次々に顔を出す。一瞬前まで見えていた世界は、もうどこにもない。しかし、それはまたどこかに隠れている世界でもある。そして、ここが最も重要なところなのだが、それは終わりがないということだ。それはずっと続く。流れるようにずっと続くだけなのである。その時、私の身体はどこにあるのか。その流れの中にある。だが、それは流れの中にあるだけで、実体をそこに見いだすことはできない。
生態心理学が、描き出した「見え」は、このような世界像だと思われる。ギブソンが環境や実在や持続という時に、彼の頭の中にあるそれらは、どれもこのような流れている環境であり、流れている実在であり、流れている持続である。身体をあえて想定する必要もない。しかし、それはいうまでもなく身体が存在しないということではない。身体は確かにある。確かにあるのだが、物理的な表象として現れてはこないような、そういう身体なのだ。この流れを「動き」と言い換えてみれば、それがまさに「見え」のシステムであることは一目瞭然であろう。
この「見え」の描写は、感覚という不思議な経験をうまく捉えているように思われる。感覚を感覚すること。しかし、それはせっかく手なずけたはずの自然を、もう一度野性の状態に戻してしまうことでもある。視覚的な流動という事態を基底に置くと、理性主義はたちまち崩壊の危機に立たされてしまう。

スーパーフラットというポストモダン社会

客観的な世界を理性によって統御する、おおまかにいえばヨーロッパにおける近代の精神の誕生は、理性による客観的世界、つまり、感性の封じ込めにあったといえるであろう。デカルトからカントヘとつながる近代合理主義の思想の骨格にあたる部分にあるものは、こうした理性主義である。だから、カントはイギリス経験論に芽生えた感覚論の萌芽を悟性へと吸収する必要があったのである。だが、繰り返すように、それは未完に終わる。むしろ感覚の領域が私たちの理性をも脅かすようになる。
そうした事態を取りまとめるために要請されたものが、「遠近法」なのである。世界を止め、自らも静止する。客観的世界を不動なものにして、静止した主観によって見尽くすことができるようにすること。「遠近法」とは、それを可能とするアルス(技法、表現)であった。
岡崎乾二郎氏の着目したところは、まさにこれまでの遠近法に関する議論の盲点であった。今では誰も疑わない透視図法の発明者とされるブルネレスキの考えが、じつはアルベルティによって誤読されたものだと指摘したからである。その指摘の余震は単にルネサンス美術史上に大幅な書き換えを迫っただけではなかった。ルネサンスの精神史上の意味や、また、そこから胚胎する近代の思想のフレームについても見直しを迫るのである。
岡崎氏の主張をこの文脈から読み替えると、ブルネレスキはそのような理性主義の立場から遠近法を考えたのではないということだ。事態はまったく逆である。もともと知覚には時間・空間を混乱させてしまうような錯乱性が備わっている。要するに、これまで言ってきた意味でいえば、感覚の感覚性が思考には備わっていて、それをむしろ称揚したのがブルネレスキだったというわけである。この図式はプラトンの逆説と奇妙にも類似している点は興味深い。プラトンが遠近法不在の中で遠近法からの自由を唱えたとすれば、ブルネレスキもまた遠近法という思考の枠組みそのものを使って、遠近法のしくみを崩壊させるという戦略に出たのである。
さて、現代はポストモダンの時代である。ポストモダンという言葉はすでに消費され尽くした感がある。しかし、東浩紀氏は、今だからこそポストモダン論を読み直す必要があると指摘する。その理由は、IT(情報流通)革命が加速度的に拡大深化する現代にあって、これまでのいかなる解読格子も役に立たないからだという。現代は、可視と不可視の世界が共通の基盤上に同等に成立する社会である。世界はどんどんヴィジュアルになっていく。しかし、それを駆動し集積する情報の世界は、データベース化しますます見えないものになっていく。そこでは、もはやいかなる意味でも対立軸を想定することは不可能である。なぜならば、どこにも対立する軸などないからである。いわばスーパーフラットな平面空間がだらだらと広がり、その一方でスペクタクルな可視的世界が花火のように現れては消えていく。そういう時代にあっては、視覚的なモデルそのものが用をなさない。視覚の変容という事態は、じつはこのように認識体系(エピステーメー)全体が大きく変わることであり、その変わった後にやってくる世界がいったいどのような世界か、まだ誰も想像すらできていないのである。

再び問う、視覚と脳と身体の関係

ともあれ、視覚の変容と共に視覚論も変わらざるをえないだろう。最後に視覚研究の今後の行方を下條信輔氏の議論にそって考えてみよう。下條氏は、ギブソンの考えがいまや脳科学の知見と結び付くことによって、視覚の理論は新たな局面を切り拓くことになるだろうと報告する。現代の脳科学は、この数十年で飛躍的に進み、その成果を無視して視覚を論じることは、ほとんど意味がないというのである。脳科学が認知科学やコンピュータ科学と築き上げた最新の視覚理論では、各モジュール間の統合メカニズムに今やその関心は移行している。この意味は、これまでの視覚が「なぜ見えるのか」というところに力点が置かれていたのに対して、「なぜ私にはこうとしか見えないのか」というところに変わってきたことを示しているというのである。つまりこういうことだ。現在の視覚研究は、そのメカニズムの解明から、視覚における「見え」のシステムの解明へと向かいつつある。今までの言い方でいえば、視覚をメカニズムという静態的なアプローチから捉えるのでなく、システムという動態的なアプローチから捉え直そうとしていることだ。視覚を流動的な「動く」こととして捉えられない限り、視覚の本質をつかみそこねることがわかってきたのである。だが、それは同時に、眼から脳への情報伝達がどのような形で起こっているのかという認知機能の解明が必須であることも示唆する。なぜなら、脳と身体は切り離しては捉えられないからだ。
こうして視覚研究は、今や意識という最後の領域へその触手を伸ばし始めているのである。意識の研究としての視覚論。このことは、視覚研究が感覚を問題にする時が来たことを示しているといえる。視覚論の新たな歩みが始まっている。 (佐藤真)

 
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遠近法、反遠近法

『プラトンと反遠近法 』神崎繁 新書館 1999
『遠近法の誕生』辻茂 朝日新聞社 1995
『遠近法主義の哲学 』牧野英二 弘文堂 1995
『〈象徴形式〉としての遠近法』E.パノフスキー 木田元監訳 哲学書房 1993
『遠近法の精神史』佐藤忠良・中村雄二郎ほか著 平凡社 1992
『ゼロの記号論』B.ロトマン 西野嘉章訳 岩波書店 1991
『〈意識〉とは何だろうか ―― 脳の来歴、知覚の錯誤』
下條信輔 講談社現代新書 1999

脳、認知、視覚の理論

『サブリミナル・マインド』下條信輔 中公新書 1996
『視覚のメカニズム』前田章夫 裳華房 1996
『動物は世界をどう見るか 』鈴木光太郎 新曜社 1995
『視覚の冒険 ―― イリュージョンから認知科学へ』
下條信輔 産業図書 1995
『認知心理学1 知覚と運動』乾敏郎編 東京大学出版会 1995
『眼と耳』M.デュフェレンヌ 棧優訳 みすず書房 1995
『視覚のトリック 』R.N.シェパード 鈴木光太郎・芳賀康朗訳 新曜社 1993
『見えているのに見えない? 』
G.W.ハンフリーズ・M.J.リドック 河内十郎・能知正博訳 新曜社 1992
『視点』宮崎清孝・上野直樹 東京大学出版会 1985
『視覚新論』G.バークリ 下条信輔ほか訳 勁草書房 1990
『眼はなにを見ているか』池田光男 平凡社 1988

表象文化とクリティック

『表象のディスクール』1.2.4.5 小林康夫・松浦寿輝編 東京大学出版会2000
『視覚論』H.フォスター編 榑沼範久訳 平凡社 2000
『視覚と近代 』大林信治・山中浩司編 名古屋大学出版会 1999
『観察者の系譜』J.クレーリー 遠藤知巳訳 十月社 1997
『視覚の文化』小町谷朝生 勁草書房 1990
雑誌『批評空間』
1995年臨時増刊号「特集 モダニズムのハード・コア」 太田出版 1995

生態光学の方法

『エコロジカル・マインド』三嶋博之 日本放送出版会 2000
雑誌『現代思想』2000年4月号「特集 心理学への招待」 青土社 2000
雑誌『現代思想』1999年9月号「特集 感覚の論理」 青土社 1999
『アフォーダンス 新しい認知の理論』
佐々木正人 岩波科学ライブラリー 1995
『生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る』
J.J.ギブソン 古崎敬ほか訳 サイエンス社 1994
写真集『ライム・ワークス』畠山直哉 シナジー幾何学 1996

不可視なものの世界

『不過視なものの世界』東浩紀 朝日新聞 2000
『郵便的不安たち』東浩紀 朝日新聞 2000
『視覚論』H.フォスター編 榑沼範久訳 平凡社 2000
『存在論的、郵便的』東浩紀 新潮社 1998
『盲者の記憶』J.デリダ 鵜飼哲訳 みすず書房 1998
『見えるものと見えないもの』
M.メルロ=ポンティ 滝浦静雄・木田元訳 みすず書房 1989
『根源の彼方に グラマトロジーについて』
上下 J.デリダ 足立和浩訳 現代思潮社 1972

色彩の現象学、色覚の科学

『色彩論 完訳版』
全3巻 ゲーテ 高橋義人・前田富士男ほか訳 工作舎 1999
雑誌『思想』1999年12月号「特集 ゲーテと自然の現象学」岩波書店 1999
『色彩について』R.ウィトゲンシュタイン 中村昇・瀬嶋貞徳訳 新書館 1997
『カラー・アズ・ア・コンセプト』藤幡正樹 美術出版社 1997
『一色一生』志村ふくみ 講談社文芸文庫 1994
『色彩心理学入門』大山正 中公新書 1994
『色彩の秘密』R.シュタイナー 西川隆範訳 イザラ書房 1993
『どうして色は見えるのか 色彩の科学と色覚 』
池田光男・芦沢昌子 平凡社 1992
『形態と象徴 ―― ゲーテと〈緑の自然科学〉』高橋義人 岩波書店 1988
『自然と象徴 ―― 自然科学論集』
ゲーテ 高橋義人編訳 前田富士男訳 富山房 1982

セザンヌの圏域

『セザンヌ 画家のメチエ』前田英樹 青土社 2000
雑誌『美術手帳』1999年10月号「特集 新セザンヌ解剖学」 美術出版社1999
『セザンヌ解釈』S.ガイスト 浅野春男訳 スカイドア 1996
『セザンヌの構図』E.ローラン 内田園生訳 美術出版社 1972