怖いもの見たさ…「恐怖」の二重構造から考える
山根一郎
1956年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程心理学研究科修了。現在、椙山女学園大学人間関係学部教授。著書に、『私とあなたの心理的距離 その社会心理学から存在論へ』青山社、2005、『作法学の誕生』春風社、2004、他。論文に、「恐怖の現象学的心理学」(『人間関係学研究』第5号所収、2007)、「恐怖の現象学的心理学2:恐怖の二重構造」(『人間関係学研究』第12号所収、2013)他がある。
私は、エクスタシーという言葉を使っていますが、対象が見たいという欲望とは別に、
恐怖体験そのものがある意味で快感なんじゃないかと。
本当に「危険な恐怖」なら、快感を楽しむなどという余裕はありませんが、
「危険でない恐怖」とわかっていれば、そこに快感を発見し、
それを楽しむ余裕すら生まれるんじゃないかと思うんです。
じっくりと、恐怖を味わい尽くす感覚が。
すべては「気配」……不気味な館に魅せられて
加藤耕一
1973年東京生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工)。東京理科大学助手、パリ第4(パリ=ソルボンヌ)大学客員研究員、近畿大学講師を経て、現在東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授。専門は西洋建築史、とくにゴシック建築。2004年、日本建築学会奨励賞受賞。著書に『装飾と建築(フランス近世美術叢書1)』 ありな書房、2013年(共著)、『ゴシック様式成立史論』中央公論美術出版、2012年、『幽霊学入門』 新書館、2010年(共著)、『「幽霊屋敷」の文化史』 講談社現代新書、2009年他がある。
起こりうるかもしれない他者からの脅威に対して人は不気味さを感じ、
自らの安全や安心のために閉鎖性を高め、居心地の良い空間をつくっていった。
その居心地の良い空間は、しかし他者から見ればこのうえなく不気味なブラックボックスとなっていく。
しかもその居心地の良い部屋にはモノがあふれていて、
そのどれもが部屋の主にとって居心地良く設えられている。
けれどもこの部屋を、たとえば一○○年以上の年月を経たわれわれが今見たとしたら、
多分とても不気味で、とても怖い部屋に感じるんじゃないでしょうか。
脳はホラーを求める?……世界観エンタメとしての恐怖
都留泰作
1968年生まれ。名古屋大学を卒業後、京都大学大学院理学研究科で文化人類学を専攻。研究対象はアフリカ民族学。2001年理学博士。富山大学人文学部准教授を経て、現在は漫画家として活躍するとともに京都精華大学マンガ学部准教授を務める。2003年『月刊アフタヌーン』四季賞秋佳作受賞。作品に『ムシユヌン』小学館、2014-、『ナチュン』講談社、2007-10、著書に『〈面白さ〉の研究—世界観エンタメはなぜブームを生むのか』角川新書、2015、他がある。
私たちの普段の日常(内部)はたった薄皮一枚のような境界で保たれているにすぎないことに、
嫌でも気付かされてしまう。
「恐怖」はまさに日常の裏側、内部と外部の境界の膜にぴたりと張り付いている。
そう考えると、それをあえてクローズアップするホラーは、
自分たちがそこに住むために苦労して「世界」を構築し民族の「物語」を紡ぎ続けてきた、
人間の高度に複雑化した「世界観構築能力」の、限界ぎりぎりを突き詰めようとする、
きわめて知的な営みであるようにも思われてきます。
この形容しがたいアンビバレントな感情は……
怖がりたいけど、怖がりたくない
お金を支払ってまで恐怖を楽しみたい。絶叫マシンやお化け屋敷は、怖がりたいために自らすすんで乗ったり入ったりするアミューズメント。キャーッと叫び声をあげることで快楽を得ます。ただ、絶叫マシンやお化け屋敷では、その快楽の質のようなものに違いがあり、お化け屋敷で快楽を得るには、想像力が生み出す恐怖というさらに高いハードルを越えなければなりません。
お化け屋敷づくりの難しさはそこにあり、「お客さんのホンネを探っていくと、〈怖がりたいけど、怖がりたくない〉という複雑な感情」にいきつく。そう語るのは、日本で唯一のお化け屋敷プロデューサー、五味弘文氏です。「映画の感動作なら、前のめりで作品の世界に入り込もうとするけれど、お化け屋敷は真逆で、〈これ、絶対に動くよ〉、〈あそこにセンサーがある!〉なんて言いながら、どうにか現実世界に留まろう」とします(1)。つまり、危険な目にあいたくないが、恐怖から快楽を得たい。そういうお客さんのわがままをいかに満足させるかが、お化け屋敷プロデューサーの腕のみせどころだというわけです。
お化け屋敷の入り口で、不安な面持ちでおそるおそる入館を待つお客さん。その数十分後、出口に現れた同じお客さんの顔には、笑みさえ浮かんでいる。恐怖を存分に味わいつくし、最後は笑いながらお化け屋敷を後にする。「最高に怖くて、最高に楽しい」お化け屋敷。本来相容れないはずの二つの欲望を、いっぺんに満足させること。それが、五味氏の目指す究極のお化け屋敷です。お化け屋敷に身を委ねることで自らを解放し、その驚く自分を客観視して笑ってしまう。異なる感情の両面が同時に顔を出す。それが可能になった時、お化け屋敷は真のエンタテインメントになるというのです。
「恐いもの見たさ」という言葉があります。怖いけど見てみたい、恐ろしそうだけど体験してみたい。不気味なもの、恐怖へのアンビバレントな感情。今号では、この不思議な感情「恐いもの見たさ」について考えます。
不確実性こそ恐怖の源泉
「恐いもの見たさ」はじつに奇妙なもので、ある意味倒錯した心理であると言ったのは劇作家の山崎正和氏です。「恐いもの見たさ」は、時にエンタテインメント(娯楽)の種にも使われますが、それは、二つの違った動機に根ざしているという。そして、それがもたらすエンタテインメントにも同様に二種類あるというのです(2)。
では、私たちは何が怖いのでしょうか。山崎氏によれば、怖いものの一つ目は、正体のわからない相手、何があるかわからない状態で、危険に対する心構えができないからだといいます。また二つ目は、何であれ不意を突いてくる現象で、要するに、予測さえできれば怖くない相手でも、突然に襲われると人は怯えるものだというのです。恐怖のこの二種の違いに応じて、恐いもの見たさをエンタテインメントに変える方法も二つに分けられ、いわゆるスリルとサスペンスがそれにあたるといいます。たとえば、スリルの代表は、映画のカーチェイス。また、体験型としては絶叫マシンもこれに入ります。一方、サスペンスの代表は推理小説。恐怖の正体は見え隠れしながら、読者をじらし抜いたあげく、最後に真相が暴かれ安堵の大団円にたどりつく。ただし、そこでいわれる恐怖はあくまでも虚構にすぎず、実体のないものです。スリルもサスペンスもいわば恐怖の感覚だけを味わうもので、その意味で両者は共通しています。つまり、怖いものという現象には二通りあり、その二種類をうまく使い分けながら、私たちは、怖いものを楽しんでいるというのです。
それにしても、人はなぜそんな奇妙なエンタテインメントを求めるようになったのでしょうか。山崎氏は、「カタルシス」という概念を例に出して、一つの仮説を提示します。カタルシスとは、一般に舞台上の出来事(悲劇)を見ることによって、観客のこころに恐れ、憐れみの感情を呼び起こすことで精神を浄化することを意味します。しかし、山崎氏によれば、もともとは古代ギリシャで行われていた医術の一種で、「同種療法」が本来の意味だったというのです。同種療法とは、その字のごとく、病状と同じ刺激を与えて治す方法で、たとえば、高熱の患者をあえて温めたり、ヒステリー患者にわざと発作を起こさせる治療法のことです。
アリストテレスは著書『詩学』のなかで、カタルシスに触れ、悲しみを悲劇によって癒す方法として称揚しました。それはまさに悲しみでこころを乱す者をあえて悲劇を演じることで癒そうという方法に他なりません。人はみな先の知れぬ生活をしています。漠然とではあるけれど、恐怖の感情は毎日の日常に立ち込めているはずだといい、それを一時でも逃れるために、スリルやサスペンスに身をゆだねるのではないか。虚構のサスペンスによって極端な恐怖に心を震わせ、感情が枯れる寸前までおびえさせてしまう。あるいは、不意打ちを集中的に極限まで味わうことによって、日常の絶え間ない不意打ちの不安をしばらく払うことができるにちがいない。「怖いもの見たさ」とは、いうなればそうした感情の有効利用なのではないかというのが、山崎氏の仮説です。
科学技術の進歩によってたいがいのことが合理的に解決できるかのように見えるけれども、じつは人知の及ばない、偶然に支配されているのが実情です。偶然はどんな科学法則によっても絶対に排除できません。そうした偶然性、言い換えれば不確実性こそ恐怖の源流ではないか、と山崎氏は言います。
今日私たちは、依然として日々漠然たる恐怖を感じながら生きています。それはなぜかといえば、社会生活を営みながらも、それとは別に永遠に一人で生きているからだといいます(2)。であるとすれば、「人間が今も世界のなかでおびえながら生き、一方で神仏を恃み他方でお化け屋敷を訪れるのは、人間が独りで生きようとする矜恃(プライド)の逆説的な現れだといえるかもしれない」と山崎氏は示唆するのです。
恐怖と不安は知性の限界?
社会学者の奥井智之氏も、恐怖の源流に不確実性があると考えている一人です。奥井氏は著書『恐怖と不安の社会学』(弘文堂)で、映画作家アルフレッド・ヒッチコックの「恐怖は、銃声ではなく、銃声の予感に宿る」という言葉を引きながら、恐怖と不安は渾然一体のものであり、より正確に、それは不確実性ではなく、不確実性の認識に宿るもの、という考えを明らかにしました。たとえば、ヒッチコックにはよく知られた映画『鳥』という作品があります。アメリカのある港町で人々が鳥から執拗な攻撃を受けるというストーリーです。その攻撃があまりに尋常ではないために、大変評判になった映画ですが、それを見た観客は、では何に恐怖を感じたのでしょうか。鳥が人間を襲うということに恐怖を感じたのは言うまでもありません。しかし、それだけでしょうか。恐怖の核心はそこではなく、そもそも鳥はなぜ人間を攻撃するのか、そのことが不明だからではないかと奥井氏は考えます。
奥井氏は哲学者・大森荘蔵の概念を頼りに、人間の認識できないものとして、事物の背面、他者の心理、死後の世界を挙げていますが、この三つは、まさに人間の恐怖や不安と切っても切れない関係にあるといいます。
「(1)私たちは暗い夜道を歩く時に、しばしば恐怖や不安に襲われる。というのも暗闇から、何かが出てくるかもしれないから。(2)学生たちに〈何に不安に感ずるか〉と尋ねると、よく耳にする」のは、「〈友人にどう思われているのか不安である〉という回答で」す。「(3)たいていの宗教は死後の幸福を確保するための方策について、説教を展開してい」ます。「しかしそれによって、死の恐怖や不安が和らぐとは限」りません(3)。
今述べた(1)(2)(3)は、大森荘蔵の言う「事物の背面」、「他者の心理」、「死後の世界」とそれぞれ対応しているといいます。この三つは、大森に言わせれば同幹同根で、すなわち、一つの共通の構造をもっているというのです。
奥井氏は続けます。
「人間の恐怖や不安にも一つの共通の構造があ」ります。「すなわちそれは、十分に認識したり、制御したりできないものが恐怖と不安の源泉であるということ」です。「もちろん自分とさほど関係のない(1)事物の背面がどうであろうと、(2)他者の心理がどうであろうと、 (3)(他者の)死後の世界がどうであろうと、知ったことではない。言ってみれば人間は、小さなサークルのなかで生きている(〈サークル〉をより哲学的に〈生活世界〉と言い換えてもよい)。その小さなサークルのなかで自分と関係のある事象が、恐怖と不安の源泉となるので」す。そして、一つの結論を下します。「恐怖と不安は、人間の知性の限界に起因」していると。
人間はしばしば、知性の限界を知性そのもので乗り越えようとするけれど、それはたいてい失敗に終わります。私たちは、それを知性の陥穽と呼んでいるというのです。しかし、そういう恐怖や不安を和らげる方策を種々生み出してきたのも事実です。それらの方策を冷静に評価することも、「恐怖と不安の社会学」の課題であると奥井氏は指摘します。
ここであらためて山崎正和氏の言葉を思い起こしましょう。私たちが、お化け屋敷を訪れるのは(もちろん、これにジェットコースターなどの絶叫マシンを加えてもいい)、人間が独りで生きようとする矜恃(プライド)の逆説的な現れなのではないか。そう、私たちは、恐怖と不安のただなかで、それでも必死になって生き続けようとする時、スリルやサスペンスの世界に一時戯れることによって、逆説的に恐怖と不安を無化しようとしているのかもしれません。怖いもの見たさとは、最初からパラドキシカルな行為としてあるということでしょう。
緊張と緩和のメカニズム
冒頭、お化け屋敷は「最高に怖くて、最高に楽しい」ものだと言いましたが、言い換えれば、恐怖を体験することで楽しさを得るアトラクションがお化け屋敷だということです。お化け屋敷の入口に立った時のあの緊張感は、お化け屋敷の内部を歩き回る間中ずっと続きます。ところが、出口が見えた瞬間ドキドキした気持ちはスーッと消えて、むしろさわやかで何か満たされた気分になっている。ここにあるのは、緊張の末の緩和です。
お化け屋敷は、やみくもに恐怖だけを煽ってもお客さんはかえってシラケてしまう。お化け屋敷を出た瞬間、お客さんが笑顔になっている、そういうお化け屋敷がいいお化け屋敷だと五味弘文氏は言います。それは、「緊張と緩和」のいい循環が起こっているからだというのです。
「緊張と緩和」をいかにつくり出すか、お化け屋敷はそのメカニズムを理解して、上手に生かすことで「怖いのに楽しい」アトラクションになるというわけです。
緊張と緩和のメカニズムを、五味弘文氏の著書をパラフレーズしながら、もう少し詳細に見てみましょう。お化け屋敷の入口を入ると、今にも何かが現れそうな気配が漂ってきます。身を固くして息をつめながら歩いていくと、すでに心臓はドキドキし、呼吸が早くなっています。不安が高まり、明らかに緊張状態にあることを自覚します。その後数々の展示やアトラクションを経てようやく出口にたどり着く。「もうここまで来れば、お化けに襲われることはない」と確信した瞬間、緊張状態は解放感に変わる。安心して気持ちは緩みます。
お化け屋敷に入った瞬間から緊張状態はずっと続き、お化け屋敷を出た瞬間、緊張感はほぐれて、一気に緩和に向かいます。お化け屋敷は、この緊張から緩和へ向かうプロセスを楽しむアトラクションです。しかし、よく見ると、緊張→緩和のプロセスのなかにも、じつは小さな緊張と緩和がある。いや、小さな緊張/緩和を繰り返し体験できるように意図してつくられているのがお化け屋敷なのです。
お化け屋敷のなかを歩くと、「いつ、どこから何かが現れるんじゃないか」と不安になり、常に緊張を強いられることになります。この「何かが現れる」というところがポイントです。
「暗闇に立つ人形はいつ動くかわからないし、ガタガタ音を立てる扉の奥からはいきなりお化けが飛び出してくるかもしれない。これがお客様に緊張感を生み出す。お客様は、いつどこから出てくるのかを考えながら先へ進む。ということは、そのときのお客様の抱えている不安の対象は、必ずどこかにいる」のです(以下、「」内はすべて(4)より引用)。「いるかどうかわからない漠然とした不安ではなく、必ずいるものが、いつどこからどんな風に出てくるかわからない不安」です。
逆に言えば、何かが出てくれば「不安は終わる」ということで、その瞬間に緊張状態から解放され、緩和が訪れるのです。つまり、どこかで「もう出てきてくれないか」という欲求を常に抱いているというわけです。
このプロセスを〈不安→恐怖→安堵〉と捉えなおすことができます。お化け屋敷では、基本的にこのような精神状態を繰り返す。もとより、〈不安→恐怖〉は緊張であり、〈安堵〉は緩和です。この〈不安→恐怖→安堵〉は、たとえば、ジェットコースターでも同じです。ジェットコースターでは、ゆっくりと時間をかけて高い地点まで上がっていく不安と一気に落ちていく恐怖。さらには、落ち切った後の安堵、再び上昇して落ちていく恐怖、再び落ち切った時の安堵……、こういった精神状態は、お化け屋敷と同類です。お化け屋敷もジェットコースターなどの絶叫マシンも、緊張と緩和を繰り返すことによって楽しみを生み出すアトラクションであることには変わりありません。
ここで新たな疑問が湧いてきます。緊張と緩和のメカニズムをうまく使ったアトラクションがお化け屋敷や絶叫マシンだとして、ではなぜ、それが「楽しい」という気持ちをつくり出すのかということです。
五味氏は、最近の脳科学の知見を参考に、脳の機能から一つの解釈を試みています。お化け屋敷の不安と恐怖は、強い緊張をつくり出します。平衡を保とうとする脳にとって、極度の緊張状態は望ましくありません。そこで、この緊張を緩和しようとして脳内に快楽物質を出します。
「緊張が高まると、それを抑えようとしてどんどん快楽物質が出て」きます。「けれど、緊張状態が強いので人はそれを意識することができ」ません。たとえば、お化け屋敷の「洋服箪笥の前を通りすぎ、棺桶の脇を通り過ぎ、いよいよ何かが出てきそうだと思った瞬間、窓ガラスが開いてお化けが現れる。この瞬間、緊張はピークに達して脳内物質が大量に分泌され」ます。「その直後、お化けが再び窓の奥に消えてしまうと、緊張が一気に緩和され」ます。「そのとき、緊張はなくなったのに脳内に快楽物質だけが大量に残った状態になってい」ます。この作用によって、人は楽しいという情動を覚えるというわけです。
お化け屋敷のなかで、人は「緊張と緩和」を繰り返します。そうやって繰り返していると、「快楽物質は出てはなくなり、また出てはなくなりを繰り返す」ようになります。そして、「緊張の後に緩和が来るというある程度の法則性を覚えてしまうと、快楽物質も出やすくなってい」きます。「そこに怖いのだけれど楽しいという情動の複雑な反復が生まれてくる」というわけです。
もとより、恐怖の場合、猛獣に襲われるというような、本当に身の危険を感じるような場面では、「楽しい」という感情は生まれません。自分がそうした状況から完全に隔絶されているということを理解できるからこそ、「楽しい」という感情、情動が生まれるのでしょう。「危険な状態から安全な状態へ、不安な心理状態から安心の心理状態へ、不安定な状態から安定した状態へ。私たちの感じる楽しいという情動のほとんどは、このように緊張が緩和することによって生まれてくる」と言ってもよいのです。
恐怖の感情、そのものへ
「怖いもの見たさ」を考察するにあたって、三つの論点を掲げます。
一つは、恐怖の源流と考えられる不確実性を前提としたうえで、恐怖感情の心理学的アプローチの有効性について。
二つは、緊張と緩和のメカニズムを組み込んだお化け屋敷において、空間論的な解釈はいかにして可能かということについて。
三つは、「怖いもの見たさ」の要件の一つであるリアリティと恐怖の関連性について。
まず、一の論点について、椙山女学園大学人間関係学部教授・山根一郎氏に伺いました。
遊園地や映画館での疑似体験による危険は、リアルな世界では、おそらく一度も経験することのない確実な死(の風景)ではないかと山根氏は言います。瀕死の恐怖を(リアルではないがリアリティはある)純粋なかたちで体験すること。これは、ゾクゾクと生々しく感じている自己の存在(在ること)に出会うことに他ならないという。その出会いは、日常的に自己忘却している自己を“他”によって強圧的に再度(二重に)忘却させられたための回帰的な自己直面なのか。はたまた、身の毛のよだつ恐怖と同時に感じている快感は、究極の冒険が究極の“他”(恐るべき神々しい存在者)に出会うことに相当する感動体験なのか。恐怖は、純粋なかたちで体験されることによって、生の爆発的エクスタシーであることがはからずも暴露されてしまうと言うのです(5)。
こうした議論を踏まえたうえで、「危険な恐怖」と「危険ではない恐怖」という二種類の恐怖、その二重構造の発現という立論から、「恐怖の成熟」、「恐怖の娯楽化」へ持論を展開する山根氏に、愉しみとしての恐怖感情についてその考えを開陳していただきます。
人々は、いつから「恐怖」をエンタテイメントとして愉しむようになったのでしょうか。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授・加藤耕一氏は、崇高、不気味なもの、ファンタスマゴリー、蝋人形などに触れながら、文学、映画、音楽などの諸ジャンルを横断しつつ、ゴシックという概念の変容について研究されておられます。そしてそのゴシックの行き着く先に登場したのが幽霊屋敷だったというのです(6)。幽霊屋敷は、ゴシックの帰結であると同時に、新たな愉しみの創造だったのです。
五味弘文氏の「緊張/緩和」のお化け屋敷論を踏まえて、ディズニーランドのホーンテッドマンションを例に、幽霊屋敷の空間論を展開していただきます。
漫画家にして文化人類学者である京都精華大学マンガ学部准教授・都留泰作氏は、「ホラー」小説や漫画は、哲学へと通じていると論じています。それは、「ホラー」が形而上学的な意味での「外部」を体験させてくれるからだというのです。そして、エンタテインメントの世界における「恐怖」とは、そのような形而上学的思考を「体感」させてくれるロケットエンジンのような役割を果たす、唯一の動物的感覚なのではないかともおっしゃっておられます。哲学者が思考によって到達できる世界に、瞬間移動させてくれる「筋肉細胞」、それこそがホラーではないか(7)。最後に、フィールドワークの経験をマンガ作品に生かしながら新たなエンタテインメントの世界を構想する都留氏に、恐怖の作品化においてもっとも重要だと思われるリアリティについて、考察していただきます。
なお、タイトルの「恐怖の報酬」は、一九五三年制作のフランス映画(イブ・モンタン主演)。恐怖のアンビバレントな感覚それ自体を主題とした傑作です。
1 五味弘文「「恐怖演出」という快楽」(雑誌『嗜み』夏号、2013年)
2 山崎正和「恐いもの見たさと人間の矜持」(雑誌『嗜み』夏号、2013年)
3 奥井智之『恐怖と不安の社会学』弘文堂 2014
4 五味弘文『お化け屋敷になぜ人は並ぶのか 「恐怖」で集客するビジネスの企画発想』角川書店 2012
5 山根一郎「恐怖の現象学的心理学」 人間科学研究第5号 2007
6 加藤耕一『「幽霊屋敷」の文化史』講談社現代新書 2009
7 都留泰作『〈面白さ〉の研究』角川新書 2015
◎恐怖感情の始原を探る
記憶をあやつる 井ノ口馨 KADOKAWA/角川学芸出版 2015
恐怖と不安の社会学 奥井智之 弘文堂 2014
感情とは何か プラトンからアーレントまで 清水真木 ちくま新書 2014
「恐怖の現象学的心理学2 恐怖の二重構造」 山根一郎 人間科学研究第12号所収 2013
お化け屋敷で科学する! 日本科学未来館協力 扶桑社 2011
恐怖の歴史 牧神からメン・ブラックまで P・ニューマン 田中雅志訳 三交社 2006
「恐怖の現象学的心理学」 山根一郎 人間科学研究第5号所収 2007
感じる情動・学ぶ感情 感情学序説 福田正治 ナカニシヤ出版 2006
記憶と情動の脳科学 J・L・マッガウ 久保田競、大石高生監訳 講談社ブルーバックス 2006
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元、小幡邦彦他訳 東京大学出版会 2003
感情の科学 心理学は感情をどこまで理解できたか R・R・コーネリアス 斉藤勇訳 誠信書房 1999
恐怖心の歴史 J・ドリュモー 永見文雄、西沢文昭訳 新評論 1997
人間と聖なるもの R・カイヨワ 塚本史、小幡一雄他訳 せりか書房 1994
精神の幾何学 安永浩 岩波書店 1987
表情分析入門 表情に隠された意味を探る P・エクマン、W・V・フリーセン 工藤力訳 誠信書房 1987
汚穢と禁忌 M・ダグラス 塚本利明訳 思潮社 1972
◎恐怖、幽霊の表象論
写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写 浜野志保 青弓社 2015
うらめしや~、冥土のみやげ展図録 東京芸術大学美術館 2015
中世の幽霊 西欧社会における生者と死者 J=C・シュミット 小林宣子訳 みすず書房 2010
幽霊学入門 河合祥一郎編 新書館 2010
幽霊を捕まえようとした科学者たち D・ブラム 鈴木恵訳 文春文庫 2010
「怖い絵」で人間を読む 中野京子 NHK生活人新書 2010
「幽霊屋敷」の文化史 加藤耕一 講談社現代新書 2009
心霊写真 メディアとスピリチュアル J・ハーヴェィ 松田和也訳 青土社 2009
江戸の妖怪絵巻 湯本豪一 光文社 2003
パッサージュ論第2巻 室内、痕跡など W・ベンヤミン 今村仁司,三島憲一訳 岩波現代文庫 2003
透視と念写 復刻版 三浦友吉 福来出版 1992
怪談の科学 幽霊はなぜ現れる 中村希明 講談社ブルーバックス 1988
◎語りとしての恐怖
百鬼夜行抄1~24 今市子 朝日新聞出版 ~2015
寄生獣 1~10 岩明均 KCデラックスアフタヌーン 講談社 ~2014
稲川淳二恐怖実話セレクション 稲川淳二 リイド社 2012
蟲師1~10 漆原友紀 アフタヌーンKCコミック 講談社 ~2011
恐怖新聞1~10 つのだじろう 少年チャンピオン・コミックス 秋田書店 2010
生命の木 諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ鬼になれ 所収 集英社 2004
死よ墓より語れ R・ブレア 出口保夫訳 早稲田大学出版局 2003
怪談牡丹灯籠 三遊亭円朝 岩波文庫 2002
ヴァテック W・ベックフォード 私市保彦訳 国書刊行会 1990
怪談・奇談 小泉八雲 平川祐弘編 講談社学術文庫 1990
オトラント城奇譚 R・ブレア 出口保夫訳 国書刊行会 1983
アッシャー家の崩壊(ポオ小説全集1) E・A・ポオ 安倍知二他訳 創元推理文庫 1974
インスマウスの影(ラヴクラフト全集1) H・P・ラヴクラフト 大西伊明訳 創元推理文庫 1974
東海道四谷怪談 鶴屋南北 河竹繁俊校訂 岩波文庫 1956
◎恐怖の方程式
〈面白さ〉の研究 都留泰作 角川新書 2015
鳥肌ホラー映画100 映画秘宝EX 映画の必修科目11 青井邦夫、アサダアツシ他 洋泉社ムック 2015
Jホラー怖さの秘密 別冊カルトムービー メディアックス 2014
恐怖の作法 ホラー映画の技術 小中千昭 河出書房新社 2014
お化け屋敷になぜ人は並ぶのか 「恐怖」で集客するビジネスの企画発想 五味弘文 角川書店 2012
お化け屋敷のつくり方 平野ユーレイ、齊藤ゾンビ アールズ出版 2011
人はなぜ恐怖するのか? 五味弘文 メディアファクトリー 2009
恐怖の映画術 ホラーはこうして創られる 鷲津義明 キネマ旬報 2006
恐怖への招待 楳図かずお 河出文庫 1996