〈する〉と〈させる〉の境界、あるいは人間的自由の問題
国分功一郎
1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。パリ第10大学、パリ社会科学高等研究院DEA取得。
博士(学術、東京大学)。現在、高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。著書に、『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院、2017、『民主主義を直感するために』晶文社、2016、『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版、2015、『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013、『スピノザの方法』みすず書房、2011、訳書に『カントの批判哲学』ジル・ドゥルーズ著、ちくま学芸文庫、2008、『マルクスと息子たち』ジャック・デリダ著、岩波書店、2004、他がある。
選択は常になされている。
その選択について責任を問わねばならなくなった時に、その選択に意志が後から付与されるわけです。
そうやってその選択すなわち行為を主体に帰属される。
そんな風にして選択が主体に帰属される前には、「行為のコミュニズム」があるわけですが、
その原初の光景はなかなか見てもらえないというわけです。
確率としての自由……いかにして〈選択〉を設計するか
大屋雄裕
1974年福井県生まれ。東京大学法学部卒業後、名古屋大学大学院法学研究科教授などを経て、現在、慶応義塾大学法学部教授。専門は法哲学。著書に『裁判の原点』河出書房新社、2018、『法哲学と法哲学の対話』有斐閣、2017(共著)、『自由か、さもなくば幸福か?──二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』筑摩選書、2014、『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007、他がある。
その傾きをコーディネートした主体を、責任から解放してしまうことになります。
だからこそそうではない側面があればそこもしっかりと目に見えるようにして、
それを使う人はナッジの傾きを意識しながら、常にその是非を問い続けることが重要なのではないか。
なぜ〈なんとなく〉好きになるのか? ……脳をその気にさせる錯覚
竹内龍人
1964年アメリカ・テキサス州生まれ。京都大学文学部哲学科心理学専修卒業後、同大学院、東京大学大学院を修了、博士(心理学)。
カリフォルニア大学、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所を経て、現在、日本女子大学人間社会学部心理学科教授。専門は知覚心理学、実験心理学。著書に『なぜ、それを好きになるのか? 脳をその気にさせる錯覚の心理学』角川SSC新書、2014、『だまし絵―心理の迷宮を楽しむ本』河出書房新社、2014、『だまし絵でわかる脳のしくみ―遊びながら体験する脳のスゴイ機能』誠文堂新光社、2012他、だまし絵や錯視に関する著作が多数ある。
「欲しくなる脳の神経ネットワーク」と「好きになる脳の神経ネットワーク」、
そして「幸せや喜びを生む神経ネットワーク」が同期して一斉に活動しているような、
脳が沸騰した状態だと考えられます。
しかしそういう状態は、決して長くは続きません。
そういう激しい情動であるよりも、むしろ意識できるかできないかくらいの〈なんとなく〉のあたりに漂っている方が、
「好き」という感じが長く持続するのではないでしょうか。
中動態から見えてくるもの
スリをする右手
満員電車のシーン。男性がつり革につかまりながら熱心に本を読んでいます。その後ろで何やら周囲をうかがっている男性、あろうことか本を読んでいる男性の尻ポケットの財布に手を伸ばし、あっという間にその財布をくすねてしまったのです。急いでその場を立ち去ろうとする男性、しかし、混み合った電車内では、素早い動きなどできるはずがありません。動きにくそうにおたおたしていると、「スリだ!」と大きな声。「この人スリよ、早く捕まえて!」かん高い女性の声に促されて、押し合いへし合いするうちにその男性、あっさり御用となってしまう。
駅に連れ出された男性、すぐに駅員にとり押さえられ、もはやいっかんの終わりと思いきや、そのスリ、突然開き直りこうのたまった。「この俺がスリだって? じょうだんじゃねえ、俺は何にもやっちゃいねえ」。「あらっ、何言ってんのよ、私あなたが財布スルところちゃんと見たんだから」。「あんたが見たのは、この右手だろ。俺はこいつととっくに手を切ってるぜ」。
これは、昭和を代表する喜劇人クレージーキャッツがレギュラーを務めたバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」のコントの一場面ですが、筆者はこのシーンに強い衝撃を受けたことを今でもよく覚えています。言うまでもなくこれはギャグで、最後の捨て台詞「…切ってるぜ」で、出演者全員がハラホロヒレハレをやると、天から金盥が落ちてきて(笑)…、といつものオチがつく。
クレージーキャッツが大好きな筆者は、このおきまりのオチを楽しみにしていたわけですが、この回はちょっと違っていました。そんなオチよりも、自分の右手をまるで他人のように話す、そのスリの台詞に強く反応してしまったのです。以前は自分の仲間だったはずの右手が、今は仲間ではない? それよりも、そもそも自分の右手が自分ではないって、いったいどういうこと?
意志を必要とする社会
『談』no.100 でお話をうかがった國分功一郎氏は、昨年『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院、2017)を上梓されました。その主要なテーマは中動態です。私たちは日常ごく普通に能動と受動という言葉を使っているけれども、じつはこの対立関係は意外に新しくて、かつては能動でも受動でもない中動態という態があり、むしろ能動態と対立する態だったというのです。
『中動態の世界』は、「私はたえず何ごとかをなしている。しかし、私が何ごとかをなすとはどういうことなのか」という話から議論を展開していきます。「私が何ごとかをなす」という文は、「能動」とされる形式のもとにありますが、実際には、能動のカテゴリーに収まりきらないものがたくさんあるという。一方、能動ではない状態のことを、私たちは「受動」と呼ぶ。受動とは、その字のごとく受け身になって何かをこうむることです。能動が「する」を指すとすれば、受動は「される」を指す。能動か受動かという区別は、すべての行為を「する」か「される」かに配分することを要請するというのです。
能動/受動の区別は、じつは不便で不正確なものであるにもかかわらず、私たちはこの区別を非常に重要視しています。それはなぜでしょうか。そこに登場するのが「意志」です。能動は意志を強調する形式であり、受動はそれをひっくり返したものにすぎないともいえます。能動/受動の区別は、意志の存在を強くアピールします。しかも、この能動は事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそが、その原動力であることを強調します。そしてここがもっとも重要なところですが、その「私」のなかに想定されているのが、他ならぬ「意志」というものなのです。
スリをする右手は、意志が働いていないがゆえに、自分はスリではないという。この一件屁理屈ともとれる言い方が、意外にもことの本質を突いているように思われるのは、この意志なる存在を強く意識しているからです。能動か受動か。じつはこの区別は、私たちの生き方やものの考え方に深く影響を与えています。さらには社会のあらゆる場面で意識的にあるいは無意識にこの区別は行われているのです。
そこで今号は、能動/受動の区別を糸口に、その根底にある「意志」の問題に切り込みます。まず、今号の問題提起を兼ねて、高崎経済大学准教授・國分功一郎氏にお話をうかがいます。なぜこれほどまでに能動/受動の区別が強調されるのか。そして、その影響のもと、それが意志の概念と密接な関係をもちつつ、その背景にある種の社会的要請があることが明らかにされるでしょう。行為は意志の実現であるとみなす考え方を國分氏は「行為の私有財産制」と呼んでいます。行為の私有財産制からいかにして離脱するか。その道は本当にあるのか。そのカギとなる「中動態」を手がかりに考察します。
より良い選択へ導く「ナッジ」という方法
ところで、「行為は意志の実現である」ということを前提に組み立てられている学問の一つに近代経済学があります。伝統的な近代経済学では、ホモ・エコノミクスを想定し、人間は自己の利益を最大化するように決定し行動するものとしました。たとえば、ありあまる情報のなかから自分にとって有意義な情報を選択し、それをもとに自己利益を最大化する。人間とは、そういう合理的な存在であり、合理的な存在= ホモ・エコノミクスが市場で契約を結ぶことによって成り立つ世界を近代経済学は想定したわけです。
しかし、現実の人間の行動を見る限り、近代経済学が想定するような合理的人間などほとんどいません。不合理なことをじつはいっぱいやっている。私たちの社会は、不合理な人間たちによってつくられた不合理な社会と捉える方が正確なようです。
昨今経済学で「ナッジ」という概念が注目されています。ナッジとは「ヒジで軽く突く」という意味。法学者で政治哲学者であるキャス・サンスティーンは、不合理な選択をしてしまうような状況のなかで、その人にとって最適な選択になるようにちょっと手を貸すことを「ナッジ」と名付けました。すなわち「ナッジ」とは、仮に合理的主体として私が選択したならば、実現したであろう理想の選択(最適な選択)を実現させる方法だといえます。
ただ言うまでもなく、近代経済学では、たとえ非合理的に見える行動であってもホモ・エコノミクスの行動には違いなく、その行為自体は意志の反映とみなされます。つまり、非合理な判断、非合理な行動は、単に意志の弱さを表しているに過ぎない。であれば、その背中を少し押してやることで、よりよい合理的な選択へ導くことができるだろうというのがナッジの考え方なのです。言い換えれば、よりよい選択を行えるようにほんの少し「意志」を加えること。
しかし、本当にそんなことが可能なのでしょうか。非意志的行為を緩やかに意志的行為へと導く「ナッジ」を例に、合理性と意志の関わりについて、慶應義塾大学法学部教授で法哲学が専門の大屋雄裕氏にお話しいただきます。
錯覚の重要性
一見非意志的行為に見えるが、じつは意志的行為の遂行であるということが、心理学の世界では以前から指摘されていました。たとえば、「だまし絵」。有名なだまし絵の一つに、長さが異なるよ うに見える二本の線が、定規を当ててみるとじつは同じ長さ、というのがあります。一本は、線の突端から矢印が山型に伸びているが、もう一本は、逆に線の突端から矢印が谷型に伸びている。同じ長さの二本の線が、矢印の方向が違うだけで、長さが異なって見えてしまうのです。 興味深いのは、何度見てもそのようにしか見えず、同じ長さだとわかっているにもかかわらず、そのようにしか見えないというところです。なぜそんな錯覚が生じるのか、じつはいまだに解明されていません。
同じようなことが、感情や情動でも見られます。たとえば「好き」という感情は、それ自体なぞが多い感情です。それは措くとして、ある対象を繰り返し見ているうちに、いつのまにか「好ましく」感じるようになるということが報告されています。「単純接触効果」といわれるもので、何度も繰り返し同じもの(人)を見ていると、「好ましく」感じるようになるという効果です。なぜそのようなことが起こるのか、人間の脳の働きがそうさせているというのです。
ものごとを考える重要な器官である脳。その脳が、錯覚のようなことを普通に起こしてしまう。意志に反するような事態が、意志に従うがゆえに生じてしまうとしたら、その「意志」を私たちはどのように捉えれば良いのでしょうか。人間のこころのなかに生じる非意志的ともいえる「意志」について、「好き」という感情を手がかりに、日本女子大学人間社会学部心理学科教授・竹内龍人氏にお話ししていただきます。
「意志」の外へ出る
尋問する言語という呪縛
能動態と中動態の対立が能動態と受動態の対立に変わる。じつは、この変化はとても大きな意味をもつというのです。すなわち、行為において「意志」が登場するからです。そもそも「意志」などという概念は普遍的なものではなく、ある時代に発見されたものだといわれています。にもかかわらず、「意志」の登場により、私たちの行為は、その意志に帰属するものになるのです。それ自体多様な意味をもっているはずの行為が、ある特定の主体に帰属させられてしまう。そこで起こる行為が誰かの行為になること。それは端的に「責任」という概念を私たちの社会に呼び込むことを意味します。
言語は、意志の有無を問いただす言語となるのです。國分氏は、それを「尋問する言語」と名付けました。「尋問する言語」は、追及の手をゆるめません。「お前がやったとして、それはお前の意志でやったのか。それとも強制されたのか、さあどっちだ」と。ここで厳しく問われるのは、行為そのものというよりは、その行為主体が誰かということです。この時点で、意志と責任は一体化します。さらに注目すべきことは、意志の概念によって行為がその人の所有物になり、國分氏はそれを「行為の私有財産制」と表現しました。
あらゆる行為は、意志のもとに行われ、選択においても意志なくしてはあり得ないと考えるよう になるわけですが、しかし、本来は逆ではないか。選択は常になされていて、その選択に責任がかかるというのであれば、それこそ本末転倒です。國分氏は断言します。意志と選択はまったく別のものです。そして、自由という概念もまた、意志と切り離して捉えるべきものだというのです。問題の核心が「意志」である以上、まずこの意志なるものを、徹底的に考え抜くことから始めるべきなのでしょう。中動態は、まさにその思考実験の格好の対象となると概念だといえます。
自由を発見する
最適な選択をするはずのホモ・エコノミクスは、現実世界ではしばしばその予想を裏切るような行動をとってしまう。選択能力が高められれば、利益や幸福を手に入れることができる。ならば、その選択にちょっと手を貸して、より良い選択ができるようにしてあげればいい。そのちょっと手を貸すことをサンスティーンは「ナッジ」と呼んだわけです。選択肢を限定したり、一方的に強制するわけではない。あくまでも自然に選んでいるように感じられることが肝要で、大屋雄裕氏はそれを傾斜と表現しました。球が低い位置へ自然に転がるようにして、選択の確率を高める。
ただ、ここには根本的な問題があると大屋氏は言います。自分がある選択をする時に、その確率がナッジという傾きによって減っていたとしても、自由な選択がなされたと本当に言えるのかということです。しかし、それ以上に問題なのは、自由の捉え方です。自由の度合いが測れると考える根拠は、それが意志的な行為と見ているからでしょう。大屋氏が言うように、自由は、事後的にしか認知できないものであり、その意味で自由は常に発見されるものとして、私たちの前に現れます。確かに自由と選択は同根ですが、自由と意志は別のものです。「ナッジ」の評価は、自由と意志の関係をどう捉えるかにかかっているように思われます。
「好き」という中動態から考える
竹内龍人氏が言うように、「好き」という思いほど捉えにくいものはありません。「好き」にはさまざまなレベルの「好き」が混在しているといいます。しかも最近の脳科学が明らかにしたように、本気で好きになっている時は、本来別の働きをする「好きになる神経ネットワーク」と「欲求を感じる神経ネットワーク」、さらに「喜びを生む神経ネットワーク」が同期し、一斉に活動するというのです。
「意志」もじつはそういうものなのではないでしょうか。私たちは、「意志」という言葉をもち出して、行動(行為)に結び付けたり、自由に紐付けたりしています。けれども、本来「意志」とはそんなに単純なものではなく、複雑な機能の一つのようにも思えます。竹内氏は、日常的に見たり聞いたりしていることにも、無意識は大きくかかわっていると言いました。「好き」と感じる時にも同様に、無意識がかかわっている可能性は大いにありそうです。國分氏は、「惚れる」は中動態であり、主語の内部で過程が完結するものと言いましたが、同じ意味で「好き」という感情、情動も中動態です。「〈なんとなく〉好き」という感じを説明することは、確かに容易ではありません。しかし、中動態の概念を用いれば、その感じに少し近づけるように思えます。
中動態は、能動/受動と区別されてしまうものが同居しています。フロイトの無意識もおそらくそうした能動/受動が混在している状態であり、そうであれば、「〈なんとなく〉好き」は、まさに中動態を体現しているものだと思われます。
私たちは、この中動態という概念を一つの手がかりにして、「意志」の外へ向かいます。そこには、まだ見ぬ自由が控えているはずです。
◎中動態をめぐって
中動態の世界 意志と責任の考古学 國分功一郎 医学書院 2017
マインド・タイム 脳と意識の時間 B・リベット 下條信輔訳 岩波書店 2016
暇と退屈の倫理学〈増補新版〉 國分功一郎 太田出版 2015
ドゥルーズの哲学原理 國分功一郎 岩波現代全書 2013
それは私がしたことなのか 行為の哲学入門 古田徹也 新曜社 2013
芸術の中動態 受容/制作の基層 森田亜紀 萌書房 2013
スピノザの方法 國分功一郎 みすず書房 2011
その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち 上岡陽江、大崎栄子 医学書院 2010
リハビリの夜 熊谷晋一郎 医学書院 2009
哲学の余白 上下 J・デリダ 藤本一勇他訳 法政大学出版局 2007
ギリシア文法〈改訳新版〉 C・ギロー 有田潤訳 文庫クセジュ 2004
言語のざわめき〈新装版〉 R・バルト 花輪光訳 みすず書房 2000
エチカ スピノザ 畠中尚志訳 岩波文庫 1997
精神の生活 上下 H・アーレント 佐藤和夫訳 岩波書店 1994
一般言語学の諸問題 É・バンヴェニスト 岸本通夫監訳 みすず書房 1983
アリストテレス全集 第1巻 中畑正志訳 岩波書店 2013
精神の発見 ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究 B・スネル 新井靖一訳 創文社 1974
◎ナッジ・アーキテクチャー・行動経済学
裁判の原点 社会を動かす法学入門 大屋雄裕 河出書房新社 2018
法哲学と法哲学の対話 安藤馨、大屋雄裕 有斐閣 2017
シンプルな政府 〝規制〟をいかにデザインするか C・サンスティーン 田総恵子訳 NTT 出版 2017
命の価値 規制国家に人間味を C・サンスティーン 山形浩生訳 勁草書房 2017
選択しないという選択 ビッグデータで変わる「自由」のかたち C・サンスティーン 伊達尚美訳 勁草書房 2017
スター・ウォーズによると世界は C・サンスティーン 山形浩生訳 早川書房 2017
賢い組織は「みんな」で決める リーダーのための行動経済学入門 C・サンスティーン、R・ヘイステ 田総恵子訳 NTT 出版 2016
行動経済学の逆襲 R・セイラー 遠藤真美訳 早川書房 2016
ファスト& スロー あなたの意思はどのように決まるか 上下 D・カーネマン 村井章子訳 ハヤカワ文庫 2014
自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う 大屋雄裕 筑摩選書 2014
監視デフォルト社会 映画テキストで考える 安部潔 青弓社 2014
予想どおりの不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 D・エイリー 熊谷淳子訳 ハヤカワ文庫 2013
実践行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択 R・セイラー、C・サンスティーン 遠藤真美訳 日経BP 社 2009
経済は感情で動く はじめての行動経済学 M・モッテルリーニ 泉典子訳 紀伊国屋書店 2008
実践行動経済学 R・セイラー 篠原勝訳 ダイヤモンド社 2007
自由とは何か 監視社会と「個人」の消滅 大屋雄裕 ちくま新書 2007
コモンズ ネット上の所有権強化は技術革新を殺す R・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2002
FREE CULTURE いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか R・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2002
思想地図vol3 アーキテクチャ 東浩紀、北田暁大編 NHK 出版 2009
CODE インターネットの合法・違法・プライバシー R・レッシグ 山形浩生、柏木亮二訳 翔泳社 2001
◎無意識・選考・帰属
なぜ、それを好きになるのか? 脳をその気にさせる錯覚の心理学 竹内龍人 角川SSC 新書 2014
だまし絵 心理の迷宮を楽しむ本 竹内龍人 河出文庫 2014
選択の科学 S・アイエンガー 櫻井祐子訳 文春文庫 2014
だまし絵でわかる脳のしくみ 遊びながら体験する脳のスゴイ機能 竹内龍人 誠文堂新光社 2012
「ヤミツキ」の力 廣中直行、遠藤智樹 光文社新書 2011
だまし絵練習帳 脳の仕組みを活かせば描ける 基本の錯視図形からリバースペクティブ 竹内龍人 成文堂新光社 2010
最新脳科学で読み解く脳のしくみ S・アーモット、S・ワン 三橋智子訳 東洋経済新報社 2009
サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現在 下條信輔 ちくま新書 2008
オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 鈴木光太郎 新曜社 2008
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元、他訳 東京大学出版会 2003
サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ 下條信輔 中公新書 2003
快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか 廣中直行 NHK ブックス 2003